河野亮仙の天竺舞技宇儀⑮

近代インドの始まりと女性解放

デーヴァダーシーは、Nitya-sumangali、常に吉祥な存在とされた。結婚した女性はスマンガリーと呼ばれ、一族に繁栄をもたらす。人と結婚すると、先に夫が亡くなることがあるが、神と結ばれればそういうことはないのでいつまでも吉祥とされる。逆にいえば、夫に先立たれた寡婦は不吉ということだ。

ひどい話じゃないか。話だけですめばいいのだが、居場所のなくなった寡婦は、サティーといって、夫を火葬する火に飛び込むのが貞女の理想とされた。『焼かれる花嫁』という本も日本で出版された。また、寡婦は再婚も出来なかった。

先に手を上げたのはインドにやってきた宣教師たちで、幼児婚の風習、一夫多妻が許されていることなど、キリスト教の倫理観から社会改革を訴えた。

もちろんそこには、インドの因習や迷信を打ち砕いてキリスト教に改宗させようという意図があった。インドの中でもキリスト教、イスラーム教の一神論の影響を受けて、ヒンドゥー教の改革運動が起こる。

近代インドを開く

ラーム・モーハン・ローイ(1774-1833)は近代インドの父と呼ばれている。日本でいえば、安永から天保年間なので、近世の人かもしれない。小林一茶や鶴屋南北が活躍した時代だ。

地主のブラーマンの出ではあるが、官吏になるためムガル帝国時代の公用語ペルシア語を学んだ。イスラーム、キリスト教の研究から始めた。数年間放浪して、チベットで仏教を学んだともいう。バナーラスに移り住んでからは英語とサンスクリット、ヒンドゥー教を学んだ。実務家として活動し、金貸しをやったこともある。

1815年にアートミーヤ・サバーを設立する。詩聖ラビンドラナート・タゴールの祖父らタゴール家の人々など進歩的な富裕層が週一回集まるサークルだった。偶像崇拝の無意味なこと、カーストや一夫多妻、寡婦の問題などを話し合った。兄が亡くなったときに、兄嫁がサティーとなったことにショックを受けたとも伝えられる。

1821年にバップティスト派の宣教師だったウィリアム・アダムと共に、カルカッタ・ユニタリアン協会を設立している。ユニタリアンとは三位一体を認めない、キリストを神と認めない教派である。インドにおける無知や迷信を取り除くため、キリスト教の知識を提供するためであった。二人は考え方の違いもあり、活動は停滞する。

それからさらに発展していく。ヴェーダなどの聖典に基づいた唯一神の信仰をするため、1828年にブラーフマ・サバー、梵なる集会を始めている。家に何人か集まってヴェーダやウパニシャッドを唱え、講釈し、仲間が作った歌を歌ったりという、いわばウパニシャッド愛好会だった。

1843年にラビンドラナート・タゴールの父、デーベンドラナートが参加し、ブラーフマ・サマージ、ブラーフマ協会と改称して組織化する。ベンガル・ルネッサンスを牽引するエリートたちの集まりだった。

アーリア・サマージと神智学協会

ローイの半世紀後に生まれたダヤーナンダ・サラスヴァティー(1824-83)は、サーマ・ヴェーダを伝承する由緒ある家系のブラーマンだった。偶像崇拝に疑問を持ち、妹の死などに会って、解脱への志が生まれる。

二十二歳の時に、親の薦める結婚を断り、財産を捨て、家を出て遊行者となる。瞑想、ヨーガを重視しヴェーダへの回帰を唱える。ブラフマンを最高神として崇め、四ヴェーダの本集、サンヒターが絶対の権威とする。

復古主義者であったが、社会改革をも志す。幼児婚の廃止、子供に教育を施すこと、結婚は当事者の自由な選択によること、カーストへの反発などを唱えている。

1975年、ボンベイ(現ムンバイ)においてアーリア・サマージ、アーリア協会を設立する。奇しくもその年は、ニューヨークで神智学協会が設立された年である。

神智学協会は、「ヴェーダに登場する神々は名称は異なるけれど、神はただ一つ」と唱えるこのインドの聖者に教えを乞い、1878年12月ニューヨークを去り、翌年ボンベイに本拠を移す。

しかし、オルコット大佐とマダム・ブラヴァツキーは、1880年セイロン島、スリランカに渡り、仏教徒に改宗したので、アーリア協会と決別することになる。1882年に神智学協会はマドラス郊外のアディヤールに本拠を移す。

オルコットは、インドにおいて女性が教育を受け、従属的な地位から解放されない限り、インドの栄光の復活はないと主張した。

岩波文庫『マヌ法典』を訳した田辺繁子は、同書第五章一四八に「婦人は幼にしてその父に、若き時はその夫に、夫死したる時は、その子息に従ふべし」と江戸時代の『女大学』にある三重の訓と同じ事が書かれているのに驚いて、サンスクリットから勉強して翻訳を志したという。

アイルランドの女闘士

アニー・ベサント(1847-1933)は、ロンドンのアイルランド系の中流階級の家に生まれた。ピアノがうまかったという。アイルランドの自治運動に加わる。当時、アイルランドは大英帝国の「国内植民地」であった。

フェビアン協会に属し、緩やかな社会変革を志す社会主義者であった。演説がうまい、希代のアジテーターで多くの人々、社会に影響を与えた。ラヴィ・シャンカルの父親とも親交があり、タゴールはアニーのゲストとして、しばしば、アディヤールを訪れた。また、恋多き女性でもあったようだ。美人というか、威厳のある面構えだ。

ロンドンのマッチ工場で働く少女たちの労働争議を主導したり、飢えた子供をなくそうと唱えるフェミニストであった。

1889年、ブラヴァツキーの著作『シークレット・ドクトリン』の書評を頼まれ、パリまで行ってマダムにインタヴューをする。当時、マダムの影響力は強く、画家のカンディンスキー、モンドリアン、パウル・クレー、ゴーギャン、作曲家のマーラー、シベリウス、スクリャービン、エリック・サティ、詩人のイェーツらに、その神秘主義が影響を与えたといわれる。創生期にエジソンも入会している。

アニー・ベサントは、神智学協会に入会し、1893年に初めてインドを訪れ。2017年、インド国民会議の議長に選ばれ、インド自治権を求めて闘う。

日本との関わりでいうと、第六回に書いたように、妖怪博士こと井上円了が1902に訪印したとき、河口慧海がカルカッタから出発して仏跡案内をする。二人はバナーラスでアニー・ベサントに出会っている。

河口慧海とアニー・ベサント

河口はその縁で、アニーが1898年に創立したセントラル・ヒンドゥー・カレッジにおいて、1906年より数年間滞在してサンスクリットを学ぶことになる。初めシャンティニケータンで学んでいたものの、我の強い河口はタゴールとそりが合わなかった。菩提樹軒と称して、高楠順次郎ら日本人学者が立ち寄った。1912年10月末には日本人五人がカレッジの寄宿舎に暮らしていた。

アニーは1903年、イギリスから歴史学の講師としてリードビーターの弟子であるジョージ・アルンデール(1878-)を呼び寄せ、1907年、附属高校の校長に据える。1909年から1913年までヒンドゥー・カレッジの学長を勤めてからアディアールに移る。

アルンデールはルクミニー・デーヴィーと結婚することになるが、全く想定外の出来事である。1907年にオルコットが亡くなった後、アニーが第二代会長となる。

アニーはカレッジをザ・ユニヴァーシティ・オブ・インディアへと格上げを画策するが、マダン・モーハン・マーラヴィーヤの大学構想と合流し、1916年、バナーラス・ヒンドゥー大学が設立された。

このBHUには、昭和26年、戦後初めてインド政府の奨学生として浄土宗から藤吉慈?が留学している。歴史学の荒松雄、真言宗の斉藤昭俊らが相次いで留学している。私が留学したのは昭和54年から。我らが母校である。

ちなみに藤吉慈?は大学の先輩で、心茶会という久松真一系の茶道部の先輩でもあったが、お目にかかったことはない。1953年1月24日、ウダエ・シャンカルとアマラー婦人の「印度舞踊」をバナーラスで目撃している。

「世界的名声を博しているが、一寸肥りすぎているようだ。昨年見た彼の弟の方が、躰もしまっていてしをらしさがある」と評している。

彼の弟とは、後にシターリストとしてさらに有名になる、新進舞踊家ラヴィ・シャンカルのことである。藤吉慈?『印度セイロン紀行』の歯に衣着せぬものいいは、とても面白い。私が生まれた頃のインドの様子が分かる貴重な記録で、意外とこういう本は珍しい。

十六歳の美少女ルクミニーの結婚は大スキャンダル

ルクミニー・デーヴィー(1904-1986)は、マドゥライのブラーマンの家に生まれる。長兄シュリー・ラームとは十四歳離れている。

父ニーラカンタ・シャーストリはサンスクリット学者で、ヴェーダーンタを研究しウパニシャッドについての論考も記したが、本職はマドラス管区のエンジニア。ダムや運河の建設を監督していた。

進歩的な神智学協会員である。仏教にも興味を持つ。ルクミニーが十四歳の時、マドラス、神智学協会の側に引っ越して、自宅をブッダ・ヴィラスと名付けた。ルクミニーの兄シュリー・ラームは、アニー・ベサントのニュー・インディア・オフィスで働いていた。ベサントの死後、1933年、アルンデールが第三代会長となり、シュリー・ラームは第五代会長。その娘ラーダー・ブルニエが第七代を引き継いでいるので、まるでファミリー・ビジネスだ。

姉のスブラクシュミーとシヴァガムは幼児婚をさせられた。長女は後に大家族を持つことになったが、次女は耐えられず、十三歳で父の元に戻る。父は次女に教育を続けさせた。当時として、社会通念上あり得ないことだった。そのためルクミニーは幼児婚を怖れていた。

1919年に父は心臓病を煩い、神智学協会の友人たちが見舞いに来る。そのなかには、アルンデールもいて頻繁に訪れた。そして、かいがいしく看病する聡明で美しい十五歳の娘を見初める。お見舞いに来たのかルクミニーに会いたかったのか。アルンデールはケンブリッジ出身であるが、オックスフォード大学と同様に、聖職者の師弟が中心で、独身主義書も多かった。

こともあろうにアルンデールは、美少女ルクミニー・デーヴィーにプロポーズする。1920年のことである。アルンデールはハンサムな英国紳士。温和で面倒見のよい教育者であった。父の死後数ヶ月で結婚することになる。十六歳と四十一歳という年の差が問題ではなくて、外国人であることが問題なのだ。

母親代わりともいえるようなアニー・ベサントのところに行って相談する。これから何が起こるか分かるの?と問いかけられ、大丈夫ですと答える。

しかし、嵐は予想以上に激しい。親戚やマドラスのみならず、インド全体の一大スキャンダルとなって新聞紙上を賑わす。保守的なブラーマンばかりかイギリス人まで反対する。保守的な役人たちも、許せない、サインしないぞと憤っていたのではないか。二人はマドラス管区を脱出してボンベイ管区に婚姻届を提出した。インドールのマハラジャから教育大臣の仕事を得て新婚生活を送った。逃避行である。

アルンデールは、まさに、マイ・フェア・レディとなったルクミニーに英語やマナーを教え、海外のセレブたちと渡り合える淑女に育てた。

『マヌ法典』第十章四十三、四十四には、祭式を怠ったクシャトリアがこの世でシュードラに落ちるとし、ドラヴィダ、カーンボージャ、ヤヴァナ、シャカ、チーナなどの名が上げられている。

ヤヴァナはギリシア人、チーナは中国人。おそらくイギリス人はヤヴァナ、日本人だったらチーナに分類されるのだろう。つまり、アヌローマ、高位のブラーフマンの男とクシャトリア以下の結婚は許容されるが、プラティローマであるブラーフマンの女とヤヴァナの結婚は許されないことになる。役人は『マヌ法典』を根拠に拒絶しようとしたのではないか。カーストから外れるとその災いは一族に及ぶと考えられた。

英領時代のインドでは、ヒンドゥーに対してヒンドゥー法、イスラーム教徒に対してはイスラーム法を適用していた。それでは外国人はどこに入るのかという話だ。

先に動いたのはタゴール

東インド会社に協力して大儲けした商人であるダカルナート・タゴールは、ヨーロッパ旅行の後、女性の教育や女性に関わる社会改革を擁護していた。ラーム・モーハン・ローイに共鳴していた。その子、デーベンドラナートは女子教育のためのベシューン校を支援し、娘や一族の女性が教育や社会事業に携わることを許した。

ラビンドラナート・タゴールの祖父と父のことである。ラビンドラナートも、1878年、17歳の時にイギリスに行き、パーティーなどで男女が自由に参加して楽しんでいる様子を見聞している。

1901年にシャンティニケタンで学校を始めたときに、女子も入学させたかったが、1909年になるまで適わなかった。六人の女子が一件のコテージに寄宿させ、授業でも、スポーツでも礼拝でもクラス分けせず一緒に参加した。

1910年には、「ラクシュミー・プージャー(吉祥天供養)」という演劇を女子だけで上演し、そのためにバナーラスから舞踊の先生を招いた。教師たちが去った後は自らが女生徒を教えたという。

1921年、ヴィシュヴァ・バーラティー大学になってからは女子寮を整え、国内外から多くの女生徒を集めた。スポーツ、ハイキング、当時、流行っていた棍棒術、柔道、様々なゲーム、おそらくカバディも行われた。

この辺のことは第四回に書いた。
河野亮仙の天竺舞技宇儀④

1926年、彼の劇作「ナティー・プージャー(踊り子の礼拝)」において、舞踊をフィーチャーした。これを学内のみならず、カルカッタでも上演することになった。当時、女子が舞台の上で踊るということは、社会通念上ありえないことだった。大道芸人、物乞いや売春婦の娘じゃないのよということだ。

踊り子の役は上流階級の娘、ゴウリー、画家ノンドラル・ボシュの娘である。舞踊が劇中のクライマックスとなる。タゴールはゴウリーの母親に許可を求めた。押さえ役としてタゴール自身も新たにウパーリの役を作って出演した。後に、ゴウリー・バンジャはこう語る。
「舞台で歌ったり、踊ったりするシャンティニケタンの少女たちは批判を招いていたかもしれない。それを防ぐために、詩人自らが公演に参加したのです」
シャンティニケタンは、様々な意味でタゴールの実験劇場、タゴール・ラボラトリーだった。

バラタナーティヤムと女性解放

ルクミニーは子供の頃、母親と同じように音楽を好んだというが、もちろん、踊りを習ったことはない。踊りへの関心はアンナ・パブロアに出会ってからのことだという。1924年のロンドンでの出来事だった。その時、ウダエ・シャンカルが「発見」されたわけである。

この話は第八回に書いた。
河野亮仙の天竺舞技宇儀⑧

1929年1月のこと、夫と共にシンガポール、ジャワからオーストラリアへと行く船で、パブロワの一団と一緒になった。その練習風景を見てあこがれていた。オーストラリアに着くとその公演に通い詰め、どうですか、そんなに好きなら踊りませんかと最初の儀式のような手ほどきを受ける。

ロンドンでその続きを習うつもりが、急逝されたため、プリンシパルのクレオ・ノルディからバレエを習う。リーラー・サムソンの著書”Rukmini Devi”には、なんと神智学協会で白鳥の湖を踊ってるらしき写真が掲載されている。しかし、バレエより、自国の伝統を学びなさいとパブロワに諭されたのは有名な話だ。

1932年の12月、ナーラーヤナ・メノンに誘われ、ミュージック・アカデミーのフェスティバルとして行われるパンダナルール・シスターズ(カリヤーニ・ドーターズとも呼ばれた。カリヤーニは吉祥という意味なのでデーヴァダーシーの踊りだということは名前でも分かる)の舞踊を見る。

実は、子供の頃にプドゥコーッタイの寺院のナヴァ・ラートリー祭で踊りが捧げられているのを見たきり、「インド舞踊」というものを見たことがなかった。

それは、サディルとかチンナ・メーラムと呼ばれていて、デーヴァダーシーの行うものだった。ようやく、ブラーマンの牛耳るミュージック・アカデミーで古典音楽と並んで公演することが認められるようになったのだ。

ルクミニーはこの踊りに魅了されて、彼女らのグルであるミーナクシスンダラム・ピッライに習おうとしたが、承知しない。踊りというのはデーヴァダーシーの行うもので、名門のブラーマンの娘が踊るなんてとんでもない。しかも、その訓練はとても厳しいもので、優しく手を抜いて教える気など毛頭ない。さらに、同じカーストの仲間からもブラーマンからも非難されるに決まっているからゴメンだという気持ちがある。

ピッライに断られたので、マドラス中のデーヴァダーシーを訪ね回る。サンスクリット学者のクンジュニ・ラージャがガウリー・アンマルを紹介してくれた。主としてアビナヤを教えた。ガウリーはその後、カラークシェートラで教えることになる。

ラージャは、私が1981年にアディアール・ライブラリーに滞在していたときのディレクターで、上村勝彦のマドラス大学での恩師であった。故郷のケーララのクーリヤーッタムについての論文も書いている。同じく上村の師であるラーガヴァンもマドラス大学で教え、サンスクリット詩文学の研究と共に、舞踊・演劇理論、音楽理論を研究した。

また、ミーナクシスンダラム・ピッライからも後には許しを得て習うようになる。各流派、カタカリも取り入れ、『ナーティヤ・サャーストラ』などのサンスクリット文献も研究してバラタナーティヤムを再創造する。

ミークシスンダラム・ピッライは、いとこであるポンナイヤ・ピッライに依頼して(二人の祖父であって、バラタナーティヤムを集大成したと伝えられるタンジョール宮廷に仕えた楽士四兄弟の内の一人ポンナイヤと同名)、ルクミニーの様子を見に行ってもらう。彼女は熱心に練習して身体も出来ているから、弟子にしても大丈夫だよという話になる。そして、二年間、ミーナクシスンダラムの指導で、毎日何時間もハードなトレーニングを積んだとリーラー・サムソンは記す。

1933年9月30日にアニー・ベサントが亡くなり、翌年、神智学協会第三代会長にアルンデールが就任する。

1935年12月、神智学協会発足五十周年のお祝いが行われる。幾多の講演と共にカルチュラル・プログラムが組まれる。

そこで31歳のルクミニー・デーヴィーが、インド舞踊家としてデビューする。そこにもまた、結婚の時に匹敵する葛藤が背景にある。ルクミニーにとって踊ること、二本の足で立って世間と対峙するのは、闘うことであった。

みんな命懸け、自分の将来のみならずインド舞踊の命運を賭けて勝負に出た。

バラタナーティヤムの殿堂カラークシェートラを設立するのは1936年のことである。

参考文献

ウダイ・ナーラーヤナ・スィン『ラビンドラナート・タゴール/生誕150年記念号』インド外務省広報外交局、日本版2012年。Pablic Diplomacy Division,Ministry of External Affairs,G0verment of India.2011.
大谷紀美子「インド古典舞踊の伝承と学習」川田順造・徳丸吉彦編『口頭伝承の比較研究・1』弘文堂、1984年。
辛島昇編『ドラヴィダの世界』東京大学出版会、1994年。
ジャミラ・ヴァルギーズ著鳥居千代香訳『焼かれる花嫁』三一書房、1984年。
藤吉慈?『印度セイロン紀行』仏教文化研究所、1955年。
渡瀬伸之訳『マヌ法典』中公文庫、1991年。
渡辺繁子訳『マヌ法典』岩波文庫、1953年。
Samson, Leela . “Rukmini Devi: A Life, Delhi”,Penguin Books, India,2010.
Meduri, Avanthi (Hrsg.),”Rukmini Devi Arundale (1904?1986), A Visionary Architect of Indian Culture and the Performing Arts”,Motilal Banarsidass, Delhi 2005.

付記

リーラー・サムソンは、大谷紀美子が1966年、カラークシェートラに留学した時の三年先輩で、久保田幸代の師。大谷の同期には当時十五歳のウマー・ラオ、野火杏子の師がいた。ガウリー・アンマルは教室の片隅で大谷らの練習を見守っていたという。リーラーは2005年より、カラークシェートラの学長を勤めた。

リーラーの著書は、インド舞踊の本というよりルクミニーと神智学協会のとの関わりを書いた伝記である。

第十四回で紹介したダグラス・ナイトが書いたバーラサラスヴァティーの伝記と、今回取り上げたリーラー・サムソンが書いたルクミニー・デーヴィーの伝記では、事実関係の認識について、多少、食い違いがある。

例えば、習ってわずか一年足らずでのデビューを、師のミーナクシスンダラム・ピッライが許さなかったとダグラス・ナイトは書く。リーラーは、ルクミニーの師はピッライではなく、ガウリー・アンマルであるという。

バラタナーティヤムの名称についても、ナイトは200年前から使われていて、サディルとは呼ばないという。バラタは古代の舞踊家・俳優を意味し、バラタ仙、またはバラタ族の名と舞踊ナーティヤを組み合われた単語バラタのナーティヤムは、普通名詞としていかにもあり得る。

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2019.07.04