河野亮仙の天竺舞技宇儀④

第四回 柔道とカバディの日印交流/ヴィヴェーカーナンダ~岡倉天心~タゴール~嘉納治五郎

ヴィヴェーカーナンダが天心を呼ぶ

 1893年5月31日、一人のインド青年がボンベイからシカゴへ向かって出港した。船は、コロンボ、シンガポール、香港、広東、横浜、東京へ。京都、大阪、長崎も訪れたようだ。誰が案内したのか、彼のいうところの古代ベンガル文字、すなわち、梵字、悉曇文字を見たりしたようだ。

 東京からは太平洋に出て、ヴァンクーヴァーに上陸する。汽車でシカゴに着いたのが7月中旬。目指す万国宗教会議は9月11日から。今、考えてみると9.11ではないか。偶然なのであろうか。

 これはコロンブスのアメリカ大陸発見400周年を記念して行われるシカゴ万国博覧会の一環である。コロンブスが「発見」する前から大陸はあったはずだが。

 参加するはずの無名の青年ナレーンドラ・ダッタ、いや、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ(1863-1902年)は、例によってインド側の書類手続きの不備、さらに、宛先の住所まで紛失して、浮浪者のように路傍に佇んでいたところ、社交界で名の知られたヘール夫人に発見され、主催者のバロウズ博士に面会することが出来た。                                      

 ジャクソン公園における万国博のパビリオンは、東京芸大の前身、東京美術学校が設計、内部装飾画、調度を請け負った。当時、校長であった岡倉天心が万博の評議員兼監査官であり、平等院鳳凰堂に範を取ったという鳳凰殿建設のため、日本から職人70人を呼び寄せて指揮をした。まだ、美術学校四年目の横山大観も、日本で書いた五点を提供している。

 万国博自体は、明治でいうと、26年5月から10月まで開催されていた。この時点で岡倉天心とヴィヴェーカーナンダが交わることはなかった。

 シカゴ万国宗教会議に日本からは釈宗演らが参加している。その原稿を英訳したのは鈴木大拙である。評判になったのは日本側の演説ではなく、ヴィヴェーカーナンダの弁舌であり、世界的な名士となった。会議が終わった後も、全米で公演し、ヨーロッパ各地からも招かれた。インドに帰るやインド中で講演活動をする。

 天心は寺子屋に行かないで、七、八歳の頃から英語塾に通っていた。子供の時から英語が得意で、横浜にあった石川屋、父親の生糸商の店で外人の英語を聞き覚え、通訳するくらいであったという。九歳の時に母親が亡くなって父親は再婚し、長延寺に預けられ、住職から漢学を習う。

 明治の偉人といえばその通りだが、私生活など赤塚不二夫のようにはちゃめちゃだ。フェノロサと共に日本美術を再発見したことで知られる。英文の著書である『東洋の理想』(1903年)、『日本の覚醒』(1904年)、『茶の本』(1906年)は、世界的に知られている。フェノロサは、ほとんど日本語がしゃべれなかったので、天心が学生の時から随行して通訳した。

 フェノロサは、東京大学で天心のほか、哲学者の井上哲治郎、文学者坪内逍遙、教育者で講道館を開いた嘉納治五郎、仏教学の井上円了、清沢満之らを教えた。政治・経済学、哲学、社会学、倫理学を担当した。

 1901年にアメリカからミス・マクラウドがミス・ハイドと共に日本美術を学びに天心の元にやってくる。彼女らからヴィヴェーカーナンダの話を聞くや、インド行きを決意する。様々な問題で、日本で行き詰まっているところもあった。思い立ったらすぐ行動の天心だ。

 1902年1月6日にカルカッタ上陸。ミス・マクラウドがヴィヴェーカーナンダの元へ案内する。「東洋の理想」とはヴィヴェーカーナンダも好んで使う言葉で、二人は深く分かり合った。しかし、ヴィヴェーカーナンダは体調不良で死期が迫っていた。タゴールと会うことを勧める。美術に造詣の深いタゴールはブダガヤ、サールナートやデリー、アジャンタ、エローラなどの視察を紹介する。アジャンタで天心は法隆寺金堂の壁画に通じる表現を見いだし、アジアは一つとの思いを強める。

天心とタゴール

 ムガル帝国が滅び、英国のインド直接統治が始まった頃のことである。アジアで最初にノーベル賞を受賞した詩人タゴールは1861年に生まれた。1913年に「ギータンジャリ」でノーベル文学賞を受賞する。

 岡倉天心は1862年生、1901年インドに行き、ラビンドラナート・タゴールと知り合う。翌年秋に帰国する。その間、インド独立運動の危険分子とも密かに会っていたが、イギリス側にスパイされていた。

 天心に随行した堀至徳は、シャンティニケタンにサンスクリットを学びに行ったが、持っていた短刀を警官にとがめられるなど、常に監視されていた。

 その翌1月、横山大観と菱田春草をインドに送る。横山は、タゴールの紹介でトリプラの王宮に壁画を描くため、三年間の予定で行くはずだった。そこで旅費を稼いでヨーロッパに渡るつもりだった。日露戦争直前のことである。しかし、港に着くや官憲に妨害されて、トリプラ行きは実現しなかった。

 タゴールは申し訳ないと思ったか、大観にアジャンタ壁画の視察などを手配する。インド独立運動に関わるのではないかと、大観や春草までも監視されていた。画材を持って行って現地で描き、カルカッタ、ダージリンで展覧会を開催して、売ったお金で旅費を稼いだ。芸は身を助く。

 トリプラに赴くよりも、タゴール家中心に勃興したベンガル・ルネッサンスの真っ只中に飛び込み、かえって日印の美術交流に貢献することになった。

タゴールと柔道

 続いて1905年、岡倉天心はタゴールの要請で柔道教師として佐野甚之助を派遣する。天心と嘉納治五郎とは東大で同窓だった。講道館を創設した嘉納は幻の東京オリンピックを招聘したことでも知られる。天心が福沢諭吉に相談したところ、佐野を紹介された。

 佐野は慶応義塾で横浜の外国人チームとのラグビー対抗戦にかり出された、元祖日本人ラガーの一人である。屈強な柔道選手らが集められたようだ。    

 政治学科を卒業するやインドに送り込まれ、1913年に帰国する。その間、旧マイソール王国の軍事顧問などを歴任している。タゴールの元で柔道と日本語を教えた。ベンガル語も習い、タゴールの詩や長編小説「ゴーラ」を翻訳した。

 また帰国後、大正六年に「印度及印度人」を出版している。インドの歴史、地理、言語、宗教、風俗、インド人の気質、農業、工業、商業について概説した369頁からなるインド全書である。柔道教師の回顧録かと思ったら、インド国情調査報告書である。中国から、ロシア、インドへと触手を伸ばしていく日本の先兵であるかのようだ。

 タゴールは子供の頃からインド・レスリングをやっていたので、柔道に興味を持った。インドが英国のような大国に対抗するには、「柔よく剛を制する」の柔道の精神が必要と考えた。

 佐野は、1916年、タゴールの来日のとき、河口慧海、横山大観らと神戸港まで迎えに行っている。佐野の招聘には河口慧海も関与していたらしい。タゴールは「体育」を重視している点で柔道の嘉納治五郎と共通性があった。カバディや柔道、棒術を奨励した。

 お釈迦様の伝記には、釈尊があらゆる学術、武術、スポーツ、技芸に秀でたことが語られる。それが、ブラーマンや王族(クシャトリヤ)、知識階級の教育だった。

 ブラーマンの名門であるタゴール家でも、朝は暗いうちから、レスリングの家庭教師が来て、続いて骨格を教える医学生が来る。さらに、数学、自然科学、ベンガル語、サンスクリット語の先生が来て、みっちり仕込む。その後十時から四時半まで学校に行って、帰ってくると、体操、絵画、音楽、英語の家庭教師が来るという生活をしていた。

 画一的で強制的な学校教育というものが嫌いで、ウパニシャッド時代のような森の庵での教育を理想とした私塾を1901年に立ち上げ、1921年にヴィシュヴァバーラティーは大学として認められる。

 タゴールは、1929年、カナダから帰国する途中で日本に立ち寄っている。そのとき、タゴール奉賛会会長大倉邦彦邸に逗留し、大倉に後任の柔道家を送るように頼む。嘉納は柔道五段の高垣信造を推薦する。

タゴール、ガンジー、ネールが推奨した柔道

 高垣は日大経済学部卒業で1923年からカナダに留学していた。カナダで柔道場を開き、レスラーと他流試合をして破ったことで知られる。1929年タゴール大学に向かう。

 インド各州から集まった体育教師に柔道を教え、練習生は常に50名前後、最盛期に400名も集まった。女子生徒に舞台の上で演武をさせ、各地で演武会を行ったという。当時として破天荒な試みだった。

 また、音楽舞踊の教員や生徒を連れて、大都会を巡業して大学運営のための募金を募った。タゴールソングや自作の戯曲を上演し、タゴール自らも出演した。

 あるとき、バナーラスで全アジア教育大会が催され、高垣夫妻と男女あわせて11名が招かれて参加した。二時間にわたるプログラムの中で一番人気があったのは柔道で、大歓声があがったという。その中には七歳のインディラ・ガンジーがいた。

 子供というのは指導者がよいと、どんどん上達する。インド駐在中の高岡大輔(後に日印協会副会長)が訪ねたとき、自分は柔道二段だから相手に怪我をさせないように、というようなつもりで女の子と組んだら、逆にさんざん投げ飛ばされたという。

 高垣は、後にカルカッタ、ネパール、アフガニスタンに赴き、国際柔道のパイオニアとなった。カバディには柔道の技が入っていると伝えられる。

 インドにおける柔道は、現在、三浦守が指導に行っている。高校時代は山下泰裕と戦い、コメディアン目指して由利徹に弟子入りしたという異色の経歴の持ち主だ。インドでは柔道やレスリング経験者が、プロカバディを目指しているようだ。

カバディの歴史

 1936年のベルリン・オリンピックにカバディのデモンストレーションが行われたという。その頃にルールを決めて、スポーツ化する、アジア競技会やオリンピックに参加するという目標を考え始めたのであろう。1951年に正式ルールが定められる。それでも、息の続く間だけ攻撃できるという、曖昧な、競技というより遊びの要素がルールに取り入れられているのが興味深い。ヨーガの呼吸法に基づいているということであった。

  1962年にインド学校競技連盟が、カバディを学校競技の種目として取り入れる。1972年には、インド・アマチュアカバディ連盟が設立される。1978年にタイのバンコックで第八回アジア競技会が行われたとき、インド側から各国に働きかけがあって、アジア・アマチュアカバディ連盟が結成される。

 1980年には、カルカッタにおいて初のカバディ・アジア選手権大会が行われる。日本は選手を派遣できず視察団を送った。1982年、ニューデリーで行われた、第九回アジア競技会では、デモンストレーション競技として採用される。

 カバディ日本上陸し、日本においては、1979年11月にインドからヴィジャイ大学スンダル・ラーマ教授が来日して指導する。ここから日本カバディの歴史が始まる。1981年10月には、日本アマチュアカバディ協会がデモンストレーションのため男女41名を招き、東金市の小中学校で開催された。

 1988年インド祭に、インドから選手役員が50名来日し、9月28日に代々木競技場第二体育館で模範試合と交流試合が行われた。

 翌年は平成の世となり、本格的に日本のカバディが始動する。平成元年に第一回全日本カバディ選手権が開催される。その次の年に北京でアジア競技会が開催され、日本は四位を獲得した。

 カバディはもともと、ハトゥハトゥとかハドゥドゥ、チェドゥグドゥ、カウンバダなどと呼ばれた子供の遊びで、その都度ルールを決めて遊ぶようなものだった。タゴールは学園で、棒術やハドゥハドゥをやることを奨励していた。マハーバーラタの戦いでアルジュナの息子、若きアビマニュが、七人の敵陣に飛び込むことに由来するという。あるいは太古に奇声を上げて猛獣を囲い込んだ狩りが原型だともいわれる。

 サッカー発祥の地イングランドでも、初めは学校ごとにルールが違うような状態で、1863年にフットボール協会を作り、統一ルールで試合をするようになったという。

 プロカバディでは、カバディ、カバディと連呼している間だけ攻撃できるというルールを変えるなどの改変をして高度なゲームとなっている。

 心肺機能の強化になるので、練習段階では、必ず、大きな声で唱えた方がよい。かくれんぼで「だるまさんころんだ」、関西では「ぼん(坊)さんがへをこいた」と唱えるのと同じように、それも楽しみの一つか。

 カバディの名は、一説では敵に対する挑戦を意味するカウンバダから来ているというが、カバディという言葉自体に意味はない。

 カバディという前は、ハトゥハトゥとかグドゥグドゥと唱えていたようだ。日本語だったら「鳩鳩」か「愚図愚図」になってしまうから、カバディでよかった。カバディカバディの連呼が面白くて知名度を得たところもある。ルールは知らなくても、それだけは印象に残ってるようだ。まだまだ、セパタクローと混同されている場合もあるが、あちらは蹴鞠が進化した球技、足で蹴るバレーボールです。

 カバディは1990年のアジア競技会北京大会から正式種目として採用されて、日本も代表チームを派遣。2010年広州大会から女子の種目としても採用されるが、日本からは男子のみ参加し、銅メダルを獲得。本年度2018年ジャカルタ大会には男女とも参加してメダルを目指す。

 現在は、インド、イラン、韓国の順で強くて上位グループ。後は、やってみないとどちらが勝つか分からない混戦状態です。まずは、決勝リーグ進出が目標です。お盆が終わってすぐの8月18日から試合が始まります。

 アジア大会は日本でテレビ中継されないのですが、ちらちらとテレビに出たり、新聞に載ったりしますのでご注目ください。

参考図書                                               

我妻和男「タゴールの世界」第三文明社、2017年。

 〃  「タゴール」人類の知的遺産・講談社、1981年。

色川大吉編「岡倉天心」日本の名著・中央公論社、1970年。

春日井真也「インド 近景と遠景」同朋社、1981年。

平等通昭「タゴールの学園」アポロン社、1972年。

三浦守「黒帯、インドを行く」木犀社、1995年。

E.P.ラオ著金子茂訳「カバディ/ルールと戦術」玉川大学出版部、2000年。

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職

専門 インド文化史、身体論

更新日:2018.08.14