河野亮仙の天竺舞技宇儀⑩

近代ヨーガの開拓者たち

スートラと注釈

古典ヨーガの「ヨーガスートラ」はスートラ体で書かれている。パタンジャリの記した暗唱用の簡潔なスートラに、それに対するヴィアーサのバーシヤ、つまり注釈が付く。さらに副注が付き、それらを読み合わせて本文を読み解くのがインド哲学の勉強法だ。

インドの文献は、はっきり成立年代が分からない。お経なら漢訳の年が分かるのでそこからさかのぼって推定する。お経というのは、法華経、華厳経などでも何回も翻訳されている。元のものから、だんだんと増補されてくるので、鳩摩羅什の妙法蓮華経と現在残っている後世の梵文テキストとでは、ぴたりと合致することはない。

「ヨーガスートラ」等、インド哲学六派の経典は文芸の発達したグプタ朝期(4-6世紀)には出来ていたと思われる。パタンジャリ作とされるが、おそらく根幹をなすスートラは古く紀元前から伝えられ、それに付け加え、書き加え、整然と編集した学者がいる。一人ではないのかもしれないが、その編者の名前をパタンジャリとしようということだ。パタンジャリという名前は前二世紀の文法家にもいる。西洋の学者は別人と考える。

「ヨーガバーシヤ」はヴィヤーサ作とされる。5-6世紀の成立とされるので、いわゆるヴェーダ・ヴィヤーサ、叙事詩「マハーバーラタ」の作者と同一視するのには無理がある。インドの聖者は何百年も生きているとされるのだが。

マハーバーラタの成立というのも、紀元前四世紀から紀元四世紀の間などと紹介されることがある。中核の物語に地方の物語が加えられて、版により八万から十万詩節ある。一詩節は三十二シラブルなので、和歌のみそひと文字に近い単位だ。

ちなみに、インドの長母音は日本の単母音の1.6倍の長さともいわれる。ヨーガとヨガの中間というわけだ。ヴェーダーンダ哲学の巨匠はサンスクリット語発音でシャンカラといい、インドのデーヴァナーガリ文字で表記すると全く同じなのに、シタール奏者はヒンディー語読みでシャンカルと読む。現代語では早口になって、最後の母音アはきわめて短く、発音していないように聞こえる。インド人はとても早口だと思う。

「ヨーガスートラ」と注釈にはアーネスト・ウッドの英訳があった。これまた、サンスクリット用語を英語にそのまま置き換えたような読みにくい文体で、四苦八苦しながら授業に臨んだものだ。

訳者のアーネスト・ウッドも神智学協会員であり、「チャクラ」の著書があるリードビターとともに神智学協会でヨーガの啓蒙をした。

ウッドの代表作はペリカンブックスに入っている”Yoga”であるが、たま出版からから『瞑想入門』が出ている。昭和55年に出た本を古本屋で見つけた。序文はアニー・ベサントが書いている。

ウッドは、1883年マンチェスター生まれ、1965年没。マンチェスター工科大学で物理・化学・地学の優等賞を得て卒業したとある。1908年、アニー・ベサントを慕ってインドに赴き、物理を教え、神智学協会の設立したいくつかの学校やシンド・カレッジの校長などを務める。

一方、十九歳の時から神智学協会のマンチェスター・ロッジに入り、ヨーガやヴェーダーンタ哲学を学んだという。伝統的な教育で、ギリシア語、ラテン語を学んでいれば、サンスクリット語の習得は早い。リードビターの秘書をしていた時期もある。

1933年、ベサントの死後には神智学協会の会長に立候補するが、ジョージ・アルンデールに破れる。協会を離れたクリシュナムールティに従い、ヨーガ研究に専念する。第二次世界大戦後はアメリカに渡り、サンフランシスコのアジア研究米国アカデミーの学長を務めたという。

またまたマダム・ブラバツキー

神智学協会の創設者の一人、マダム・ブラバツキーの経歴は謎に包まれている。近年の研究で、少女時代をカルムイクで過ごし、そこはロシアでもチベット仏教を信奉している地区だった。地理上のチベットに行ったわけではないが、チベット僧との密教研究は嘘ではなかったことになる。

神智学協会はこのマダム・ブラバツキーの行う秘儀、超能力を売り物にしていたが、同時にアディアール・ライブラリーでは地道に出版活動を続けていた。奇跡を売り物にするというのはキリスト教も仏教も同じだった。

このビジネスモデルは、いわゆる桐山密教、阿含宗でも用いられ、リードビター「チャクラ」や、佐保田先生の「ヨーガ根本経典」等の本も平河出版社から出ている。「ヨーガの宗教理念」には、大いに影響を受けた。拙著「カタカリ万華鏡」も平河からだ。このモデルを桐山密教の元でまねび、大衆化したのが麻原のオウム真理教であった。

ヨーガって、一体、何?

ヨーガについては、インダス文明の遺物に足を組んだシヴァ神とされる像がある。印章に掘られた像を発掘したジョン・マーシャルは、それをヨーガの座法を行っている行者、シヴァ神の原型とした。たいていの場合、ヨーガの起源としてこの説が紹介される。エリアーデはそれを支持するが、フリッツ・スタールは「神秘主義の探求」のなかで否定している。

何をもってヨーガというのか、逆立ちするとか息を止めて保つとかは、みんな子供の頃にやってみた覚えがあるだろう。瞑想というなら、ミーアキャットだって夕日を見て瞑想している。まるで、日想観だ。

「ヨーガ・スートラ」は、「アタ、ヨーガ・アヌシャーサナ/さて、これからヨーガの教説」で始まり、二番目のスートラが「チッタ・ヴリッティ・ニローダ/ヨーガとは心の働きを抑止すること」。

いわゆる脳の中のノイズを鎮めるということ。それは、煩悩というのかもしれない。生存本能的なものもあるが、多くは大脳新皮質の活発な働きによるものだろう。つまり、新皮質の発達していない動物の方が、「考えない、かんがえない」瞑想の達人、いや達犬、達猫である。あるがまま、「ビ-・ヒヤ・ナウ」である。即身成猫の境地だ。あっしが死んだら、家の子猫たちはどうなるんだなんて考えやしない。財産もない無一物だ。

ヨーガと太極拳は兄弟です

インド留学から帰国してから、ヨーガをやるかというと、わたしは太極拳を習っていた。そのことを佐保田師に報告するとヨーガと太極拳は兄弟ですからというようなことをいわれた。

太極拳や導引なども、身体の動きの方から呼吸をコントロールして瞑想状態に至るという点で、ヨーガと同じだし、茶道のお手前だってそうだ。スポーツや武道、音楽舞踊でも、心が、即、身体を動かす境地に持って行くのが名人だ。

では、何をもってヨーガたらしめているかというと、それはインド的特質の有る無しによる。ウパニシャッド時代にインド的な思考法や呼吸、瞑想についての技法が発達してくる。それは、ほぼ、お釈迦様の時代、紀元前六世紀頃ではないか。正統バラモン教圏でも仏教、ジャイナ教でも六師外道でも、技法や知識(ヴィディヤー)自体は修行者間で共有され、お互いに影響し合っている。

僧院においては自分たちで病気を治さないといけないので、古くから医術、アーユルヴェーダとの関わりは深い。中国でも天台大師は「摩訶止観」や「天台小止観」のなかで治病や養生法を説く。仏教のみならず、道教の修行者もこれを読み、導引、気功や太極拳の修行者も「摩訶止観」を聖典とする。

一部のチベットの僧院ではヨーガを伝承し、それが壁画に描かれた例もある。日本でもチベット体操として紹介されて教室もいつくかある。

白隠禅師も「夜船閑話」を著して軟酥の法を説く。白幽仙人から授かったというが、滋味豊かなバター、あるいはカテッジ・チーズの丸薬、軟酥を頭から溶かして身体の隅々まで行き渡らせる瞑想法はインド的である。実際にバターを用いるわけではなく、あくまでイメージ、内観法である。これによって白隠も禅病を治した。

ヨーガの起源をインダス文明に起源を求めるということは、その文化の担い手が誰か、アーリアンの伝統かドラヴィダか、それより前にインドに住みついている民族なのか、それらの混合なのか。現在のインドに連綿と連なる伝統なのかという問題なので、容易に結論は出せない。

つながるヨーガ

言葉としては、動詞の語根√yuj、結ぶという言葉から、yogaは来ている。ヴェーダ時代にヨーガは馬を馬車につなげるという意味で使われている。リグ・ヴェーダの詩人たちは、馬車に乗って天界に飛翔するというイメージを抱いたのだろうか。また、くびきで馬や牛をつなぐということから、心がふらふら動き回らないように、つなぎ止めておくという意味に転じる。

インド中の民俗芸能や祭りのアクロバット、武術やインド舞踊のトレーニングを見ているとヨーガのポーズと似たものをしばしば認めることができる。ケーララのカラリパヤットなども動くヨーガといえるのではないか。日本には両者を合わせたカラリヨーガの教室もある。

様々な流派というと大げさだが、近代ヨーガ以前のヨーガが各地、各コミュニティに伝承されていたと思う。

何がヨーガかという問いは、何がカレーかという問題に似ているかもしれない。一体、何をもってカレーというのだろうか。混合スパイスのことだろうか。胡椒はもとより、シナモン、クローブ、カルダモン、コリアンダーなど、インドカレーのみならず、タイやベトナムのカレーにも中華にも、西洋料理にも各種スパイスは使われている。

黄色ければカレーかというとタイには赤カレーも緑カレーもあるし、インドにもホワイト・カレーがある。要するに東南アジアも含めて、インド的イメージにつながるのがカレーであり、ハンバーグは同じ香辛料を使ってもカレーとは呼ばれない。大して違いがないではないかというカバーブはインド文化圏なので、きっとカレーの仲間に入るのだろう。

近代ヨーガの始まり

鈴木大拙(1870-1966)がアメリカに渡って禅を世界に広めたように、一足早くヨーガやヴェーダンタ思想を世界に知らしめたのは、ヴィヴェーカーナンダ(1863-1902)だ。1893年の万国宗教者会議で世界中から注目され、活動を始めている。

しかし、彼は手取り足取りヨーガの体位アーサナを教えたわけではない。瞑想を中心としたラージャヨーガを提唱した。著書に「ラージャヨーガ」「カルマヨーガ」「バクティヨーガ」「ギヤーナ(ジュニャーナ)ヨーガ」等がある。

佐保田師は近代インドの聖人として、ラーマナマハーリシ、ヴィヴェーカーナンダとその師ラーマクリシュナの三人を挙げ、それぞれジュニャーナ(智慧の)ヨーガ、カルマ(行為の)ヨーガ、バクティ(信仰的)ヨーガの代表としている。

また、二十世紀の初めにはラーマチャラカというヨーガ行者が、エジソンの難病を治したという。その頃、ヨーガは病気を治す健康法として理解されていたようだ。ヒンドゥーの行者の如き名を名乗るが、アメリカ人弁護士で、ニューソートの提唱者の一人だ。中村天風もニューソートやクリスチャン・サイエンスを求めて渡米している。

フィニアス・クインビーというメスメリスト(催眠治療家)の、健康法、病気観が元になっている。病気の本質は患者の持つ誤った信念で、それを正すと病気も治ると考えた。佐保田師も「ヨーガ禅道話」で、病気には実体がないという話をされている。

ニューソートは、気持ちを明るく保つ、ポジティヴ・シンキングによって運命が開けると啓発し、成功に至る哲学を説いた。ニューエイジのはしりでもある。

個人の栄達や健康のために自己の神性を呼び覚まそうとするもので、ヨーガの考え方と影響を与え合った。日本では谷口雅春の生長の家がその影響を受け、「生命の実相」の出版活動を行った。

ラーマチャラカもヴィヴェーカーナンダも、kindle本を一ドルくらいで読むことが出来る。ヴィヴェーカーナンダの「ラージャヨーガ」(1896年)もニューソートの影響を受けているといわれる。

また、東洋的体育として嘉納治五郎(1860-1938)の柔道も、ラフカディオ・ハーンの”Out of the East, Boston and NewYork”によって、「柔術」として1895年に紹介されている。恒文社から1986年に「東の国から・心」として翻訳が出ている。元をたどると1952年に岩波文庫として発行されていた。

1891年に、第五高等中学校(後の熊本大学)校長であった嘉納治五郎は、松江から英語教師としてラフカディオ・ハーンを招いた。

柔道は相手の力を使って敵を倒す、相手の力が大きければ大きいほど相手は不利になると謳っている。この書をタゴールは読んで影響を受け、柔道教師を招いたのではないか。そして、国民体育としてお金のかからないカバディを広める。

ヨーガのカリスマたち

ヨーガのカリスマはインド人だけで何十人もいる。山下博司「ヨーガの思想」には、その歴史、思想について、インダス文明からホット・ヨーガまでわかりやすく詳説している。帯には、「ヨーガの歴史と思想のすべてがわかる決定版」とある。ヨーガ偉人伝についてはこの書に多くを負うので、詳しくはそちらを参照していただきたい。

前回取り上げたシュリー・チンモイの師は、同じベンガル人のシュリー・オーロビンド・ゴーシュ(1872-1950)である。オーロビンドは医師の子として生まれ、イギリス流の教育を受け、七歳でイギリスに渡り、ギリシア語・ラテン語の教育を受けケンブリッジ大学に進む。英訳によってラーマーヤナやウパニシャッドの触れ、マックス・ミュラーの「東方聖典」を読み、一元論的ヴェーダーンタ思想こそインドを救うと考えるに至る。

1894年に帰国するとラーマクリシュナに傾倒しサンスクリット語古典を学ぶ。民族運動にのめり込み、投獄されるも、ポンディシェリーに拠点を得てそのアーシュラムを開設する。インテグラル・ヨーガを標榜した。

リシケーシにはシヴァーナンダ・アーシュラムがある。ヨーガはこの地のように、高原で空気が薄く、涼しい所で行うと効果が上がるとされる。ホット・ヨーガは邪道である。もっともこれは、ヴィクラマ・ヨーガが日本で進化?したものらしい。佐保田師も大学を退官して、インド・ヨーガの旅でリシケーシの地を訪れている。

伝聞として、ヒッピーらが道場を訪れ、シヴァーナンダにLSDを飲ませてみたという。幻覚を見るとか乱れるということもなく、全く平常通りだったそうだ。つまり、瞑想修行によって心が清められていて、妄想も出し尽くしてよくコントロールされていたのではないか。それがチッタ・ヴリッティ・ニローダの境地だ。

師はタミル・ナードゥ州出身の医師で、マレーシアのゴム園で長く医師として勤めたが、インドに帰ってから修行を積み出家者となる。古代からのヨーガを統合し、薬草を研究し、アーユルヴェーダによる治療も行っていた。スワーミー・チダーナンダ、スワーミー・サッチダーナンダ等多くの優秀な弟子を育てた。リシケーシのアーシュラムには世界中から多くの人が集まり、ヒッピーの聖地でもあった。

クリシュナマーチャーリヤとアイアンガー

今日的なヨーガの始まりは、ティルマライ・クリシュナマーチャーリヤによると理解されている。クリシュナマーチャーリヤの妻の弟にB.K.S.アイアンガーがいて、世界中に広めた。日本語訳もたくさん出て支部も盛んに活動している。

初期の弟子にロシア生まれのインドラ・デーヴィーがいる。蒋介石夫人の元でヨーガ教室を開いたこともある。渡米してハリウッドで教え有名になる。その辺からダイエットとの結びつきが生まれたと思われる。今日ではハリウッド・ヨーガの呼称もあり、セレブのヨーガというイメージを形成したのであろう。

クリシュナマーチャーリヤは、伝統的なシュリー・ヴァイシュナヴァのブラーマン。「ヨーガ・ラハシア」を表したナータ派の開祖ナータムニ(九-十世紀)の末裔であると称する。ハタ・ヨーガはナータ派の修行法といわれる。

ナータは導師、指導者という意味だが、呪術者的イメージがある。ハタとは力、威力だを意味する。「ヨーガスートラ」の時代から千年近く経て形成されてきたハタ・ヨーガは、古典ヨーガから発展した密教ヨーガである。

ハタ・ヨーガの開祖はゴーラクシャナート(またはゴーラクナート)とされ、十二、三世紀頃の人物かと思われる。日本なら奈良時代のお坊さんのこともよく分かっているのに、歴史性の乏しいインドでは、史実としてよく分からない。すべて後世に作られた伝説に彩られている。伝説・伝承の世界に生きている。

クリシュナマーチャーリヤは1888年生まれで、伝統を受け継ぐ父からサンスクリットとヨーガを学ぶが、さらに、マイソール、バナーラスの大学で専門的なインド哲学の教育を受ける。

それに飽き足らず、1916年、チベットのカイラーサ山の麓、マーナサロワル湖のそばで、シュリー・ラームモーハン・ブラフマチャーリーに師事して、七、八年間、ヨーガとアーユルヴェーダを学んだ。1933年、マイソール王の下でヨーガ学校を創設し教える。西洋人も習いに来るようになる。

その中の一人が、タゴールに惹かれてインドにやってきた、ユージニー・ピーターソン、後のインドラ・デーヴィーであった。彼女の元に、ハリウッドの女優たちの他、バイオリン奏者のユーディ・ニューヒンもやってきた。

ユーディ・メニューヒンがアイアンガーを紹介して有名になった。現在どこでも行われているハタ・ヨーガの原型を作ったのはおそらく彼だろう。

沖正弘の学んだカイヴァリヤダーマ

スワーミー・クヴァラヤーナンダ(1883-1966)は、グジャラート生まれで、バローダ大学に進学している。インドの伝統的体育学を学んだという。政治運動にも関わるが、国立カンデーシュ教育社会大学学長など歴任中にヨーガの研鑽を積む。1924年、プネー近郊のローナヴァラにカイヴァリヤダーマ・ヨーガ研究所を設立する。研究所にはヨーガの大学病院も設立されていて、科学的研究を行っている。

チャンドラ・ボース(1897-1945)も、カルカッタ大学を逃げ出して二ヶ月ほど苦行者の仲間に入り、聖地巡礼をしたようだ。いわゆるヒンドゥーの聖者の堕落した実態を見て、宗教から政治の道に転じる。反英国からインドの国民意識が芽生え、範を古き良きインドに求める。インドの民族主義運動とヒンドゥー教の復興・再生運動は結びついていた。

カルタッタ大学に復学してから二年間、予備将校養成の軍事教練を受けたという。体育といっても日本人のイメージする体育ではなくて、イギリス軍の軍事教練に近いのではないか。

また、プネー近郊には和尚ことラジネージ(ラジニーシュ)のアーシュラム(コミューン)があり、ヒッピーのたまり場?となっていた。

ISCONはクリシュナ意識国際協会の略で、一時期、バブルの頃だろうか、新宿など路上で太鼓を叩いてハレ・クリシュナと歌っていた。何回かカラフルな小冊子をもらった。イベントなどでもよく見かけたので、その日本人の顔を覚えていたのだが、何の用事か、我が家、延命寺にも訪ねてきたことがある。彼は当然、わたしの顔を覚えていなかったし、わたしがインド界隈では有名人?であることも知らなかった。

カルカッタ生まれのアバイ・チャラン・デー(1896-1973)は、後にスワーミー・バクティヴェーダーンタ・サラスワティーを名乗る。15、6世紀のベンガルの聖人チャイタニヤのヴィシュヌ信仰を広めようと志し、事業家としての自分を捨て、妻や家族、財産を放棄して出家者、スワーミーとなる。ジョン・レノンも賛同し、ジョージ・ハリソンも家族こそ捨てなかったが、多額の寄付をISCONにしたことで知られる。ビートルズを捨てたかったのか。

スワーミーとは

1980年前後、聖都バナーラスの沐浴場アッシー・ガートのそばに住んでいた。バナーラス・ヒンドゥー大学にもほど近い。

サフラン色の衣を着た行者を近所に見かけることが多かった。ダンディン・スワーミーといって、棒(ダンダ)と鉢を持つほか、すべてを棄却した修行者である。道端でお茶を飲む位のお金は持っているようだが、どうやって生計を立てているのだろうか。

というか、生計を立てない生き方、仕事も地位、財産も家族もすべて捨てて遊行している(はずだ)。しかし、アールティー・ソングという歌を歌っていたり、なんか楽しそうでもある。世俗の中にはいないことになっている。インド本によく、大学教授を辞めて、すべてを捨ててスワーミーになった人の話とか、インド人の理想の生き方として紹介される。釈尊も王子という地位、家も妻子も捨てて修行者の道に入ったのだった。この生産性のない超越者がインドでは尊敬される。

佐保田師がインド旅行したときの通訳ガイドの兄も、フランス留学で哲学を勉強して帰国し、教授になるかと思ったらスワーミーになってしまって、どこにいるのか連絡も取れないという話を「八十八歳を生きる」に書かれている。そんな統計が果たしてあるものか、当時スワーミーが四十万人いるといわれていたそうだ。

留学していた時、わたしは、バナーラスの繁華街にあるチョーカンバという本屋、サンスクリットやヒンディー語の学術書を出版する専門店を訪ねたら、ダンディン・スワーミーがいた。

突然、流暢な日本語で話しかけてきた。

「自分は、大東亜戦争の時、シンガポールで日本軍に少年兵として従軍しておりました」

あれから、四十年、おそらく九十歳ちょっとで、ぎりぎり今現在生きていても不思議はない歳である。考えてみると、チャンドラ・ボース率いるインド国民軍としてイギリスに対抗していたことになる。

ヨーガとピラティス

話をヨーガに戻そう。ヨーガというものがストレッチやピラティスと似ていると誰もが思うのではないか。ヨーガ・ピラティスという語も定着している。近年、近代ヨーガがドイツ体操やスウェーデン体操に似ている、影響を受けたのではないかとの説がマーク・シングルトンによって発表された。

おそらくは、イギリスの軍隊がインドに入ってくると、軍事訓練の中に西洋流が取り入れられる。もともとは、武器を持たない格闘技といえば、インド・イラン的なクシティーなので、伝統的な身体トレーニングといえばレスリング道場アカーラー(ヴィヤーヤーマ・シャーラ)で行われていたものだろう。その影響を受けないはずはない。カバディ選手も足取りやトレーニングの基礎はインド・レスリングだ。

インド東北部の州にはチョウ・ダンスがある。セライケラのチョウという仮面舞踊劇のトレーニングは武術に基づき、パリカンダ(剣と盾)と呼ばれる。その中にはヨーガに似たポーズがある。仮面舞踊ではないが、オリッサ州のマユルバンジ・チョウも同様の武術的トレーニングを行い、それはオリッサ州のオリッシー・ダンスに連なる伝統だ。クリシュナの舞踊劇ラース・リーラーの中にも、亀のポーズなど、ヨーガ的な身体遊戯が含まれる。

古典時代の復興を目指す

体位アーサナがスウェーデン体操に似ているからといっても、伝統的に様々なポーズは格闘技や舞踊、民俗芸能の中に見いだせる。パンチャラートラ派の経典にも記述がある。「ヨーガスートラ」と近代ヨーガの間が全く断絶しているわけではないし、西洋の影響でアーサナが成立したわけではない。影響は常に相互的で、技術というものは交換される。

イギリスに支配されたインドは、イスラーム支配の時代からさらにさかのぼり、古典インドの時代を理想とする。その中で「ヨーガスートラ」を振り返り、迷信や大道芸的な苦行を廃して、西洋の考え方を取り入れたヨーガを再興する。精神的、思想的なヨーガの復興はヴィヴェーカーナンダが主導し、続いて身体的なハタ・ヨーガは、何十人もの伝道者の創意工夫によって再建された。

インド舞踊という統一的な概念がなく、各地、各階層のばらばらな民族舞踊があるだけだった二十世紀初頭に、「ナーティヤ・シャーストラ」を範として、バレエの精神的影響を受け、エロティックな所作、あるいは堕落したといわれる要素を廃して、カラークシェートラが二十世紀のインド舞踊の構築を始めたのと同じ動きだ。

参考文献

稲垣武「革命家チャンドラ・ボース」光人社NF文庫、2013年。
真田久「嘉納治五郎」潮文庫、2018年。
佐保田鶴治「ヨーガ禅道話」人文書院、1982年。
佐保田鶴治「八十八歳を生きる」同、1986年。
立川武蔵「ヒンドゥー教の歴史」山川出版社、2014年。
「ヨーガの哲学」講談社学術文庫、2013年。
成瀬雅春「ヒマラヤ聖者が伝授する最高の死に方&ヨーガ秘法」ヒカルランド、2012年。日本ヨーガ禅道院編「ヨーガ禅」澪標、2003年。
フリッツ・スタール「神秘主義の探求」法政大学出版局、1985年。
マーク・シングルトン「ヨガ・ボディ/ポーズ練習の起源」、2014年。
山下博司「ヨーガの思想」講談社選書メチエ、2009年。

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2019.02.14