河野亮仙の天竺舞技宇儀㉙

巨匠たちの横顔/インドあるあるこぼれ話

第28回で次はチベットの仮面舞踊と予告しておきながら、どうもみんな長くて重いものになっているので、箸休めとして、今まで出会った巨匠、名人、達人たちのこぼれ話を書くことにした。およそ30年前の話で、大分、忘れかけているのでこの辺で書いておかないと。

その昔、住職専門になる前は来日アーティストのアテンドや記録係などいろいろお手伝いして、割合、どこにでも顔を出していた。

シタール・ブームの先駆け

インドで名の知れた巨匠、マエストロといえばシタールのラヴィ・シャンカル。1968年頃、朝日講堂だったろうか、アラ・ラカがタブラーで共演しているコンサートに足を運んだ。

ラヴィは1958年にインド政府派遣文化使節の団長として来日している。シャンカルの来日公演記録など調べたいのだが、何故、今までそういう仕事をする人がいなかったのだろう。大分経って2000年前後か、パーティーで遠くからお姿を拝見したのみで、間近に接したことはない。
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インドではおそらく、映画音楽のプレイバック歌手ラター・マンゲーシュカルの方が有名というか、人気がある。この方とも来日の際のパーティーでお目にかかり、一緒に写真を撮ったのだが、どこにいったやら。

かなり長寿だったラヴィ・シャンカル(1920~2012年)も亡くなり、21世紀において巨匠といわれるような演奏家はどなたが現役として残っているのかよく知らないが、その中でダントツなのはアラ・ラカの息子ザーキル・フセインだろう。
https://www.youtube.com/watch?v=_yEa7ZUO

シタールやタブラーの音に初めて接したのは、当時、ロックンロールの世界からはみ出していったビートルズのアルバム『ラバーソウル』65年の「ノルウェーの森」、さらに、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』67年に納められた「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」である。ジョージ・ハリソンがシタールを弾いて、一躍その師であるラヴィ・シャンカルに注目が集まった。

ビートルズの映画『ヘルプ!四人はアイドル』65年の1シーンでシタールが使われていて、それに触れてみたのが最初だ。すぐにオックスフォード・ストリートのインディアクラフトで土産物と思われるシタールを買った。その後のことだろうか、ラヴィ・シャンカルとはロンドンにおけるパーティーで65年に出会っている。シタールを習うのは「ノルウェーの森」以降のこと。

イギリスには多くのインド人が住んでいて、EMIのスタジオにはしばしばインド人演奏家、ヴィラーヤット・カーン、イムラット・カーン、ヴィスミラ・カーンらが訪れていた。

ビッグ・ジム・サリヴァンというスタジオ・ミュージシャン、ギタリストが64年にそれを見てシタールに興味を持ち、ロンドン大学で民族音楽学を講じていたナズィル・アリ・ジェラズボーイにシタールを習い、後にはラヴィにも師事する。ジョージの家に行って一緒にラヴィの書いたエクササイズを練習していたようだ。

68年に、ラーガ・ロックの先駆け「シタール・ビート」というアルバムを出している。リトル・ジムことジミー・ペイジの兄貴分であり、ペイジやリッチー・ブラックモアにギターを教えたという。

ビッグ・ジムは1960年代の多くのイギリスのポップソングでギターを担当した。「シタール・ビート」のレコーディング(旧盤は67年「Sitar A Go Go」)には、ペイジと共にレッド・ツェッペリンに加わるジョン・ポール・ジョーンズもベーシストとして参加し、一曲だけ「koan」(座禅の公案のこと)において、後にザーキル・フセインとシャクティを結成するジョン・マクラフリンも参加している。

ナズィル・アリ・ジェラズボーイには東京芸大で行われたインド音楽研究会の例会で会っている。
https://www.amazon.co.jp/Sitar-Beat-Big-Jim-Sullivan
http://www.enmeiji.com/hoshikawa/vol001.html

イメージの宇宙を創る芸能者

2004年に大岡信作観世栄夫演出の「生田川物語」を見た。能楽「求塚」に基づく、乙女(観世)と二人の男(野村万作ら)の物語である。観世の声が全く少女に聞こえた。終わった後、パーティーで会ったら、彼は片手が麻痺でだらっとしていた。演技中は全く気がつかず、見事に化かされてしまった。

能楽の宗家の出身であるのみならず、戦後の演劇界を引っ張り、病気や事故など大変な人生を送った方だが、この人は人間を超えていると思った。何らかの心理トリックの技術を身に付けているのだろう。

ここに紹介する音楽家や役者の多くは、先祖代々その道を継承していて、おそらく家伝、秘伝をいろいろお持ちかと思われる。

芸能者はイメージを喚起して、幻想世界に誘う。時に、幻覚を見せることもある。音楽は物理的には空気の波として世の中に存在するが、人間以外は音楽として認知することは出来ない。芸能は脳内の産物、ヴァーチャル・リアリティである。

芸能者が音楽舞踊、あるいは書や絵画に封じ込めた情感を脳内で疑似再生する。蜂の踊り、小鳥の舞いといっても、それは雨がぽたぽた落ちる音を音楽として感じるようなもの、人間が認識するものであり、それ自体として存在しない。

野火杏子の師ウマー・ラオが2001年に来日して「雪女」を演じたとき、観客の何人かはステージに雪が降るのを見たという。もちろん、そんな演出はしていない。脳内の疑似空間に再生してしまったのだ。

レコーディング秘話

ザーキル・フセインは一昔前、佐渡のアース・セレブレーションなどにパーカッション・グループを率いて毎年のように来日していた。大きなフェスティバル出演、フュージョンを演奏するときは欧米アーティスト並の高額ギャラを取るが、古典音楽を演奏するときは、それなりのギャラで出演してくれる。

ドタキャンするので有名?だったが、彼には寝坊ぐせがあり、また、タイト・スケジュールで世界中を飛び回っているので、時々、失敗するのだろう。

インドやアジア諸国から招聘するときは、まず、ヴィザが降りるか問題。なかなかスムーズに進まなくてぎりぎりになることが多い。天候等でフライトが無事に着くか、その便に乗っているのか、顔を見るまで心配。

ネパールの仮面舞踊劇マニ・リンドゥの僧侶を呼んだときには、トランジットの香港で荷物の一部、仮面等が他へ行ってしまって足りないまま演じたこともある。興業は博打である。インドで原水爆の実験をしたとき、広島の団体が反対して、インド舞踊団の来日が中止になったこともある。とんだとばっちりだ。

さて、ザーキルとは88年インド祭に民音主催でパーカッション・アンサンブルに出演したときやオフィス・アジア主催でシヴァ・クマール・シャルマと共演したときにつきあった。
https://www.youtube.com/watch?v=WzCy924rj74

音楽プロデューサーの故星川京児に誘われて、キングレコードで『インド古典パーカッション/超絶のリズム』の録音を見学した。カンジーラというタンバリンはG. ハリシャンカル、ガタムという土の壺の打楽器をT. H. ヴィナーヤクラム、横型の太鼓ムリダンガムはK. V. プラサードというスーパーグループだった。

彼らは、例えば250分の1拍子だったとすると、それを2回半やると何分何秒とたちどころに計算して、1秒と違わずぴったり演奏する。絶対音感ならぬ絶対リズム感を持っている超人たちであった。

当時のザーキルは、まだ、いくらか細かった。近年、すっかりお父さん似になったが、おそらくアラ・ラカと比べて脂肪が少なく手のひらの厚みなどが違ったのだろう。ミュージシャンにとって筋肉も脂肪も武器である。

レコーディングで左手のバヤンの音が小さいから上げてくれと星川に注文を出した。「上げてくれ」「はい上げました」「もう少し」「これでどうですか」と何回か繰り返してOKになった。わたしには全然分からない。

終わってからは星川は「実は上げていなかった」と語った。そうか、これがプロの仕事かと妙に納得した。

やはりインド祭に来日したカヤールという古典声楽のビームセーン・ジョーシーのこぼれ話がある。彼はライブ・レコーディング『北インドの古典声楽/魂のカヤール』で咳をした。CDにするときはそれを取り去ってくれと当然のようにいう。

キングレコードとしては、最新の音質のいいデジタル録音のシリーズとして売っていたので困ってしまった。アナログ時代はオープンリール・テープに録音し、そのテープを切り貼りすると、咳のゴホンもマイクにゴツンも取り除くことができた。

しょうがないからもう一度オープンリール・テープに録音して、咳の部分をカットして継ぎ足した。今ではおそらくデジタルのままそれが出来ることであろう。

星川は200枚にも及ぶ『ワールドミュークライブラリー』、『民族音楽大集成100枚組』で第34回レコード大賞特別賞を受賞した。亡くなる前に、今度、声明のCDを作るから誰か紹介してくれといわれて、そのままになってしまったのが心残りである。
https://www.youtube.com/watch?v=J7DP-sCeHmE
http://www.enmeiji.com/hoshikawa/vol007.html

同じく88年に来日したあるバイオリン奏者はお金の話ばかりしてミスター・マネー(マニ)と呼ばれていた。録音のギャラをつり上げようとしていたのか。演奏も同じようなフレーズを早弾きするだけなので、フィナーレの曲、ソロの回し合いで共演者からのけ者にされていた。こんな話書いていいのだろうか。

芸能者の魂

古典声楽ドゥルパダではダーガル・ブラザーズが最も有名だった。実は4兄弟で2つのグループが活動したのだが、4人の内最後の1人が甥っ子と来日公演をした。北浦和の近代美術館で公演するとき家に泊まった。公演の日は朝からアーウー唸って、アーラープを練り上げる練習をしていたのでとても感心した。
https://www.youtube.com/watch?v=zoaH-rlNRu0

歌手の2人とタンブーラを担当する姉妹2人とハカーワジのグループだった。朝はドウ、ドウ、2枚2枚といって食パンを2枚ずつとバナナかなんか食べていたが、夕食は姉妹が作る。おそらく、ウダエ・シャンカル、ラヴィ・シャンカルが欧州公演をしたときもそんな感じで一家で支えたのだろう。

夕食を作るのを見て驚いたのは想像以上にギーをたっぷり使うことで、コクを出す。とてもおいしい本場の味だったが、これではヴェジタリアンでも太るわけだ。

後に甥っ子だけで来日して、やはり家に泊まった。公演の後のちょっとしたデモンストレーションで披露した超絶テクニックには驚いたが、彼には親の世代ほどの熱心さ、これ全身音楽家というような気構えは感じられなかった。

オフィス・アジア主催でイムラット・カーンと息子たちのリサイタルの後、会場そばにインド料理の店があるので寄ったら閉店時間だった。さすがにイムラット・カーンと分かると作ってくれた。彼はスルバハールという低域の響く大型シタールの演奏を得意として、巨匠というのにふさわしい重厚な音楽を奏でる。

サロードの貴公子といわれたアムジャッド・アリ・カーンも、とてもまじめで物静か、純朴な方だった。音楽のことだけ考えているような感じだったが、秋葉原を案内した。89年4月のことである。その時、ヒンドゥー教徒の奥様の方はデパートにブランド物を買いに行った。

アムジャッドが後で出したCD、来日時の録音であったか、そのクレジットに何故か日本ではKonoに世話になったとわざわざ書いてくれた。何もたいしたことはしてないのに義理堅いというのか、律儀な性格のようだ。

カタカリの一座も秋葉原に案内したことがある。コンパクトカメラを買っていたようだ。カタカリは個人芸なので、何人か連れて行くとみんなあちこち勝手に動き回るので大変だった。

一方、プルリア・チョウのグループを率いるときは楽だった。集団芸であり、しかも田舎者で都会が恐いし、英語も話せないので一団となって歩く。彼らが間違って牛肉を食べてしまったと聞いたとき、みんな気持ち悪くなってげーげー吐いたそうだ。

ケーララのパダヤニのグループを案内したとき、地下鉄のエスカレーターなどもサンダル履きでは危ないので靴を履かせたら、一日で靴擦れが出来てぱんぱんに足がふくれあがった。

踊り手たち

ヨーガの佐保田鶴治は、京都に仕事、研修で来日していたクリヤンという名のカタカリ役者にヨーガを習った。その話を聞いていたので、カタカリ役者ヴァースデーヴァン・ナンブーディリを桃山の日本ヨーガ禅道院にお連れしたことがある。83年5月のこと。

先生は役者の腕を触って筋肉が柔らかいねといっていた。ナンブーディリ・ブラーマンなので菜食であり、当時はそれほどインド料理屋がなかったのでツアーでは苦労した。野菜炒めといってもラードを使ったりベーコンが入っていたりと、素性が分からないのでご飯にヨーグルトを掛けて食べていた。楽屋にはバナナと紅茶が必需品。砂糖はスプーンに5杯入れる。

クリヤンというのはクリスチャンという意味で、10回以上ケーララに通ったけれどクリヤンさんという方に出会ったことがなかった。古いシリア・クリスチャンの名前なのだろうか。

あるときコチンの空港のことが新聞記事になり、その時空港の責任者の名前がクリヤンで、ああ本当にいるんだと思った。カタカリの役者といってもケーララ・カラーマンダラムというようなカタカリ学校でプロを目指したのではなく、おそらくは個人的に師匠について習った村芝居のカタカリ役者であろう。そんな村芝居の祭りにもプロの役者と楽団を招いてみんなで楽しんでいた。

また来日時、女形の役者ラーマチャンドランは、アテンドした女の子の動きや表情をチラチラと観察していた。わたしなんか見たって参考にならないでしょなんていっていたが。自然なというか、ふいに出る表情やアクションの男との違いを見ていたのではないか。

オリッシー・ダンスのクンクマ・ラールは、ご主人の仕事の関係で83年頃から大井町に住んでいた。しばしば来日アーティストを招いてホームパーティーが行われた。彼女はとても聡明で日本語も上手になり、料理も大変うまかった。えてしてアーティストはとんがった性格、一癖も二癖もある人が少なくない。

そんな中、クンクマさんはみんなを世話して慕われた。来日アーティスト、絵物語をする楽士ボーパなどを招いた。オリッシーの生徒さん、在日で働いているインド人がいつも20人くらい集まっていた。

そこで在日インド人がよく話していたのは、日本での暮らしは天国のようだ。カーストがない。それを意識することなく自由に様々な人とつきあって、一緒に気楽に食事できるなんて夢のようだと語る。

帰国する前に総仕上げとして師のグル・ケールチャランを招いて、86年5月、全国ツアーをしようとオフィス・チョウアジアが企画した。グルは巨匠というイメージではなくて、とても気さくで茶目っ気のある方だった。口三味線のボールとパカーワジで、違うリズムを同時に刻むことが出来るので、身体性が傑出しているのだろう。

ある日打ち上げで巨匠が居酒屋に入った。いや、巨匠らしくない振る舞いである。そこで、魚とかイカとかタコとかのムドラーをたちどころに作って披露し、みんな抱腹絶倒だったという。その日わたしは、チベット帰りで下痢をしていたので休んでいた。未だに悔やまれる。

ああ、ムドラーっていかめしいものではなくて、こういうものなんだと思った。ムドラーの起源として、図像学的にも考えられるし、舞踊の方からも発達している。それ以前に、例えばナーランダの僧院などにインド各地や外国から何千人もが学びに来ると、それこそ何十種類もの言語が飛び交うことになる。ムドラーというよりジェスチャー、身振り手振りで意思疎通を図ることから発展したということも考えられる。
https://tsunagaru-india.com/knowledge/河野亮仙の天竺舞技宇儀⑬/

グル・ケールチャランはカタックの巨匠ビルジュ・マハーラージと仲が良く、カタックを習ってオリッシーにカタックのステップも取り入れていた。ビルジュも足バタなんていっていいのか、足と腰の連動に独特のものがあり、それが秘伝ではないかと思うのだが、グル・ケールチャランもそのような動きをしていた。

ビルジュは88年インド祭で来日の際、控え室で熱心に大相撲を観戦していた。ビルジュの自宅だったか、学校に訪ねて行ったことがあるが、絵を描いていた。絵画的なヴィジョンを持ってる方なのだろう。カタックの歴史はよく知らないが、宮廷の踊りをステージ一杯に繰り広げる見事なレビューに仕上げたのは彼の功績ではないのか。

クーリヤーッタムの役者チャーキヤールのマドゥに初めて出会ったのは、彼が20歳前後の頃だったか。当時、有望な若手であったが、今や50代なので押しも押されもせぬ巨匠だ。チャーキヤールは1000年以上サンスクリット語劇クーリヤーッタムを伝承する家系で、そのクーリヤーッタムは能楽と共に世界文化遺産に選ばれた。

その学校マールギーで兄弟たちと練習しているのをしばしば見学したが、弟はイダッキヤという打楽器の奏者に転向したようだ。幼いときから訓練し、役者として立てるまで厳しい選抜が行われている。お家芸だからといっても全員が役者になるわけではなく、適性がなければ銀行員になったりする。それでは絶滅危惧種になってしまうので、門戸を解放し、今では外国人、日本人も習っている。

チャーキヤールはブラーマンに準じるカーストで梵行を守り、当然、ヴェジタリアンである。戒律で映画を見ることも禁止され、さらに他の舞踊を見ると影響されるので、伝統的にはカタカリを見ることさえ禁止されていた。今では大目に見られているようだが。

来日の際のパーティーでは、グルのマーダヴァ・チャーキヤールの目を盗んで、さっとフライドチキンを皿に取って食べていた。行く度に撮った写真を上げていたので、わたしには、よくなついているという感じだったが、話によると意外と意地悪なようだ。アーティストは嫉妬深い。グルは伝統的な方でサンスクリット語をたたき込まれたが英語は話せない。子供や孫の世代が英語で我々と話しているのを、とてもうらやましがっていた。

音楽家ではないが、ヴリンダーバンの大きな寺の管長さん、シュリーヴッサ・ゴースワーミー(チャイタニヤの愛弟子の家系)は完全なヴェジタリアン。タマネギや根菜も食べられないので街のインド料理屋でも苦労する。来日時には大きなトランクを2つ持ってきて、1つには食料が入っていた。東大のインド哲学に留学していたブラーマンもインド料理屋に行く金がないのでピーナツなどを容器に入れて、常に持ち歩いていた。

ザーキルのCPU

ザーキル・フセインは不思議な人で、度重なる来日で東京の地理がよく分かっている。わたしは方向音痴だし、車で東京に出ることはほとんどないので、さっぱり分からない。航空券を変更するというので日比谷のエア・インディアに一緒に行ったことがある。満席で変更できないはずだったが、彼が変更できて当たり前という顔をして臨むと問題なく出来てしまった。

行くときタクシーの中で、ここをこう曲がって、次は右、左と運転手に指示を出していたのでとても驚いた。単に頭が良いだけではなくて、特殊な感覚を持っているようだ。わたしが付き添う必要など全くなかった。さすがに世界中を渡り歩いてるだけのことはある。

今年は祇園祭も中止だが、ジャガンナートの祭りの山車は設計図もなく組み立てるという。インド人は空間処理能力が優れていてCPUの設計にはインド人の頭脳が必要だという。おそらく彼には、一度通った東京の都市空間がそのまま頭に残っているのだろう。その能力は音楽のアンサンブル、オーケストレーションの構築能力に近い。

また、別の時のことだが、成田空港まで送って行ったことがある。よく覚えていないのだが、その時、時間があって成田山新勝寺に寄った。さささと人気のないところに歩いて行ったので、ちょっと離れたところから見ていたら、突如、アメリカ人の奥さんを抱きしめてブチュッとキスをした。

愛すべき達人たちの話である。

参考文献

星川京児編『世界の民族音楽ディスク・ガイド』音楽之友社、2002年。

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2020.08.04