「河野亮仙の天竺舞技宇儀55」

55回 法顕から義浄までの入竺沙門

漢の武帝が張騫を大月氏に派遣して西域との交易を試みた事は知られているが、前2世紀末には、インドシナ半島北部、中部の東海岸側に公趾、九真、日南の三郡を置いて、南シナ海交易の拠点とした。当時の中国船は、直接、インドに行く事はできず、漢からの使者や商人も、それぞれ現地の船を乗り継ぐ。その船は崑崙舶と呼ばれた。

ベトナム南部にある扶南国の外港オケオからは、ローマ製の金貨、宝石、ガラス玉、インドのビーズ、陶器、仏像・神像、ブラーフミー文字の銘のある指輪、中国の銅鏡等が発見され、交易の拠点であった事が分かる。3世紀にはマレー半島の東西岸の港市を軍事力で服属させていた。6、7世紀に至ると半島の横断路より、マラッカ海峡を抜けてベンガル湾と南シナ海を往復するルートが主流になり、扶南は衰えた。

法顕については第51回に記した。

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法顕は412年に海路で帰国している。4世紀にはマラッカ海峡を大きな船で抜けて中国に向かうルートが成立していた。それまでは沿岸の港を乗り継ぎ、あるいは、マレー半島を陸路で横断して抜けていた。そのため半島の両岸に港市が発達した。

 

ガンダーラの興隆と荒廃

ヒンドゥークシ北麗の遊牧国家エフタルが小王を派遣して支配したガンダーラを宋雲、恵生は北魏の遣使として520年に訪れた。『宋雲行記』は『洛陽伽藍記』巻五に収録されている。宋雲は官人であり恵生は僧侶であった。仏寺の興隆を記している。ところが630年に玄奘はこの地の諸寺の荒廃と僧徒の減少を記録した。

6世紀50年代中葉から60年代にかけてトハーリスターン本地のエフタルは衰亡する。エフタルはテュルクに圧迫され分散した。ヒンドゥークシ南北をつなぐ交通路がガンダーラからカーピシーに移り、ガンダーラは凋落した。エフタルがガンダーラ仏教を衰えさせたわけではない。

玄奘がインドを旅行した時代は、ヴァルダナ朝の戒日王ハルシャヴァルダナ(在位606647)が広く北インドを統治して治安が良かったので、帰国時も海路を取らなかった。また、玄奘の旅の間は、貞観の治、すっぽり太宗の在位(627649)の間にある。その凪の間に旅ができた。

無事に成果を上げて帰国できたから名僧と呼ばれるのか、それとも名僧だからあらゆる困難を切り抜ける事ができたのか、どちらなのだろう。4世紀から6世紀半ばまでに数十人のガンダーラ出身僧が陸路で華北に入った。続いて、中国僧も中インドに至らずとも、ガンダーラやカーブル、カシミールの域までは何十人か達した事だろう。

旅行記を残した僧も他にいないわけではない。8世紀の新羅僧慧超は金剛智の弟子となり、722年頃海路でインドに向かい、数年勉学して『往五天竺国伝』を著した。

『悟空入天竺記』を残した悟空は、勿論、西遊記の孫悟空とは別人であるが、玄宗皇帝の国使として753年、カシミールに入った後出家し、取経、翻訳に従事した。789年に帰国。

 

海路を行く

法顕は長安から敦煌を経てパミール越えをしたが、帰りは東インドで情報を得たのだろう。タームラリプティから商船に乗り、冬の季節風によって2週間で師子国セイロンへ向かった。冬の初めというから12月頃か。そこで2年間学び、200人乗れる商船に乗り込む。耶婆堤国で5ヶ月過ごし、広州行きの船に乗り、大風に悩まされながら青島の東に漂着した。

モンスーンの風に乗る航海は、10月から3月、北東風に乗って中国から東南アジアへ、東南アジアから西アジアに向かう。4月から9月は南西風に乗って逆方向に進む。一回で西アジアから中国に達する事はできないので、途中に帰港して次の季節風を待つ港市が発展する。

5世紀になると中国の南朝は安定し、モンスーン航海によるマラッカ海峡経由の東西往来が盛んになって交易船も増えた。エフタル等遊牧民がアフガニンスタン周辺から西インドへ進出して交易が阻害されると、ペルシア人は海路でセイロンを目指し、中国の絹や工芸品を仕入れ、乳香や没薬等の香薬を輸出するようになる。

インドや東南アジアの商人はこれを仲介し、さらに、スマトラやマレー半島で採れる竜脳や安息香など芳香性樹脂が乳香・没薬の代わりになる事も知って、中国に売り込む。マレー人が中心となったようだが、そうして中国に入る船は崑崙船と呼ばれた。狭い意味のマレー人ではなく、交易の共通語としてマレー語を使う東南アジアの人々を崑崙人と呼んだのだろう。

7世紀に入り唐が栄えると交易量は増大し、東南アジアの情勢も変化する。7世紀前半までは海峡諸国家からの朝貢が少なからずあったが、671年から8世紀前半までは、室利仏逝のみ記録に残る。このシュリーヴィジャヤは、スマトラ島南部、今日のパレンバン市に本拠を置いたと見られている。

義浄は671年に広州をペルシア船で発ち、室利仏逝に半年滞在し、ムラーユに2ヶ月いて、ケダー(マレー半島西岸)を経てインドに入った。

 

『南海寄帰内法伝』

義浄の著した『南海寄帰内法伝』は紀行文ではない。勉学と取経の旅であるのは同じで、仏跡参拝もしているが、地理書的なところはなくて滞在記である。南海、すなわち、室利仏逝(シュリーヴィジャヤ)国に寄ってインドに行き、帰ってきた仏法の記録だ。シュリーヴィジャヤで書き著して本国へ送っている。

訳書の副題が「7世紀インド 仏教僧伽の日常生活」とあるように、その風習が丁寧に記されている貴重な記録だ。『マヌ法典』の仏教版といえるかもしれない。仏教僧伽のあるべき正しい姿、日常生活の規範を求めてインドに渡り、それを事細かに記録した。唐代の仏教寺院のあり方を批判する戒律原理主義者である

義浄は玄奘より20歳ばかり若く、40年ほど後にインドへ向かっている。貞観9(635)年、斉州山荘、あるいは洛陽で生まれたらしい。名を張文明という。7歳で斉州土窟寺に入り、外典、四書五経等を学ぶ。14歳で得度、21歳で具足戒を受ける。37歳の時、馮孝詮というスポンサーを得て入竺を具体化するが、共に行こうと語らった同志は次々に脱落し、弟子の善行のみ付き従う。67111月に広州よりペルシアの商船に乗って出港する。

室利仏逝にて梵語を勉強し、法式、儀式のやり方を身につける。善行は病気になって入竺せずに帰国する。義浄は室利仏逝王の援助を得て、王船に乗って末羅遊(ムラーユ)、羯荼(ケダー)、そして裸人島(ニコバル諸島?)を経て、翌年2月、タームラリプティに到着する。

674年5月、大乗燈禅師と共に隊商に加わって仏跡巡礼の旅に出て、ナーランダー寺を目指す。しかし、病を得て隊商から離脱し、単独行となったところ山賊に襲われる。おそらく、船でインドにやってくる間も、度々、海賊に悩まされたはずだ。

ナーランダー寺では10年学び、その間に中国僧の仏陀達磨、玄照、僧哲、慧輪、道淋、智弘、無行等と交わる。彼等求法僧数十名の略伝を記した『大唐西域求法高僧伝』は室利仏逝で記し、天授2年、則天武后に献じた。

685年、義浄は無行禅師の見送りを受け、ナーランダーを出てタームラリプティに。その間、またもや盗賊に襲われるが難を逃れる。その冬、梵本五十万余頌を携えて帰国の途に着く。羯荼、末羅遊を経て室利仏逝へ。一時帰国する事はあったが、694年まで滞在して学び、著述、翻訳をする。その694年、60歳の夏に室利仏逝を発ち、1ヶ月の船旅で中国へ帰国の途に着く。翌年、洛陽に到着すると時の則天武后自ら出迎えたという。梵本400部、舎利300粒が仏授記寺に安置される。

そして、官僧として訳経に従事する。翻訳は『八十巻華厳経』『大孔雀呪王経』等56230巻。71379歳で逝去。官葬で弔われた。

 

ナーランダー寺院にデーヴァダーシーはいたか

さて、『内法伝』の中から、少し興味のあるトピックを取り上げる。仏教寺院内でカーストは問わないといっても、実際はバラモンが多く、クシャトリアと併せて大多数となる。仏教寺院の生活の決まりも基本的には『マヌ法典』を踏襲したインドの習慣だ。

その中でまず、芸能関係のトピックを拾ってみる。宮林の訳書でいうと第31章「灌沐尊儀」には尊像を沐浴させる儀式についての言及がある。日本の花祭りで誕生仏に甘茶を掛ける儀式の淵源だ。沐浴自体が暑いインドの慣習なので、仏様も暑いから沐浴する。

午前9時から11時の間に、まず、鐘をカランカランと鳴らして時が来たのを知らせる。寺の庭に天蓋が張り施され、仏殿の側には香の水が入った瓶がつらねられている。金銀あるいは銅や石の像を取り出し、銅や金、木あるいは石のひらばちの内に置かれる。諸の妓女に音楽を奏でさせ、磨香を塗り、香水をそそぐのである。 

ここに妓女とはあそびめと仮名が振られているが、おそらくデーヴァダーシーに近い存在だ。様々な楽器を用いて歌い、踊る事もあったと思われる。それは金剛界曼荼羅にも供養菩薩として描かれ、香華、歌舞を捧げている。僧侶はこうした事への言及は遠慮がちであるが、珍しい記録である。

彼女等が寺院内に住んでいたとは思えない。日本でも有名な参詣寺院の側に遊郭があったように、大勢の人々が行き交う街には必ずいた。ナーランダー寺院の僧侶が数千人とすると、その数に近い出家前の小僧、事務員・管財人やら雑役夫やら門番やら職人やらが必要となる。そしてそれを支える商工者で数万人の街を形成したのではないか。お茶の水・水道橋みたいな学園都市だ。

また、第32章讃詠之礼によると、ナーランダーには専門の唱導師がいて、毎日、夕方になると日が暮れるまで各所を巡ったようだ。声高でよく響き渡った。さすがに数千人もいると一堂に会して詠唱する事はできないのでその代わりだ。浄人と童子が様々な花を持って先導し、8院ある院を巡り、各殿で礼拝する。

今日インドの寺を巡ると、朝夕にお勤めの時間があり、鐘を鳴らし、灯明を捧げ、南インドの寺院等ではシャーナイや太鼓で楽を奏でる。今日、それは特定カーストの男が勤めるが、20世紀初めまではヒンドゥー寺院に仕えるデーヴァダーシーの役だった。処女の間は太鼓を叩いて伴奏し、客を取れるようになると踊った。

玄奘時代のハルシャヴァルダナ戒日王は、乗雲菩薩が龍の身代わりになった話にまつわる頌を編集して『龍王の喜び』という歌詠を仕上げ、これに楽器の伴奏と踊りを付けて世に流布したという。 今日ではテキストしか残っていない。

また、東インドの月官大士は、よく布施するスダーナ太子の物語『須堤拏本生』に歌と舞を付けてインド中に広く伝えた。馬鳴菩薩の『仏所行讃』もインドのみならず、南海でも諷誦しない事はないと義浄はいう。

 

西方学法

義浄は第34章「西方学法」で梵語について記している。中国では漢訳を通して仏教を理解しているが、直接、釈尊の言葉で学ばないといけないという趣旨だ。

声明シャブダ・ヴイディヤーは、今日の日本では仏教儀式の中で用いられる節の付いたお経の事を指すが、元の意味は言葉を明らかにする、音声学・文法学である。これが学ぶべき第一の学問。続いて、工巧明(くぎょうみょう)、すなわち、工芸や科学技術、医方明、つまり、薬学・医学、因明、つまり、論理学、内明=仏教学の五明を学ぶべきとしている。

さらに、インドやシュリーヴィジャヤでいかに梵語を学習するか、伝統的な学習階梯を解説している。

まず、6歳の童子が悉談章を学ぶ。6ヶ月で終了する。普通は悉曇章と書くが、梵字の読み書きの一覧表を習得する。日本語は子音+母音で単純だが、切り継ぎといって基本の字の組み合わせでいくつも子音がくっつくのでその法則を学ぶ。

時代や流派によって異なるが数千字にもなる。日本では悉曇というと、ほぼこの段階で終了してしまう。インド、インドネシアでは、当然、紙もノートブックもないので、地面に書いたか、せいぜい石板を使ったかであろう。

次は文法家パーニニのスートラを丸暗記する。アシュターディヤーイーの事だろう。義浄は大雑把に千頌というが、8章3996個の短文からなる。8歳の童子が8ヶ月掛け誦し終わる。単純に考えてその間の7歳児はどうするのだろうかと思うが大まかな目安だ。

その次にダートゥ・パータ、すなわち2200の動詞の語根、その活用、語根から名詞等が派生する仕組みなどを学ぶ。

次の三荒章は、10歳の童子が3年掛けて学ぶ。名詞の格変化、動詞の時制と法、人称、数、語彙合成の法則について学ぶ。

15歳からはパーニニ文法書の注釈であるカーティヤーヤナのヴァールティカ、パタンジャリのマハーバーシャ、カーシカー・ヴリッティ等に進む。ここまでは暗誦して身につけないと、インドに来ても十分な勉学の成果は上げられないと義浄はコメントする。

さらに、6番目としてマハーバーシャ(大注釈書)を3年間学び、7番目としてそのまた注釈であるマハーバーシャ・ディーピカー、8番目9番目としてバルトリハリのヴァーキヤパディーヤの頌とそのダルマパーラの注釈を研究する。

義浄は「学のまったく究極にて、これによって天地の奥秘、人理の精華を極め此処に学び至れば学全く成ったもの」と記すが、そこまで誰が到達するのか外国人では難しい事だろう。

 

リトルインディアからインド的王宮と寺院の建設

この書によって、シュリーヴィジャヤが海路でのインドとの出入口、リトルインディアとなって賑わっていた事が分かる。

しかし、当時の人々は、一体、何を食べたのだろう。果物や穀物について留学僧が記すことはあっても、料理については分からない。案外、文化の交流するマレー半島がカレー、黄色の混合スパイス料理の発祥地だったりするかもしれない。

義浄は671年に出発して694年に60歳で帰国している。この頃から中部ジャワのディエン高原にシヴァ神を祀る祠堂が建設され始めた。ボロブドゥールの仏塔に先立つものであり、南インドのマハーバリプラムにあるパッラヴァ朝の遺跡(7世紀)に似ている。

移民というべきなのか、インドから気候風土の似たスマトラやジャワに大勢のバラモンや職人が移り住んで来て祠堂や寺院を建設する。それ以前に、交易で稼ごうという商人が大勢いて、彼らが母国の宗教や祠堂を必要とし、スポンサーとなって建設が進められたのであろう。そしてそれをシャイレンドラ朝やマタラーム朝が格好いいじゃないかと採用する。

8世紀末から10世紀にかけてボロブドゥールやプランバナンの大規模な建設が行われ、仏教、ヒンドゥー教、ラーマーヤナ、マハーバーラタ等のインド文化が移入され、王宮はインドを模範とする。日本でいうと大化の改新、東大寺大仏開眼供養の時代と並行する仏教文化、インド文化導入時代である。

 

翻訳事情

義浄の書とは、直接、関係がないが、中国において如何にして訳経が行われたか、簡単に記したい。今日のように、うんうんうなって辞書を片手に進めるものではない。

時代によっても変わるが訳場というのは次のような仕組みになっている。大予算を付けてもらわないとできないので、たいていは国家事業として営まれる。真諦パラマールタの訳業は、州や県の長官クラスの支援を受けた。彼はウッジェイン出身で、海路で扶南国に至り、広州を経て健康に到達した。

鳩摩羅什、法顕、真諦、玄奘、義浄、不空が偉大な翻訳家として知られている。鳩摩羅什は西域の亀茲国出身で、インド生まれでも中国人でもない。初期の翻訳家には西域出身が多かった。

日本の翻訳家というのが一生に何冊翻訳できるのか知らないが、彼等は数百部の翻訳をしているのでスピードは速い。

妙法蓮華経の翻訳で知られる鳩摩羅什の時代、訳業は一種の法会として行われた。多人数の僧侶のみならず、時には数百人の聴衆を交えて解説し、質問も受けながら進めた。

中心となるのは訳主、それを書き留めるのが筆受である。梵漢に通じ、教理にも詳しくないといけない。しかし、時には『高僧伝』にあるように、インドの学僧が暗唱していた経を唱え、それを別のインド僧が筆受して梵文となし、別のインド僧が宣訳、すなわち、通訳して中国僧が筆受、漢字で書き留めるという事もあった。

羅汁以前の竺法護による『正法華経』は、記録によると286年8月20日から9月2日までの間に10巻を翻訳している。これでは右から左に書き写すようなスピードなので、いくら何でも早すぎるような気がするが、羅汁も玄奘も、大体は、一巻数日から十日程度のペースである。

隋唐の時代になると訳場は整備されて、専門家のみが役割分担して進める。それは訳主、筆受、度語(伝語ともいう)、潤文、証義等である。

『仏祖統紀』の「訳経儀式」によると、次のようである。

訳主が梵語の経典を口述する。証義は訳主の左に座り、共に梵語の文を討議する。証文は訳主の右に座り、訳主が高らかに唱える文に間違いがないか検討する。

書字の梵学僧というのがいて、唱えた梵語を漢字で記す。例えば心臓「フリダヤ」という語を「紇第野」と記す。筆受はこれを「心」と漢語にする。陀羅尼の場合は中国語には直さず、漢語としては意味不明の漢字の羅列で音訳する。

綴文が直訳を漢文の順序に直す。おそらく単語ごとに漢語に訳したのを中国語の文法の順序で文章化したのだろう。参訳が中国とインドの文字を点検する。刊定が冗長なところを修正する。潤文官が意を汲んで潤色する。より滑らかで意味が通る文章にする。般若心経の場合は、「度一切苦厄」は梵文の原典にはなく、潤色、潤文である。

必ずしもこの通りではなく、仮に役割分担をすべて説明するとこうなるという事だろう。羅汁は手に梵本を取って、口で梵語と漢訳を述べたという。また、インドから律を伝えた梵僧は、ウォーキング・ディクショナリーで律蔵を暗記していたと思われる。小経など暗誦している場合も少なくないだろう。

暗誦する場合、法華経とかラーマーヤナ位の分量が限界でマハーバーラタ全巻を記憶する者はいなかったと思われる。

 

参考文献

秋山学『ハンガリーのギリシア・カトリック教会』創文社、2010年。

桑山正進『異相ガンダーラの仏教』臨川書店、2022年。

義浄撰、宮林昭彦・加藤栄司訳『南海寄帰内法伝』、法蔵館、2004年。

長沢和俊訳注『法顕伝・宋雲行紀』東洋文庫、平凡社、1971年。

船山徹『仏典はどう漢訳されたのか』岩波書店、2013年。

楊衒之著、入矢義高訳注『洛陽伽藍記』東洋文庫、平凡社、1990年。

 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職

専門 インド文化史、身体論

更新日:2022.09.28