河野亮仙の天竺舞技宇儀㉞
インドの仙人達
前回、大学紛争の話を書いたが、わたしが入学した昭和48年の京都大学にも、まだ、その名残はあった。立て看板はそこら中にあり、アジ演説は校門前で常に行われ、ロックアウトもあった。いわゆる内ゲバも行われていた。
反中央、反権力はよいのだが、時々、馬鹿なことをやるのが伝統だ。京大生が百万遍交差点にこたつを出して鍋を囲むというパフォーマンスをしでかして、逮捕されたことがある。
https://mainichi.jp/articles/20180308/k00/00e/040/232000c
これも、『徒然草』に仁和寺の坊さんのことがいくつか書いてあって、馬鹿なことをやって笑われたという伝統を引き継いでいるのかもしれない。仁和寺は宇多天皇創建で、出家し、法皇となって住んでいた格式の高い寺なので、そこの僧侶はエリートのはずだ。
さて、文学部200名の同級生には坊主の息子が6人いて、わたしは天台だが、真言宗が2人、真宗が3人いた。本願寺派と大谷派がいて1人は赤ヘル、1人は民青だった。宗教学に1人、仏教学に2人、天台と真言の3人はインド哲学史を専攻した。印哲の服部正明、仏教学の梶山雄一、梵文学の大地原豊という世界に誇る教授陣だった。わたしなどが弟子を名乗るのはおこがましい。
元気のよい全共闘世代の先輩によると、当時の学会は東大組対京大組の対抗戦のような趣があったという。自軍の教授が出ると紅白歌合戦のように鉦や太鼓はないものの、わーっと盛り上げる。敵軍には鋭い質問を浴びせるといった具合だ。大昔の大教授は学会でかなり厳しい叱責をしたものだ。
我々の研究室では、たいてい主席かその次で卒業できると助教授がいっていた。同級の谷内清岳は高雄神護寺の息子だったが、留年した。従ってわたしは、無事、1位か2位で卒業したことになる。彼は父の後に名刹を継いだものの、50代で早世してしまった。今はその弟が住職をしている。
高校の時、世界史の教師が、印哲は天才の行くところといっていたが、それは19世紀の話で、印哲や梵文は変人の行くところだ。宗教学にも変わり種が多い。ホリエモンとか。
研究室に入るといつも弁当を食べている不思議な先輩がいて、それは梵文の佐久間光昭だった。どうも自分で弁当を作って持ってきていたらしい。その同級に仏教学の草野栄応がいたが、大学で会ったことはなかった。そんな先輩が少なからずいたが、無事、卒業させてもらったようだ。
草野は、仏教電話相談室などで知られるようになったが、百観音明治寺住職となり、そこの万燈会に友達のガムラン・グループが出演するので見に行って、初めて会った。その息子も音楽をやっていてドロップアウトしていたのだが、父が50代で亡くなると戻ってきた。それで良かったのかもしれない。ガンで闘病しているとき、観音経を読んで、これは救済のイメージを与えてくれると感激していた。
ひょうひょうとした仙人のような佐久間先輩も50代で亡くなられた。潰瘍性大腸炎なので、東京に出てきたとき一緒に食事しても、うどんくらいしか食べられないとおっしゃっていた。
入院中に大阪までお見舞いに行けばよかったのだが、手術中、手の施しようがなく急逝した。わたしが書いた梵字のお札でいつも患部をさすり、棺にも入れていただいたようだ。
晩年はパソコンをいかに寺院に取り入れるかというようなことをやっていて、ネットではそれなりに有名人になっていた。
大学時代から仙人、修行者についての論文を書いていて、今回はそれを使わせていただく。
仙人といえば、中学の時に古文の板谷菊男という名物教師がいて、オバケというあだ名だった。教師はダボとかゲタとかガンタニ、チンイチとか、あだ名で呼ばれることが多かった。開成の先輩である奈良康明(昭和4年生)、国語学の大家である大野晋(大正8年生)も板谷先生に習ったというので驚きである。
我々の世代では、授業で『古今著聞集』を読んでいて、わたしはいつも半分くらい寝ていた。仙人が空の鉢を飛ばして食べ物を取り寄せる術なんて話の時は起きていたかもしれない。何でも、山で仙人の修行をしていたら、開成の教師になれと呼び出されたとか。著名な陶芸家板谷波山の息子で、若いときは陶芸も試みたらしい。
大野晋の自伝によると、当時、30代の板谷先生は『徒然草』を読んでいて、あたかも兼好法師が語っているかのようだったという。漢文の授業は中一の時からいきなり『孝経』で、生徒はテキストに送り仮名を振り、先生が通釈し、生徒に読ませる。それではまるで江戸時代の寺子屋ではないかと驚く。
我々の時代は普通の教科書を使っていたと思うが、漢文の先生も引退寸前の相当なお年で、授業がどのページまで進んだか分からなくなる。次の週になると、我々は先週やったところをもう一度読ませて、授業の進行を遅らせるなど、様々ないたずら、悪さをし、先生達を困らせて楽しんでいた。
漢文学では偉い先生だったらしい。我々が高校の時に学校葬が行われたが、その弔辞が漢文調で何をいってるかさっぱり分からなかったことを記憶している。当時の開成に定年はなかった。旧制高校のバンカラの風が残っていて、今の超進学校とはまるで別物である。
大野晋は、1980年頃に日本語の起源はタミル語という説を発表し、話題になった。週刊朝日やNHKでも取り上げられた。インド学や言語学の学者、辛島昇などからはボロクソにいわれたが、タミルの民族主義、アーリア文化に対するドラヴィダ運動が盛んな当時のタミル・ナードゥ州ではもてはやされた。
今の言語学で日本語とタミル語を比較するのは竹槍で飛行機を撃つようなものだと評する人もいた。大野がマドラス大学にタミル語の研修で来ているときにお目にかかって、コネマラ・ホテルに滞在だったか、夕食で中華料理をご馳走になったことがある。大野による一語の辞典『神』(三省堂)などにわたしの名前も出てくるので、辛島はわたしのことを大野応援団だと思っていたようだ。
隠者・牟尼・聖仙・仙人
インドの苦行者、修行者はムニ(隠者)、リシ(聖仙)、ターパサ(苦行力を蓄える者)、シュラマナ(沙門)などと呼ばれた。髪や髭を生やしっぱなし、爪は伸び放題で、ほとんど裸、長髪者(ケーシン)と呼ばれたこともある。リグ・ヴェーダにも風を帯とする、風を乗り物とするなどと記され、どうも空を飛んだようだ。アプサラス、ガンダルヴァなど半神、風神ヴァーユの友であるとされる。
インドから雲に乗って朝鮮半島を経て日本にやって来たという法道仙人、通称空鉢仙人も空を飛ぶ。私は物理的に空を飛ぶというより、魂が抜け出して他の所に赴き、それを他の人が実態として見かけてしまうことがあるという意味ではないかと思う。意識があらゆる所に翔んで駆け巡る。
ヴェーダ時代のムニ(沈黙する人)をヨーガ行者の先駆と見る学者もいるが、エリアーデは古代エクスタシー技術を身に付けたシャーマンと見ている。J・ホンダは、祭式を拠り所とせず、隠遁、沈黙、断食をして、忘我の境地で踊って知覚を超えた者と交流するとしている。
ジャータカ(本生譚)に描かれる仙人達は、財産を捨て、事物と煩悩の諸欲を捨てて出家する。森林や川や池の近く、街の近く、王園、そしてヒマラヤで修行する例が多い。仙人は髪を結び、樹皮の衣を上下につけ、獣皮を一肩に掛ける。杖、天秤棒、水瓶、座具、楊枝、托鉢の器、小刀などを持つ。
草木の根、落ちている果実、蓮根など生存に必要なものだけを食べた。木の葉、花、樹皮を食べた例もある。修行によって禅定、神通などを得る。禅定は神通力の源であり、女に対して煩悩を起こしたり、心が執着したり、破戒をすると禅定を失い、空が飛べなくなる。
雨期になると草木の根や果実は得にくくなるので、森を出て遊行する。村の近くや、ヴァーラーナシーやラージャガハ王舎城の王園に赴く。山から下りてきて王園に一泊し、翌日に身なりを整えて城内を托鉢に回る。持戒者に施食を与え、礼拝する者は天界に行くとされるので、皆、布施をする。王や長者が食事を提供することもある。庵に住むことも樹下に留まることもあり、布施のお礼に説法をする。
雨期が終わると山に戻るが、老いた者などそのまま王園に留まることもある。死後は、たいていの場合、梵天界に生まれる。
仙人はほとんど男だが、中には女もいる。夫婦で出家しても庵や経行所は別で、必要なときにしか会わない。その点では現代のバウルと異なる。
https://tsunagaru-india.com/knowledge/河野亮仙の天竺舞技宇儀⑳/
ジャータカの一角仙人から歌舞伎の鳴神上人へ
ナリニカー・ジャータカに次のような話がある。昔々、ある仙人、実は釈迦牟尼の前世、がヒマラヤに住んでいた。1匹の雌鹿が彼の小便まじりの草を食い、精液が混じっていたために妊娠し、人間の子どもを産む。仙人は自分の子として教育し、リシュヤ・シュリンガ(パーリ語でイシ・シンガ、鹿の角を持つ者)と名付ける。一角仙人(エーカ・シュリンガとも呼ばれる)は森の中で激しい修行をし、帝釈天インドラの宮殿を震撼して脅かす。帝釈天はその修行を邪魔するために、3年間もカーシー国(ヴァーラーナシー)に雨を降らさず人々を困らせた。
国王に「雨が降らないのは一角仙人の行う苦行のせいだ」「王の娘のナリニカーを仙人の元に送って誘惑し、苦行をやめさせれば雨が降る」と告げる。
森で生活していた一角仙人は、男にしかあったことなく、ナリニカーも仲間の苦行者として受け入れる。女性に初めて会って誘惑され、苦行が破れて神通力を失い、インドラは満足して雨が降る。一角仙人は父にしかられ、苦行の邪魔をする悪魔とつきあうことを戒め、再び苦行を続けるという教訓が締めくくりにある。
神々の王インドラは金剛杵ヴァジュラ(電戟)を投じて、水を塞き止める蛇の形の悪魔ヴリトラを殺し、水と光明をもたらすとリグ・ヴェーダに語られる。
リシュヤ・シュリンガの話はマハーバーラタ3.110¬-113に語られ、これによく似た話も以下に紹介するように、マハーバーラタ9.50にある。
インドラは隠者ダディーチャの苦行を恐れ、天女アランプサーを送り妨害する。アランプサーは隠者の庵に赴きコケティッシュに歌ったり踊ったりするので、思わず射精してしまった。その精液がサラスヴァティー河に落ち、河の女神は妊娠し子どもを産む。女神はその子をダディーチャに見せて、訳を話すと彼は喜びサラスヴァティー河を讃える。その子をサーラスヴァタと名付け、12年にわたる干ばつが訪れたとき、彼が雨を降らすであろうと予言した。
古今東西、独身のはずの坊さんや聖職者に、何故か、隠し子がいるというのはよくある話。それを神話的に表現するのがインド的である。
一角仙人の物語はラーマーヤナやプラーナなどにも取り込まれ、漢訳仏典『大智度論』『仏本行集経』などを通じて日本にもたらされた。今昔物語巻5第4に語られ、能の『一角仙人』として知られ、一角仙人は歌舞伎の『鳴神』では鳴神上人、姫は雲の絶え間姫となって親しまれる。インドに輸出したい傑作である。
ヴェーダ時代の修行者からジャータカに描かれる修行者まで、千年近くの時間が経っている、さらに、それから二千年ほど経った現代に至るまで、修行者、苦行者の姿はそれほど変わらないように思う。今日でもクンブ・メーラーなどには、一体どこから出てくるのかという不思議な修行者達がお出ましになる。
https://www.youtube.com/watch?v=898WKcvMkYQ
80年前、100年前の苦行者達
沖正弘は『秘境インド探検記/ヨガの楽園』昭和14年参謀本部第二課の調査員としてマドラスに赴任し、見世物小屋でインド舞踊やヨギを見る。カルカッタに転勤する途中、プリーで列車を降り、年に一度のお祭りを見た。おそらくジャガンナート寺院の祭りではないかと思う。そこでも大小のテントで動物の曲芸、サーカス、手品、インド舞踊、ヨギのショーを見る。板の上打ちつけた10センチくらいの釘の上に素っ裸で寝るという技を見せる。また、板の上に五本の刀を据えて、その刃の上で座禅をする者もいた。
逆立ちを1日の内、14、5時間やってる小屋では、時々、見物人が食べ物をあげて、逆立ちのまま食べている。そんな技を神通力と思っているのか、見物人は合掌して敬い、お金や食べ物を捧げる。こんな出し物はお釈迦様の時代といわないまでも、紀元前2世紀頃にはあったのではないか。
沖は、ジャイプール近郊の森の中の「ヨガ塾」を訪ねた話も書いている。塾というのは修行場アーシュラムのことであろう。サンスクリット語ではヨーガ、行者はヨーギーだが、現代語では短く聞こえる。
鼻と口から出した紐を左右の手で交互に引っ張って鼻の掃除をしている。さらに、口から飲んだ紐を腹や腰をくねくね前後左右に回し、肛門から出して引っ張り、お腹の掃除をしている。この辺は序の口。コインを飲み込んで、あれやこれやで内臓を動かし肛門から出してくる。
裏山に行くと、半裸にちょんまげのヨギが30人くらいいる。3メートルくらいの棒杭に片足で立ち、一点を凝視している男、片手で枝にぶら下がる男、木の三つ叉に紐で足をくくつけ、逆さになっている男、木の枝から垂らした綱を口でくわえてぶら下がってる男。谷の方に行くと綱渡りしている男、綱の上で寝ている男がいる。
15分ほど歩いて別の建物に行くと、手や額で煉瓦や棒を割っている者、ガラス瓶を割って敷き詰めた上に寝て本を読んでいる者、火渡りする者、鉄棒をぐいと曲げる怪力がいる。
沖は案内の老人に礼をいうと老人はいった。
「今日、君が見たものがヨガと思っては困る。あのような苦行は、すべて人間のかくされた能力を開発するためにあるのだから。ヨガは魔術でもなければ、奇術でもない。肉体の自由を得るための手段なのだよ」
https://tsunagaru-india.com/knowledge/河野亮仙の天竺舞技宇儀⑨/
https://tsunagaru-india.com/knowledge/河野亮仙の天竺舞技宇儀⑩/
軍事探偵をやっていた中村天風は、結核を病み治療のため明治42年に偽名でアメリカに渡る。明治48年にエジプトのカイロでカルマ・ヨーガの師カリアッパに出会った。イギリス王室に招かれてヨーガの伝道をした帰りとのことだった。師と共にカンチェンジュンガの麓ゴルケ村に赴く。病身をおして3ヶ月の長旅であった。
村人は男も女もほぼ裸で、小さな布を前に着けている程度である。沖もマッディヤ・プラデーシュ山中のゴンド族の男は、木の皮のふんどしのみと書いているが、おそらくは紐に前垂れを付けただけで、越中ふんどしのような包み込む構造にはなっていないだろう。ものがタマに当たると激痛なので、プロテクターは必要だ。
天風が山村に着いたその夜、小用に起きて外を見ると、半月の元で妙な格好で動かないでいる男達が見える。両手と片足を高く上げている者、木の枝にぶら下がる者。腕立て伏せを裏返しにした姿勢の者、そしてその尻の下には大きな針が置かれている。つまり、姿勢が崩れると針が刺さる。寝床、小屋で羊と一緒に寝ている、に戻っても眠れないので30分ほどして再び外に出て見ると、驚くべき事に彼らはそのまま身じろぎもしないでいたのだった。
彼ら苦行者は、ヴェーダの祭火を守るとか、ウパニシャッドの哲学を学ぶということはなさそうである。『ヨーガ・スートラ』に基づいてヨーガの理論と実践を再構成するのは、『ナーティヤ・シャーストラ』に拠ってインド舞踊を再創造するのと同じ20世紀の動きである。
天風は肉や野菜を禁じられ、イチジクの葉に包まれた食べ物を与えられた。人参や芋や大根をゆでて細かく切り刻んだものだった。また、稗も粒のまま入っていた。これを水でふやかして生で食べていた。それが夕食だった。近くの森にあるバナナ、マンゴーなどの果実は取って食べてもよかった。おそらく村の農園だろう。トウモロコシやジャガイモもあったようだが、これは新大陸由来で、伝統食、アーユル・ヴェーダの食事療法にはないということなのか、食べさせてもらえなかった。
天風は近代医学をコロンビア大学び、栄養学的に不足なのでは疑ったが、それで結核を克服してしまったのだ。飢餓状態にすると身体が蘇るということなのだろうか。
苦行は、オリンピックではないが、人体の可能性を追求する、虎と出会っても平然としているという不動の心を養うという意味では「あり」だが、それは一種の信者を集めるためのギミックで、あまり、精神的な修養、成長にはつながらないのではないかと思う。ヨーガは苦行ではない。シャカ族のムニ、釈迦牟尼が苦行を捨て瞑想、呼吸法を中心としたのもそういう訳だろう。
参考文献
岩本裕『仏教説話の源流と展開仏教/説話研究第二巻』開明書院、1978年。
おおいみつる『ヨーガに生きる』春秋社、1988年。
大野晋『日本語と私』朝日新聞社、1999年。
沖正弘は『秘境インド探検記/ヨガの楽園』カッパ・ブックス、1962年。
上村勝彦『インド神話』東京書籍、1981年。
佐久間光昭「ジャータカの仙人像(1)」
公益財団法人天風会編『図説中村天風』海鳥社、2005年。
田中純男「ヴェーダ文献にみるMuni像」豊山教学大会紀要第14号、1986年。
お悔やみ
奈良康明先生と同い年で、学生時代からの親友だった大正大学名誉教授石上善應先生が11月29日、91歳でご逝去された。アヴァダーナなど研究対象も風貌も似ていた。心からお悔やみ申し上げます。
https://www.chugainippoh.co.jp/article/contents/obituaries/20201204-001
私が非常勤講師になるとき、河野君、しっかり授業ノートを作り給えといわれた。出版できるようなものにしなさいという意味だったと思うが、果たせなかった。
先生とは不思議と大正大学で、ばったり、お目にかかることが多かった。去年も、鴨台食堂で出版社の編集者と打ち合わせ中に出会ったのだが、お話できなかった。
かくなる上は、その宿題を30年後に果たすべく、インド文化論を書かないといけない。コロナ禍で、時代も私も転換期である。令和3年がよい年になりますように。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論
更新日:2020.12.22