河野亮仙の天竺舞技宇儀53

玄奘三蔵西域記その二/ヒンドゥークシ山脈を越える

さて、話を戻す。怪しい動きをする道案内の石槃陀を放ち、痩せた老馬と共に10里ほど進むと馬が急に向きを変える。玄奘の制止を振り切って数里ほど行くとオアシスがあった。そのオアシス、野馬泉で1日休息した後、さらに2日を経て死の砂漠を抜け出し伊吾に着いた。

第四烽から迂回して野馬泉まで百里(中野美代子によると約32キロ)を渡るのに5日かかった。ギリギリの国境である第五烽(今の星星峡)を避けるため莫賀延磧に回り込んだのである。通常、時速4キロで1日5時間歩けば、20キロ進む事になる。くるくると道なき道を彷徨い続けたのだ。

伊吾には高昌国の使いが来ていた。玄奘に会って連れてきてくれという使命を負っていた。玄奘は天山北路をウルムチの方に進むつもりだったが、天山南路、亀茲国クチャの方に行く事になった。

伊吾国は高昌国の属国で、高昌国王麹文泰は数十頭の馬を仕立てて迎えの行列を使わし、玄奘を歓待する。その学識に感服して、国師として末長く留まるように要請する。玄奘は三蔵のみならず、兄と共に幼い時から儒仏道、儒教すなわち政治学、道教その他の学芸を学び、あらゆる教養を身に付けた文人である。

玄奘の学識、人徳に惚れたのみならず、西域諸国に対する情報、分析が鋭かったのであろう。今でいえばプーチンは何を考えているか、習近平はそれに対してどう出るか、モディはどう反応するかである。しかし、玄奘はハンガーストライキをし、インドへ行くといって聞かなかった。

 

大キャラバンを組む

出国を認める代わりに、帰国時に立ち寄る事を約束し、王は餞別を贈る。これから冬で寒かろうと法服30具、黄金百両、銀銭3万、綾絹等500疋を往復20年分の旅費として、さらに馬30頭と人夫25人を付ける。玄奘が通過する国々の王へ大綾一疋を付けた親書、そして、これから行く国々を支配していた西突厥のヤブグ・カーンには綾絹500疋と果物を積んだ車2台と親書を付けた。

これらの金銀は天竺巡礼行をするなかで各地の寺に布施をしたのだが、やがて賊に襲われて失ってしまう。西遊記のイメージが余りに強すぎるが、国外脱出こそ単独行だったものの、高昌国以降は大キャラバンになった。

玄奘三蔵は笈を背負った姿で描かれるが、訳された大般若経だけでも600巻あって担ぎきれない。インドから持ち出したのは紙の印刷物ではなく、椰子の葉に書かれた葉っぱの束、520657部である。船便で送りたい位だが、どうやって陸路を運び出したのだろうと思う。大勢の人夫や従者、馬やラクダ、ロバが10頭も20頭も隊列を組んで、「あれ一体何なの?」「ぜーんぶお経よ」という話だ。仏像は模刻を7躯もたらしただけだ。

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『大唐西域記』は高昌国を出て、唐からは異国である阿耆尼国(今のカラシャール)の記述で始まる。この優れた地理書は、太宗に西域の情報を伝えるために制作された。国家的事業として玄奘三蔵が翻訳事業を進めた際に、文章が達者だという事で筆受をつとめた弁機が、様々な文献や訳場で直接玄奘に聞いた事を元に書き表した。

太宗皇帝に提出した機密文書的な『大唐西域記』と今日我々が読んでいる仏教伝説を書き込んだ『大唐西域記』とは違うという桑山正進の説も有力だ。

 

西突厥のヤブグ・カーン

ヤブグ・カーン、すなわち統葉護可汗は高昌国王麹文泰の義理の父である。統葉護可汗は太宗に公主を希望し、受諾の返事を特使として高平王道立が持ってきた。その統葉護可汗庭にはナーランダーで研鑽した高僧プラバーカラミトラ、光智が来ていた。道立は光智に感服し、可汗の特使真珠統侯斤と共に長安に連れて帰る。可汗は婚礼の支度金という事か、万釘宝細金帯と馬5,000匹を太宗に献上した。

偶然なのか歴史の必然なのか、太宗の従兄弟である高平王道立と高昌国王と西突厥の可汗、そこに滞在した事のある高僧光智とのつながりがあって、高昌国以西の旅が確実なものとなった。強い運も実力のうちである。

また、高昌国も西突厥も玄奘の帰国時には唐に滅ぼされていた。玄奘、あるいはその周辺が密かに太宗に情報を流していたのではないかという気もするが、玄奘三蔵スパイ説は否定されている。証拠は全くない。

シルクロードは商人の他、ネストリウス派キリスト教(景教)、祆教、マニ教の僧侶が行き交い、舞姫、芸人、医師、奇術師等が西方からやって来て宮廷に入り、内部情報を手に入れる事が出来る。

ソグド人はゾロアスター教の変種、中国では祆教と呼ばれる宗教を信仰した。偶像崇拝する多神教的な所、遺骨崇拝がある事から中国の仏教とも親和性があり、仏教に改宗するのみならず、僧侶となる者も少なからずいた。改宗すれば、商人達も寺院に入り込め、遊行する僧と共に各州を移動する事が出来るので、政治・経済的にも有利であった。

玄奘はカーンの下に数日留まると、またしても「インドに行かない方がよい」と引き留められる。その意思が硬いとみるや、中国語、ソグド語等、西域諸国の言葉に通じた若者をカーピシーまで通訳に付け、諸国への親書を持たせた。玄奘には綾絹の法服一襲、絹50匹を贈った。

玄奘の隠し技は?

西域に多民族が行き来して、多言語が飛び交うというのは分かるのだが、プラバーカラミトラはサンスクリットを話し、玄奘は漢語を話したはずだ。その説法を突厥語?トルコ語に訳す学識者がいたという事なのだろうか。空を説くダライラマの説法はとても抑揚が気持ちいい。名演説とは内容だけでなく音楽のように酔わせるリズムと調べがある。

言葉の問題と並んで、もう一つ疑問なのは1ヶ月以上留まる長逗留の理由。王の良き相談相手になったという事もある。そして、僧侶相手の議論や講義、王族・貴族や武官、商人に講説して、「十善をなせ、般若波羅蜜が解脱の鍵」と説いた。

さらに、インド僧、西域僧は呪術をしたと思う。それゆえ、あちこちから引っ張られる。雨乞い、安産、病気治し、長寿、戦勝祈願、国家安泰。学業一直線の印象が強い玄奘三蔵にはその気配がほとんど見えないのだが、高僧は絶対請われたはずだ。

日本から唐に渡った僧も、空海のみならず、みんな請雨法を修している。講経だけではなく、呪術によって多額のお布施を頂戴したのではないかと思うのだが、密教を学んでいない玄奘にも裏技はあったのか。玄奘の帰国後の事であるが、則天武后が出産前に安産の祈祷を依頼している。密教以前の祈祷はどのように行われたのであろう。

鑑真は中国各地を回って授戒会を行い、戒を授けた。中国人がそれで言われた通りに戒を守るかというとそんな事はない。戒体を授かる事によって健康や長寿、様々な現世利益を受けられるので喜んで布施をするのだ。鑑真が薬草に詳しいというのは、密教というよりは道教的な医術、呪術も身につけていたと思われる。玄奘が心経を訳出した104年後に鑑真は来日した。

さて、玄奘はサマルカンド等の諸国を通り、突厥の関門である鉄門に至る。鉄門を過ぎるとトカラ国、ここから数百里、アム川を渡って活国クンドゥスに着く。西突厥の王子が司令官として支配していた。

西に向かい縛喝(バルク)国、今のマザリ・シャリフ辺りに着く。バクトリアの中心である。南に下るとインド人殺しと呼ばれたヒンドゥークシ山脈西側の山岳地帯に入る。4,000メートル以上の山が連なり、山々に10程ある峠のルートは、1年の半分近く雪に閉ざされている。3,000メートル以下の峠はひとつしかない。寒さもさることながら、多くの人が高山病で倒れたのではないか。

この喝職(ガチ)国は『大唐西域記』によると、「山の主や妖怪が祟りをほしいままにして、山賊横行し、人の命を奪うのを生業とする」とあるが、妖怪やら山賊やらと誰が戦ったのだろう。玄奘も西遊記よろしく呪術合戦をやったのだろうか。

 

サンスクリット会話

バルク国にはパンジャーブ地方から来ていたプラジュニャーカラがいたので、倶舎論等を学ぶ。漢語圏を出ているので、ここで学ぶと行ったらサンスクリット語で学ぶ事になる。そこからはプラジュニャーカラ(慧性法師)と共に、バーミヤーンに至る。貞観3(629)年のことである。

バーミヤーン国の東西は2,000余里で雪山の中にあり、道は氷河や砂漠よりはるかに危険という。バーミヤーン王は一行を出迎え、王宮で歓待した。ここには摩訶僧祇部の学僧二人がいて、遙か彼方の大唐から法を求めてやって来たのかと感嘆した。西大仏、東大仏、涅槃像、仏塔、僧伽藍を一緒に礼拝して回った。15日後にバーミヤーンを出発する。吹雪の中、深山を通ってカーピシーに至る。

玄奘が訪れた40年後にはイスラムのウマイヤ朝がバーミヤーンを占領した。40メートルもの高さにある顔面がすぽっと落ちたのは何時の事だろう。その大仏が爆破されたのは2001年春の事。

次のカーピシーに伽藍は100を越え、僧徒も6,000以上あってバーミヤーンの数倍。大乗が栄え、名僧が何人かいたので、玄奘、慧性と共に法集を行った。仏教学大会という事で発表と質疑応答があったのだろう。玄奘のみ大乗、小乗あらゆる教えに通じていて、つぶさに質問に答える事ができた。王は感服して玄奘に純綿5匹を布施した。ここでもインド有識者階級の共通語サンスクリット語で議論した事になると思う。二重通訳、三重通訳では無理だろう。

東アジアの共通語は「漢文」である。その発音は土地により人により訛りがあり、時代によって変遷するので、書字中心の言語である。一方、インド文化圏ではサンスクリットが共通語、公用語となるが、これは話す事が前提である。バナーラス大学留学時、ラジオではサンスクリット語ニュースも放送され、サンスクリット新聞もあった。今でも続いているだろう。

同じ漢文の般若心経を読んでも日本と韓国で発音は異なるが、パーリ語のお経の発音はどこでも、ほぼ、同じだ。

真言は正しく発音されないと効果がないので、声明シャブダ・ヴィディヤー、音声学を第一に学ばないといけない。口伝えに学ぶ。欧米のインド学教室ではサンスクリット会話が流行っているようだ。

インドでは文法規則でも何でも、まず、丸暗記する事から始まる。我々の感覚では、昔話のような簡単な文章を暗記したとして、そこからサンスクリット会話までは距離があるので、同系統の言葉を話してるインド人はともかく、どうやって玄奘はサンスクリット会話を習得したのだろうと思う。唐にいた時から心掛けていたのか。

英会話の教科書の「空港にて」みたいに、「バーミヤーンの大仏」とか、「ブッダガヤの金剛宝座」「霊鷲山を訪ねて」「釈迦涅槃の時」「雨安居を過ごす」とか、場面を設定して師と共に繰り返し変化を付けて練習しないと習得できない。また、スートラに対する注釈書の文体を身に着けないと、サンスクリットで議論はできない。さらに、論証、論駁のためには経典を引用する事が必要で、それは暗誦してないといけないのだから大変な話だ。

 

山賊いろいろ

玄奘は『慈恩伝』『西域記』を見ても、数回に亘って山賊、盗賊に出くわしている。実際は、年に数回出会っていたかもしれない。長い旅では数十回?人を見たら泥棒と思え、おいおい、また怪しい奴が出てきたよという旅の連続だったのではないか。

ペダル峠の雪解けを待って屈支国クチャに二月程滞在して出発し西行して2日目、突厥の盗賊二千余騎と接近遭遇する。しかし、彼らは隊商を襲撃して十分な収穫があり、分け前を巡って仲間割れを起こしていた。長い冬で食べるものがなくなって、ひとつ稼ぎに行こうと出発したのでは。玄奘隊など取るに足らないと見逃した。

前述のようにヒンドゥークシ山脈には山賊が横行していると『西域記』には書かれている。

『大唐西域記』巻第二の印度編は、最初にインドの地理、文化、暦、言語、風俗についての丁寧な概説があり、ランパーカ国(今のラグマーン地方)から始まる。

インドに入ってランパーカ国、そしてナガラハーラ国に至ると釈尊の聖跡が至る所にある。ゴーパーラ竜王の洞窟の噂がある。「昔、その洞窟に竜王が住んでいて害をなしたので、釈尊が中天竺から空を飛んでやって来てそれを鎮めた。今でも釈尊の姿がそこに留まっている」

是非、その洞窟を訪ねたいから案内してくれと村人に言っても、その辺は道も険しく、盗賊が出ると言って誰も行ってくれない。ようやく人を頼んで山道を行くと、案の定、五人の盗賊が現れ刀を抜いた。

「どこへ行くのだ」

「仏影を拝しに竜王の洞窟に行くのです」

「なんと、この辺には賊が出ると聞かなかったのか」

「仏を拝するためには猛獣とて怖くはありません。まして、同じ人である賊を恐れる事はありません」

と聞くと、「面白い事を言う僧だ。それなら我々も仏を拝みに行こうではないか」と今度は護衛の方に回ってしまう。玄奘は洞窟の闇の中を老人の案内で進み、百余回礼拝するが姿は見えない。前世の罪障によるものかとさらに経を読み讃仏すると釈迦如来の姿が岩壁に浮き出た。

玄奘の願力によるもので未曾有の事だと案内した婆羅門は讃える。5人の盗賊は刀や杖を折り、玄奘より戒を授かって帰依した。随分ともの分かりがいい。まあ、戒は守れず、しばらくしたら、また、盗賊に戻るのではないかと思うが。

 

ガンダーラ

カーブルからカイバル峠を越えるとそこはガンダーラ。アフガニスタンからインド・パキスタンの領域に入る。玄奘の頃にはすでに寂れていた。東に行きインダス河とぶつかり川沿いに遡ってウッディヤーナ国(スワット地方)、やや南に迂回してカシミールの王城シュリーナガルへ。インド有数の景勝地であり、珍しく玄奘は「容貌妍美」と記す。色白の美人が多い。

ここは仏教が盛んで王宮あげて歓迎を受け、2年間研究する。再び出発し、ランパーカ国(ラグマーン)からジェラム川(パンジャーブ、すなわち五河川の一つ)辺りまでについて、玄奘は、住民は姿形もお粗末で、性格は荒々しく、言葉も野卑。インドの領域というよりも辺境のゆがんだ風俗と評す。

シャーカラ古城、ナラシンハ城を過ぎた所で50人程の群賊に襲われる。身ぐるみ剥がされて旅の資金も盗まれる。玄奘は逃げ出して池に潜ったり、走ったりして婆羅門が畑を耕していたので救いを求める。

村に帰ってホラ貝を吹いて太鼓を叩くと村人80余人が武器を持って集まり、賊を追いかけると賊の方が散り散りに森の中に逃げる。池の辺りには、まだ、玄奘の一行が無事でいた。村人から施しを受ける。

師はニコニコしている。「最も尊いのは命です。これが多少の衣服・金子を盗まれたからといって嘆く事はないのです」

翌日、タッカ国に着くと木綿の布や飲物食物の寄進を受ける事が出来た。

この事は、盗賊団が村に押し入った時、対抗措置を取れる自警能力を意味している。山賊というのか、それぞれの部族が基本的には孤立、乃至、対立していて、それでも共通の敵が出来た時には共に戦うのではないか。

街道の親分に話を通すと、少々のお金で通行させてくれるかもしれない。もっとお金を積むと、それじゃあ次の親分は顔見知りだから話を付けてやるよと護衛まで引き受けるのかもしれない。隊商はたいてい僧侶を伴っていた。こりゃ危ういぞという場面では、戦闘要員ではなく、言葉が達者な坊主が出て行って交渉する役目だ。現代でもゲリラとの身代金交渉には聖職者が出掛ける。

今日のアフガニスタン

アフガニスタンは多民族国家だが、いや国家の体をなしていないのかもしれないが、アフガンの土地という意味で、アフガンとはパシュトゥーン人(アーリヤ系)の事である。人口の40パーセントを占める。

次いで、イラン系のタジク人、モンゴル系のハザール人、テュルク系のウズベク人、さらに勇猛なトルクメン人がいる。公用語はパシュトゥー語とイラン語の方言であるアフガン・ダリ語。

1998年には概算で人口2,000万人。国土の広さはテキサス州と同じ、緯度的には日本に近い。主な民族グループは20、すべて勘定すると50を越えるといわれる。使われている言語は30以上。

首都のカーブルでも雪は半メートル積もる。豪雪の雪解け水のおかげで農耕が出来るが、雪が少ない年は干魃、マグニチュード6から7の大地震が頻発し、さらに戦争で苦しんでいる。

青木健太によると「遊牧を含む農畜産業を主な生業とする同国は、よそ者への警戒心を強く持つ一方で、客人に対しては丁重にもてなす独自の部族文化を育んできた」

マーティン・ユアンズは、パシュトゥーンは誇り高く攻撃的な個人主義で、特に山岳地帯に住む人にこの特徴がよく見られる。「氏族および部族単位の略奪を習慣とする社会」「封建制と民主制が入り交じった気風、厳格なイスラム信仰、そして単純な行動規範もこの民族の特徴」と記す。

大英帝国のインド統治時代、パシュトゥーンのみならず、侵入してくる英国軍に対して勇猛果敢に戦った誇り高い民族である。1747年に建国されたドゥッラーニー朝が現在のアフガニスタンの原形である。青木によると、

「当時、国王は近隣諸国から富を略奪し、部族長に配分して忠誠を得る形での支配を行い、征服した土地ですら直接統治はしておらず、ほとんどは部族の内部統治に依っていた」

国王の支配する領域は「カーブルの王国」と認識され、パシュトゥーン人の各部族勢力が地方豪族のように各直轄地域を統治し、ゆるやかな主従関係を築いていた。

アブドゥルラフマーン国王(在位18801901)は武力で全土を支配した。当時、カーフィリスターン(異教徒の地)と呼ばれた東部の国境地域を制圧し、ムスリムに改宗させて光の国ヌーリスターンと改名した。しかし、アフガニスタンにおいては今日も部族、あるいは軍閥の支配が強い事はよく知られている。

1979年、ソ連のアフガン侵攻の後、1980年に松浪健四郎(現日本体育大学理事長)は、かつてのカーブル大学の教え子に会うため、アフガニスタンに飛んだ。体育の教官としてレスリングを教えた生徒、エリート達は政府側の兵とゲリラ側に別れて戦っていた。身をムジャヒディンにやつしてアフガン・ゲリラのキャンプに潜入した。

遡って1976年8月には、カーブル大学の学生、ヌーリスターン人の有力者の息子に案内してもらって親戚を訪ねるという名目でヌーリスターンに密航した。大学から「ヌーリスターン地方住民の体力調査」の名目で申請したものの、入山許可は下りなかった。

雪渓のヌーリスターン峠までの村々に警官や軍隊が駐在していたが、カーブル大学教員という身分で信用され、バクシーシ、賄賂で切り抜けた。

ヒンドゥークシ山脈の奥深い谷間に寒村が点在する。ゲリラの通り道となってソ連軍を苦しめた。険峻な山道には体育の先生も閉口した。ヌーリスターン人はアレキサンダー大王の末裔との伝説を持ちアーリア系で背が高く体格が良い。碧眼で時に金髪。印欧語系のヌーリスターン語を話す。

ヌーリスターンで男は、皆、パキスタン製の銃を持っている。隣国のパキスタンとは自由に行き来している。同じ民族が住んでいる。昔だったら銃ではなく刀剣だった。よそ者が入ってくると防衛するが仲間と分かると歓待する。

いざ、ヌーリスターンに入域すると学校、病院、役所、警察もなくアフガニスタン国内にありながら放置され、行政の区域外という事になる。それでありながら整然としているのはヌーリスターン族なりの法治主義があって無法地帯にはなっていないからだ。

松や果樹が生い茂り、穀物も自給できて、羊やヤギの食む草があり、一種の桃源郷である。エメラルド、ルビー、ガーネットも産出する。文明を感じさせるのは銃器とラジカセのみだが、電気水道はなく、電池を売ってる店もない。それらがなければ、玄奘三蔵の時代もかくやと思わせる。

三蔵が出くわした山賊達は強盗なのだろうか。案外、単なる武器を携行した遊牧民で、獲物とみると、時として牙を剥くパートタイムの強盗なのかもしれない。

ビハール州でミティラー絵画を収集していた友人、O. P. レイはある民家に入ったところ、余りに沢山の背広があったので驚いたという。つまり、奥さんは絵を描いているが、ご主人の本職は泥棒だったのである。

仏跡の多いビハール州の強盗団ダコイツは有名である。ツアー・バスに乗っていた柔道の高段者がなんだこいつと飛びかかったら、コテンパンにやられたという話も聞くので、出くわしたら、すぐに多少のお金を捨てる事だ。命が大切。

盗賊は時として村を焼き払い、女子供を連れ去る。金品を収奪するだけなら、まだ、ましな方。財産なら、また得る事も出来るが、命は取り戻せない。

参考文献

慧立他著長澤和訳『玄奘三蔵/大唐大慈恩寺三蔵法師伝』光風社出版、1988年。
桑原正進・袴谷憲昭『玄奘』大蔵出版、1981年。
佐久間範秀・近本謙介・本井牧子『玄奘三蔵/新たなる玄奘像をもとめて』勉誠出版、2021年。
佐保田鶴治『般若心経の真実』人文書院、1982年。
中野美代子『三蔵法師』集英社、1986年。
中村元・紀野一義『般若心経 金剛般若経』ワイド版岩波書店、2001年。
前田耕作『玄奘三蔵、シルクロードを行く』岩波新書、2010年。

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2022.05.30