河野亮仙の天竺舞技宇儀㉕

カタック家の出自

三月上旬はインドに行くはずだったが、ご存じのように日に日に状況が悪くなってビザ停止になってしまった。四半世紀ぶりのインドはニューデリーに飛んで、梵字について発表し、ご無沙汰している友人に会って、博物館や研究所に寄って、カレーを食べて、本をしこたま仕入れに行く予定だった。

しょうがないから、アマゾンで何が手に入るかと探してみると、なんと、日本のアマゾンにMargaret E. Walker “India’s Kathak Dance in Historical Perspective”という本があったので、注文したら二日で来た。他の本はアメリカから来るようだが、物流がどうなっていることやらさっぱり届かない。

今回は、語りについて書いた第22回の続きであり、第23回のジプシーの話の続きでもある。

ウォーカーはおそらくスコットランドの出自なんだろうが、徹底している。語り部カタカ、世襲的な職能集団カタック家、舞踊のカタックについて、あらゆる文献を渉猟している。

カタカの語はマハーバーラタ第1章、第13章に現れる。しかし、20世紀の舞踊カタックに至るまでの、二千年ほどのカタカの足跡は明らかではない。それでも古今の文献、政府の統計資料、近世のヨーロッパ人の紀行文からイスラームの文献まで調べているのが、サンスクリット文学系の学者とは異なる。

現在のカタック舞踊につながりそうなことは、ようやく19世紀に現れる。英国人の旅行記などに踊り子の記述が散見され、絵画や写真も残されている。

榊原帰逸『アジアの舞踊』にパキスタン、パターン(パシュトゥーン)人の伝承するカタックの写真が載っている。1950年代の写真であろう。こちらの方が現代のインドのカタックより、細密画の舞いに衣装も動きも近いように見える。パシュトゥーンはアフガニスタンに多くいる民族で、ムガル帝国の時にインドに入ったのであろう。パシュトゥーン語はイラン語系。

踊り子、あるいは、かつてガニカーと呼ばれた高級娼婦の衣装は刺繍で飾られ、宝石なども散りばめられて、大変、豪華ではあるが、たっぷりとしていて、現代の跳躍的でスピーディーな舞踊を踊るのには適しない。回転がないとはいえないが、ゆったり歩いたり動いたりするものと予測できる。

1739年、カルナールの戦いでムガル帝国の大軍を破ってデリーを占領したペルシャのナーディル・シャーは、高級娼婦のヌール・バーイーを自国に連れて帰りたいと思った。

ヌール・バーイーはデリーのドームニで、その家は宝石で装飾される宮廷の如き豪華な館。地位名声のある者は、皆、彼女に会いたがった。出かけるときは象に乗り、従者を引き連れた。そして賓客として迎え入れられると宝石等の様々な金品をもらった。音楽の才能があり歌で魅了した。仏典に記されたガニカーそのままである。第22回参照。
https://tsunagaru-india.com/knowledge/河野亮仙の天竺舞技宇儀㉒

辻芸人が宮廷に

細密画には女子が伴奏している絵もあるが、一般には男が後ろに立ち、サーランギーやタブラーで伴奏する。自ら踊ることもあるが、男は踊り子を指導する役である。彼らがカタック、クティク、チャタックなどと呼ばれるようになった。ミーラースィーと呼ぶ者もいる。動画としてはこんなものが見つかった。立って演奏すると、宮廷音楽家というよりは辻芸人といった風情である。
https://www.britishpathe.com/video/maharanee-of-baroda

1930年から35年頃のバローダにおける無声映画だ。14分後に少女がちらりと登場してカタックの構えを見せる。

開始から8分半後にはデーヴァダーシーと思われる女の子二人が踊る。お遊戯みたいなのもある。やはり、伴奏者は立っていて古典音楽の編成ではなく、世襲音楽家によるチンナメーラと思われる。当時はメーラッカーラン、祭りでの演奏者と呼ばれた。

男は音楽家、女はデーヴァダーシーの家系で、1930年代以降にイサイ・ヴェッラーラルを自称するようになる。一行は家族に近い構成なのだろう。おそらく王家に二つのグループが招かれて披露した記録と思われる。

イサイ・ヴェッラーラル、デーヴァダーシーについては第14回、16回参照のこと。
https://tsunagaru-india.com/knowledge/河野亮仙の天竺舞技宇儀⑭/
https://tsunagaru-india.com/knowledge/河野亮仙の天竺舞技宇儀⑯/

インド独立前のバローダ(現バドーダラ)にはガエクワード王家があり、図書館や大学を設立し文芸を厚く保護していた。ガエクワード・インスティテュートからはナーティヤ・シャーストラを含め、貴重なサンスクリット語原典の校訂本がシリーズ化されて出版された。出版の印刷や紙代がかかるというより、写本の校訂のために何十人というパンディット、サンスクリット学者を雇っていたに違いない。大変なことだ。

素のままの男の子が演技する

ラース・リーラーというクリシュナ物語を演じる芝居は、もともとは土地のブラーマンの子が演技するものだった。かつて、ヴリンダーヴァンで見たことがあるが、アクロバットやヨーガのようなポーズもあれば、カタックを思わせる軽快な踊りもあった。男の子が女装するその衣装は、ナウチ・ガールたちのものに近いといわれる。

ラクナウのカタックたちはラースのグループに属し、ブラーマンである、また、ジャイプルのカタックはドールという樽のような形の太鼓を叩く家系で、非ブラーマンであるなどと様々にいわれる。情報は各地の文献によって錯綜している。

ジェームズ・プリンセプの”Census of Population of the City of Benares”(1832)によると、バナーラスには118件のカタックの家があり、彼らは音楽と踊りの師であって、シュードラであると記述される。

プリンセプは1819年にイギリスから赴任する。植民地官僚の多くは、オックスフォード、ケンブリッジ出身で、古典学を学んでいる。彼は、アショーカ碑文のブラーフミー文字を解読したことで、よく知られている。いわゆる梵字の基である、というよりデーヴァナーガリーなどの北インドの文字のみならず、南インドの文字、東南アジアの文字も、皆、ブラーフミー文字由来である。

19世紀アワド王ワージド・アリー・シャーの時代に五つの音楽論書が書かれ、「マダン・アル・ムージーキー」(1856)に、カタックの名を冠する九人の楽士の名が挙げられている。

ベナレスのプラシャッド・カタックが歌手、ベナレスのジャタン・カタックがサーランギー奏者、後の7人はダンサーである。バナーラスから羽振りのいいラクナウの宮廷に招かれたようだ。

19世紀に至って、突如、カタック家が文献に登場するわけだが、ウォーカーは、バナーラスで盛んだったラーム・リーラーのダンサーの出自ではないかと推測している。

19世紀初め、ラクナウにタークル・プラサードという人が出て、その一族にカルカ・プラサード、ビンダディン・プラサードという上手な兄弟が現れ、この代からマハーラージを名乗ったか。カルカの息子にアッチャン、ラッチュー、シャンブーの三兄弟がいて、ビルジュ・マハーラージはアッチャンの息子である。

彼らはまた、宮廷の踊り子、芸妓タワーイフたちを指導した。実際に、アッチャン・マハーラージも、バーイー・ジーと尊称で呼ばれるタワーイフたちに教えたという。

ラーム・リーラー

1979年夏から2年半ほどバナーラス・ヒンドゥー大学に留学していたので、ラーム・リーラーの秋を二回体験した。一月にわたり町中のあちこちで場を移して繰り広げられるのだが、スケールが大きすぎてなんだかよく分からなかった。

リーラーとは神々の宇宙的な遊戯のことである。ラーム・リーラーは、ヴァールミーキ版のラーマーヤナではなく、トゥルシーダースの中世ヒンディー語で書かれた「ラーム・チャリト・マーナス」(16世紀)に基づく街頭劇で、ラーマの生涯を子供たちが演じる。

18世紀中頃にチャイト・シンが商都バナーラスの王となり、ラーム・リーラーを振興したという。

神々を演じる少年たちは神そのものとみなされ、まさに、ラーマ王子の時代の時空を移して催されるヴァーチャル・リアリティであるが、コロナ騒ぎが収束に向かって、今年、秋の祭りは無事に行われるだろうか。

バナーラス市街からガンジス川を渡ったラームナガルの広場では、ラーマが魔王ラーヴァナに勝ったお祝いとなり、ラーヴァナの兄弟と息子の張りぼての人形を焼く。これはデリーで行われる行事の方が有名かもしれない。
https://www.youtube.com/watch?v=XEeYqDVBRgo

ラース・リーラーというクリシュナの物語

ラースとはクリシュナ神と牧女ゴーピーたちが、手に手を取って円輪を描いて戯れる踊りをいう。様々な情感、味わいが込められたラサの集積がラースである、神との神秘的な結合を象徴すると説明される。

ブラジュ地方、すなわち、クリシュナが天から降誕したマトゥラー、育って牧女たちと戯れたヴリンダーヴァンなどのブラーマンの少年たち、スヴァルーパ(神そのものが立ち現れた姿)がクリシュナの物語を演じる。天界におけるリーラーを地上に再現するものだ。
https://www.youtube.com/watch?v=0ikYN8iBn2g

もともとサンスクリット劇の伝統に女優はいるのだが、高度で専門的な訓練を行うのが難しくなり、劇団を維持できなくなった、あるいは、イスラームの影響で女性が隔離されたともいわれる。そのため15世紀頃から少年が女装して演じるようになったと説明されている。

座長ラース・ダーリーが自ら詠唱し語り、ハーモニウムなど楽器演奏し指導していく。専門的な劇団(ラースマンダリー)として各地を移動して興行するような形になった。チャイタニアがブラジュ地方で聖地を整備しクリシュナ信仰を復興した。ヴィシュヌ派の布教活動と共に、ブラジュ地方のみならずインド中に広がりを見せる。

逆に各地から信者が集まり、中には王侯貴族もいるわけで、そのような交流から各地の宮廷における芸能、遊戯の要素を獲得したと思われる。各地からやってくる参拝客のために、埼玉県から来た客には秩父音頭もちょっと見せるというように観客サービスを行ったのだろう。

カタックのような舞踊がラース・リーラーからラクナウに行ったと考える必要はなく、その逆も想定できるし、別の宮廷からもたらされたと考えることも出来る。例によってラース・リーラーの起源もはっきりしないが、16世紀くらいから始まったようだ。

グル・ケールチャランも若い時はオリッサのラース・リーラーの劇団で打楽器を演奏し、女形が評判だった。クリシュナ役もやった。そのモーハンスンダル・ゴースワミの劇団が行うラーム・リーラーは、三、四千人の観客を集めたという。オリッシー・ダンスが立ち上がるのはインド独立後のことだ。

オリッサのマユルバンジ・チョウは、土地柄かオリッシー・ダンスに近いところがある。カタカリ、ヤクシャガーナ同様、女装して踊るものだ。
https://www.youtube.com/watch?v=XfrIlob04gE
https://www.youtube.com/watch?v=EQeUP_lwyHc

今日、ラーム・リーラーもラース・リーラーも舞踊団によって劇場で行われることも珍しくない。カタックを演じる家系はこのようなラース・ダーリーであったとウォーカーは想定した。

世襲音楽家ミーラースィー

田森雅一「近世インド音楽における社会音楽的アイデンティティの構築/-英領インド帝国期の”カースト統計”と”ナウチ関連問題”を中心に」という、国立民族学博物館研究報告の論文によってジプシーの話の続きをする。

田森がサロード奏者の流派ガラーナーについて尋ねると、アクバル大帝に仕えたミヤーン・ターンセーンの名にちなむセーニー・ガラーナーを名乗る奏者がいる。その時、他の世襲的音楽家の家系について尋ねると、しばしば、彼らはミーラースィーである、ドームであると見下したように語る。彼らは、踊り子=売春婦の伴奏をする家系とも見られている。

実際は踊り子といっても、音楽家同様に時代や地方、階層によって多様な存在だ。寺院付きのデーヴァダーシー、ムスリムの太守や藩王の後宮にいる宮廷付きの踊り子、貴族や富裕な者たちをパトロンとしたタワーイフやドームニと呼ばれた者たち。英領時代にはナウチ・ガールの名のもと売春婦と一緒にされてしまった。音楽家も地方的な差異を細かく調べることなく、一括りに同じジャーティに分類されてしまう。

一方、ジプシーの源郷とも見られるラージャスターンにはマーンガニヤールといわれるイスラームの楽士がいる。来日したこともある。彼らに出自を尋ねると、祖先はジャイサルメールの王族に仕える楽士で、ミーラースィーであると誇りを持って答える。

また、ラージャスターンにおける音楽家たちには三つの呼称があり、ミーラースィーは尊敬され、マーンガニヤールは一般的、ドームは侮蔑的で物乞いのために音楽をするものとされている。

パキスタンで世襲の職業音楽家は、ウルドゥ語でミーラースィーと呼ばれるが、バシュトゥー語でダム、東部バローチー語でドーム、ブラーフィー語、バローチー語でローリーと呼ばれる。社会的階層の低いジプシー的職能集団の成員とみなされる。

19世紀初めに『カーストの民/ヒンドゥーの習俗と儀礼』を記したフランス人宣教師デュボアは、マラバール地方のジプシー?漂泊の民についても記述している。

クラヴァル、クラマルに二つのグループがあり、一つは塩などの商品を海岸から内陸部へロバを多数引き連れて旅をする行商人。定住せず地方を渡り歩く。

もう一つのグループは籠や竹製品などの家庭用品を作る。仕事を求めて転々として定住しない。占いをして、特有の言語を話す。小太鼓を打って神霊を呼び出して訳の分からない言葉を大声でしゃべる。しかる後に手相を見て予言する。花や動物の入れ墨をして漂泊する。

また、1901年の「マドラス人口統計報告書」に、「クラヴァは、タミル地方、特にクルヌール、セーラム、コインバトール、南アルコットにみられるジプシーの部族であり」と記される。ジプシー起源論に引用されるが、実際のところは分からない。

直接、血縁関係でつながることはないのだが、大ざっぱに分類すれば、カタック家もジプシーと同じようにミーラースィーと呼ばれることもあった。踊りを見ると近く見えるけど、距離は遠いカタックとフラメンコのジプシーとも通じる出自の話でした。

参考文献

榊原帰逸『アジアの舞踊』わせだ書房新社1965年。
田中多佳子『ヒンドゥー教徒の集団歌謡―神と人との連鎖構造』世界思想社、2008年。
田森雅一「近世インド音楽における社会音楽的アイデンティティの構築/-英領インド帝国期の”カースト統計”と”ナウチ関連問題”を中心に」国立民族学博物館研究報告、2011年 35巻4号。
J.A.デュボア著H.K.ビーチャム編重松伸司訳注『カーストの民/ヒンドゥーの習俗と儀礼』東洋文庫483、平凡社、1982年。
姫野翠「チョウの魅力/東インドの舞踊」えとのす27号、新日本教育図書、1885年。
Joep Bor “The Voice of the Sarangi “National Center for the Performing Arts Quarterly Journal Vol. XV 3&4; Vol. XVI, 1, 1987.
Margaret E. Walker “India’s Kathak Dance in Historical Perspective “Routledge, 2017.
Sunil Kothari “KATHAK” Abhinav Publications, 1989.

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2020.04.24