天竺ブギウギ・ライト⑬/河野亮仙

第13回 天竺ブギウギ・ライト

頭陀第一の西川一三
 
『チベット旅行記』の河口慧海は有名だが、その半世紀後の世界大戦中、モンゴルに潜入しチベットへ、そして戦後も帰国せずインドに抜けた人が二人いる。西川一三と木村肥佐生である。密偵、つまりスパイである。軍事訓練も受けてはいるが、潜入して調査し、報告を送るのが仕事である。支度金を受け取った後は、自分でなんとかしろとばかり、本人に支給は途絶える。

たまたま古本屋で沢木耕太郎『天路の旅人』を見つけ、夢中になって読んだ。西川一三の行程を検証した本である。その元となる芙蓉書房『秘境西域八年の潜行』は、やはり学生時代に神田の古本屋で見つけて読んだ。おそらく上巻だけ買って読んだのだが、偽名のロブサン・サンボーを名乗ったということ以外は何も覚えていなかった。

私も車に乗ってではあるが、東北大学の西蔵学術調査隊の人文班に参加し、1986年4月から6月にかけて青海省からラサを経由し、カトマンズまで走り抜けたので、およその状況は想像が付く。黄河源流を尋ねて荒野を疾走すると、あちこちに馬の骨が転がっていた。5000メートルの高地でキャンプしたこともある。

左上:子守をするチベットの少女  右上:人文班隊長 色川大吉

左下:遊牧民のテント       右下:ヤク

 

『チベット潜行十年』のダワ・サンボーこと木村肥佐生は、母と同じ大正11年生まれ。西川より年下だが、一年早く興亜義塾に学んだ。日蒙協会が前身で、人道的立場から中国の西北、モンゴルやウイグルなどの民族の文化向上に資すといううたい文句だ。辺境の民族が結集して漢民族の包囲網を作ろうと学校や診療所、牧場など建設した。

西川はわたしの父と同じ大正7年生まれだった。父は飛行機に乗って朝鮮半島を飛んでいたようだが、西川は地を這っていた。地球半周くらい歩いたんじゃないかと思う。ひたすら歩いた。危機を察知する能力、瞬間的本能的に対応する能力に秀いで、何回死んでもおかしくないような状況を生き延びてきた。

わたしの父も昔の人として背は高く、173センチくらいあって甲種合格を自慢していたが、西川は180センチの大男である。目が悪く甲種合格とはならなかったので満鉄に就職した。昔の中国では偉人の身長を2メートル以上と見ているが、玄奘三蔵も、おそらく180センチちょいの身長であろう。

わたしは玄奘三蔵の単独行は無理で、西遊記の方が実態に近いと思っている。孫悟空、沙悟浄、猪八戒が随行して馬にまたがるという姿が想像される。知らない所を旅行しようと思ったら、先に行って様子を調べて宿泊先と交渉する先遣隊、さらにボディガード、通訳あるいは道案内のガイド、荷物持ちや馬丁が必要である。

 

天竺行の常識

一人二役が可能としても4、5人が最小単位で、たいていは隊商について行く。それは大きければ大きいほど安心で、族に襲われる危険性が減る。一人二人失っても残った人が目的を果たす。法顕は11人で旅を始め、無事帰国できたのは法顕一人であった。64歳で出発し帰国は77歳だった。

国際情勢が悪く、玄奘は出国許可が出なかったので単独で挙行した。しかし、巡礼僧については大目に見てもらい、比較的自由に行けたのではないかという意見もある。西川や木村もそのようにして国境をくぐり抜け、無賃乗車をした。国禁を犯してというが、昔の中国人がそれほど律儀に法律を守ったとも思えないのだが。
 
伝記ともいうべき『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』によると、涼州からは慧淋、道整という僧が付き添い、昼は寝て夜歩くという隠密行動を取ったが、瓜州(ハミ)で分かれる。馬を買って、胡人を雇いガイドとして馬を引かせる。

唐の西境である玉門関の先には見張りの烽火台が3、40キロごとに5カ所あり、胡人が5烽まで案内しましょうということになった。そこから先は唐の権力の及ばない流砂、水ではなく、ただ砂が流れるだけで何もない沙河である。しかし、胡人が怪しい動きを見せたので放ち、道を知っているというやせ馬だけで行く。追っ手や検問をなんとかくぐり抜け、回り道をして行くつもりが道を失い、水をこぼして5日間生死の間を彷徨った。般若心経で救われたというのが、玄奘三蔵伝のヤマである。

https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%8053/

これはいろいろな話を組み合わせ、苦心して作り上げた物語であろう。話を盛り上げるため枝葉を語らず、胡人とやせ馬に焦点を合わせて粗筋を作った。その先、伊吾まで400キロもある砂漠を、慎重で用意周到な玄奘三蔵が軽装備で行くわけがない。従僧二人を帰し、道に迷って水がなくなったのも事実かもしれないが、他にも馬や苦力がいたはずだ。エキストラの名前はエンドロールに載らない。

馬だって水は飲むのだから大量に必要だろう。一人分の身の回り品なら50キロ、装備となったら100キロを超えるだろう。木村はラサに巡礼に行くモンゴル人の夫婦の弟という設定で、ラクダ5頭にテントや家財道具を積んで出発した。ラクダは背中に水筒を背負っているし、水陸両用車だ。玄奘が携帯した食料は何なのだろう。麦焦がしと団茶はあったと思うが、チベット人の常食ツァンパ(チンコー麦の麦焦がし)とバター茶はあったのだろうか。動物性タンパク質や脂肪を取らないと体力が持たない。野営用のテントは携行していないと思う。当時の人にとって当たり前のことは書かれない。

話をもどすと、玄奘三蔵は伊吾に到着すると高昌王に出会う。王族官僚のために講義をすると、お礼に法服30着のほか金貨100両、銀貨3万、綾絹等々行き帰りの旅費を布施してくれた。馬30匹、荷物持ち25人、少年僧4人も付けてくれた。これからは大キャラバンの大名旅行である。布施という文字の通り、布というのは貨幣相当の貴重品である。

また、護衛がつかなくても自衛が必要である。西川は蒙古刀や拳銃、槍を持って旅をしたこともあるが、僧侶は錫杖を手にする。あちこち訪ね歩くことを巡錫という。山道を行くのに杖になるし、じゃらじゃら音がするので熊よけにもなる。

しかし、道中で一番怖いのは犬である。強盗なら、話し合いをしたり、さっと金目の物を渡して勘弁してもらうということができるが、犬には通じない。ひたすら吠えるのを杖で追っ払う。インドやバリのやせ犬も狂犬病があるから怖い。チベット犬は特にどう猛で怖い。西川は十数匹のチベット犬に襲われ、必死に槍で防戦したこともある。

西遊記のようにどこに行っても族に襲われ、旅人にだまされ、女に誘惑される。しかし、あの構図にも嘘があるというか、足りない所がある。無人の荒野を行くのには、大量の食料や水を用意しないといけない。玄奘三蔵が馬に乗ってしまったら、荷物はどう運ぶのだ。ここに誰も気がつかない。そのことが西川の道中記を読むとよく分かる。
 

戸籍を抹消された密偵

西川は中国の張家口大使館調査室勤務という形で、大使館事務所から実家に給料が送金された。一方、行方不明ということにされて戸籍も抹消された。存在するのにいないはずの人、インドの世捨て人サムニヤーシン、仏教でいう頭陀行者である。

帰国するとGHQに呼び出された。朝鮮戦争の頃なので情報が欲しかった。蒙古、甘粛省、青海省、チベット、インド、ネパール、ブータンについて仏教寺院のことのみならず、各地の地勢、気候風土、民族の風習、軍事設備や兵力について聞き取り調査をした。そして、各地の地図を書いた。

GHQに一年間つきあっていろいろ思いだし、その後三年かけて『秘境西域八年の潜行』を書き上げた。これと同様のことを玄奘三蔵は太宗皇帝の元で行ったはずである。玄奘と共に訳経所で働き、筆の立つ弁機が聞き取って、様々な資料を駆使して『大唐西域記』を書き上げた。

西川の本は中公文庫版三分冊で計2000ページ近い。原稿は段ボール箱に詰められたまま、長い間、講談社編集室の片隅に眠っていた。面白いけれど長すぎるということだった。芙蓉書房からやっと出版できたのは昭和42年である。

ちなみに、当時、東方文化研究所に所属していた仏教学者の長尾雅人は1943年の夏、満鉄調査局の援助を受け、陸軍のトラックに乗り、北京に留学中の歴史学者佐藤長らと共に、貝子廟を訪れ調査している。それもやはり、中公文庫に入り、『蒙古ラマ廟記』として1987年刊行されている。

西川は出発時に6000円給付され、銀貨や外地で高く売れる阿片を調達した。蒙古人のラマ僧の3人とその弟子の少年と5人の巡礼僧となった。装備は家財道具と土産物も含めて7頭のラクダで隊を組みゴビ砂漠を渡る。ゴビというのは、まばらに草が生えている小石と砂の荒れ地のことだ。青海省・西寧のタール寺目指してトクミン廟から出発した。

1943年10月下旬のことだが、雪が降り出した。西川自身が2頭のラクダを引く。雪の中を歩いて進むのだ。大きなラクダは風よけにはなったが、困難な旅である。定遠営まで20日で行くところが一月近くかかってしまった。1945年の正月はタール寺で迎え、4ヶ月を過ごした。


左上:タール寺、青海湖、鳥島案内図  右上:鳥島

左下:タール寺の台所         右下:巡礼の家族

 

西川が最初にヒマラヤのザリーラ峠を越えたのは1946年1月。風の噂に日本の敗戦を知る。ラサからはシガツェのタシルンポ寺、サキャ寺、ギャンツェ、高原の街パリからチュンビー渓谷を下り、6700メートルのザリーラ峠を越えるとカリンポンである。西川は連れのバルタンと共に峠で「ソルジェロー!」、人も家畜も安泰あれと絶叫した。万歳をしたい気分だったのだろう。

野宿しては雪の中に埋もれ、雨に打たれながら寝たこともある。氷河期を生き延びてきた人類の強さが現代人にも受け継がれているのかと感動する。中国から国境を越えたといっても、大戦中はインドも敵地である。

ようやくベンガル州、ダージリンの東のカリンポンに抜けた。しばらくチベット新聞社で職工として働いて、そこにある辞書を借りてヒンディー語、ウルドゥー語の勉強をしていた。次はインド巡礼、ブダガヤに詣でることを考えていた。パキスタンからアフガニスタンまで行くつもりだった。戦争はとっくに終わって密偵ではなくなった。時に1948年、ガンディー暗殺をニュースで知った。

 
最低限の生活

カリンポンにはチベット寺院も多く、火葬場の隣の寺院に住む老修行僧が気になった。このラマは東チベットのカム出身、洞窟で二十年修行した後インドに出て放浪し、カリンポンに住み着いた。もともと焼き場のそばに小屋を建て修行していたが、信者に尊敬され布施を集めてお堂や仏塔が建てられたという。

ふだん着る服は、焼き場に持ち込まれた死体をくるむ白い布だそうだ。仏教でいう塚間衣、糞掃衣だ。焼き場のすぐ下の崖には白骨が散乱した洞窟があり、そこで瞑想修行をしていた。西川は老僧に入門してでんでん太鼓、鈴、ガンドンという骨笛、毛皮の敷物、沐浴用の短いスカート、人の頭蓋骨で出来た鉢をもらった。釈尊の修行時代とほぼ同じことをしたのだから驚きである。そして、老僧からチベットのご詠歌を習った。これが後で大いに役に立つ。

西川は生計を立てるために行商、担ぎ屋を始める。タバコを密輸出するのだ。カリンポンから、ブータンへ、チベット方面へと何度も往復した。針が意外と珍重された。吹雪の中峠を死に物狂いで越えたとき、凍傷にかかって歩けなくなった。そのときはダラムシャーラ、本来は巡礼者用の無料宿泊所に乞食の群れと共に住んだ。物乞いに出た乞食に恵んでもらうという、およそ最低の生活をした。長い潜行生活において、西川が倒れたのは回帰熱と凍傷の二回だけなので超人的な体力だ。

戦争はとっくに終わり、カルカッタで木村と共に逮捕された。捕まることも何回かあったが、留置所は屋根が付いていて食事も出るので楽だと語る。洞窟に住んだときは、暖かくて燃料(動物の糞)もあり、豪華ホテルのようだと回想する。そのまま歩いてアフガニスタンまで行くつもりだった。あれだけの旅をして困難を乗り越えると、およそどこでも一人で生きていけるという気概が生まれる。大昔に、出アフリカをした人類も、そんな気持ちで未知の土地に進んだのだろう。

木村は155センチに満たない小柄なやさ男。西川のようにネアンデルタールごときの体力はなかったが、言葉が達者だった。口は災いの元となったこともあるが。昭和18年、ともに張家口にある日本大使館の調査員として雇われ、別々に行動しながらも時として同行した。

西川のような危機察知能力と体力、木村のような語学の才能、さらに学者としての卓越した能力と、僧侶としての政治力、そのそれぞれを数段高いレベルで兼ね備えたのが玄奘三蔵だということになる。希有の人物だ。

1950年、ついに二人はカルカッタのプレジデンシー刑務所に収容される。名前は豪華な別荘のようだが、4月になると蒸し風呂のように暑い。5月に日本行きの船があり、6月神戸港に到着。西川は数えで33歳になっていた。

木村も帰国するとGHQで10ヶ月間事情を聴取された。CIA傘下の外国語放送サービスに勤め、各国のモンゴル語放送の要点を英語でまとめるという仕事をした。後に亜細亜大学教授となり、モンゴルやチベットとの関係に協力し、チベット難民の少年少女を引き受けた。その中の一人がペマ・ギャルポである。

西川は玄米食で知られる桜沢如一の真生活協同組合で食品販売をしていた。桜沢はマクロビオティックの普及を努め、また、世界連邦運動をやっていた。元祖ヴィーガンである。西川はそこで妻となるふさ子と出会う。ふさ子がざら紙に書き付けた西川の原稿をペンで清書した。

盛岡では「姫髪」という美容品卸の店を営み、元旦以外は毎日営業した。西川は店を閉めたら、近所で日本酒を二合飲んで帰ってくるという淡々とした生活を続けた。平成20年に89歳で亡くなった。

釈迦の十大弟子の摩訶迦葉マハーカッサパは頭陀第一とされた。頭陀行とは、出家教団の原則通りに、僧院に住まず遊行し、森や樹下、洞窟に、寝泊まりする。ぼろを着て食を乞う生活だ。西川は世俗的な欲がなく、まさに頭陀行者だった。究極のエコロジー生活者だ。

特に大きな業績を上げたわけではないが、一本気な男。歴史学者の佐藤長はその観察力、他では得られないモンゴル、チベットの細かい生活情報に感心した。読んでみると独特の面白さがある。寡黙で義理堅く、淡々とした生活態度には共感が持てる。嘘をつくのが嫌いなのに、モンゴル人に扮した密偵という最大の嘘に、さらに嘘を重ねることに罪悪感を抱いていた。

旅の空でも日々の生活でも精一杯手抜きなしで頑張る。その日その日が行だった。これをカルマ・ヨーガというのだろうか。

 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論

更新日:2024.08.02