河野亮仙の天竺舞技宇儀⑯

マドラスとタンジョールの楽士たち

子供の頃、演歌にマドロスものというジャンルがあって、美空ひばりあたりがセーラー服を着て歌っていた。これはてっきりマドラスを行き来する船員さんの歌かと思っていたら、インドもマドラスも関係なく、マドロスとはポルトガル語で船員という意味だそうだ。

一方、桟留、サントメの名はこの地、セント・トーマスに由来する。世界中にサントメ、セント・トーマスという町はあるのだが、マドラス(現チェンナイ)にもある。

唐物、ポルトガルやオランダの商船がもたらした輸入品であるため唐桟と呼ばれたが、粋な木綿の縞織物のことをさす。

いわゆる南蛮渡来だが、文化文政の頃、遊女、そして将軍が着たことから始まり、町民、武士にも広まった。後に川越などで国産された。タレントやバーのマダムがヴィトンやコーチを持っていたのが、OLまで持つようになったようなものだ。

聖トーマスとクジャクの森

キリストの十二使徒の一人、聖トーマスが南インドまで布教にやってきたという伝説があり、南インドにはシリア・クリスチャンが古くから住み着いている。そして、南インドのある町には聖トーマスの遺骸が祀られていて奇蹟を起こすということは、十三世紀頃からマルコポーロや宣教師たちも繰り返し伝えている。それはマイラポールのカパーレーシュヴァラ寺院あたりではないかと推定されている。

鬱蒼とした森にクジャクが住んでいたので、クジャクの町、マイラポールと呼ばれた。三世紀末から九世紀にかけては、パッラヴァ朝の海港マイラプーラムとして栄えた。ギリシア・ローマ世界、中国とも交易していた。様々な人種、宗教が交錯していた。

十六世紀に入ってポルトガル人がやってくると、ポルトガル語で「サントメ・デ・メリアポル」つまり、マイラポールの聖トーマスの町と呼ばれるようになる。積出港の名を取って縞模様の織物は桟留と呼ばれた。

ポルトガル人はトーマスが殉教したと伝えられる丘に聖トーマス教会を建造し、布教の拠点にしたいと考えた。実際には、サントメから四十五キロ北のブリカット港を本拠として、商用の時、サントメに赴いた。

一方のオランダは布教を考えず、商取引のために商品の積出港を確保すれば十分と考えていた。1610年頃、オランダ東インド会社はブリカット港をポルトガルから奪い、コロマンデル沿岸に砲艦を差し向ける。サントメに出入りする商船を拿捕し、この町に砲撃を加えダメージを与えた。

1639年に、イギリス東インド会社の商館長フランシス・デイが初めてマドラスに上陸する。いや、マドラスではなくてチェンナイ・パッタナム(あるいはチンナパッティナム)と呼ばれていた。

南北五キロ東西二キロ、南と西に川、東は海に面している地区は、要塞を築くのに好適であった。そこには漁民数家族とフランスの宣教師二人が住むだけだったという。

五キロ南には要塞に囲まれた商業都市サントメ、北三十キロには大量の綿布を積み出す国際港のブリカットがあった。当時は、オランダがブリカットを押さえ、ポルトガルがサントメを支配していた。

セント・ジョージ要塞

1645年、この地はイギリス東インド会社に割譲され、58年、セント・ジョージに要塞商館都市を築く。要塞内はホワイトタウンと呼ばれて西洋人が住み、外側はブラックタウンと呼ばれ、綿布取引を中心としたインドの商人、職人、関連業者が住み着く。

1640年から80年にかけて、のべ三十万人が東インド会社の号令のもと集められた。それは、ブラーマンから綿布関係の職人、大工、壺作り、酒造、牧畜、漁業、床屋等々。町作り、商館都市の建設のためであった。

やがて、ポルトガルがインドから退き、オランダも英蘭戦争(1652-74年)で敗れた後には勢いがなくなる。英仏の東インド会社は、スーラト、ボンベイ、ベンガルに拠点を置いたほか、南インドではイギリスはマドラス、フランスはポンディシェリーに拠点を築く。

1686年にイギリスでジェームス二世によって憲章が公布されると、マドラスでもそれに倣ってマドラス総督と東インド会社の名で市長・市参事会員憲章が公布され、セント・ジョージ要塞から十マイルにある区域をマドラス市と定めた。

ところが、1746年にフランスがマドラスを占領する。オーストリアの継承を巡る英仏の対立がインドにも持ち込まれた。イギリスはベルガルの徴税権を獲得し、資金が豊富なので、次第に有利になる。1761年に、ポンディシェリーを陥落させイギリスの勝利となり、また、南インドに唯一残された在来勢力のマイソールとの戦争を終えて南インドにおける覇権を確立する。

イギリスの支配が確立すると共に、従来のパトロンであった王族や寺院が没落する。タンジャーブール最後のマラータ王であるシヴァージー(在位1833-55年)の没後、タンジャーブールの大地主たちがマドラスの中心部に引っ越して邸宅を持ち、それとともに音楽家たちもマドラスへ向かった。

タンジャーブール宮廷に仕えた音楽家の子孫であるヴィーナー・ダナーンマールの一族ら、多くの音楽家たちが、今日のジョージタウン、ブラックタウンに早くから住み着いていた。タミル音楽サンガムもこの近くにあり音楽の聖地とされていた。

マドラス中心部ヌンガムバッカムに、土地問題の訴訟を抱えた大地主が引っ越してくると、その南にあるマイラポールには地主らを顧客とする弁護士らが住み着く。さらに、彼ら中間層を新たなパトロンとして音楽家たちも、そこに住み着くようになる。マドラス音楽アカデミーもマイラポールに近い。

ベートーヴェンと同時代の楽聖

インド舞踊の歴史は三千年、四千年、インダス文明の時代からなどという風説に惑わされて、インドの音楽・舞踊は古いものと誤解されているが、南インドの「古典音楽」はベートーヴェンと同じ時代に発達した。

インド古典舞踊というべきものがあったとすれば、その時代からだろう。音楽あっての舞踊である。インドの概念で歌、サンギータとは、歌と器楽、舞踊から演劇まで含む概念である。

南インドではタンジャーブール(タンジョール)出身の三楽聖が著名である。シャーマ・シャーストリ(1762-1827)、ティヤーガラージャ(1767-1847)、ムットゥスワーミ・ディークシタ(1776-1835)の三人。

ちなみに、ベートーヴェンは、1770年生-1827年没。ゲーテ、シラーと同時代であり、ベートーヴェンもバガヴァッド・ギーターを読んだという。杉田玄白の『解体新書』が1774年、『蘭学事始』は1815年。

楽聖といっても、作曲家とか宮廷楽士という西洋的なイメージ、吟遊詩人というよりは、小沢昭一的にいうところの放浪芸人に近いのではないか。今のベンガル地方のバウルのように神々を讃えて歌い踊り、聖地を巡るのが修行である。門付け、物乞いをしながら巡礼する。時には宮廷に召し上げられて褒美をもらう。

日本だったら一遍上人、西行、芭蕉といったところか。聖地、比叡山や高野山、長谷寺、厳島神社、松島などに着けば、感興のあまり歌を詠む。土地褒め、天地自然、その土地の神霊に感動して褒め称える気持ちがそのまま歌となる。

『リグ・ヴェーダ』を『雪山讃歌』みたいだという人がいたが、太陽や月、明星、風や雷、火、水などの天然自然現象の神秘に感動し、呼びかけて讃える。

古今和歌集の仮名の序には、和歌の本質について「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ……」とある。

自然そのままが歌を詠み、人間世界と感応している。したがって、歌を詠むことによって天地(あめつち)をも動かすことができる。鬼神の世界とも通じている。後には、和歌は陀羅尼と同じとまでいわれる。まじないの文句である。歌って踊り巡ることが解脱への道となる。

シャーマ・シャーストリ

シャーマ・シャーストリは、アーンドラ地方カンバムからカーンチープラムを経てティルヴァールールに住み着いたブラーマンの子孫。

音楽を伝承する家に生まれたわけではない。音楽舞踊に通じた聖者サンギータスワーミが、巡礼の途中にタンジャーブールに立ち寄った。シャーマの父は聖者にお布施をして、シャーマにラーガとターラの極意を教えてもらった。シャーマは父からサンスクリットを習い、テルグ語とサンスクリット語の歌、クリティ、スワラジャティを作った。
https://www.youtube.com/watch?v=hfAsPXOw4pI

クリティは南インドの音楽、カルナータカ音楽の主題部分、あるいはラーガム・ターナム・パッラヴィと呼ばれる形式の即興のきっかけとなる定旋律とその即興部分を指す。

スワラジャティは、まずスワラ、すなわちサリガマパダニサの階名唱で歌い、続いて同じ旋律を歌詞で歌う音楽形式。もともと舞踊曲の形式であったが、サンスクリットでジャティ(ヒンディー語でボール、タミル語でショルカット)と呼ばれる口三味線、タ・キ・タカ・ディミの部分を省いて、よりアピールする音楽形式に変えたという。

ティヤーガラージャ

シャーマと仲のよい友達にティヤーガラージャがいる。ヴェーダを伝承するブラーマンの家系であった。母方の祖父は著名な作曲家であったという。テルグ語を中心にサンスクリット語の歌、混交した歌を作った。テルグ語はもともとサンスクリット語の混入が多い。
https://www.youtube.com/watch?v=QgPahgoPZ00&list=PLDEfd9h3yLf-jlNTW-nMpm6qvxgeWV5uv&index=4

遊行者ラーマ・クリシュナーナンダを師とし、清貧に甘んじ、托鉢によって生計を立てたという。

ラーマを最高神、最愛の神とし、神の名を九億六千万回唱えて解脱したと伝えられるが、他の神々を排除することはなく、シヴァ神や女神についても歌った。バジャナといって、自由に集まって集団で神を讃える形で、時には巡礼しながら歌った。日本でいえば念仏聖だ。

キールタナはカルナータカ音楽の代表的な形式で、宗教的内容に重点を置いた歌の形式を完成させた。また、ハリ・カター、ハリ、つまりヴィシュヌ神の物語をブラーマンの唱導者が歌い語る音楽形式も用いた。戯曲も書いた。今日のコンサートにおいても圧倒的にティヤーガラージャの曲が好まれる。

旋律の歓喜に身をゆだねることが解脱につながるとした。真のプージャー(崇拝、供養)とは外面的、儀礼的な形ではなく、バクティ(信愛、誠信)をもって礼拝すべきと説く。

ディークシタ

ムットゥスワーミ・ディークシタは、二人より幾分若い。ムットゥスワーミはヴィーナーの名人でもあった。その父ラーマスワーミ・ディークシタもまた音楽家、理論家であり教育を受けた。

タンジャーブールのティルヴァールールに、マドラス近郊マナーリーの藩王が巡礼にやってきて、ラーマスワーミの音楽に感銘する。藩王は宮廷楽士として父ラーマスワーミを招いたので、家族そろってマドラス近郊のマナーリーに引っ越すことになる。

藩王は、しばしばムットゥスワーミをセント・ジョージ要塞に連れて行く。イギリスの楽隊が演奏する「西洋音楽」を初めて耳にする。バイオリンも習った。後には国家「ゴッド・セイブ・ザ・キング」のサンスクリット語の翻案「いつも我をお守りください、音楽の神よ」を作る。
https://www.youtube.com/watch?v=Es8s6kFlh4E

マナーリーにいるとき、父ラーマスワーミにヴェーダの知識を教授した聖者チダンバラナータ・ヨーギがやってきた。ムットゥスワーミがヴィーナーを弾いて聞かせると、聖者は大変喜び、カーシー(バナーラス)へ巡礼に行くので弟子として連れて行きたいという。

付き従ったムットゥスワーミはそこで六年を過ごす。ネパールやバドリーナートにも巡礼したようだ。聖者からサンスクリット文法、タントラとヨーガ、ウパニシャッドを学ぶ。サンスクリット語の歌を作り、それは難解でほとんどマントラのようだといわれる。また、南インド音楽とは体系の異なる北インド音楽、ヒンドゥスターニー音楽をも修得することになる。

また、彼自身はブラーマンだが音楽家の家系の弟子も取った。今ではイサイ・ヴェッラーラルと呼ばれているが、昔はメーラムの演奏者、メーラッカーランと呼ばれていた。ところがタミルナードゥ北部では、その名の床屋カーストが楽士となっていたので、それと区別するために名称を変えたという。床屋カーストはインド中に様々な名称で存在しているが、民間医療や助産、様々な人生儀礼に関わっていたようだ。

タンジョールの宮廷楽士四兄弟

彼の有名なダンジョール・カルテット、バラタナーティヤムの基礎を築いたといわれる宮廷楽士の四兄弟もまた、ディークシタに学んだ。ブラーマンとヴェッラーラルは持ちつ持たれつの関係だった。

そもそも彼らナットゥヴァナールとは何者か。ナットゥヴァンガム、小シンバルを演奏し、リズムを取り音楽舞踊を指揮する役目だ。

それと同時に、彼らは、宮廷で最側近のボディガードだったのではないか。というのは何処にも典拠のない私の想像である。

日本でいうとお伽衆として大名に側近く仕えた宮本武蔵の役割だ。教養があって、歌を詠み、囲碁や茶の湯、能楽の相手をし、相談相手であって、いざというときは守る。

インド舞踊というのは、ほとんど格闘技といっていい位の基礎鍛錬を積む。徹底的に足腰を鍛える。その足使い、チャーリというのは格闘技に近いし、目を素早く動かすトレーニングも格闘技に必要なものだ。

ナーティヤ・シャーストラではカラナというが、現実にはアダヴといってリズムに基づいたステップが舞踊の基礎となる。アダヴという言葉はケーララの武術カラリパヤットの動きの単位でもあるし、カタカリ舞踊劇を最初に演じたのは、王室のカラリパヤット戦士であると伝えられている。

インドの古典戯曲『ムリッチャカティカ(土の小車)』にはサンヴァーハカ、シャンプーアが登場する。調髪、髭剃り、頭をシャンプーするというよりは按摩、マッサージ師である。そもそもカミソリを持たすというのは気を許した側近だけであり、按摩というのは身体のツボを知って、整体治療する。いや、グプタ朝の時代にカミソリはないだろうといわれればその通りだが、石を研いで使ったのではないか。

また、カラリパヤットの師匠の本職はアユルヴェーダのマッサージである。昔、剣術師範や柔術師が導引按摩の看板を掲げていたのに近い。現在は柔道整復師が、骨接ぎ、按摩を行う。

柳生宗矩(むねのり)は能をよく学んだことが知られている。徳川秀忠に柳生新陰流を教え、家光にも信任された。兵法指南役から幕府の総目付に出世した。家光は宗矩に風流踊りの振り付けを命じている。大名も側近も能楽に興じ、仕舞いは出世の近道といわれた。

最晩年の宮本武蔵は、寛永十七(1640)年、細川忠利に招かれて、熊本に移り住む。仕官ではなくて客人として招かれた。養子にとった宮本伊織は小倉藩の家老に出世している。武蔵は伊織に兵法より仕舞いを教えたという。

武蔵は晩年には病身、足を患っていたというが、熊本城で能を舞い、お殿様の相手をして謡いを謡ったり、鼓を叩いていたのかと想像する。

タンジョール四兄弟が、ふだんは藩王と共に歌を作って踊りに興じ、いざとなったら踊り子と共に闘う、007の『オクトパシー』みたいな映画が出来そうだ。

参考文献

井上貴子『近代インドにおける音楽学と芸能の変容』青弓社、2006年。
井上智重・大倉隆二『お伽衆宮本武蔵』草思社、2003年。
重松伸司『マドラス物語』中公新書、1993年。
佐藤正哲・中里成章・水島司『ムガル帝国から英領インドへ/世界の歴史14』中央公論社、1998年。
マチコ・ラクシュミー『バラタナーティヤムを踊る』出帆新社、1997年。
B.C.デーヴァ著中川博志訳『インド音楽序説』東方出版、1994年。
V.ラーガヴァン編井上貴子・田中多佳子訳『楽聖たちの肖像』穂高書店、2001年。

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2019.08.06