インドの神さまは今日も大忙し(その5)
クリシュナ神って何者?
クリシュナ神は牛飼いの女性たちと毎日楽しく暮らしているようだが、それとはまったく別人といってよいクリシュナ神もいる。いとこ同士の確執からはじまる大戦争を描いた叙事詩『マハーバーラタ』の第6巻に組み込まれた『バガヴァッド・ギーター』(神の歌、以下『ギーター』)では、とてつもない策士としてのクリシュナが登場する。五王子を中心とするパーンダヴァ軍の側について、百王子を中心とするカウラヴァ軍を殲滅しようとするのである。
五王子のなかでもっとも弓術に優れたアルジュナは、大戦争の火ぶたが切られる直前、親族を殺すくらいなら自分が死んだ方がよい、と戦意を喪失してしゃがみこんでしまう。アルジュナの御者として参戦したクリシュナは、王族武士階級に属する者の本務(スヴァダルマ)として戦をせよと説く。たとえあなたが相手を殺しても、あるいは相手に殺されても、身体のなかにあるアートマン(魂)は不滅であるという。それでも納得しないアルジュナに対して、クリシュナ神は無限の力をもつ自分自身の真の姿、すなわち全宇宙を見せ、戦闘に立ち向かわせるのである。
『ギーター』は一見、戦意高揚の書と捉えられるかもしれない。実際、第二次世界大戦時、アメリカの原子爆弾開発プロジェクトを主導し、「原爆の父」と呼ばれたロバート・オッペンハイマーは、のちに、この書の「我は死なり、世界の破壊者なり」という句を引用して、自分はヴィシュヌ神になったつもりで原爆開発を遂行してしまったという内容の発言をし、その時の恐怖からか、あるいは悔悟の念からか涙を浮かべる映像も残されている。一方で、マハートマー・ガーンディーは、この聖典を座右の書とし、非暴力を運動の根幹に据えてインド独立運動を導いた。相手が悪い場合に限り戦争は正当化されると考えても、双方ともそのように主張するだろう。いったい何が正しいのか。いろいろな意味でこの聖典は私にとってエニグマだ。
実はこの戦いの前に、アルジュナと、敵である百王子の長男でカウラヴァ軍を率いるドゥルヨーダナが、同時期にクリシュナの本拠地を訪れて自軍への援助を乞う重要なエピソードがある。クリシュナは求めに応じて、自分と同等の力を持つ百戦錬磨の大勢の戦士たちか、もしくは武器を持たず戦わない自分一人を望むか、という二者択一を迫る。さらに、若い者が先に選ぶ権利がある、とアルジュナに最初に選択する権利を委ねる。アルジュナは非戦のクリシュナを選び、かつ御者になってほしいと頼んだので、ドゥルヨーダナはクリシュナの精鋭の軍隊を連れ帰ることになるのである。アルジュナはどうして非戦のクリシュナを選んだのか?クリシュナ神はひたすら戦意を煽る策士なのか、あるいは本来的に非戦の象徴なのか、いったい何者なのだろう?
『ギーター』には戦闘の場面は描かれていない。ここに掲げた写真(ポスターの一部)もそうである。御者のクリシュナが果実のように並んでいる人間の頭を指して、アルジュナに射るよう促している場面だが、顔のわきには、貪欲(ローバ)とか迷妄(モーハ)などのことばが書かれている。クリシュナが御している馬の背中には、心(チッタ)、理性(ブッディ)、自我(アハンカーラ)、思考器官(マナス)というこころのさまざまな様態を表す文字が読み取れる。そう、これは実際の戦闘ではなく、こころの戦闘の比喩なのである。クリシュナ神のことばを信じて行動する者は、みな輪廻の大海から救済されるというメッセージなのだ。
19世紀初頭のヨーロッパで、そのメッセージを正しく受け取った人物がいる。ベートーヴェンである。彼は、「あなたの職務はまさに行為にあるのであって、決して〔その〕結果にはない。行為の結果が動機であってはならないし、〔また〕あなたは無為に執着してはならない。」など『ギーター』の数詩節を日記に書き付けている。ベートーヴェンはどのような思いで、これらの言葉を書き写したのだろうか。おそらく、音楽家にとって致命的とも考えられる音を失う恐怖やその他の心身を打ちひしぐような困難に襲われるなか、それらに対峙し、至高の音楽を創ることが本務と考えたのではないか。ベートーヴェンの晩年の作品が崇高な音色で満ちているのは、もちろん他の様々な要因もあろうが、インド哲学、とくに『ギーター』からの影響が大きく作用していたに違いないと思うのである。
われわれは、人生において何かに気付いたときには、すでにその状況に深く巻き込まれている。戦争であれ病気であれ貧困であれ、自分が今ここにいる状況から出発するしかない。そのとき、自分のなすべきことは何かが確信できたら、敢然とその道を進んでいくしかない。約2000年前に説かれた『ギーター』は答えのない哲学書であり、不条理を前にして佇む人間に、いまもなお「考えよ」というメッセージを送り続けているように感じる。
更新日:2024.05.01