河野亮仙の天竺舞技宇儀㉓
放浪する芸人たち/ジプシーはインドから出たのか
ジプシーの数詞など基礎語彙がヒンディー語に近く、インドからヨーロッパへ渡ったのではないかと、昔、ハンガリーとスペインで民族音楽調査をした時の感想を小泉文夫がエッセイに書いていた。
用いる言語、ロマニ、あるいはドマリは印欧語族に属す。カタックがヨーロッパに渡ってフラメンコになったのではないかとロマンティックに想像する人もいることだろう。小泉は次のように記す。
「北インドの音楽大学の学生だったころ、私はカタックも習っていたが、女の先生の一人がスペインに旅行してフラメンコを見た時、先生はインド舞踊の影響がそんなに遠くまで及んでいるのを見て驚いた、と話していた」
https://www.youtube.com/watch?v=EbHZceBTDv8
https://www.youtube.com/watch?v=yYPdzQWEK1g
砂漠のジプシーとしてラージャスターンの芸人たち、ランガやマンガニアール、インド中部ブンデルカント地方のラーイーと呼ばれる芸能の踊り子ベーリニーが紹介されることもある。
そもそもジプシーと呼んでくれるな、ロマと呼ぶべきだという意見もあるが、日本ではロマといっても誰も分からない。ジプシーキングスのようにジプシーということに誇りを持っているグループもある。
ジプシーの語はエジプト人、エジプシャンから来ていて、その中にはギリシア、中近東も含まれる。キリスト教圏から見て異教徒という意味も含まれている。いわゆるジプシーにはブロンドの髪、青い眼のコーカソイドも黒人もいて、単一の民族とは思われない。
定住民というのか、普通の社会生活の枠の外側にいて排除あるいは敬遠されている階層の人々だ。
日本人のイメージとしては、幌馬車に乗って流浪する浅黒い人々、芸人集団とジプシー占い、動物遣いが思い当たる。町から少し離れたところでテントを張り、町の住民とは別の生活をしている。日本人は実際に接触したことはないので、泥棒であるとか、売春婦だとかいうマイナスイメージはないのではないかと思う。
勿論、これらは全くの濡れ衣であり、幌馬車は自動車で引くトレーラーハウスに変わった。現在では漂白民ではなく、ほとんどが定住している。
ジプシーの起源
ジプシーの起源についてはアラブの歴史家イスパハンのハムザが「王の歴史」(950年)の中で5世紀ササン朝ペルシアのバフラム・グール王が臣下、あるいは民衆の楽しみのために、インドの王に頼んで1,200人のゾットという楽士を招いたという話がある。
この話は杉山二郎によると1,200人、ブロックは12,000人とするが、どのみち実数ではなく伝説、伝承である。おそらく千人単位のことであろう。
フェルドゥーシの叙事詩「王書シャーナーメ」(1011年)にもその話は伝えられている。バフラム・グール王は、カンボジア(東南アジアではなくてアフガニスタン辺りの国)のシャンカル王に使いを出し、リュートの演奏の出来るルリ族の男女10,000人を招いた。
王はそれぞれにロバ1頭、牛1頭と小麦を与えて働かせ、貧しい人たちの楽しみのために歌や踊りを演奏させようようと考えていたようだ。しかし、彼等は小麦も牛も食べ尽くして役に立たなかったので、ロバの背に楽器をくくりつけて追放した。それ以来ルリ族はさすらいの日々を送っているという。
ゾットやルリはジプシーというか、流浪の芸人を指すペルシア語ともいわれる。杉山は「遊民の系譜」で、モリエルの小説「イスファハンのハジ・ババ」を村田昌三訳「ハジ・ババの冒険」から紹介している。「香師(やし)も悪くはないが、熊や猿などの動物を扱い慣れねばならないので、直ぐの間に合わず」とある。
香師の原語はルーティlutiで、原文には注記して「このルーティたちは特権を与えられた道化で、普通は猿や熊を連れ歩いている」とある。新版イスラーム百科事典によると「猿や、熊また羊を連れて辻で芸を売る連中を指す」とある。lutiのtは反り舌音で、日本人にはラリルレロに聞こえる。他の典拠には気ままな渡世人、賭博師、大酒食らいともある。
杉山は江上波夫を団長にイラン高原の発掘調査に入り、ペルセポリスの近郊でジプシーの楽団を見たという。江上によるとシリアに行ってもイラクに行っても町のそばに粗末なテントを張ってるジプシーがいた。イラクのバスラとクウェートの間にはジプシーの大部落があったという。今や離散、崩壊していると思われるが、どこへ逃げって行っただろうか。ある意味自由だ。
8世紀あるいは10世紀にジプシーの元となる集団がインドを離れたと多くの学者は考えている。それはイメージ的にはラージャスターン、パンジャーブ、クジャラートなのだが、いわゆるグレーター・インディア、パキスタンの国境を越えてアフガニスタン辺りまで頭に入れないといけない。交通の要衝、貿易通商路にあるので、そこからユーラシア大陸各地に散っていった。
オリエンタル・ダンス
関口義人「オリエンタル・ジプシー」には、ジプシー・ダンサーについても書かれている。宮廷で踊る半裸の踊り子が千夜一夜物語に描かれるが、「普通の身分から分け隔てられたジプシー的な立場の者たちであった可能性が高い」と関口はいう。
それは15、6世紀コンスタンチノープル、トプカピ宮殿におけるハーレムの踊り子の始まりではないか。18世紀後半には、ガワニー族の踊り子たちがエジプトに現れ、彼女らはジプシーと同根と考えられた。
ジプシーは15世紀頃スペインに入り、アンダルシアの文化と融合してフラメンコが出来たとされている。この辺のことは「ラッチョ・ドローム」という映画に物語として描かれた。このDVDは買ったのだが、どこへ行ったやら、探してまた見てみよう。カタックとフラメンコの関係同様、ベリー・ダンスとジプシーの踊りとの関係を直接裏付ける証拠はない。
ベリー・ダンスの呼び名はハリウッド映画によって喧伝されたもので、オリエンタル・ダンスと総称されるが、トルコが中心といわれる。イスラーム女性が肌の露出を禁じられているので、オスマン・トルコの時代には、ジプシーやアルメニア人らの非イスラームの女性が踊ったと説明され、伴奏はずっとジプシーだった。おそらく、エジプト、中近東各地にもそれぞれの舞踊の起源はあることだろう。
ジプシーという存在が一様に語れないように、その音楽もフランスのマヌーシュのギター音楽、バルカン半島のジプシー・ブラスなど土地によって異なる。クラシックやジャズにも早くから影響を与えている。踊りもフラメンコやベリーダンスのみならず、各地で多様に発達したに違いない。
アンナ・パブロワの組曲「オリエンタル・インプレッションズ」を契機にインド舞踊が目覚める
第12回にも書いたが、1876年にアメリカ建国百年を祝ったフィラデルフィア万博(世界展示会)にトルコのダンサーが登場している。そして、1889年のパリ万博にはカイロ通りが設けられてエジプトの踊りが紹介された。ジャワのガムランや芝居もあったようだ。
1893年シカゴ万博のアルジェリア村で小エジプトから来たと称する踊り子がベリーダンスを披露した。日本庭園では着物を着てお茶を接待し、手踊り、太神楽、手品、軽業を披露したという。オリエンタル・ダンスは世に知られるようになり、アメリカのモダンダンス、いや、世界中のダンス界に刺激を与える。
1900年の第5回パリ万博には、オッペケペーの川上音二郎と貞奴が「芸者と武士」「ハラキリ」を演じて大評判となった。
1922年に世界ツアーでインドや日本を訪れたアンナ・パブロワは触発されて、翌年5月にロンドンで「オリエントの印象」という組曲を発表し、そこで急遽リクルートされたのが画学生ウダエ・シャンカル、すなわち、ラヴィ・シャンカルの兄である。この話は第8回に書いた。
ウダエは帰国後に初めてインド舞踊を習い、世界的ダンサーとなって、家族と共にワールド・ツアーを行った。デーヴァダーシーのダーシーアーッタムであるとかインド各地、個々の民俗舞踊ではなく「インド舞踊」というコンセプトが初めて生まれた。
同行した弟のラヴィ・シャンカルも将来有望な舞踊家といわれたが、結果的には世界的音楽家となってビートルズらに影響を与えた。今、モンタレー・ポップ・フェスティバルなどの演奏を聴くと、これは伝統的なインド音楽ではなくて、シタールで演奏した新しい音楽、言ってみればポップ・ミュージックだと気がつく。間を取りながらキャッチーなフレーズを繰り返し、少しずつ変化させる催眠的なものだった。ヒッピー達から大喝采を受けた。
アンナ・パブロワと出会ったルクミニー・デーヴィーは、インドの文化を継承発展させるべく、カラークシェートラを創設し、インド舞踊を世界的な存在に押し上げた。この辺は第15回に書いた。
あえてまとめると、インドから出たジプシーが世界中に行って、地域文化と融合した音楽や舞踊を築き上げ、それが刺激となってオリエンタル・ダンスということがいわれるようになり、翻って近代インド舞踊成立の契機となった。
参考文献
市川捷護『ジプシーの来た道/原郷のインド・アルメニア』白水社、2003年。
小泉文夫「フラメンコ芸能のアジア的要素」『呼吸する民族音楽』青土社、1983年。
小西正捷『インド民俗芸能誌』法政大学出版局、2002年。
ジュール・ブロック、木内信敬訳『ジプシー』文庫クセジュ白水社、1973年。
杉山二郎『遊民の系譜』青土社、1992年。
関口義人『オリエンタル・ジプシー』青土社、2008年。
〃 『ジプシーを訪ねて』岩波新書、2011年。
ニコル・マルティネス、水谷駿、佐地亮子訳『ジプシー』文庫クセジュ白水社、2007年。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論
更新日:2020.02.26