河野亮仙の天竺舞技宇儀⑨

インドといえば、カレーとヨーガ/日本ヨーガの先駆者たち

インドといえば、カレーだが、これは専門家に任せることとして、今回、まずはヨーガの話。もっとも、私はヨーガの専門家というわけではないのだが、とりあえず、サンスクリット語原典で「ヨーガスートラ」を読んだことがある。少しは語る資格があるだろう。

それはもう、四十五年も前の話。インド哲学史専攻だったので、大学三年の時、(京大では三回生という)服部正明教授にその注釈とともに読んでいただいた。
当時の研究室には、今日では大家となって世界的な業績をあげている先輩たちが、身近にごろごろ出入りしていた。ハーバード帰りの小林信彦助教授が、張り切ってびしびし鍛え上げていたが、私は鍛え上げられ損なった口だった。
先輩たちはいわゆる全共闘世代。ロックアウト、大学封鎖でろくに授業はしていなかった。その勉強し損なった分を海外に留学して新しい領域に挑戦し、業績を上げてきたように思う。つまり、大学で勉強しなくたってよいのである!?我々の世代は落ち穂拾いのような仕事しか残ってないような気がする。
平成に入って文科省は大学に馬鹿なことばかりいってきて、教員も学生も迷惑している。

印哲のお勉強

卒論はサーンキヤ・ヨーガの影響を受けたヴィシュヌ派のなかの一派パーンチャラートラ派の「アヒルブッドニヤ・サンヒター」で、アディアール・ライブラリー発行のテキストを使った。後に1981年頃、この図書館には半年ほど滞在した。
そして、アディヤールからバスに乗って、マドラス大学のサンパット教授に「パドマ・サンヒター」、プレジデンシー・カレッジのナラシンハーチャーリヤ博士に「ラクシュミー・タントラ」を読んでいただいた。どちらもパンチャラートラ派の経典で、先生は二人ともパンチャラートラ派のブラーマンである。
当時、アディヤール・ライブラリーの学生向けの寮は一泊十ルピー(約三百円)、そこが満室の時には教授用のデラックスな部屋、四十ルピーに泊まった。どちらも冷房はない。寮のコックがケーララ出身で、菜食がとてもおいしかった。いわゆる黄色いカレーではないカレーを食した。

さて、印哲の授業の準備といったら、まずはテキストを湿式コピーで作って、その湿ったコピー紙を切ってノートに貼る。コピー&ペーストだけで仕事が終わったような気になってしまうが、そこから始まるのだ。ひたすら文法書を片手に辞書を引きまくっている毎日で、それが面白いという境地には至らなかった。

ビートルズと瞑想

子供の頃からカレーライスとインドが好きだった。家には仏教童話全集があって、小学校三、四年の頃からジャータカ物語を読んでいた。やがて、ビートルズを通じてラヴィ・シャンカル、インド音楽を知り、漠然とインド世界に行きたいと思ってインド哲学を選んだのだった。
仏教学は避けた。倫理社会の教科書にある、暗記物のような三法印、四苦八苦、十二因縁という整理の仕方が生理に合わなかった。これは西洋人の作った仏教ではないか。
ヨーガについては、高校の頃にはカッパブックスの沖正弘「ヨガ入門」を読んでいた。「沖ヨガ」と呼ばれたものだ。

西洋では、ビートルズとミック・ジャガーが奥様や恋人を連れて「聖者」マハリシ・マヘーシ・ヨーギーの元を訪れ、ヨーガや瞑想にも注目が集まっていた。それは、1967年8月末のことだった。ウェールズ北部のパンゴアにある山の中のコミューンでマハリシの教えを乞いに赴いた。そのとき、ビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインが急死したという知らせが飛び込んだのだった。
68年の2月には、ヨーガの聖地、高原のリシケーシにあるマハリシの超越瞑想の瞑想キャンプにビートルズとその妻、友人たちが集まった。そのとき、マハリシが女優のミア・ファーロウに手を出すという事件が起きて、みんな幻滅した。ジョン・レノンはひどくマハリシを非難したが、「師」は知らないとすっとぼけた。
後に、ポール・マッカートニーがマハリシを揶揄して「フール・オン・ザ・ヒル」という名曲が出来た。ジョンも「セクシー・サディー」という曲を作った。行者はサードゥと呼ばれるので、それをもじったか。

それはよく知られた話なのだが、マハリシは欧米のビジネス・エリートの間に超越瞑想を浸透させた。ジョージ・ハリソンはマハリシを悪くいわない。後に、クリシュナ意識国際協会(ISKCON)と関わって、「マイ・スイート・ロード」では、「ハレ・クリシュナ、ハレ・ラーマ」とバック・コーラスが入る。ISKCONに多額の寄付をしたという。
また、当時スリチンモイと呼ばれたシュリー・チンモイ(チンモイ・クマール・ゴーシュ、オーロビンド・ゴーシュの弟子)に師事した、カルロス・サンタナとマハビシュヌ・ジョン・マクラフリンは、ツインギターで1973年に、『魂の兄弟たち』というアルバムを発表した。コルトレーンの「至上の愛」を演奏している。

佐保田鶴治とヨーガ禅

日本では、クレージーキャッツのサックス奏者、安田伸の奥様である竹越美代子が美容体操を広めていて、ヨガも一風変わった美容体操として受け止められていたのではないかと思う。
それに対して、ヨガじゃないよヨーガだよ、健康体操じゃなくてヨーガは宗教なんだよと説いたのが佐保田鶴治博士(1899-1986、大阪大学名誉教授)である。
服部先生に「ヨーガ・スートラ」を読んでもらっていた頃、佐保田先生のお宅にお邪魔してお話を伺った。翻訳の「ヨーガ根本経典」などを出されていた。当時は、京都市内の日蓮宗の本禅寺の中に住まわれていた。
師父の眞英師は、やはり京都西陣の日蓮宗、本隆寺で住職をされていた。明治の終わり頃、十二、三歳の頃に鶴治も出家している。後継者にするつもりでいたようだ。棒でたたかれるなど、厳しくお経を仕込まれたようだが、坊さんの仕事をなさったかどうかは伺っていない。小学校四年までは、福井の田舎にある母の実家で「山本鶴治」として育てられた。
当時はまだ、僧侶が妻帯するのは珍しく、また、結婚してもあたかも妻はいないかのように振る舞っていたので、そうなったのだろう。四年で京都に来る。
桃山にあるヨーガ道場には、50CCのヤマハメイトに乗って行ったりした。後に、そちらに引っ越され、そのお宅にも二、三度お伺いしてお寿司をごちそうになったり、サイン入り著書を頂戴したり可愛がってもらった。

カタカリ舞踊団をその道場に案内したこともある。佐保田先生のヨーガは、ケーララ州のカタカリ舞踊家のクリヤンさんから習ったと聞いていたからだ。
クリヤンとはクリスチャンという意味だ。ケーララには大昔から、シリア・クリスチャンが移住してきていた。当時の私は、毎年のようにカルナータカ、ケーララの芸能調査に出かけていたが、クリヤンさんという名前の人には出会ったことがなかった。
しかし、平成に入ってから新聞にコーチン空港の話が載っていて、その責任者の名がクリヤンで、やっぱりいるんだと合点した。

クリヤンさんはケーララの大学を出た後、京都の日本碍子で、碍子(電線を支持し、絶縁するための磁器装置)の研究に来ていた三十過ぎの青年である。ケーララ・カラー・マンダラム出身ならプロのカタカリ役者になるので、おそらくグルクラ・システム、師匠の元に住み込んだり、通ったりして仕込まれた役者だと思う。それでも、村のカタカリ芝居で役をもらって踊って、わずかばかりの小遣い、出演料をもらっていたのではないか。研究費が切れて、アルバイトでインド舞踊を踊ったり、ヨーガを教えていたらしい。

昭和36年、佐保田師62歳の時、インド舞踊を見る会が、七条警察署長が主催者となって執り行われた。その時、インド哲学をやってるのなら話が通じるだろうという感じ、通訳兼解説者で会に招かれたのではないか。
クリヤンさんが、カタカリとハタ・ヨーガのようなものを披露した。さあ、みんなでやってみましょうということで、おそらく目をくるくる回したり、立ってできる程度の体操を試してみたのだろう。手と足を動かす、佐保田ヨーガにいう基本体操の元のようなものと思われる。
師は元々身体が弱く、大学入学前に結核にかかっている。岡田式静座法や自彊術などを習い、当時は顔面神経痛を患っていた。その習ってきた二十ほどの体操を毎日繰り返していると、たちどころに健康を取り戻した。それを他人に教えているうちにヨーガ禅道友会へと発展していった。インド哲学の研究者本人が、ヨーガはいいと実践しているのだから間違いないということだった。

中村天風の修行

本屋に行くと天風本、ビジネス啓発本がたくさん並んでいる。日本で最初にヨーガを紹介したのは天風であるとされている。
明治九(1876)年、王子に生まれる。玄洋社の遠山満に預けられて書生となる。軍事探偵、つまり諜報員として大陸に渡り、日露戦争で死線をくぐり抜けて帰る。しかし、帰国して不治の病といわれた肺結核にかかり、北里柴三郎の治療を受けても、欧米の高名な医師に見てもらっても、らちがあかなかった。コロンビア大学で医学も学んでいる。フランスから帰国しようとエジプトに立ち寄ったところ、不思議な老人と出会う。明治四十三(1910)年のことだった。

顔を見ただけで右の胸の病を当てられた。もう、死ぬ覚悟だったので、そのままインドまでついて行ってしまう。その人が、カリアッパ師であった。伝記には経歴も何も書かれていない。なんでエジプトにいたのかも分からない。20世紀初頭すでにヴィヴェーカーナンダはラージャヨーガを世界中に説いて回っていたが、同じように英語で理路整然とヨーガを宣揚しているタイプには思えない。それなら著書が残っている。

おそらくヨーガ行者は超能力者、すなわち、病気を治す人と知られて、ヨーロッパの金持ちか分からないが、病気治療で招かれていたのではないか。ロンドンまで赴いたようだ。20世紀初めにはラーマチャラカというヨーガ行者がエジソンの難病を治したという。こうした聖人たちの呼び名は本名でないことが多いので注意が必要だ。チャラカは二世紀頃の伝説的な医師の名前。ラーマチャラカは、シカゴの弁護士ウィリアム・ウォーカー・アトキンソンのペンネームで、ニューソートの指導者だった。

天風は、ヒマラヤのカンチェンジュンガの麓、仙人村のようなところで三年近く修行することになる。伝記で触れることもないが、元留学生としては、一体、その間のヴィザはどうしたのだろうなどと考えてしまう。そこがネパールなのかシッキムなのか、村人も意識してないだろうが、レプチャ語を使う地域である。もともと、結核患者は海外渡航禁止で、孫文の親戚ということにして、偽名を語ってアメリカに渡ったのだった。

天風はシュードラ扱いで羊小屋に寝て、茹でた大根、人参、芋を細かく切り刻んだもの、生の稗をふやかしたものを与えられていた。西洋医学的には肉食で栄養をとってということだが、おそらく症状の改善に効果あったのだろう。病人は湯たんぽを抱えて身体を温めるといいというが、羊と寝るのも同じような意味があると思う。
ヒマラヤの奥での修行は、今でいえばパワハラ、チベット僧侶の伝記によくある師匠の理不尽な言いつけ、無茶ぶりに従うしごきに似ている。天風の伝えたヨーガがいかなるものか、図説したものは見ていない。

苦行者たち

そこでの修行は、伝記小説によると木の枝にぶら下がったままの男がいたり、手を上げ足を上げた姿勢(立木のホーズか)をずっと保つとか、腹筋を逆さにしたようなポーズ(テープルのポーズ、あるいはプールヴォーターナ・アーサナ)をやっている行者がいる。
息を止め棺桶に入って土中に埋められ、八日目に出てくるとか、苦行、あるいはアクロバット、大道芸的なイメージが強い。針のむしろに寝たり、片手をあげたまま何十年で、手が固まって動かない男がヨーガ行者として紹介されたりする。今のシステム化されたヨーガとは違うが、それこそヴェーダ時代からそうした修行法が伝えられていたのだろう。
天風は、森の中にこもって十年ぶりに姿を現した行者の秘儀を見る。死んで生き返るのだ。

広い土間に白い布を敷いて六十歳くらいの老人が座る。笙のような楽器を吹くと、両手を挙げ、首筋に回す。力を込めて息を詰めると、ガクッと首が前に倒れ、死んだかのように見える。白い布に行者を寝かせて、そのままくるりと巻き付ける。大理石の棺に入れて、松ヤニで蓋を密封する。空気が通らない。掘った穴に埋めて土まんじゅうを作る。
八日目の朝にそれは掘り起こされ、棺を開けて白い布をはぐと、土気色で死んだか思われる。その身体に羊の乳で作ったバターを塗り込む。身体のツボをもんでいるようだ。
読経、あるいはマントラを唱えると潤いが出て、土気色だった身体に赤みが増して、筋肉に弾力が出る。ゆっくり呼吸を始める。白布の中央に座る。生き返った。
この入定の行が、いわば卒業式だろう。悉地(シッディ)を得て成就者、シッダとなったのだ。カリアッパ師はこの行を二回やり遂げたという。三人やると二人は死ぬという難行だ。成瀬雅春によると心臓が止まったわけではなくて鼓動が止まったのだそうだ。心臓はきわめてゆっくり動いている。呼吸も細く長く続く。

天風はヨーガの呼吸法であるクンバカ(止息)を伝えている。
「壺の中に水を一杯入れた状態」とも説明されるが、奥義はつかみにくい。形だけ真似してもしょうがないともいう。カリアッパ師とともに百人ものヨーガ行者が修行していたが、それを会得しているのはごく一部だという。天風はそれを会得した。完全にリラックスして心身統一を図る安定した状態ということのようだ。
また、険しい崖の道を歩くとか、猛獣のいる森の中に入るという修行もある。クンバカが出来ていると自然体で猛獣に襲われることもないそうだ。
成瀬雅春は、「呼吸法の極意」の中で、空中浮揚の前提として、ケーヴァラ・クンバカについて微細な練習法、極意を記しているが、その習得はいかにも困難だ。
昭和十三年に天風が裸でクンバカを表演する写真があるが、身体ががっちりしていて、軍人にしか見えない。心身統一法を教えるが、発想が武術的に思える。弟子に原敬、尾崎行雄、後藤新平、東郷平八郎、松下幸之助、宇野千代、双葉山等がいて、大谷祥平まで影響を受けたといわれる。護国寺に天風会館があり、天風没後も講習を続けている。

沖正弘の秘境インド探検記

沖正弘が、最初に書いた本は、カッパブックス「ヨガの楽園/秘境インド探検記」だと思われる。昭和三十七年の著作だ。え、秘境インドですか、とのけぞってしまう。ちなみに中尾佐助「秘境ブータン」は、昭和三十四年に出ている。
経歴を知ってまた驚いたが、大正十年生まれ、大阪外国語大学アラビア語出身とある。当時は大阪外国語学校である。もちろん商社マンではないし、外交官でもない。参謀本部第二課の調査員としてイスラーム教徒の研究でマドラスに入った。研究者というよりは諜報部員である。シンガポールから入ったようであるが、その頃マレーシアではハリマオが活躍していた。

そして、昭和十四年にインドで見聞した模様は、やはり天風の体験に通じるものがある。前近代のヨーガの姿が透けて見えるのだ。
マドラスのインド人ホテルに滞在中、インド人医師に面白いことがあるから見に行こうと誘われて、お寺の祭りに行く。あちこちに露店が出て、テント張りの見世物小屋がある。そのうちの一つに入るとインド舞踊を前座としてやっていたようだが、それはカラークシェートラ流ではなかろう。
休憩の後、ヨーギーが現れ、肘掛け椅子に座る。毎年のことなのか、医師と面識があって呼び込まれ、医師が脈を取る。沖も一緒に行って左手の脈を診る。正常だ。
五分ほどすると、はあー、はあーと息を吐き、だんだんと呼吸が遅くなる。二人は脈を取ったままだ。やがて、一分ほどするとぴくぴく痙攣する。慌てて脈拍を見ると弱くなって、顔色も青くなりチアノーゼの症状を見せる。時々脈が止まり不規則になる。二、三回大きく脈を打った後、止まってしまった。

時計で何分止まってるか見て、また、医師は聴診器を沖に手渡して鼓動を聞くようにするが心音は聞こえない。顔色も死んだようになっている。そして、三十分ほどたって医師が沖に脈を取るよう合図する。少しずつ動き出す。大きなため息をついて、身体をぶるぶると震わし、目を開ける。自分で立ち上がろうとしたが、まだ、ふらふらしているので、スタッフが椅子に座らせたまま、楽屋裏に運び込んだ。
任地がマドラスからカルカッタに移る途中、プリー(オリッサ州)に立ち寄り、年に一度の大祭を見る。汽車の中で車掌が、大きな祭りがあるから、是非、見るようにと薦めたのだ。ジャガンナート寺院のラタヤートラ祭であろうか。広場には大小のテントがあり、動物の曲芸、サーカス、手品、インド舞踊などが行われている。

刃を上に向けた刀五本の上で座禅している男がいる。太った男と童顔のヨーギーがテントの中で逆立ちしている。一日のうち十四、五時間逆立ちしたままで、時々、見物人か食べ物を渡すと逆立ちしたまま食べている。あるテントに入ると、黄色いサリーを着た女が上を向いて口から棒を出している。ずっと見ていると、なんとそれは刃渡り三十センチのナイフだった。
また、芽が草となり、見る見るうちにそれがマンゴーの木に育つ術も見た。それが「ヨガ」なのかマジックなのか、実際に起きていることなのか、沖は頭を抱えながらテントを見て回った。
沖はカルカッタからデリー方面までイスラーム教徒の地区を回って調査し、独立運動の活動家に会ったりしていた。これらの記録は、今、公開されているのだろうか。そんなとき、暗号電報で「イランに行け」との指令を受けた。

不思議な老人と出会う

ボンベイからペルシア湾航路を行く船を調べると、半月も先のことなので、古都ジャイプルに寄ることにする。
お茶屋で紅茶をすすっていると呼び止められる。こんなところに知り合いはいないはずなのに。
「君は自分のことを知られたくないらしいね。おあいにくさまだが、当ててあげよう。君はシンガポールとマドラスを経てここに来て、イランかアフガニスタンに行くのだろう」
「君の財布の中には二百ポンドと八十ルピーが入ってるね」
ずばりと当てられてしまった。いぶかしげにしていると、ヨーガを研究すれば分かるよ、着いてきなさいと、ジャイプル近くの修行場アーシュラムに赴く。少年から老人まで何十人かが修行している。沖も歩けばヨーガに当るで、そういう運命だったというしかない。

朝のお茶の前に、何人かが吸い飲みのようなもので、鼻から水を入れ、口から出している。あるいは、鼻と口をひもで通して、ごしごし引っ張っている。鼻の掃除をしているのだ。また、三センチ幅の包帯のようなものをごくごく飲み込み、とうとう肛門から取り出して、やはり引っ張っている。お腹の掃除だ。驚いていると、かの老人が、
「これは自分の心で心身をコントロールするのが目的で、見世物になるのが目的ではないから、間違えてはいけない」という。
さらに、裏山に回り、二十分ほど登ると、三メートル位の棒杭の上に片足で立ってる男、片手で木の枝にぶら下がってる男、木の枝から下がったロープを口にくわえてる男など、三十人位がいた。

また、別の道場では十人位が空手のように手や額でレンガや棒を割っていた。また、別の小部屋ではガラス瓶を割って敷き詰め、その上に横たわって本を読んでいた。みな、平然としている。などなど沖の見聞をすべて紹介できないが様々な訓練をしている。かの老人曰く、
「今日、君が見たものがヨーガだと思っては困る。人間の隠された能力を開発するためにやってるだけで、ヨーガは魔術でも奇術でもない。肉体の自由を獲得するための手段なのだ」

戦後に再訪

沖は戦後の昭和二十六年に、ユネスコの招聘で平和建設国際奉仕団に参加する。インドに自主自立の精神をもたらすのが目的だそうだ。沖も十年近く煩った結核がやっと癒えてきたところに、酷暑のインドは厳しかった。
しかし、同僚のスイス人だけ、なぜか小食のヴェジタリアンなのに、ぴんぴんしていてその秘密を聞いた。ヨーロッパでインド人からヨーガを習って、休憩時も瞑想していた。
以前の体験から、ヨーガなんてあんなものではないのかというと、これを読みなさいと、アーネスト・ウッドの「ヨーガ」を示した。また、同室のデリー大学哲学科出身のインド青年シュンク(シャンカルか?)がプネー近郊のローナヴァラに行くことを薦める。外国人の学者も来ているヨーガ研究所だ。ノルウェーの体操の専門家も来ている。スワーミー・クヴァラヤーナンダのカイヴァリヤダーマ・ヨーガ研究所であった。ハタ・ヨーガを研究しているが、テレパシーや透視術の実験も行っていた。

中国人の見た幻術

晋の干宝が書いた「捜神記」に、四世紀初めの頃、天竺の異人が江南に来て、舌を切ったりつないだりする技、火を吹く術を見せたとある。「旧唐書」巻二十九音楽誌には「幻術はみな西域に出ず、天竺もっとも甚だし」と書かれ、唐の時代にシルクロードを通じてペルシア、あるいはアレクサンドリアから奇術、軽業などの芸能が流入し、中でもインド由来のものが多かったことが分かる。これらの百戲、散楽は芸能のルーツである。
縄を投げるとぴんと直立して天を指し、そこをするする登っていく技などが古くから知られている。
それはアメリカ・マジシャン協会長クリストファー「世界の魔術」にも記され、今でもインドのどこかでやってそうだ。ベンガル人の魔術が優れているとされた。当時のベンガルにはオリッサも入っている。
その本に紹介されているのは、ジャハーンギール(十七世紀初頭のムガル帝国第四代皇帝)の回想録によるものだ。十カ所にそれぞれ別の種子を蒔くと、すぐに芽を出して十本の別の木となり、実を結び、木の枝に小鳥が止まったという。ジャハーンギールはそのうち、マンゴーとイチジクとアーモンドを食したという。様々な不思議な術を紹介していしるのだか、一人の人間を切り刻んで、それを布にくるんでまたこれを元通りにしたという。まさに、幻を見せる術だ。
ヨーガだか見世物芸だか分からない話はこの辺にして、次回は、本筋に戻ろう。

参考文献

おおいみつる「ヨーガに生きる/中村天風とカリアッパ師の歩み」春秋社、1988年。
沖正弘「ヨガの楽園」光文社、1962年。
佐保田鶴治「ヨーガ根本経典」平河出版社、1973年。
  〃  「ヨーガの宗教理念」同、1976年。
立川武蔵「ヒンドゥー教の歴史」山川出版社、2014年。
  〃  「ヨーガの哲学」講談社文庫、2013年。
藤平光一「中村天風と植芝盛平」東洋経済、1999年。
成瀬雅春「呼吸法の極意」出帆新社、1992年。
日本ヨーガ禅道院編「ヨーガ禅」澪標、2003年。
森豊「シルクロードの幻術」六興出版、1981年。
山下博司「ヨーガの思想」講談社選書メチエ、2009年。

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職

専門 インド文化史、身体論

更新日:2019.01.09