河野亮仙の天竺舞技宇儀㊱
インドの身体文化/カバディとレスリング
現在の時点で先行きは見通せないが、2020東京オリンピックは可能なのだろうか。全く、とんだ貧乏くじを引いてしまったものだ。22年に延期となったらアジア競技会と被るので、アジア大会は延期になるだろう。オリンピックの競技種目として認められていないカバディは、アジア大会が最高の晴れ舞台である。東京オリンピック32年説もあるが、そこにはインドも立候補の予定で、カバディを正式種目にと考えている。インドも暑いので、秋冬開催でないと難しいのではないか。
スポーツ全般、学校では部活に制限が加えられ、特にコンタクト・スポーツは危機的状況を迎えている。さらに、カバディは声を出すからと体育館の使用を断られたこともある。
1982年にニューデリーで行われた第9回アジア競技会において、カバディはデモンストレーションの種目として採用された。1990年の北京大会では、初めて正式種目として採用され、日本も参加して4位となった。2010年広州大会で男子は銅メダルを獲得したものの、近年はインドに次いでイラン、韓国が強くなり、日本は強化が遅れている。
古代インドのスポーツ
インドの細密画に描かれる狩猟は、古代においては生活そのものであって遊びではない。弓矢も競技ではなく実用の道具だった。オリンピックに円盤投げという競技があるが、観音像などで手にしているチャクラが古代インドの武器の一つだった。ハヌマーンやビーマが振り回す太い棍棒ガダは、今日もインドやペルシァのレスラーがトレーニングに用いている。
取っ組み合いのほか、アクロバットや歌、踊りも人類の始まりからあったことだろうが、西暦前2、3世紀頃にはプロ的な専門家がいたようだ。
インド古代のスポーツや競技、遊びは学芸と共に経典に記述されている。仏伝『ラリタヴィスタラ』の祖型は西暦150年頃には成立していたかと思われるが、それは竺法護によって『普曜経』として308年に訳出され、683年には唐の地婆訶羅により『方広大荘厳経』として訳出された。後者の方が現存梵本に近く梵本が最も新しい。
クシャトリアの伝統として嫁取りの競技会を催したとき、500人のシャーキャ族の王子達と争って、シッダルダ王子があらゆる種目において卓越して勝利したことが描かれる。
その主なものは算数、書写、文法、詩文、哲学、神話と伝承、絵画、彫刻、器楽、歌舞、演劇といった学芸から、跳躍、競走、ボクシング、レスリング、弓矢、槍投げ、腕相撲、水泳、乗馬、乗象、戦車術、按摩、サイコロ、占星術、顔相、夢占い、幻術等々である。
これらは王族が学ぶべき技芸、教養として『ラリタヴィスタラ』成立頃に数え上げられていたものである。さらに、紀元前の伝承と思われる(とはいえインドのこと数百年の幅があるが)技芸、娯楽について、ジャータカ等の仏典にも描かれる。奇術や鞠遊び、石蹴り、闘鶏など動物を戦わせる遊びや見世物である。比丘はこれらに近づいてはいけないと戒められた。
タキシラには武術学校があって、弓術などを習った話はしばしば語られる。レスリングの闘技場や座席などの設営についての記述、町中が試合の噂で沸き立ったこと、レスラーがのっしのっしと歩き回り、飛び跳ねて叫び、手を叩いて自分の強さを誇示したことなども述べられている。
闘牛やアクロバット、跳躍者、軽業師、音楽家や役者、ばくち打ちの話もジャータカにはある。なかなか賑やかな都会の生活ぶりだ。仏教僧団は都市の豊かな商工業者をスポンサーとしていた。
カバディとタゴール
カバディ、カバディ、カバディと連呼するアジアの珍競技として紹介されたが、『灼熱カバディ』という本格的なカバディ漫画のおかげで理解が進んでいる。その起源について、インド人はお得意の神話に持ち込んで、マハーバーラタに描かれる物語によっている。
パーンダヴァ兄弟のアルジュナの息子、若きアビマニュが、カウラヴァ一族の7人に囲まれて孤軍奮闘する逸話が元になったという。また、狩りで気勢を上げ動物を追い込むことの再現ともいう。
もともと子どもの遊びで、日本でいえばけんけん相撲とか鬼ごっこのようなものだ。ハトゥハトゥとか、ハドゥドゥ、チェドゥグドゥ、カウンパダなどと呼ばれる遊びが各地にあり、その都度ルールを決めて遊ぶようなものだった。
ドッジボールのボールの代わりに一人の選手が相手コートに跳んでいくゲームだ。相手にタッチして自軍に帰ると、触った人数だけ得点になるのが基本的なルールである。校庭において、みんなで出来るように比較的狭いコートを定めたのだろう。攻撃時には一息でカバディカバディと連呼する。ダルマさん転んだみたいに遊びの要素を残していたが、これも近年は30秒に定められている。
連載の第4回にも書いたが、ラビンドラナート・タゴールは子供の頃レスリングを習っていたので柔道に興味を持った。大英帝国に対するのには柔よく剛を制するという柔道の精神が大切と考え、ガンディーやネルーにも勧めた。柔道の技や精神がカバディに入っているといわれる。ヨーガのように長く吐く息を養い、特別に道具や武器を必要としない無所有、非暴力の精神である。人を出し抜いて足を引っ張ってばかりのインド人、確かにカバディでも逃げるレイダーの足を引っ張るが、チームプレーを学ぶべきである。
カバディの攻撃手はレイダーと呼ばれるが、これは侵略者である英国のことを意味していたのではないか。守備はアンティと呼ばれるが、英国への反対者のことなのかどうか、説明する人はもはやいない。
タゴール大学の前身は、1899年、タゴールがシライドホに住んでいた時、子のために始めた家庭学校だ。シャーンティニケータンに移り住んで、1901年12月、5人の生徒と自分も含む6人の教師によってタゴール学園を開設した。翌年の1月に岡倉天心が堀至徳を伴ってカルカッタにたどり着く。堀はタゴール学園最初の外国人留学生である。
1905年には柔道講師として慶応大学から佐野甚之助が送られた。岡倉天心と嘉納治五郎は東大で同級生だった。
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カバディの歴史
タゴールの研究者として知られる我妻和男「岡倉天心とタゴールの素晴らしい出会い」(『タゴールの世界』出版記念会で配布された資料)によると、1929年、タゴール5回目の来日の折り、頭山満と会うつもりだったが、その時頭山は中国にいた。後に連絡を取り、頭山とラシュ・ビハリ・ボースは柔道五段の猛者、高垣信造を派遣したという。年代的には彼がカバディに寄与したのだろう。
マハーラーシュトラ州は、カバディを大衆化しようと、1918年にカバディを条例に書き込んだ。1920年代、30年代にカバディの全国組織が形成されるようになると、イギリス政府は弾圧を加えたものの、ますます広がった。
古くバングラデシュの老人が語るところでは、広大な野原一帯でカバディ、カバディと連呼しながら一日中遊びほうけたという。こちらは、同じカバディを名乗っても別のルールの競技になったのではないか。パキスタンではボクシングやレスリングに近い感じで、太古における格闘家の競技を思わせる。
https://www.youtube.com/watch?v=Sxfx3r3Ukvs
https://www.youtube.com/watch?v=NGTwhEHmDxY
また、ベンガルの女の子達は、カバディとかハドゥハドゥではなく、チューと長く息を伸ばして、動作を荒々しくせず、優美に遊んだという。それはカバディではなくチュビクキトとも呼ばれた。様々な遊び方があったのだろう。
1923年にカバディの規則が初めて印刷され、それに基づいてバローダでカバディの全インド選手権が行われた。
1936年ベルリン・オリンピックの時にHanuman vyayam prasarak mandalとAmravathiによって、カバディのデモンストレーションが行われた。前者は後述するレスリングの団体に関係があったかもしれないが、確かめようがない。オリンピックにならった国内の競技会としては、1938年のカルカッタ大会でカバディが紹介された。1950年に全インド・カバディ連盟が設立された。
男子の定期的な国内選手権大会は、1952年マドラス大会から。この年にカバディはインドの国技として認められる。女子の大会は55年のカルカッタ大会から。1954年ニューデリー大会で新規則が制定される。
1961年、インドの大学スポーツ統制委員会が、主なスポーツ種目の一つとしてカバディを採用し、62年にはインド学校競技連盟が学校競技の中に取り入れる。71年、国立インドスポーツ院は、指導教科課程の中にカバディを取り入れた。74年には文化交流の一環としてバングラデシュに遠征した。アジアに普及させて国際的なスポーツに成長させようと計画したのだろう。
1980年、カルカッタにおいて初のカバディ・アジア選手権大会が行われたが、日本は選手を派遣できなかった。その後1988年に第2回アジア選手権がジャイプルで行われた時には、男子7名、女子5名で参加。
インド、パキスタン、バングラデシュ、日本とマレーシアが参加して日本は4位獲得でカップをもらい、日本のインド大使館に寄贈されたと我妻絅子は語る。宮殿のようなホテルに泊まる(ラームバーグ・パレスか)など、ラージャスターン州政府を上げた行事となっていたようだ。
2014年にプロカバディ・リーグが成立し、世界中から選手が集まった。日本からも下川正将と河野貴光が参加して歴史の第一ページを飾った。その大成功によってカバディの世界的な普及は促進されるかと思われた。しかし、コロナ禍において、インドはアメリカに次いで感染者が多い。この夏までに3億人にワクチン摂取するというものの、先行きは不透明だ。
https://www.youtube.com/watch?v=AgjZhYvAf8o
日本のカバディに貢献した我妻夫妻
日本においては、平成元年に日本アマチュアカバディ協会によって、第1回カバディ全国大会が開催された。
初期において尽力されたのは、筑波大学名誉教授我妻和男とその奥様、絅子である。我妻は、1994年、タゴール大学に開設された日本学院(Nippon Bhavan)やカルカッタの印日文化センター(Rabindra Okakura Bhavan)の開設、そしてカバディにも私財をなげうって努力した日印交流の貢献者であり、西ベンガル州からタゴール賞、タゴール大学からも最高賞、日本では瑞宝中綬賞を受賞している。無所有の精神の人だった。お二人はもはや西方浄土に旅立ってしまわれた。
平成元年にはカルカッタからカバディのコーチ、ランジット・ドールを招き、あちこちの大学で講習会を開いた。日本体育大学、早稲田大学、帝京大学、大正大学、二松学舎大学などである。お二人とも審判員のライセンスを持ち、奥様もベンガル語が達者で、献身的に指導して普及に努めた。日本カバディ協会はこちら。
https://www.jaka.jp/
今、最新のエキジビション・マッチをルール解説付きで見ることが出来る。
https://www.youtube.com/watch?v=PRx5oiQyo
日本におけるカバディの始まりについて我妻絅子に問い合わせたところ、便箋10枚に及ぶ丁寧なご返事をいただいた。
市川市にあるアンデルセン幼稚園(たまたま我妻夫妻の自宅の側)の理事長、鎌形勇という空手の先生が、1979年にヴィジャイ大学教授スンダル・ラーマを招いてそこに滞在した。その模様がテレビで報じられると、当時の東金市長、早野尚治がカバディに興味を持って、インドのアマチュアカバディ協会と連絡を取った。
1981年には男女41名の選手と役員を派遣してもらい、東金の中学校で試合をし、小中学校で交流会を開いた。この時は、アジア諸国に普及させるという目的で、タイやマレーシアにも遠征して親善試合が行われている。
1988年にはインド祭の一環として男女の選手役員50名が来日し、9月28日に代々木競技場第二体育館で模範試合と交流試合が行われた。翌平成元年に第1回全日本カバディ選手権が行われた。この頃はまだバブル崩壊前で企業からお金が集まり、盛大なものだった。
カバディの特徴は、守る方はチームワークを大切にする団体競技、攻めるときには個性が発揮される個人競技ということになろうか。カバディカバディと声を出すことにより心肺機能が鍛えられ、体幹の強さ、柔軟性や瞬間的なスピードも要求され、あらゆるスポーツの基礎訓練になる。個性に応じた役割を分担し、作戦を練ってチームワークが養成され、手を取り合って友情を深めるスポーツである。
プロカバディの場合は見せる要素もあるので、かなり激しいものになるが、身体接触は子どもにとっては当たり前で、柔道や剣道よりも、義務教育に取り入れていいものではないかと思う。
インド・レスリング
今更インドのスポーツとして紹介するのも変であるが、古くからエジプトやギリシア・ローマ、ペルシァでもレスリングは知られ、インドのレスリングは経典では相撲と漢訳された。法華経安楽行品では相扠相撲と対になり、相扠(そうしゃ、そうさ)はボクサー、あるいは闘棒者という解釈もある。相撲はレスリング、格闘家を指すと思われる。梵文にムシュティカ、マウシュティカ(拳を使う者)とあるのをボクサーとも解せるが、チベット語訳では手品師、いかさま師と取っているようだ。
古代インドの文献ではタキシラが武術の本場とされていたが、隣接するイラン(タキシラはある時期、アケメネス朝ペルシァのヒンドゥ州にあった)でも王書『シャーナーメ』にあるように武術が盛んで、ペルシァの騎士はパフレバーンと呼ばれた。
オックスフォードの英語-ヒンディー語辞書を見たら、レスラーの訳語はpahalavanだった。現在のインド、パキスタン、トルコやアフガニスタンにもその技術は伝えられた。ズル(力)のハネ(家)と呼ばれる道場で、コシティ、クシュティと呼ばれるレスリングの練習体系が養われた。その力技自体もズルハネと呼ばれる。
インドでガダと呼ばれる棍棒は、イランではミリィと呼ばれ、最高で25キロもあるものを両手でぶん回す。その他の器具も使ったウェイト・トレーニングをする。アントニオ猪木が1976年にパキスタンのアクラム・ペールワン(パハラヴァーン)と戦った後、新日本プロレスでもこうしたトレーニングが取り入れられていたようだ。かつて、イランやトルコはレスリング王国だった。
それでは相撲とレスリングとどう違うのかというと、レスリングは古代ギリシアのオリンピックにおいて素裸で行われたように裸体の競技、相撲はまわしをつかむことが出来るので、技術的には着衣の競技であり、丸い土俵というのも江戸時代からである。
日本でも昔は各藩が相撲取りを召し抱えたように、インドでも藩王に仕え、お祭りの時には王やデーヴァダーシー、馬や象と共に行進し荘厳さ、威力を示した。レスラーはマッラと呼ばれた。日本でもテレビで紹介されたが、マッラカンブという競技がある。ポールダンス、日本でいえば出初め式の技のようなアクロバットで、レスラーが柱kambhaにまとわりついて行う。おそらくロープを使った綱渡りや奇術と共に、古代からあった遊びだろう。
https://indian-martial-arts.hateblo.jp/entry/Mallakhamb
インドのレスラーといえば、我々の世代はタイガー・ジェット・シンとアントニオ猪木の抗争を思い浮かべる。そのタイガー・ジェット・シンが憧れたのがダラ・シンで、昭和30年、力道山が主催したアジア選手権に参加している。500戦無敗とかルー・テーズと戦って勝ったといわれる真偽のほどはともかくとして、インド・チャンピオンであり、後に俳優に転向して、インドで1980年頃に、日曜日の朝10時からテレビ放送されたドラマ『ラーマーヤナ』でハヌマーンに扮した国民的英雄だ。狂虎と呼ばれたタイガー・ジェット・シンも、実は頭のよい紳士でカナダで実業家として成功している。
インド・レスリングの基盤となっているのはクシュティ道場アカーラー(ヴィヤーヤーマ・シャーラ)であり、北インドのどこにでもあって、また、一攫千金を夢見るカバディ選手を送り出している。ダラ・シンが修行したのが1927年に設立されたバドリ・カリファのアカーラーで、デリー大学近辺にある。
そこから500メートルほど離れたところにグル・ハヌマーンの主催するビルラ・ミル・ヴィヤーヤーマ・シャーラがある。師はかつて無敵のチャンピオンで、民間人に与えられる最高賞であるパドマシュリーを受賞している。高橋の取材当時はインドのレスリング協会専務理事なので、ベルリン・オリンピックに参加したのではないか。
つまり、単独でカバディ・チームをベルリンに送る予算は付けられないだろうから、彼の率いるレスラー達が中心となってカバディの表演をしたのではないかとの推測が成り立つ。タックルや足取りは、即、カバディに役立つのだ。日本において最初にラグビーの試合をやった慶応大学のチームは柔道選手で、その中にタゴールに招かれた佐野甚之助がいたのも面白い偶然だ。
また、デリーの環状道路沿いヤームナー河畔に建てられた道場が、チャンドギラーマ・ヴィヤーヤーマ・シャーラで、ここでは200名が修行していたという。これらがインド三大アカーラーと呼ばれている。
デリー大学に留学した高橋堯英の報告によると、インドのレスラーの修行は、相撲部屋に似たところもあり、ずいぶん違うところもある。
一般に北インドのアカーラーは数十センチの高さに盛り土された四角い土俵のような形になる。犂で整地するのも良いトレーニングになっている。道場の守護神はハヌマーンである。ロープも吊されて上り下りして鍛える。
グル・ハヌマーンの道場はビルラ・ミル・ヴィヤーヤーマ・シャーラというようにビルラ財閥の寄付を受けている。伝統的に王侯や資産家がスポンサーとなっていた。実際には牛飼い、ミルク屋のカーストが子弟を送り込むことが多く、そこからも牛乳やバターなど食料を頂戴する。近隣のハリヤナ、ラージャスターン、パンジャーブからリクルートするのがふつうだが、言葉が分かると遊んでしまうので、南インドからもスカウトしているという。
5、6歳の頃から連れてこられて禁欲生活をする。映画も見てはいけないことになっている。クーリヤーッタムの役者チャーキヤールも映画禁止といわれていた。
相撲部屋はちゃんこだが、インドのレスリング道場は菜食主義である。その代わり、日本でも流行ってきたアーモンド・ミルクが栄養ドリンクである。自らアーモンドをすり潰すのでたっぷりとこくがあって腹にこたえるという。
25歳くらい、結婚するまで留まって師に使える。まるで『マヌ法典』にいう学生期の禁欲生活ブラフマ・チャーリンである。子どもは学校に通い、専門家以外の成人は早朝練習が終わると職場に向かう。カラリパヤットの道場も朝6時頃練習し、朝食の後に職場に向かう。ともに、生徒はふんどしで練習し、指導者は腰巻きである。
https://www.youtube.com/watch?v=AgjZhYvAf8o
寄宿生活では午前4時頃に起きて、道場内の祠堂で祈りを捧げ、ロードワークに出る。道場に戻ると、スクワット、腕立て伏せ、腹筋、ロープ・クライミング、ダンベル・ワーク、平行棒、組み手、投げなどを行う。
多くの生徒が学校や職場に出た後、専門家を目指す者はマットの敷かれた体育館で8時、9時まで投げなどの練習をする。4、5時間に及ぶ早朝練習の後、夏はアーモンドミルクを、冬は暖めたミルクを飲んだ後、シャワーを浴びて朝食を取る。果物ジュース、ヨーグルトなども提供される。若手は目上の者に仕える。食事が終わると昼寝。その後、組み手や投げの練習を繰り返す。夜は8時、9時に就寝する。ハヌマーンの聖日である火曜日は休息の日で練習は行わない。
敏捷性を養うため、バスケットボールや、バレーボールも取り入れているという。しかし、伝統的な鍛錬法、単調な運動を長時間繰り返すことによって生じる苦痛を堪え忍ぶ事により自己の弱さを克服するなど、第34回で述べた昔のヨーガ行者、苦行者に通じるところがある。
バラタナーティヤムのヌリッタpure danceも純粋舞踊と訳されてしまったため誤解されているが、ストーリー性のない踊りのことだ。むしろ、単純身体訓練とでも訳した方が良かったのではないか。繰り返し繰り返して身体をしつける苦行である。
苦を楽に変えて神に近づいていくのがインド人の人生か。
参考文献
我妻和男『タゴールの世界』第三文明社、2017年。
荒木祐治「ペルシァの古典力技」ひろさちや監修松浪健四郎・河野亮仙編『古代インド・ペルシァのスポーツ文化』ベースボールマガジン社、1991年。
高橋堯英「クシャトリヤの教育と武芸-古代印度の遊技・スポーツと身体文化」「アカーラー(ヴィヤーヤーマ・シャーラ)—印度の伝統レスリング道場」ひろさちや監修松浪健四郎・河野亮仙編『古代インド・ペルシァのスポーツ文化』ベースボールマガジン社、1991年。
E. P. ラオ著金子茂訳『インド発祥の民族スポーツ カバディ―ルールと戦術』玉川大学出版部、2000年。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論
更新日:2021.01.28