天竺ブギウギ・ライト⑧/河野亮仙
第8回 インド舞踊の揺籃期/シャーンター・ラオのデビュー
昔、日印協会が八重洲にあったときはよく行った。茅場町に引っ越してからは数回しか行ってないが、麹町に引っ越すに当たって書棚を整理するというので出掛けた。誰も興味を持たなくても、私には貴重な本と雑誌を段ボール二箱譲り受けた。
その中にDANCES OF THE GOLDEN HALLという本があった。1971年にパドマシュリーを受賞した孤高の舞踊家、シャーンター・ラオ(1925-2007)の評伝である。1982年8月インディラ・ガンジー首相が来日した際、日印協会に寄贈した本の中の一冊でICCR発行だ。ガンジー首相は親のネール首相の代からシャーンターの信奉者だった。126ページの半分近くがスニル・ジャナによるシャーンターの写真からなっている。
https://www.youtube.com/watch?v=TxEso78EIJA
シャーンターという名は偶然にも大智度論における一角仙人の話に登場する遊女と同名だ。尼なら寂尼、白拍子なら静御前といったところだ。
始まりはタゴール
イギリスの統治時代、踊りは売春婦のやるものとして、寺院におけるデーヴァダーシーの舞も禁止された。一方、インドの伝統を大事にしようという動きもあって、ラビンドラナート・タゴールは、1917年、自身の大学のカリキュラムに舞踊を加えた。マドラスの弁護士E.クリシュナ・アイヤーは、女が駄目なら、男ならいいんだろうということか、自身も舞踊を習って踊り、バラタナーティヤムの復興に寄与した。イギリスからの独立とインド文化の再興は密接に関係していた。
その頃、ルース・デニスとテッド・ショーンの舞踊団が1925年にインドを訪れて刺激を与えた。
1932年にルクミニー・デーヴィーはパンダナルール・シスターズの踊りを見て感激し、それがバラタナーティヤムを志すきっかけになった。そして、1934年、パンダナルールからその師であるミーナークシ・スンダラム・ピッライをアディヤールに招く。同年、クリシュナ・アイヤーはデーヴァダーシーの家系のバーラサラスヴァティーをバナーラスのオールインディア・ミュージック・コンファランスの舞台に乗せた。これもタゴールの尽力による。
1935年、ルクミニーは神智学協会創立50周年の祝いの席でバラタナーティヤムを披露する。シャーンターはルクミニー・デーヴィー(1904-1986)に続く世代の舞踊家である。ラーム・ゴーパル(1912年生)と共に世界ツアーを行った。ゴーパルは初めケーララ・カラーマンダラムに学んだ。シャーンターは1918年生のバーラサラスヴァティー、ムリナリニー・サラバイより若く、チャンドラレーカーと同い年のようだ。
シャーンターはボンベイに住む、由緒ある先進的なハイソサエティのバラモンの家に生まれた。子供の頃は身体が弱かったともいい学校は休みがちだった。カタックやマニプリー・ダンスに興味を持っていた。マニプリー・ダンスのザベリ・シスターズがボンベイで活躍していて、タゴールの元に預けようかとも相談していたようだ。
しかし、ケーララのカタカリ学校カラーマンダラム(1930年設立)に行くといって親を慌てさせる。14歳頃の話である。ラヴンニ・メノンに学び、1940年にはカタカリを踊ってデビューしている。女がカタカリを学ぶのは初めてのこと。カラーマンダラムでは女の舞であるモーヒニーアーッタムもクリシュナ・パニッカルから習っている。
カラーマンダラムでは1931年から3年ほどカリヤーニ・アンマがモーヒニーアーッタムを教えた。クリシュナ・パニッカルがナットゥヴァンガムで小さなシンバルを叩いて全体を指揮した。伝統的には男の舞踊の師が小シンバルを打つ。カリヤーニは後にタゴールに見いだされて、タゴール大学でも教えるようになる。フォーダンスのカイコーティカリを教えたようだが。
https://www.youtube.com/watch?v=f8hLN1LdsLg
容赦ないしごき
カタカリの訓練は格闘技のトレーニングと同じくらい厳しいので、初めは女性を受け入れることを拒んだ。しかし、女だからといって手加減しないけれどいいのか、と念を押して入学を認めた。
午前2時半起床で目の運動から始め、お昼頃まで練習する日課だった。比叡山の行などでも午前2時頃に起きて、水浴びして一日が始まる。インドの夏は長くて暑いので、寺院では夏安居といって活動を控える養生のための修養期間がある。カラーマンダラムにも長い夏休みがあるのだが、驚くことにシャーンターはマドラスにバラタナーティヤムの師を探しに行く。
そして、たどり着いたのがクンバコーナムに近い辺鄙な村、パンダナルール。そこにはルクミニー・デーヴィーの師でもあるミーナークシ・スンダラム・ピッライがいた。そこでもまた、容赦ないしごきのような訓練が行われる。シャーンターは次のように語る。
朝は師より早く起きあがって、5時半から8時まで朝のレッスンがある。小屋みたいな家なので同じ部屋に起居している。師は30分ほど朝のお祈りをしてその後に朝食となる。そして、お昼までレッスンは続くが休み時間を与えない。喉が乾くと水を飲むことだけが許される。水浴びして再びお祈りをしてからランチとなる。サラスヴァティー・プージャーとか特別な日には1、2時間儀式をして、その間シャーンターはおなかを空かして待っている。ランチの後は半時間ほど休める。
3時からまたレッスンで、5分休憩でコップ一杯のミルクを飲むことが許され、6時まで続く。7時からはハスタ・ムドラー、手印の練習で、これは坐って行う。1時間半ほど続けて、ようやく軽い夕食を取り、お休みの時間となる。老人なのに教える方もたいしたものである。パンダナルールとカラーマンダラムのあるショールヌールを往復してこんな生活をしていた。どんだけーーっという感じだ。
シャーンターは1943年、マドラス・ミュージアム・シアターでバラタナーティヤムを披露した。昔の正式なお披露目アランゲットラム、舞踊家デビューはこれ位大変なことだった。
ミーナークシ・スンダラム・ピッライはラーム・ゴーパルやムリナリニーら幾多のバラタナーティヤムの著名人を教えているが、シャーンターの踊りは、先にカタカリを習ったためか、とても力強いステップを踏み、男性的で特異なスタイルだった。
ラヴィ・シャンカルやアリ・アクバル・カーンの紹介者として知られるバイオリニストのユーディ・メニューインは、1952年にボンベイでシャーンターの踊りを見て、1955年、アメリカに連れて行っている。1957年にシャーンターはカタカリ舞踊団を連れて訪米し、イスラエルも訪れている。
https://www.youtube.com/watch?v=FChXM3LAtuc
1964年にはユーディ・メニューインの紹介でウィンザー祭に参加し、英国の他、イスラエル、ドイツ、ネパールを訪れ、1978年には3ヶ月にわたる日本ツアーをしていたとチャテルジーは記すが、不詳である。可能性があるのは民音の「シルクロードの音楽」のシリーズであるが分からない。この本には年度の間違いがあるように思う。
今日、シャーンター・ラオの名を知る人は少ない。カラークシェートラやダルパナのような学校で教え、弟子を育てることをしなかったからだろう。ヴェンパティ・チンナ・サティヤムにクチプリを習い、スリランカにも行ってキャンディアン・ダンスを習っている。南インドの舞踊のルーツは何かと身をもって体験しながら探ったのであろう。我が道を真っ直ぐ歩む求道者であった。数少ない昔の映像がYouTubeに上がっているのは幸いである。
参考文献
Ashoke Chatterjee, Sunil Janah, “Dances of the Golden Hall”, Indian Council for Cultural Relations, New Delhi, 1979.
Beryl De Zoete, “The Other Mind/A Story of Dance in South India”, London, 1953.
G. Venu, Nirmala Paniker, “Mohiniyattam”, Natana Kairali, Kerala, 1994.
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論
更新日:2023.12.25