河野亮仙の天竺舞技宇儀㊺

ビートルズが発見したインド~その1

ビートルズの頃

小学校の頃、新聞はテレビ版しか見ない。ラジオ欄にはビートルズ、ビートルズ、ビートルズとどの局にも何回も名前があって、ビートルズというのはベンチャーズのような一つのグループではなくていくつもあるのか、普通名詞なのかと思うくらいだった。

もっとも、普通名詞という言葉は中学校に入ってから習う。まだまだのどかだった1966年に私は楽しい1年生。

1964年の東京オリンピックでは、授業中にマラソンのアベベを見せてもらった。1965年、アメリカは北ベトナムへ空爆を開始、この年マルコムXは殺され黒人暴動が起きる。1966年末にはアメリカは50万人近い兵士をベトナムに送り、ベトナム市民50万人が亡くなったという。

カシアス・クレイは1964年、ソニー・リストンに勝ってヘビー級チャンピオンになると奴隷の名前を捨ててモハメッド・アリと改名する。マルコムXの影響を受け、ネイション・オブ・イスラーム(NOI)に入りイスラーム教徒となっていた。キリスト教は白人の宗教であるとし、黒人だけの国、地域を望むというブラック・ナショナリズムだ。マルコム・リトルも白人の奴隷所有者に押しつけられた名前なのでXとした。マルコムは後にNOIを脱退し、そのメンバーに暗殺された。

ブラック・モスレムの教えでは、アッラーの命令がない限り武器を持つことは出来ないとする。良心的徴兵拒否を宣言し、アリは社会に大きな影響を与えた。1967年に有罪判決を受けたが、1971年にそれは破棄されてボクシング界に復帰する。アントニオ猪木と戦ったのは1976年。遠い昔話になってしまった。

日本では、ベトナムに平和をと唱えるベ平連が結成される。新宿ピットインは、1966年のクリスマスに開店。カー・アクセサリーを売る店のBGMにジャズをかける店としてスタートしたが、カーマニアではなくジャズマニアが集まった。

中国では文化大革命が起こり、紅衛兵が暴れまくる。1966年1月、早稲田大学は授業料値上げに反対で、全学ストライキ。ベトナム戦争は泥沼化して1967年には反戦運動が盛んになる。1968年に東大紛争が起きて、翌年1月に安田講堂を占拠している全共闘を排除するために機動隊が入った。激動の時代だ。この1969年にウッドストック・フェスティバル。

1968年4月4日、マーティン・ルーサー・キングが暗殺される。キングはガンジーの非暴力主義に共鳴し、1959年2月から3月にインドを訪れ、ガンジーの墓の前に跪き、ネール首相と会談をする。インドは世界に非暴力を働きかけ続けると答えた。

仏教学者の立川武蔵は1967年夏から1970年秋までハーバード大学に留学した。夢の国アメリカはその間に激変する。1969年夏にはハーバードの大学本館が学生によって占拠され、警察が入る。大学内の雰囲気は一変した。アメリカが変わると世界も変わる。

ビートポップス

一方、のどかな日本では1966年4月から1971年1月まで「テレビディスコティクショー/ビートポップス」という大橋巨泉の音楽番組をフジテレビがやっていた。昭和でいうと1941年から1945年、私にとっては受験体制に入る前ののんびりした時代だった。
https://www.news-postseven.com/archives/20160724_432982.html?DETAIL

ジャズ畑出身の大橋巨泉の両脇にミュージックライフ編集長の星加ルミ子、ティーンビート編集長の木崎義二が座り、ディスクジョッキーの草分けというかんじ。アイドル路線のミュージックライフに対し、ティーンビートはリズム&ブルースを扱うなどややマニアックだったが、より本格的な中村とうようのニューミュージックマガジンが創刊されるといつの間にか廃刊になっていた。

ビートポップスはアメリカの人気番組ソウルトレインの日本版を目指したと思われ、お立ち台?の上で杉本エマや小山ルミが踊っていたが、生バンドが入るわけではなくディスクをかけた。後に俳優になった藤村俊二が振付師として登場し、ゲストで湯川れい子や元ベーシストの本多俊夫(サックス奏者本多俊之の父)が来て解説をしていた。

台風と共にやってきたビートルズ

台風とともに1966年6月30日午前3時40分、ビートルズは羽田空港に到着。台風のためアンカレッジで9時間足止めされたのだった。その30日から7月2日にかけて5回のコンサートが日本武道館で行われた。直前6月6日に、力道山のリキ・スポーツ・パレスで行われたアニマルズ公演は700円均一、ビートルズのチケットは1,500円から2,100円、アルバムと同程度、ギリギリ中高生が買える値段設定だった。

中学1年生の私はチケットに応募することもできず、テレビで見たはずだが、何も覚えていない。テレビ番組の宣伝で「ミスターアア、ムーンライト」とジョン・レノンが歌っていたことだけを覚えている。

夏休みの頃か、父親にビートルズ来日記念盤の2枚を買ってもらった。ステレオ盤というのが売りで、イギリス盤の曲順を変えたものだった。以前の盤は日本編集・選曲のモノラル盤。焼き直しで手を変え品を変え何回も買わせようというビジネスはこの時から始まっている。

当時、シングル盤は2曲で370円なので、普段はEP盤というヒット曲が4曲入ってる500円のレコードを買った。ビートルズのLP、東芝オデオンは半透明の赤い盤で1,800円した。大卒の初任給は2万円ちょっとだった。ビートルズを日本で売り出した東芝のディレクターは、バイオリンの高嶋ちさ子のお父さんで高嶋弘之。

殺人的スケジュールのビートルズは、3日午前10時40分に東京を離れ、香港経由でフィリピンに向かう。ビートルズがマルコス大統領のマラカニアン宮殿に招かれたのに姿を現さないとテレビで放映しているのを彼らはホテルで見ていた。断ったのが伝わってなかった。暴動のようになっているところ、5日午後4時45分、逃げ出すようにマニラ空港を離陸し、バンコック経由でニューデリーに向かったのだった。

夜中に着いたのにあっという間にビートルズは発見される。どこへ行っても「ビートルズ、ビートルズ!」、そして物乞いが「バクシーシ、バクシーシ!」と手を出す。

しかし、ジョージは楽器屋のリキラムでちゃんとしたシタールを求めることが出来て、所期の目的を達した。

この年8月に最後のアメリカ・ツアーを行って、ビートルズは公演活動を休止したのだった。

9月にジョージはお忍びでインドを訪ねる。ボンベイのタージマハール・ホテルにサム・ウェルズという偽名で投宿するもすぐに発見されてしまう。

シタール発見!

話を巻き戻して、1965年4月、映画「ヘルプ!」の撮影の時、ロンドンのトゥイッケナム・フィルム・スタジオにインド・レストランのセットが作られた。そこに置いてあったシタールをジョージ・ハリソンが取り上げて音を出してみたのが事の始まり。

ジョージはその後すぐ、大英博物館側のインドの店で安物のシタールを手に入れる。アルバム「ラバーソウル」収録「ノルウェーの森」(1965年10月制作)は、シタールを習う前に弾いていた。
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https://tsunagaru-india.com/knowledge/河野亮仙の天竺舞技宇儀⑨/

映画「ヘルプ!」の物語は、リンゴがファンから「カイリ教の生け贄の指輪」をもらってしまったことに始まる。本名リチャード・スターキー、リンゴの名は指輪リングに由来する。

カーリー女神を念頭に置いたのか、バハマにあるカイリ教の国が舞台となる。この指輪をつけている者は8本の腕を持つ邪悪な女神カイリの生け贄となる運命にあるという話だ。人身御供の儀式が始まる時、生け贄に指輪がないということが分かる。やがて、その指輪がリンゴの指にあるということで、一味に付け狙われ続ける。大きなルビーの指輪がどうしても抜けなくなって大騒ぎとなる。カイリ教団の追っ手が迫り、指を切り取られるかリンゴ・スターが誘拐されようかというドタバタ映画だ。

ラジャハマというレストランに入ると、ヨーガ行者が逆立ちしていたり、針の筵に寝ていたり。それが当時のインドのイメージだった。シタールを抱えた楽団のシーンでは中近東風の音楽が奏されて、ベリーダンスらしき踊りを踊っているというハチャメチャぶり。インド舞踊とベリーダンスが混同されるのは今も同じ。

オーストリアでスキーとカーリングを楽しむシーンもあるが、これは忙しいビートルズに対するボーナス、仕事を兼ねた休暇なのだろう。陸軍演習場でのロケもあり、真面目に考えると分からない映画だ。

この映画にはビートルズの未来を暗示するような事があった。髭を生やして変装したり、軍人風の服を着たり。また、バハマで自転車を乗り回すシーンを撮影する時には、どこで聞きつけたか、ハタ・ヨーガのスワーミー・ヴィシュヌ・デーヴァーナンダがやってきて、瞑想に関する本を手渡した。瞑想を脅かす猛烈な気を感じたらしい。その日1965年2月25日はジョージの22回目の誕生日だった。若い!スタントも自分自身でやった。

ラヴィ・シャンカルとの邂逅

1965年12月にビートルズは最後となるイギリス・ツアーをした。ジョージは1966年にラヴィのアルバム「ナヴァ・ラサ・ランガ」を聴き、ロイヤル・フェスティバル・ホールで行われたリサイタルにも出かけていたようだ。

また、友達のアンガーディがアジアン・ミュージック・センターを運営していて、その紹介でラヴィ・シャンカルとランチをして(ディナー説もある)親交を深めてゆく。6月のことかと思われる。

しかし、「ダーク・ホース」というジョージの伝記には、彼の話として、「ぼくが初めて彼に会ったのは、夕食に呼ばれてロンドンのビーター・セラーズの家に行ったときのことだった「彼はシタールの基本を教えてあげようかと言ってくれた」とある。インタビューというのも記憶が曖昧なまましゃべるので、たいてい諸説あるが、1966年ということでは間違いがなかろう。

ラヴィは、ジョージは私の息子とまで言って可愛がった。イギリスにいる間に彼の邸宅に出かけてシタールの手ほどきをした。ビートルズのためのホーム・コンサートも行ったが、インド行きを誘われる。

ビートルズが髭を生やすようになったのは、ジョージがボンベイに行くのに際して変装するようにラヴィが勧めたのがきっかけである。

1966年9月のこと、空港までラヴィ自身がジョージと妻のパティを迎えに行く。偽名で泊まったのにもかかわらず、タージマハール・ホテルに着くやエレベーター・ボーイに見破られて、大騒ぎになる。あっという間にファンが何百人、何千人?とホテルを囲んで何時間も「ウィ ウォント ジョージ」と叫び続けたという。

19日にはホテルで記者会見を開き、事を公にして沈静化を図る。ビートルズとして来たのではなくて、一弟子としてシタールを学びに来たのだから静かに見守ってくれと。

ラヴィはボンベイに1963年からキンナラ音楽院を開いていた。その分室を1967年5月、ロサンジェルスに開いた。おそらくコルトレーンはそこに参加する予定だったのだろうが、ジョージと交わることはできなかった。

瞑想修行

9月20日、ボンベイでは落ち着けないのでジョージらはカシミールに飛ぶ。ダル湖のハウスボートで2週間を過ごす。ラヴィはヨーガ行者ヨーガーナンダの自伝を、ラヴィの兄ラージェーンドラは、ヴィヴェカーナンダの本をジョージに渡す。インド音楽はスピリチュアルな道を開くきっかけとなった。インド滞在は6週間ほどでバナーラス等も周遊したようだ。

1967年の8月24日、インドにのめりこんだパティは友人に誘われて、ロンドンでTM(超越瞑想)のレクチャーがあることを聞く。トランセンデンタル・メディテーションはヨーガの瞑想によって超越的知識を得る、現実を超越して自由になるということらしい。自己の本質は至福であって、瞑想によって神の意識に到達することを目指す。マントラを与えられて唱えるらしいが、入門しないことには詳細は分からない。

ビートルズはロンドンのヒルトン・ホテルで行われるマハリシ・マヘーシ・ヨーギーの講演を聞いた。

そして彼らは、北ウェールズ沿岸のパンゴアにおける10日間のコンファレンスに参加することを決める。それにはビートルズの面々とその妻、恋人のみならず、ミック・ジャガーとその恋人マリアンヌ・フェイスフル、パティの妹ジェニー・ボイドも一緒だった。何故かそれをマスコミは嗅ぎつけ、パディントン駅に着くと何百人ものファンが集まっていた。

美人姉妹のパティとジェニーはインド舞踊のレッスンまで受けるほどのインド狂いだった。

そのさなかにビートルズのマネージャー、というより「発見」して売り込んだ大恩人、ブライアン・エプスタインが薬物の過剰摂取で27日に亡くなるという知らせが届いた。バンドは戻ってくる。マハリシからアドバイスを得て、

「エプスタインの死は物質界の出来事でさほど重要ではない」というような見解を記者会見で示したようだが、現実には狼狽していた。マハリシは「そんな事は忘れなさい、幸せにしていなさい」とあの馬鹿野郎が答えたとジョン・レノンは後に回想している。超越的な答えは役に立たない。

9月1日にポールの家に集まって。超越瞑想のためにインドへ行くというプランを延期し、映画「マジカル・ミステリー・ツアー」の制作に専念することを決める。勿論、曲作りと一緒である。

9月29日と10月3日にはデビッド・フロストの深夜のテレビ番組に、ジョンとジョージは出演して超越瞑想について語っている。マハリシへのインタビューも放映された。ちょっとしたブームになろうとしている。マハリシは10年も前からロンドンに乗り込んでいたが、ビートルズによって世界中に喧伝される。

超越瞑想はセレブや大企業の幹部に売り込み、講習料が高いので私には縁がなかった。空中浮揚を売り物にしたオーム真理教が流行った頃、超越瞑想の方でもみんな「ピョンピョン飛んでいる」と噂されたが、実態は知らない。

瞑想の効果は講習料に比例するものではないが、きちんとやればそれなりの効果はある。ビートルズであり続けるというストレスの軽減、酒浸りドラッグ漬けという生活から離れる習慣を身に付ける、都市生活のデトックスという点で十二分に効果はあったと思う。

参考文献

相倉久人監修『新宿ピットイン』晶文社、1985年。
アラン・クレイソン『ジョージ・ハリソン/美しき人生』プロデュース・センター出版局、1999年。
エミリオ・ラーリ『ビートルズ写真集/映画ヘルプの現場から』ヤマハミュージックメディア、2015年。
恩藏茂『ビートルズ日本盤よ、永遠に』平凡社、2003年。
黒崎真『マーティン・ルーサー・キング』岩波新書、2018年。
上坂昇『キング牧師とマルコムX』講談社現代新書、1994年。
ジェフリー・ジウリアーノ著豊岡真美訳「ジョージ・ハリソン・ストーリー/ダーク・ホース」CBS・ソニー出版、1991年。
ジョージ・ハリソン著山川真理訳『ジョージ・ハリソン自伝』河出書房新社、2002年。
ジョン・レノン著片岡義男訳『回想するジョン・レノン』草思社、1972年。
テリー・バロウズ著山本安見訳『ザ・ビートルズ/奇跡の10年史』シンコー・ミュージック、1999年。
デレク・テイラー著水上はるこ訳『サイケデリック・シンドローム』シンコー・ミュージック、1988年。
マーク・ルイソン著ビートルズ・シネ・クラブ監修・翻訳『ビートルズ全記録』1・2、プロデュース・センター出版局、1994年。

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2021.09.03