インドの神さまは今日も大忙し Ⅲ(その3)
ピシャーチャ・モーチャン
花輪を絶妙な具合に掛けられ、一見ユーモラスな感じのこの石像は、実は聖地バナーラスでもっとも恐れられているピシャーチャ・モーチャンという悪霊である。ピシャーチャは悪霊・悪鬼、モーチャンはそれからの解放を意味する。もとは悪霊であったものが、シヴァ神に諭されて人びとを救済する命を帯びた。それゆえ、崇拝する人には恩恵を与えてくれるが、そうでない人には果てしのない恐怖を突きつける。ヒンドゥー教にはシヴァ神やヴィシュヌ神のような汎インド的な強力な神さまもいるが、ローカルな範囲でしか知られていないこのような民間信仰の「神さま」も多くいる。
この像があるのは、バナーラスのチェートガンジ地区のそばで、私が暮らしていた時には、友人たちから絶対に訪れるなと言われていた。バナーラスでもっとも恐ろしい場所なのだそうだ。そう言われるとかえって行きたくなるのが人情というものだ。場所はすぐにわかった。けれど、寺院の境内のような場所はあるものの、寺院らしくない。小さな祠がいくつかあって、この石頭もそのうちの一つに鎮座している。ここはピシャーチャ・モーチャン・クンド(池)というバナーラスでも最大級の長方形の沐浴池に面しているが、寺院(マンディル)という言葉はどこにも記されていない。つまり、ピシャーチャ・モーチャンはヒンドゥー教の教義上では神さまではないらしいのだ。
人は死後ヤマ(閻魔)の支配する死者の国(ピトリローカ)に赴いて、そこにしばらく留まることになる。ヒンドゥー教には日本のお盆に似た風習があって、アーシュヴイナ月(9月頃)の二週間、せっせと祖先供養に励むのである。残された親族が追善供養を行うと、その功徳で亡くなった者たちは、ようやく死者の国を離れて天界に到達できるというわけだ。しかし、暴力的に命を奪われたり、そのほかの不慮の事故や疫病などで死をとげ、さらに供養が受けられず死者の国にたどり着けなかった者たちは、ピシャーチャ(悪霊)という存在になる。その境遇は30万年続くというから、不運きわまりない。
バナーラスの聖地縁起譚を説く『カーシー・カンダ』などによると、石頭のこのピシャーチャは、かつてシヴァ神の恩恵を受けたいと願ってバナーラスに侵入しようとした者だという。しかし、バイラヴァ神に捕まって、打ち首にされてしまった。バイラヴァとはシヴァ神の恐ろしい性質を具現した姿で、シヴァ神の化身といってよい。特にバナーラスではバイラヴァ神は聖地の聖性を守る保安官のような役割を持っている。バイラヴァ神から報告を受けたシヴァ神は、情状酌量の余地があると思ったのか、頭部のみとなったピシャーチャに対して重要な任務を命じ、この地にとどまることを許可した。それは、彼と同じように悪霊になってしまった者たちを救済する仕事である。
上述した祖先供養の二週間のあいだには、亡くなった家族のための追善供養や、自分たちが不慮の死をとげないために、ピシャーチャ・モーチャンに大勢の人がお参りにくる。祖先供養はバナーラスから約250キロ東の聖地ガヤーで行うのが有名なのだが、ピシャーチャ・モーチャンの聖地案内僧たちは、最初にここを訪れなければガヤーに行ってもご利益は得られないと、まずはここに足を運ばせようと必死のキャンペーンを繰り広げる。ピシャーチャ・モーチャン様のご利益はほかのどこよりも絶大だというのだ。私自身も東京・浅草で生まれ育ったので、巡礼や観光客に何とか来てもらおうという必死の努力は痛いほどよくわかる。
けれどこの場所には、そんなことをしなくても年間を通じて多くの人が集まってくる。悪霊に取り憑かれた息子や娘を、家族が連れてくるのだ。ここには数回しか訪れていないが、行くたびに異様な光景が繰り広げられていた。4,5人ないし6,7人が車座になって憑き物を降ろしている。何かに取り憑かれてうなだれたままの青年がいるかと思えば、それを自分に取り憑かせる役割の霊媒師もいる。肉を寄こせ、酒を呑ませろと絶叫している悪霊の憑いた霊媒師に対して、その仲間が悪霊に話しかけて、まずはどういう人物が憑依しているのかを探り、さらに粘り強く言葉を交わしながら、悪霊に出て行って下さいとお願いをするのである。境内のあちこちから絶叫や奇声が聞こえてくる。沐浴池の岸の菩提樹には、降ろした悪霊を封じ込めるために、無数の釘が打ち込まれている。私の友人たちが心配していたのも無理はない。ここでいつ悪霊に取り憑かれてもおかしくない雰囲気なのだ。
憑依やうつ病、そのほかさまざまの精神疾患や分類さえできない心の症状で苦しんでいる人びとは、ヒンドゥー教のいわゆる大伝統に属するシヴァ神やヴィシュヌ神の寺院には赴かない。またヒンドゥー教のバックボーンをなすインド哲学でもこのような現象はほとんど議論の対象にならない。けれどインド全土のさまざまな地域にこのような場所があり、苦難をかかえた人たちが、近隣の人や知人に見られぬように、藁にもすがる気持ちで集まってくる。これもヒンドゥー教の一側面なのである。
更新日:2026.03.09