インドの神さまは今日も大忙し Ⅲ(その4)
蛇神の護符
北インドで使われるヴィクラマ暦のシュラーヴァナ月の白半月(新月から満月へ向かう半月間)の第5日、西暦でいうと8月中旬ころに、蛇神の祭礼ナーガ・パンチャミーが祝われる。インド各地で暦が多少異なるので日付は変るところもあるが、全インドの祭礼である。7~8月は雨季の真っ最中で、土砂降りの雨が続き、ゆるんだ地盤や土塁のあちこちから蛇が抜け出してくる。ガンジス川はいたるところで決壊し、洪水をもたらす。だからこそ、人びとは蛇神に熱心に祈りを捧げ、自然の猛威を宥める必要があるのだ。
この日は蛇神ナーガに尊崇の気持ちをあらわらすとともに、蛇の持つ猛毒から自分たちを守ってくれるようにお願いする日でもある。つまりひと言でいえば蛇との共生を願う祭礼なのだ。蛇神の寺院や祠にお参りし、蛇の神像や実際に蛇が棲んでいるところ、潜んでいると考えられている蟻塚などに花や線香を捧げ、好物の牛乳を灌ぐ。
私が留学して最初に住んだのは、バナーラスの旧藩王(マハーラージャ)の弟さんの洋館で、あるときその広大な庭園にコブラが顔を出した。数日前から蛇の天敵といわれるマングースがうろちょろしていたので、蛇の出現はさもありなんという感じだった。すぐに蛇使いを呼び、ただで譲るから捉まえてほしいと頼んだ。すると彼は、このコブラはここに住んでいる神さまなので、と言って、コブラを地面の隙間に追い払ってさっさと帰ってしまった。それからの数か月、館の出入りはもちろんのこと、夜など生きた心地がしなかったものである。インド人にとっての蛇は、日本人が考える恐怖の対象とはまったく別次元の存在だということを思い知らされた。
神話に登場する蛇は、世界の創造や維持、そして水に関係する大きな役割を果たしている。大海攪拌の神話では、ヴァースキという名の蛇が、攪拌棒に巻き付いて綱の役目をし、神がみと悪魔が引っ張り合って大海を攪拌し、多くの財宝を引き上げる助けをした。このヴァースキは普段はシヴァ神の首にマフラーのように巻き付いている。大蛇シェーシャは別名アナンタとも呼ばれ、ヴィシュヌ神の寝台、すなわち世界の基盤となっている。世界各地の神話にもあるように、蛇は世界創造神話において神がみと密接な関係を持っているのだ。
この祭礼では、蛇神の土人形と護符の絵を購入するのが習わしである。人形は昔ながらのとぐろを巻いたおどろおどろしいものから、ボブルヘッド人形のような可愛らしいものまでさまざまである。護符の絵柄は、写真のようにたくさんの蛇が絡み合っているものが多い。そのほか、大海攪拌神話のヴァースキや、ヴィシュヌ神がシェーシャ蛇の上に横たわっているもの、クリシュナ神が悪蛇カーリヤを退治し、その頭に片足をかけて横笛を吹いているものなどいろいろある。単に蛇毒だけでなく、家内全般の罪障から守ってくれるようお願いする。写真は伝統的なバラモンの古い台所に残されたすすで汚れた護符である。買った人は家の扉や台所の壁に貼っておき、また一年後に祭礼が巡ってきたときに張り替える。私がインドで暮らしていたころは、護符は子どもたちが数日前から大声をあげて売り捌き小遣い稼ぎをしていたが、今でもやっているのだろうか。
蛇神信仰は、仏法の東漸(とうぜん)とともに中国に渡り、そこで古来の龍の信仰とも習合して、日本にもやってきた。龍神は大自然の象徴であり、人間が道に従わないことをすれば、大災害をもたらす。特に龍神は水と関係が深く、湖沼に棲む龍神に五穀豊穣を祈ったり、さらに海に囲まれた日本では海難事故防止や大漁を祈ったりする。日本ではそのほかに、龍神・蛇神の化身とも考えられている宇賀神(うがじん)が、ヒンドゥー教・仏教で水と関係する弁才天(サラスヴァティー)と習合した宇賀弁才天なども篤い信仰を受けている。「宇賀」の語源は諸説あるが、サンスクリット語のウラガ(uraga、腹ばいで進むもの=蛇)にも関係しているかも知れない。
ヒンドゥー教では、ブラフマー神、ヴィシュヌ神、シヴァ神などの人間の姿に似た神格が有名だが、今回取り上げた蛇神をはじめ、猿神や聖牛や、象頭神や馬頭神、人獅子、野猪、霊鳥、巨魚など、多くの動物が神格化され、人間を見守っている。さらには、太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星、の七曜に、羅睺(らごう、ラーフ)、計都(けいと、ケートゥ)の九曜(ナヴァグラハ)を加えた九曜神にもお詣りを欠かさない。ラーフとケートゥは実際には目に見えないが、日食や月食を引き起こす月の交点と考えられている。元は一体の悪魔だったが、神がみに不死の霊液アムリタを盗み飲んでいるところを見つかり、ヴィシュヌ神に首をはねられてしまった。頭部がラーフ、胴体がケートゥと呼ばれ、今でもラーフは太陽や月を飲み込もうとするが、胴体がないので、太陽や月はやがて無事に通りぬけて復活する。2009年7月22日、今世紀最長といわれた皆既日食をバナーラスまで見に行ったが、ガンジスの岸辺では数万人の人が凶兆からの再生を一心に祈っていた。ヒンドゥー教徒の日常生活には、身近な蛇から遥か遠い天体の運行までもが、緊密に関係している。これがヒンドゥー教の多神教なのだ。
更新日:2026.04.08