河野亮仙の天竺舞技宇儀51

法顕/天竺の旅行けば白檀の香り

円仁は838年に45歳で渡唐し54歳で帰国した。今でいえば壮年だが、病を得て亡くなってもおかしくない年である。71歳、古来稀なりという長命であったが、それより凄い僧が中国にいた。

中国からインドへは陸続きである。平安時代には日本から中国へ渡るのも大変だったので、高岳親王のように天竺までは行き着く事ができなかった。

一方、4世紀から8世紀の間に中国からインドへ求法巡礼の旅に出た僧侶は、名を残した僧だけでも169名。おそらく、その倍以上は天竺行を試みたかと思われるが、僧侶を中心とした巡礼団の多くは志半ばとなった事であろう。エベレスト登山のようなもので一人二人が登頂できれば良い、法顕のようなパーティーを見ても生還率は1割程。

玄奘三蔵の天竺行がよく知られているが、法顕はそれより200年以上早く、399年に旅立って412年に漂着。14年に亘る仏国記『法顕伝』を残している。円仁にしても法顕にしても体力、知力はもとより、諜報部員的な情報収集力、観察力、分析力、危機対応能力がある。

史上最高齢三蔵法師

法顕の生年ははっきりと分からないのだが、還暦を過ぎて出発している。およそ64歳で出発、帰国時は78歳である。僧侶は一般に長命だが、それでも最澄は57歳、空海も玄奘も63歳で示寂している。

自分の体力気力を考えても、今からインドへの長旅、まして留学して新しい事を学ぼうなどとは考えられない。超人である。長安にいて学んだ時、律蔵が欠けていたので、それを学び取りに行く取経の旅であった。経と律と論の三蔵を修めたのが三蔵法師である。

おそらくは、釈尊の歩んだ地を自分の足で踏む事が出来たら本望。何人か同志を誘って誰かが帰り着く、あるいは写本さえ送り届ければ良い。あるいはまた、経律論を身につけた僧侶、三蔵法師を連れて帰れば良い、私は捨て石となるというプロジェクトだったと思う。

智嚴ら4人の同志を募って出発し、無事、帰国したのは法顕一人だった。それから80歳前後で本来の目的であった律蔵の翻訳に取りかかるのだから、まさに超人である。

玄奘は西遊記の人気もあって何十冊も本が出ているが、法顕については、ほぼ、東洋文庫『法顕伝』くらいのものだが入手しにくい。Kindleでは河村哲夫『法顕の旅・ブッダへの道: 1600年前の2万キロの旅』を入手できる。

しかし、律文献の専門家佐々木閑が国際仏教交流協会で行った講演が公開されていて、巡礼行を要約したテキスト26ページもダウンロード出来るようになっている。これで法顕の旅を辿りながら仏跡案内もしてくれる。校正漏れが若干残っているが、仕事が出来る人は違うなあ。私はずぼらで到底こんな丁寧な仕事はできない。
https://www.ibba.jp/archives/4478.html?fbclid=IwAR3IFvLfc48Z2XFF2_xKf0RZcgzrMcZVR2ePg3sTGjyRF-8pHfguYRmGnNM

その人となり

法顕は山西省の出身で幼くして寺に入っている。北京の西側に当たるので西域への出入口ともいえる。様々な民族の人、旅行く人や商人と接して、この道が天竺に通じているのかと憧れていたのだろう。資料も集めて準備していた事と思う。出発まで何をしていたのか経歴、僧歴は不明。

この時代で有名な僧侶は、釈道安。道安は華北を統一した前秦皇帝符堅の良き相談相手、政治顧問となり長安に落ち着いた。鳩摩羅什を西域、亀茲国から招くよう進言した。

また、出家者は釈尊の弟子として自分の姓を捨てて釈を名乗るよう定めた。「僧尼軌範」を定めるなど、行儀作法や戒律に関心を持ち、インドの戒律を如何に中国寺院に適用するか腐心していたのだろう。おそらく法顕は道安の影響下にあった。インド本来の戒律とは如何なるものかと考えたと思われるが、道安との関係は分かっていない。

『高僧伝』などに法顕の人となりが描かれている。その修業時代、田んぼで稲刈りをしていると盗賊がやって来た。他の僧はすぐに逃げ出したが、法顕は「穀物が欲しいなら好きなだけ持って行け。おまえ達は前世で功徳を積まなかったからその境遇にいる。今また盗めば来世ではもっとひどい報いを受けるのだぞ」と諭すと、強盗は稲を捨てて逃げていったという。

作り話かもしれない。しかし、豪胆にして優しく諄々と理を説く姿が描かれている。その人となりは「志行明潔」「儀軌整粛」と記されている。どこでも王の良き友となって相談に乗る幅広い学識と世間的な知恵を持ち合わせていたのだろう。

天竺行を志したのは今の日本なら定年退職の年だ。自分の担っていた仕事、役職が一段落したので、いよいよ子供の頃から夢だった冒険に踏み切ったのではないか。

『法顕伝』は1万字程度、極めて簡潔で的確。天竺を志す人は自分で書写して持参、あるいは丸暗記する事も可能な分量だ。道案内となるように書いたものと思われる。これに尾ひれを付けて語ろう。

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それにしても旅の行程を見ると時間がかかりすぎている。まっすぐ行って、ぱっと帰ってくればいいじゃないかと思うのだが、そうはなっていない。寄り道、あるいは遠回りと思われる道のりで行っている。それには訳がある。

そもそも釈尊の時代には、無職の修行集団が生活していくため、マンゴー園のような農園がお休み所(アーラーマ)として提供された。また、竹林精舎だったら竹の子は食べないから、街へ出て村人に食を乞わないと食事にありつけない。金銀に触れる事や蓄財は戒律で禁止されていた。サンガ、すなわち僧伽が休める所アーラーマが僧伽藍サンガ・アーラーマで、これが後に寺院に発展する。

旅に出る時も同じである。三界に家なしという遊行の旅では、大樹の下で寝たりという野宿もあろうが、休む所を持つ有力者、大檀那を頼って喜捨を受ける。修行者は雨期以外、同じ所に何日も留まる事は許されず、修行の旅が人生だった。法を求める宿無し渡世人だ。

唐の時代になると貨幣経済も発達し、高僧は各地の寺院に出向いて講説し、資金を稼ぐ事が出来た。鑑真はあちらこちらに呼ばれ、戒律の講座を130回行い、授戒会で4万人に戒を授け、逗留した寺院の資金にすると共に、自らも仏舎利、仏像、経典、薬草を求め、日本にもたらした。

揚州崇福寺の寺主明演が鑑真の所にやってきて、
「近頃、堂宇も傷んできて修復しないといけない。寄付を集めるために、鑑真さん、崇福寺で戒律の講座を開いて、授戒会を催していただけないか」と相談を持ちかけている。今でいえば、ダライ・ラマがカーラチャクラの潅頂を行うなどといったら、ワールドワイドの大興業である。鑑真も仏教世界の大スターだった。

長安を発つ

法顕が、当時、どれだけ有名な僧侶であったかは分からない。諸国漫遊というわけではないが、行く先々で国王や有力者、大寺院に立ち寄って寄進を受けている。食料、備品や情報を得て、道案内やボディガードも頼んだのだろう。法顕も玄奘も沙河を渡るのが最大の難所であり、命からがら脱出している。それならそんなに苦労しないで海から行けばいいじゃないか。確かに法顕はスリランカで律を求め、海路で帰国している。

どうして海を使わないかというと、海難の恐れもあるが海中に寺院がないからであろう。しかし、商人は命を賭して海を渡り、ゴビ砂漠やタクラマカン砂漠を横断する。誰も行かない所から宝物を持って帰れば、それだけ高く売れるという訳だ。僧侶の場合、宝物とは経典である。命がけで取経の旅を企てる。

もう一つのシルクロード

法顕や玄奘が辿った草原の道シルクロードと海のシルクロードに加えて、色川大吉はもう一つのシルクロードを唱えていた。お元気だったのに去年亡くなられて残念であるが、私は1986年に色川隊長の下、東北大学西蔵学術登山隊人文班に加わり、北京から列車で二泊三日、西寧に着き、青海省からチベット、ネパールへと6200キロ、2ヶ月間の旅をした。

いにしえの長安からラサへ通じる絹の道の探索を志すものであった。まず、唐蕃大道(吐蕃道)の、4月だというのに寒風吹きすさぶ無人の荒野を行った。さすがに、髑髏や人骨は転がっていないが、車から馬や牛の骨はよく見た。隊長は4200メートルのマドオで高山病のため体調を崩す。

マドオは唐の太宗の皇女がチベット王ソンツェンガンポに降嫁するため、640年に長安からこの古道をたどって、はるばるやって来て幕営した地。さめざめ泣くというより止めどもなく涙が流れた事だろう。この文成公主がチベットに仏教を伝えラモチェ寺を建立した、中国文化をもたらしたとされる。

大キャラバンを組んで嫁入り道具を携え、持参金、貢ぎ物、大量の高価な絹織物などを贈ったと思われる。北方の脅威を除くための試みの一環である。ひとつお手柔らかにと。また、一方でソンツェンガンポ王はネパールの皇女も娶っていた。

色川隊長と別れ、我々若手は黄河源流のオーリン湖まで進んだが、青海湖畔に引き返して青蔵街道を行く事になった。ラサ、シガツェからは中尼公路(中国ネパール友好道路)でザンムー、カトマンドゥに抜ける。中インドに行くためには、砂漠を越えるより遙かに楽な近道、もう一つのシルクロードではないかと。

文成皇女の存命中に中国の巡礼が使節を伴ってチベットを経てインドに赴いた事が知られている。マガダ国王ハルシャは中国に使節を送り、中国は王玄策らの使節を送った。『法苑珠林』には、王玄策が高宗の顕慶2(657)年にネパールを通って仏袈裟を贈った事が見える。彼らはチベット、ネパールを経由したと思われる。人と共に文物が行き交っている。

唐の時代、吐蕃王国(チベット)も麝香、金銀、宝石、薬物、馬羊を輸出すると共に、四方からあらゆる文物を受け入れた。東西南北からキャラバンが頻繁に訪れ、街道では隊商宿やバザールが栄えた。決して陸の孤島ではない。

香料として使われるチベット特産の麝香は、4世紀の文献からローマ帝国に伝わっていた事が分かる。長安からローマまで道は通じていたが、法顕や玄奘の時にラサ経由で行っても頼るべき寺院や守護者はなかった。

法顕の行程

法顕の一行は399年の3月に長安を発ち、まず、約700キロを1ヶ月程歩いて乾帰国、西秦王の居城に至り、夏安居を過ごす。さらに今の西寧辺り、景王の居城楽都に進む。そこから南山山脈を越えて今の甘粛省張掖に至る。街道をまっすぐ進むのではなくジグザグに進んで行くのは国王に喜捨を求めるためである。

おそらくは、法顕が行く前に弟子の僧に天竺を志すという旨の親書、これも一種の勧進帳だ、を持たせ、どこがどんな条件で一行を受け入れてくれるか打診しながら進んだのではないか。だから時間がかかる。

さらに想像をたくましくすると、先駆けとして押しかけた僧は、「手前、生国と発しますは涼州にござんす」云々と名乗りを上げたことだろう。寅さんのような渡世人やヤクザの仁義は勧進帳にあるような山伏問答により、そのまた淵源が中国朝鮮にあっても不思議はない。簡単な質問をして力量を試し、門前払いか通すのかどうか決めた事だろう。
https://www.youtube.com/watch?v=E7SLIU_kHwE

張掖は大いに乱れ道路が不通だったため、北涼王の段業は一行を留めて施主となり、さらに同志を得て共に夏安居を過ごしたと法顕は簡単に記す。施主となるとは一行を賓客として迎え、衣食住一切の面倒を見るということだ。

しかし、その裏では当地の治安が乱れていた。敦煌で太守が死去して、その後任問題で紛糾するというトラブルが発生していた。約一年そこに留まり僧侶五人が新たに加わって、僧侶十人と従者、護衛を伴い敦煌へ出発する。法顕は王から贈られたラクダに乗ったようだが、楽だったかどうかは分からない。他の僧侶は歩くのだから荷物を積んだ方が効率的だろう。酒泉を通り敦煌に向かう。酒泉から敦煌は400キロ。このくらいなら1ヶ月内で往復できる。

キャラバンを組む

シルクロードでは東西の文物が行き交い、絹、金銀や奢侈品を取引した。すると横取りした方が簡単に儲かると考える盗賊がいる。それを避けるために大キャラバンを組んだ。榎一雄の研究によると、数十人、時には何百人かで数百頭のラクダや馬に荷物を積んで互いの安全を図った。1985年の昭和天皇へ榎のご進講「シルクロード国際貿易の特質」の要点が森安孝夫『シルクロード世界史』に記されている。

個人や少人数の旅行者は大規模で武装したキャラバンのボスにお金を払って参加し、服従を誓った。ボスは目的地や途中の立寄り先などの行程を示して団員を募って好日を選んで出発する。

個人客の方からいうと、適当な立ち寄り先で、また別のキャラバンを探して自分達の目的地に向かう事になる。バスを乗り換えるみたいな感じでキャラバンを乗り継ぐ。キャラバンの方からいうと、唐から天竺に直行しようというわけではなくて、実際は、その中間にある土地の物産を別の土地に運んで売る事をより頻繁に行ったと思われる。その方が砂漠を進むにしても事情が分かっていてリスクが少ない。法顕や玄奘の旅もそうした商人のルートを活用し、多くはソグド人が担っていたようだ。

沙河を渡る

敦煌太守李浩が資財を供給してくれたので沙河を渡った。楼蘭までの沙河について、法顕伝は「沙河中、多く悪鬼熱風あり。遇えばすなわち皆死す。」「上に飛ぶ鳥なく下に走獣なく」「ただ死人の枯骨をもって標識となすのみ」と簡潔に記す。流砂の中を17日間1500里(1里は400メートといわれる。唐の時代の1里は約560メートル。実際には400キロ程度か)を進んで鄯善国(楼蘭王国の後に建国された)についた。国王は仏教を奉じ、4000人余りの小乗仏教の僧がいて、僧侶はインドの言語と文字を習っている。

マルコポーロによると、流沙では仲間に置き去りにされたり、魔霊が話しかけてくるのが聞こえて旅行者は惑わされる。時にはいろいろな楽器の音、太鼓の音が聞こえる、食べるものはなく、水は馬で一昼夜行くと見つける事が出来る等々と描写される。蜃気楼が立って幻の湖を求め、砂嵐で何も見えず、衰弱して幻聴幻覚が起きるようだ。

出発の2年後、苦心惨憺して砂漠を渡りコータン(ホータン)に達する。僧侶は数万人もいて多くは大乗であると法顕は記すが、当時は人口2、3万人と推測されている。後の玄奘は僧侶5000人とする。それだけ仏法が盛んといいたかったのだろう。

法顕等は灌仏会に際して行像を見るなど3ヶ月滞在した。4月1日から14日まで、日毎に各寺院が仏像を飾られた山車に載せて巡回する。日本でいう花祭り、仏誕会である。元々は仏像などを神輿のようなものに載せて町を行進(ヤートラー)したと思われる。それが大規模になって象に乗せたり、あるいは大きな山車の出るラタ・ヤートラーになる。今年は7月1日にプリーで開催される。
https://www.youtube.com/watch?v=hHKcMAfx4vw

シルクロードを通って中国へ仏教を伝える中継地点に当たり、3世紀に朱士行がここでサンスクリット原典を求めている。19世紀には、カローシティ文字で書かれた(1、2世紀に書写されたか)法句経が発見されている。ここまで来れば目的の三分の一位は果たせた事になるのだろうか。

コータンにはクシャーン朝の仏教が入っていた。クシャーン朝は中国、インド、パルティアからローマまでの仲介貿易を担っていたが、242年にササン朝ペルシアに滅ぼされる。その後インドの商人に代わってペルシア系のソグド人の活動が活発になる。それによって西域南道から西域北道(天山南道)へと交易ルートが変わる。

法顕は敦煌-楼蘭-鄯善-且末(しょまつ、現チェルチェン)-コータンと進んだが、玄奘は高昌国-屈支(亀茲)国-疏勒(カシュガル)、そしてパミール山脈北端の凌山、おそらくベダル峠を越えてイシククル湖に出て、西突厥の素葉水城へ。そしてカーピシー-ガンダーラ-スワット-パンジャーブ-カシミールへと進む。

法顕インドに入る

法顕達は西行して402年にマムル国で3回目の安居に入りパミール山塊を登り、タシュグルガンで五年に一度の大会に参加する。四方からやって来て大勢集まった僧侶に国王が布施をする。七日間に亘る仏教徒大会だ。パミール、カラコルム山脈の困難な道を越え、インダス河(新頭河)を渡りスワット河の上流に入りウディヤーナ国に至る。

この国は言葉や衣服、食べ物も中インドと同じ、仏法は甚だ盛んで僧伽藍は500もあり、皆、小乗である。仏はかつてここに足跡を残し、仏足石、また、仏が悪龍を度した所等々の仏跡がある。法顕は旅に出て4回目の夏座を6月16日から8月15日まで過ごした後、ガンダーラ地方に進む。

スワット、ガンダーラではジャータカ物語にまつわる多くの仏跡を見た。この辺りの商人達は仏教の理論よりも、実際に見聞きできる仏の聖跡を求めた。タキシラ、サンスクリットでタクシャシラスは截頭、すなわち、仏が前世に月光王であった時、辺境の王に頭を求められ、自ら頭をはねたという故事に基づく仏跡を拝した。また、法隆寺玉虫厨子にも描かれたように飢えた虎に身を投げて捨身供養をした聖跡もあり、両者共に大塔が建てられて諸々の宝で荘厳されていた。

ガンダーラ地方に入って南行4日でプルシャプラ、今のペシャワールに着く。そこにはカニシカ王の建てた大仏塔、伝説の仏鉢があった。西に16由延(16ヨージャナは100キロほどか)行くとハッダ村には仏頂骨精舎があった。北へ1由延でナガラハーラ国城(ジャララバード)に着く。ここにも仏歯が祀られている。4回目の夏座を過ごす。仏の錫杖、袈裟も伝えられ供養されている。

東行してインダス河を渡り中インド、マトゥラーに入るが、その間の行程はよく分からない。そこまで来れば問題は少なかろう。ヤムナー河の両岸には20の僧院があり、僧は3000人もいて仏法は盛んであったという。この国では鶏や豚を飼わず、屠殺場、酒屋はない。奴隷は売らない、売買にはタカラ貝を使うと報告する。

また、衆僧の住処には舎利弗塔、阿難、目連などの塔がある。衆僧は大いに集まって説法をし、舎利弗塔を供養し、香華を供え、一晩中燈を燃やす。そして、伎人に舎利弗が外道のバラモン僧であった時、釈尊の下に来て出家を申し出た因縁譚を演じさせたという。これは馬鳴作の戯曲『シャーリプトラ・プラカラナ』のような出し物を演じた事と思われる。

インドには客人歓待の習慣があり、客僧がやってくると寺に住んでいる僧侶が出迎え、代わりに衣鉢を持ち、足を洗いマッサージして塗足油を塗り、簡単な食事を提供する。しばらく休んだ後に夏座の数、すなわち出家して何年か訪ね、房舎と座具を与えるなどという決まりの事が書かれている。夏座も律の定める所なので、次の国サンカーシャでは夏安居を行う。

仏跡巡礼の中心地へ

さらに、カナウジ、そしてコーサラ国舎衛城(シュラーヴァスティー)の祇園精舎に進み、仏の行跡を追憶しつつセンチメンタル・ジャーニーを続けながら、カピラヴァストゥ、かつてのシッダ太子の王城に着く。もはや、衆僧と民戸が数十件あるのみと記す。

釈尊の育ったカピラ城、カピラヴァストゥと目される地は二カ所あって、ネパール側のティラウラコットとインド側のピプラーワーで、どちらとも決しがたい。

ちなみに城というのは日本でいうお城ではなくて、城壁に囲まれた街(pura)のことだ。ネパール側の遺跡を訪ねた事があるが、お釈迦様の国は小国だったので王城の範囲も狭いような気がする。カピラ城から東に50里でルンビニーと法顕は記すが、両者とも30キロ程度離れている。

ルンビニーは釈尊生誕地、東に12由延(実際には163キロ)でクシナガル城に着く。釈尊が涅槃に入られた地、金棺に納めて7日間供養した地、八王が舎利を八分割した地などがあり、諸処には塔を建て伽藍があった。巡拝しながら釈尊の生涯を思慕するのである。由延、由旬はインドの単位ヨージャナで、古代インド軍の一日の行程というが、約7キロとか10キロとか一定しない。

そして、ヴァイシャーリー国に至る。ここにはもと遊女のアームラパーリーの家があって、仏のために塔を建てたのがそのまま存在していた。アームラパーリーは出家し、マンゴー園を献じ、仏が受けてそこに住んだという場所がある。仏はここで3ヶ月後に涅槃に入ると言った。

行像という祭礼

マガダ国の首都パータリプトラ、現パトナーに着く。かつてのアショーカ王の都でアショーカ柱も多く発掘されている。往時は周囲40キロに及ぶ城壁に囲まれていた。「ナーランダー大学」(パトナーの東南94キロ)が陣容を整えるまではこの地が仏教の中心だった。

卯の月(中国の2月で春節)の8日には行像を行う。インドでも立春のチャイトラ月が正月。第二月ヴァイシャーカー月の満月の日、今年のインドでは5月16日が仏誕会。日本では新暦4月も卯月というので4月8日が釈尊の誕生日とされる。キャンディのペラヘラ祭りはおよそ8月だが、コロンボのペラヘラは1月下旬から2月の満月辺り。ペラヘラは行列という意味だ。

四輪車の上に竹を縛って鉾を建て、それは塔のようである。その上に白木綿で覆って諸天の姿を彩画する。金銀瑠璃でその上を飾り、絹の幡を掛け四辺に仏龕を作り、そこには坐仏があり菩薩が立侍している。このような山車が20基それぞれに飾り立てている。道俗皆集まり、音楽と踊りを行い、香華を捧げて供養する。

やがてバラモンが来て仏を招請し、仏像は次々と城内に入って二日間泊まる。その夜は一晩中燈を燃やし、伎楽を奉納して供養する。国々どこでもこのようにすると法顕は記す。

ここで伎楽というのは日本でいう仮面を被る楽舞ではなくて、仏教行事に関わる音楽舞踊演劇一般をいう。舎利弗・目連が釈迦に帰依する物語や笑劇が行われたのではないか。

ケーララ州トリュールのプーラム祭(今年は5月10日)では寺院の中でサンスクリット劇クーリヤーッタムが上演されるが、このような伝統を受け継ぐものであろう。今日のジャガンナートの祭りとまではいかないが、当時、インド最大の祭礼だったと思われる。
https://www.youtube.com/watch?v=hvts3A3DtWs

法顕は書かないが、町には遊女がいた。ひょっとしたらデーヴァダーシーやラージャダーシーが踊っていたかもしれない。また、この国の長者、居士は福徳医薬舎、日本でいう施薬院を建てて、僧侶が困窮者に薬を与え治療に当たっていた。

ナーランダーから西南12キロで王舎城ラージギルに至る。ビンビサーラ王の時のマガダ国の首都。王は竹林精舎に僧伽藍を建てた。ビンビサーラ王の旧城の他、阿闍世王の作った王舎新城があった。王舎城東北には霊鷲山がある。また、伝説の医師ジーヴァカがアンバパーリの園中に精舎を建て、仏と1250人の弟子を供養した所もそのまま残っていた。

さらにラージギルから西南50キロのガヤ城、そしてブッダガヤーを詣でる。菩薩として6年間苦行した所、大樹の下で乳粥を食した所が残っている。成道して7日間解脱の楽しみを味わった所等々に塔が建てられていた。三つの僧伽藍があり、戒律は厳しく、行住坐臥の威儀や食事の作法などは仏在世の時と同じと記す。

一旦、パトナに引き返してバナーラスに向かい、仙人鹿野園精舎を詣でる。初転法輪、悟りを開いて初説法した地サールナートである。コーシャーンビーを経てパトナに戻り、法顕は404年から3年留まり、大乗の寺天王寺に滞在して本場のインド僧と共に梵語仏典を学びながら律を写した。もう70歳になっていた。

共に学んだ道整は中国には帰らずこの地に留まって修行する事を決心するが、法顕はここで学んだ律を伝えるべく帰国の途に着く。ガンジス河を東に下ってチャンパー国に至る。さらに下って河口のタームラリプティに着く。東インドの海上貿易の中心、陸路と海路を結ぶ要衝である。ここには24の僧伽藍があり、仏法も盛んなので2年留まって経を写し、像を画いた。

海路を行くも嵐に遭遇

ここから商人の船で冬の初めの東北風に乗ってランカー島、師子国に渡る。この国では仏歯が尊崇されていて、毎年3月に仏歯精舎から出す。街路を美しく飾って香華など供養の具を整える。無畏山精舎(アバヤギリ)の仏塔に仏歯が移されると、道俗は焼香し、灯明を点し、種々の法事を昼夜分かたず行い、満90日経つと城内の精舎に帰る。今日のペラヘラ祭りも仏歯を祀るものである。アヌラーダプラの摩訶毘訶羅精舎に詣でる。
https://magazine.his-j.com/archives/3858

法顕は律蔵、長阿含、雑阿含などの経典を写し、この国で2年研鑽した。77歳になった。200人余り乗れる商人の大船に乗って帰国の途に着く。嵐に襲われ13昼夜かかってある島(ニコバル島辺りか)を経て、90日ばかりで耶婆堤国、ジャワ、あるいはスマトラに到着。90日ではなくて、9、10日という読み方もある。この国では外道が盛ん。5ヶ月ほど留まって別の商人の大船に乗り換え50日分の食料を備え、4月16日に発って洋上で安居する。資料により20日、あるいは1月経って大暴風雨に襲われる。観世音菩薩に祈り漢土の衆僧に加護を求めた。

乗り合わせた商人やバラモンが異教徒の法顕を降ろせば(おそらく人身御供として海に放り投げれば)船は助かると言い始めたが、法顕の乗船を請け負った商人が、法顕を降ろすなら私も降りると抗弁して窮地を救った。70日ほど漂流する。山東省の牢山、青島の東に上陸する。412年7月14日の事である。

山東省の支配は法顕の旅の間に五胡十六国の燕から東晋に移っていた。東晋は法顕を健康(南京)に迎えた。道場寺において、智嚴がカシミールから連れて帰った仏駄跋陀羅と共に翻訳を進めた。インドの律僧はウォーキング・ディクショナリーで、派によって伝承する律を暗誦している。

仏跡巡拝団は各人の目的が異なり、インドのサンガで修行をして一生を終わりたいと望む道整のような僧もいれば、インド僧を連れて帰れば中国に正しい伝承を伝える事が出来ると考える智嚴のような僧がいる。そして、できるだけ多くの派の律文献を収集して研究したいと考えたのが法顕である。

法顕は湖北省荊州の江陵に移り住み、辛寺(あるいは新寺)で亡くなった。享年86歳、没年がはっきりしないので82歳説もある。

法顕は淡々と旅の記録をし、後に天竺行を志す者のために案内書を綴った。二度と来る事はあるまいと、丹念に故事を訪ね、釈尊の標した足跡を味わい尽くすように旅をして記録を残した。

後に夏安居が終わって(416年7月15日)語るには、
「今、顧みても冷や汗が流れる。危ない所を渡り、身の危険を惜しまなかったのは、堅い志があって、自分の愚直を押し通したから。命を必死の地に投じて万に一つの希望を達したのである」

日印国交樹立70周年

長い間、天竺行は仏教徒の夢であり、僧侶は入竺沙門となりたかった。昭和時代、ヒッピー旅行が流行った頃は、住職と檀家さんのグループによる仏跡巡拝、旅行社はもとより、宗派や仏教系の新聞社や出版社、日印協会などの団体が主催する様々なツアーが盛んに行われていた。

しかし、1972年、日中国交正常化の後は、それぞれ宗派の祖山を中国に訪ねたり、その先のシルクロードに目が向くようになった。

今やコロナ禍と政情不安のため、インドもシルクロードも行くのは難しい。日印国交樹立70周年の今年、イベント開催についても予断を許さない状況だ。秋にナマステインディアは復活するのだろうか。インド行きのツアーを組む事は可能だろうか。

人は旅をする動物だ。早く健康な生活が送れて、世界に平和が訪れて旅が出来るように祈るばかりである。

参考文献

色川大吉『雲表の国/青海・チベット踏査行』小学館、1988年。
桜井俊彦『インド仏跡ガイド』法蔵館、2014年。
佐藤良純『ブッダガヤ大菩提寺』山喜房佛書林、2013年。
長沢和俊訳注『法顕伝・宋雲行紀』東洋文庫194、平凡社、1971年。
長野泰彦・立川武蔵『チベットの言語と文化』冬樹社、1987年。
森安孝夫『シルクロード世界史』講談社選書メチエ、2020年。
R.A.スタン著山口瑞鳳・定方晟訳『チベットの文化』岩波書店、1971年。

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2022.03.17