河野亮仙の天竺舞技宇儀⑬

平成時代の日本のインド舞踊

連載も一年経ったので、振り返って初回の続きを書く。インド舞踊に昭和も平成もないもんだが、一つの区切りとしてこの春起きたことを書いてみよう。

その前に、まず、私がインド舞踊と関わりを持つようになったのは、1983年の増上寺インド祭りからことである。修士論文を「ラクシュミー・タントラ」で書いてヒマになったところだった。どうもこの辺から、まじめなインド学者になるはずが脱線していったように思う。

グル・ケールチャランとクンクマ・ラール
(スタジオ200)

優れたオリッシー・ダンサーであるクンクマ・ラールさんが、ご主人アショーカ・ラールさんの仕事の関係で来日中であるということを、インド政府観光局のヴァッサラ・パーイさんから聞いて、早速、会いに行く。大井町にお住まいであった。在日中は何かある度にお呼ばれして、おいしいインド料理をご馳走になった。

つまらないことをいうと、クンクマKunkumaはサンスクリット語でサフランのこと。アショーカさんはヒンディー語発音でクンクムと呼んでいた。しかし、日本人が発音するとnとmを区別しないでクンクンになってしまうので、私は日本での呼び名をクンクマにした。ラールLalは赤色。

昔は英語表記Orissiだったが、今はOdissiと表記される。オリッサ州もOdishaと表記され仮名でオディシャ州とも書かれている。哀愁を込めてコルカタではなくカルカッタと呼んでる我々には落ち着かないところがある。

1983年10月8/9/10日に増上寺でインド祭りが行われて、日本のインド音楽家やシャクティさんと共にクンクマさんは出演された。公演が終わるや、「素晴らしい、私も習ってみたい」とこの第十三回のキーパーソンである高見麻子さんら何人かがクンクマさんを取り囲んだ。私はそのお教室を始める準備を手伝った。

インド祭りというのは、全く予算なしで始めたので、回転資金として実行委員である世話人が一万円ずつ出し、プログラムに広告を載せて運営資金を集めようということになった。

エア・インディア、インド銀行、旅行会社、出版社、インド料理屋等々、私もかけずり回って資金を調達した。そのうち、このプログラムもここで公開しようと思う。今や、歴史的価値がある。

とにかく予算がないので、チラシは私がリソグラフで作った五千枚のみ、新聞に三行記事が載った程度で、連日一万人近くが増上寺に押し寄せた。今のナマステ・インディアの原型みたいなものだ。その直前位に京都の壬生寺で壬生狂言を見ていて、イベントというのは同時多発的に色々なことが起こるのが面白いと思って、増上寺でやることを提案して交渉した。

当時は珍しいというか、おそらく初めての試みだったので注目を集め、インド大使館、インド政府観光局、インド人会から全面的な協力を得た。インドのためならと快く賛同、参加してくださった方もいれば、諸般の事情で加われなかった方もいる。この人脈が今も生きていて、HP「つながるインディア」に連なっている。

オリッシーの群舞を舞う高見麻子
(84年の増上寺インド祭りにて)

クンクマさんは、インド舞踊の練習会場を探さないといけないので、私が近所の公民館に当たったが、あっさり断られた。どういうことかというと、公民館というのは地域住民が使うもの、品川区に住んでいる人が生徒であるべき。先生が近所に住んでいても駄目ということだった。

しかし、これは大家さんが生徒になる?というような形で、特例として認められたらしい。週に何回も、何時間もみっちり練習していたようだ。一、二回見に行った程度だと思うが、ドスンドスンと音が出る足踏み、ジャンプをしていた。クンクマさん自身は優しくてもハードなトレーニングだったと思う。

クンクマさんは、グル・ケールチャラン・モーハパトラやブバネシュワール・ミシュラさんらが録音したオープン・リール・テープを持ってきた。本格的な劇場用だ。ルボックスのオープン・リール・デッキを私は持っていたので、それをカセット・テープにダビングしてあげた。

全く、時代がかった話、まさに前世紀の話である。CD、MDの時代を経て、今やメールに添付して音源や楽譜を送っているのだから。

麻子さんのプロデビューともいうべきステージは、1989年11月の早稲田胴羅摩館。野火杏子さんが制作した。マチネーは客入りが悪く、野火さんが、こんなに素晴らしい踊りなのに私の力不足で集客できず、すみませんと泣いて謝ったという裏話がある。もちろん、麻子さんは踊れればそれだけで幸せだった。

日本人が外来文化を取り入れること

初回もそうだったが、今回は『相倉久人に聞く昭和歌謡史』に刺激を受けた。日本ポップス文化史とあるが、要するに外来文化をいかに日本人が消化して何を目指すかという話である。

氏はエノケンこそ日本一のジャズ歌手であるとして榎本健一の話から始め、服部良一、美空ひばり、坂本九や中村八大、クレージーキャッツ、そして、忌野清志郎、山口百恵、松田聖子、河合奈保子を語る。

復刻CDが出ているので聞いて欲しいが、エノケンや、あきれたボーイズとかナンジャラホワーズは、凄く上手で面白い。「ダイナ」のようなジャズ・ソングも浪曲も小唄もこなすし、戦前のジャズマンの演奏がツボを心得ていて、舌を巻くほどうまい。ジャズ小唄という言葉もあったそうだ。

ヴィシュヌ・タットヴァ・ダース来日の花祭り

ここから、失礼ながら敬称を略させていただく。私が住職をやっている延命寺では、平成十年から、釈尊の誕生を歌と踊りで祝おうということで、4月に花祭りをやっている。歌も踊りも祈りから出たものなので、法要と芸能を一体化することを目指している。

歌とは、仏教の行事で使われる讃歌、すなわち声明のこと。発生的にインドの歌、宗教行事の讃歌であったが、仏教の伝播と同じくシルクロード・中国を経て、直接的には朝鮮半島、おそらく新羅から輸入されたものだと思う。

これが長い間にすっかり日本化して、インド音楽からかけ離れて聞こえると思うのだが、延命寺に来たカタカリ役者のブラーフマンに聞かせたら、ごくあっさりとヴェーダと同じだといっていた。

花祭りを始めてインド舞踊は野火杏子に依頼し、桜井真紀子の声明、あるいは声明に基づいた自作曲で踊ってもらった。ジャワ舞踊やバリ舞踊が加わることもあった。やがて、坂田明が加わり賑やかになる。

ここで志したのは異文化交流である。小さいけれどインターナショナル・フェスティバルであった。インド舞踊、インド音楽、インドネシアの音楽舞踊、アラブの音楽舞踊、邦楽、ジャズ、ロックの芸能者が集まって、多少リハーサルはするが、ほとんどその場でパフォーマンスを作り上げた一回性のものである。他ではあり得ない組み合わせが多かった。

自分で評価するのは難しいが、坂田によると全部大成功。それなりの実力のあるパフォーマーを招いて真剣勝負をしたからだ。その成功のこつというのは、音楽や舞踊のジャンルの問題ではなくて、人間同士のつきあいという考え方による。ま、たまには危ういこともありました。

さて、五年前にその日本におけるオリッシー・ダンスの開祖に当るクンクマ・ラールが来日したので、花祭りに出演していただいた。史上最も豪華な花祭りだった。
http://www.enmeiji.com/hana/2014.html

90年代初頭から高見麻子はサンフランシスコを行き来して活動されていたのだが、2007年11月3日に癌で亡くなられる。47歳だった。

その直前にアメリカで麻子を励ますコンサートが執り行われ、その時クンクマと共に参加されたヴィシュヌ・タットヴァ・ダースがこの4月に来日することになる。「麻子さんを偲ぶ会」が麻子の誕生日4月19日に行われ、そのメインを勤めることになった。

前半では麻子の親友奥田由香が思い出話を語り、タゴール・ソングを歌うプログラムであった。いい意味でそれはお通夜みたい、お経ではなくてタゴール・ソングであったが、これは法要だと思った。もともと麻子は、かん・みなにタゴール・ダンスを習っていてタゴール・ソングも歌った。

麻子は不思議ちゃんで、インド舞踊のことばかり考えて、生活力は全くなかった。自力で舞踊教室を運営したり、リサイタルを開くタイプではなかったので、周りの人がオーガナイズしてあげた。素直といえば、その通りなのだが素直すぎるのだろう。猫のようにぷいと家を出てアメリカに渡ってしまったようなイメージだ。

アーチストの世界というのは、表面上仲良くしても所詮はライバル同士。嫉妬で足を引っ張ったりするものだが、麻子にはそういうところが全くなかったので、皆に愛された。

4月19日の偲ぶ会の主催者、田中晴子はアメリカにおける麻子の弟子であったが、その亡き後はヴィシュヌの弟子となり、日本で初お披露目することになった。麻子の本もこの日に合わせて出版した。これらの手配を在米のため、ほとんどインターネットで仕切ったという畏るべき人だ。

延命寺の花祭りではヴィシュヌを中心に、晴子とサキーナ彩子が花を添える感じで共演した。彩子はクンクマに師事して麻子とも古い友達であり、また、クンクマの帰国後は麻子に習っていた。

花祭りは声明とサックスの共演で始まり、声明を彩る形でガムランとバリ舞踊が入った。荒内琴江と小泉ちず子が釈尊を讃える天女の役で、舞踊家ヴィシュヌがまさにヴィシュヌ神の十化身を演じ、花祭りの主人公であるブッダとなるという仕掛けであった。

ヴィシュヌ・タットヴァ・ダースは、十時間に及ぶ旅の疲れで腰痛を抱えていたが、舞踊において全くそんなことは感じさせなかった。百八十センチの偉丈夫で、男性舞踊家も少なからず見ているが、こんなガタイのいい舞踊家は初めて見た。

若いときクリシュナ・コンシャスネス、ISKCONに入信したそうで、クリシュナ神の絵を描くのを得意とした。とてもシャイで優しい方だった。反閉と呼んでいいのか、その足踏みの音の強さに驚愕した。演技においてはとても柔らかで女性的であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お客さんには申し訳ないのだが、延命寺の花祭りは出演者の打ち上げが一年で一番の楽しみとなる。出演者もぶっつけ本番のプレッシャーから解放されて、これが格別楽しい。ヴィシュヌ・タットヴァ・ダースが腰痛のため打ち上げに参加できなかったのが残念であったが、バリ舞踊家から、演技が凄くよく分かったといわれた。

一般に、インド舞踊はムドラーやアビナヤが分からない、ストーリーはともかく、神様や勇者の名前が右から左へ抜けてしまうといわれるものだが、バリ島はヒンドゥーで神話も共有している。サキーナ彩子はインド舞踊を見て分かりやすいといわれたのは初めてだと驚いていた。舞踊の表現を考える人には全部読めてしまう。そんな異文化交流が花祭りの裏メインエベントである。

インド、独り舞ふ

続く4月17/18日にはもう五回目となるイベント「インド、独り舞ふ」が、青山のライブ・ハウス「マンダラ」で行われた。注目は小学校六年生の舞踊家、富安カナメで、テレビ局まで引き連れてきた。子供らしくない、かといって変に大人びてもいない完成された踊りであった。デリーで学んでいたらしいが、インド人の中に入っても際立っていたと思う。

主催者前田あつこの下駄を履いてのカタックも面白かったし、第二部でもどんどん盛り上がった。日本人カタック・ダンサーは下駄を履いてのカタックをやるとか、トレードマークを持つことは大切である。

オリッシーは篠原英子と仲香織の二人が登場した。甲乙付けがたいというか、付ける必要はなく、それぞれの個性の違い、透けて本人が見えるところが凄く面白かった。オリッシーは、東京では、グル・ケールチャランの元で学んだ安延佳珠子が多くの優秀な弟子を育てて、今や、日本人の好みに合うのかオリッシー花盛りである。

翌日の「インド、独り舞ふ」は見ることが出来なかった。前田の他にも安延、渡辺桂子、関西のダヤ・トミコ、村上幸子らは、インド内異文化交流というのか、バラタナーティヤム、オリッシー、カタック、クチプリを同時に楽しめるリサイタルを開催している。

そこにモーヒニーアーッタムの丸橋広実やナンギヤール・クートゥの入野智江が加わって、日本ではかなり多彩で贅沢なインド舞踊世界を体験できる。「インド、独り舞ふ」に駐日インド大使も見えていたが、まさに、インド大使もビックリだったのではないだろうか。

大ざっぱにいって日本のインド舞踊人口は三百人位、カバディ選手の数とそれほど変わらない。インド舞踊のコアなファンは百人から二百人だが、そのうち半分は自身も踊りを習っている。もう少し、底辺を広げないといけない。それぞれがどこにでも出て行ってインド舞踊の伝道師として踊ることが必要だし、自分でリサイタルを開いてあちこちからお客を引っ張ってこないといけない。一年に一回ナマステ・インディアに出ればいいと自分でリサイタルを開かない人が多い。そして、底辺を広げてメジャー化するにはスターが必要だ。明日のスターは誰だ。

高見麻子を偲ぶ集い

そして、満月の4月19日が麻子の誕生日、生きていれば五十九歳であり、偲ぶ会が五反田の本立寺で執り行われた。

意外なほど次の世代の舞踊家が口々に麻子を讃えていたことだ。私らの世代のアイドルだとばかり思っていたら、若い人が、実際に麻子の舞台を見てインパクトを受け、その心の中に生きていたのだ。

麻子を支えた辻村節子は、チララの会を主催し、そのイベントを1990年10月10日に本立寺で行った。絣で有名なチララだが、この時もインド東部のサイクロンで被害を受け、チララを救おうと立ち上がった。

奥田由香がタゴールソングを歌い、麻子が踊る会だった。私はほとんど記憶がないのだが、実際に訪ねてみると行ったような気もする。奥田も同じだった。

麻子と私は83年からの付き合いだったが、会えばいつも舞踊の話で雑談をした記憶がない。プライベートのことはほとんど知らず、友達というよりは盟友だった。「麻子ちゃんは天才だ」というけれど、不器用だから努力したのではないか。感情の表出というのが作り物ではなく、すっと入ってすっと出て行く人だったから、これは天性のものだったのだろう。

一度、ワークショップでオリッシーの基礎トレーニングを見せてもらったが、まさに武術トレーニングだった。

オリッシーは南インドでいうと、デーヴァダーシーに相当する寺院付きの伎女マハリが伝承していた踊りとされるが、オリッサのマユルバンジ・チョウやラース・リーラーの踊りやアクロバットと共通するところもある。

チョウの基礎トレーニングにパリカンダと呼ばれる剣と盾を持つ武術のトレーニングがある。カタカリ舞踊劇の基礎には武術のカラリパヤットがある。近代ヨーガ成立前の底流にはお祭りなどに垣間見えるアクロバットなどの身体文化があり、舞踊文化もそこから花咲いてきた。

バラタナーティヤムやクチプリもオリッシーも振付師は、元来、男であって、もともと男の踊りだ。女が踊るのには厳しいところがある。しかし、オリンピック競技では体操もフィギュア・スケートも男に負けず技術を向上させていて、東京オリンピックの時代から比べものにならない高度なことをやっている。

インド舞踊も次第にアスリート性が高まる傾向にある。その先駆けはグル・ケールチャランの初期の弟子サンジュクタ・パーニグラヒやバラタヌリティヤのパドマー・スブニマニヤムあたりではないかと思っている。今はマーラヴィカー・サルカイ以上の身体能力の高さが求められているのではないだろうか。

旧来のデーヴァダーシー流は、衣装から見てもゆったりした舞いで、足を上げることなどできない。じわっと色気を出すようなものではないかと想像する。カラークシェートラ流、ルクミニー・デーヴィーは近代バレエに習ってエログロや大道芸的なケレンを廃し、インド舞踊を清く正しく美しいものに仕上げた。

日本のインド舞踊の行方は?

振り出しのジャズに戻ると、1956年に秋吉(穐吉)敏子がバークレーに留学して、最新のビバップを習得して評判を呼んだ。しかしそれは「見てごらん、ジャパニーズ・ガールがキモーノを着てバド・パウエルそっくりに弾いてるよ」という注目のされ方ではなかったか。

そのレベルのピアニストはアメリカ中にごろごろいたのだ。その個性、日本人の色を出したのは1960年の「ロング・イエロー・ロード」からと相倉久人はいう。黒人のジャズというのものに黄色人種が取り組んでここまで来ましたよという意味なのか。

アメリカの文化、黒人の音楽に日本人女性が入っていくのには、三重、いや五重のハンディがあったと語る。穐吉の「コン・アルマ」を聞くと今のアメリカ人でこんなに正統的なビバップを弾くピアニストはいないので、日本流にいえば重要無形文化財だ。日本人はこういう伝統保守が得意だ。

ナベサダこと渡辺貞夫はバークレー留学から65年に帰国してインパクトを与えた。日野皓正はその次にスターとなって若い世代にも受け、私は中三の時に日比谷野外音楽堂で見た。その時、病気療養から復帰した山下洋輔も出演していた。

山下は開き直ってテナーの中村誠一、ドラムの森山威男とベースレスのピアノ・トリオを組み、当時、ストリップより面白いといわれた。いや、それは先輩が言っただけなのかもしれないが、相倉はやっとこれで日本のジャズが出来たと語る。

テナーの中村に変わってアルトの坂田明が加わり、ヨーロッパのジャズ・フェスティバルを荒し回り衝撃を与える。それは伝説となって欧米ではコルトレーン、アルバート・アイラー、オーネット・コールマン、ドン・チェリー、アーチー・シェップ並に評価されている。

坂田の演奏が終わるとファンがアルバムを抱えて出待ちしている。坂田がサインをすると泣いている。ええ、オレなんかにと思ったそうだ。

今の日本のインド舞踊を見ているとインド人に追いついている。しかし、日本人よくやるねーとインドで評価されるだけ、日本でちやほやされるだけでは駄目で、第三国で評価さるようでないと本物ではない。また、インド舞踊史の中で、自分がどの位置にいるか認識して、その使命を果たさないといけない。

狭い日本を飛び出したのはヴァサンタマラの娘シャクティである。ガンジー主義の宗教研究家チャクラバルティと日本人女性とのハーフである。インド舞踊の枠からはみ出してしまったので、日本ではあまり評価されない向きがあるが、海外の有名フェスティバル、イギリスのエジンバラ・フェスティバル・フリンジやフランスのアヴィニョン等に出演して評価されている。芸術性はもちろん、アスリート性が高く、還暦過ぎであれだけ完璧な肉体を保っている舞踊家は少ない。

オーストラリア在住のため、たまに日本に選ってくるだけなので忘れられているが、日本で活躍しているインド舞踊家の大半はここから流れ出している。また、ロシアやパリに進出しているのは野火杏子である。日本で一番舞踊家魂を持っているのがシャクティの弟子である野火で、多くの弟子にその舞踊家魂を叩き込んだ。

また、ダヤ・トミコはバラタナーティヤムを踊るための独自のストレッチを考案して四十台の身体を保持している。四十歳を越えたら、意識的に弱いところを強化しないと長く踊れない。

吉田麻子の時代は、インドに学んでインド流を身につけるのが目標であった。ほとんどは暗中模索で、日本人として何をインド舞踊で表現すべきか、進むべき道が見えていなかった。今もそうなのかもしれない。

宗教学者の山折哲雄は浅田真央の滑りを流れる水のようにさらさらと滞りがないというような評をしていた。陰陽師をインド舞踊で演じるのも手だが、難しいだろう。どうやったら日本色が出るのか。

技術面で追いついたとしても、サンダル履きや素足が基本のインド人は靴を履く日本人と比べて、足の指で地面を捕らえる力が段違い。立ったときの重心感、安定感からして違う。また、いくら師匠の型を習っても骨格や筋肉の付き方、心持ちが違うので真似しきれないところが出てくる。それが個性となる。

硬質なインド人の舞踊と比べると柔和である。個性は初めから出そうとして出すものではなくて、自ずとにじみ出てくるものだ。そのオーラ、色合いが面白い。それを練り上げるのにはどうしたらいいのか。

坂田明がオーネット・コールマンに聞いた。「音楽にとって一番大切なのは何ですか」 曰く、「クォリティ・アズ・ヒューマンビイン」

人間力を上げないといけない。人間力って何ですか。エノケンの時代の人は人間力が強かった。

スタジオ・アムリタ

2005年の8月にスタジオ・アムリタで日本における高見麻子最後の公演が催された。癌に冒されて体力がないのでまともな練習ができず、ほとんどストレッチだけで本番に臨んだ。直前には、「あたしやっぱり出来ない。中止にして」と思いつめたほどだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インド舞踊の舞台を始める前には、大地を浄め、ガネーシャ神に障害を祓ってもらい、神々や踊りの師匠に祈るが、麻子は、ただただ祈りを捧げていた。踊りの激しい部分は、同じくクンクマの薫陶を受けたミーナこと森田三菜子に任せ、アビナヤ曲を中心に舞った。

最後に微笑んだ。それは演技の笑み、個人の感情を越えていた。インド人も日本人もなく、インド舞踊も踊りも舞いもなく、ただ純粋な魂が表出していた。

会場は吉祥寺のスタジオ・アムリタ。アムリタは甘露と訳されるが不死という意味。不死、死なないではなくて、無死、死はないという意味かもしれない。

永遠に融け込んでいった。それがオリッシーの最後の演目モークシャ。解脱と訳される。輪廻や束縛から解き放たれるというよりは、自分の肉体や自我からも解き放され、宇宙に融け込んで一体となるという意味か。

麻子さんは永遠ですよ。

付言 高見麻子著 田中晴子編『インド回想記』七月堂について

この項を書き終えてから本が届いた。麻子のインド舞踊にかける思いが綴られている。2007年11月3日に亡くなられているから今年で十三回忌。

アメリカに渡って、e-mailなど想像も出来ない時代に、FAXで時々手紙をもらった。在米のせいか、たどたどしい日本語だと思った。しかし、この本を読んでみると、その独特の言い回しが詩のように思えてきた。

「87年、その年に開校したオディッシー・リサーチ・センターで練習というか、鍛冶屋さんで鍛えるように踊りをしてから、デリーのクムクムさんの家に内弟子として滞在した」

徹底した身体訓練を受けたと表現するのでは面白くない。

麻子さんの姉はピアニストの絹子さん、女子美術大学で専攻したのは日本刺繍だった。

「『ひと針ひと針』刺していくのに、気のとおくなるほどの時間がかかっただろうに。長い時間をかけて創ったその人の、深い献身の念と祈り」

「インド舞踊を始める。それがわたしの道だった。素材として自分の身体に『ひと針

ひと針』縫っている、絹の布に刺すかわりに」

わたしは、彼女の舞踊にある種たどたどしさを感じていた。流れるように流暢にとかダイナミックな迫力というのではなく、流して踊っていない。初心忘るべからずという丁寧さか。丹念にひと針ひと針刺していく。たどたどしいのではなくひたむきだった。

この本に使われている写真のほとんどは、ボブ・ギレスと私の撮影したもの。ギレスの写真はスタジオで作り上げた、美人女優のポートレートのようなポーズ写真。この項でも一部使われている私の写真は、舞台で踊っている時の写真で、麻子さんの地が写っていると思った。好対照である。

それにしてもこの本に登場する何人かはすでに亡くなられ、私の記憶も薄れてきている。生き証人としてこの連載を綴っている。

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2019.05.21