インドの神さまは今日も大忙し Ⅱ(その5)

夫を踏みつける女神カーリー
シヴァ神の妃で一番恐ろしいのは、何といってもカーリー女神である。青みがかった黒色の体を持ち、額には三眼、口からは真っ赤な血を滴らせた舌をだらりと出している。乳房は丸出し、悪魔たちの生首あるいは髑髏を集めて首飾りにし、切り落としたばかりの腕を腰蓑にして垂らしている。片手に青龍刀のような剣を持ち、それで掻き切った生首を別の手にぶら下げている。さらに別の二本の手で三叉の戟や血を溜めた髑髏を持つ図像もある。掲げた写真は恐ろしいというより、だいぶ可愛らしいカーリーである。40年くらい前に私が購入したミティラー画で、『インドおもしろ不思議図鑑』(新潮社)に載せるために松本さんに撮影していただいた懐かしいものだ。
8世紀の『デーヴィー・マーハートミヤ』によれば、カーリーは、ドゥルガー女神がシュンバとニシュンバという悪魔と壮絶な戦いを繰り広げているとき、怒りが頂点に達し真っ黒になった額から生まれたといわれる。カーリーとはサンスクリット語の名詞カーラ(黒色、時間)の女性形で、時間には死という意味もあるので、黒い肌で死をもたらす女性を表している。カーリーの一番有名な戦いは、ラクタビージャという、切られたときに飛び散った血のすべてから分身の術で多くの体を復活させる悪魔との戦いである。カーリーはその長い舌で、次々に再生する敵の血をすべて舐め尽くして、完全な勝利をもたらした。
カーリーの図像には、夫シヴァ神の上で勝利に酔って踊り狂っているものが多い。これは放っておくと大地が砕けてしまうので、シヴァ神が妻の足元に身を横たえて、衝撃を受け止めている場面なのである。カーリーは何をしでかすかわからないじゃじゃ馬でもあるのだ。カーリーは東インドのベンガル地方では特に篤い信仰に支えられていて、コルカタのカーリガート寺院ではヤギの供犠が毎日行われている。いまではインド各地で崇拝されるようになり、私もバナーラスの西に位置するヴィンディヤーチャルという聖地の山麓にあるカーリー寺院で供犠を見たことがある。境内の庭に連れてこられたヤギの首は、切断されたとたん銀皿に載せられて、信徒の手で寺院のなかに運ばれ、女神の前に捧げられた。寺院関係者以外そこにいたのは私と友人の二人だけで、斬首の一瞬は凄絶であったが、あとは夏の昼下がりの静寂に包まれていた。
さて、仏教の側ではインドラ神やブラフマー神などのヒンドゥー教の神さまを仏教に帰依するものとして取り込んできたが、シヴァ神だけはすんなりいかなかったようだ。シヴァ神は妃パールヴァティーとともに、なんと五大明王の一尊である降三世明王(ごうざんぜみょうおう)の足下に踏みしだかれているのである。降三世明王は三界の勝利者(シヴァ神)を降した者という意味である。つまりシヴァ神の天敵として創造された明王なのだ。ときに同体とされる勝三世明王とセットで出てくるが、その二人兄弟は経典によっては、シュンバ・ラージャ(別名、孫婆菩薩)とニシュンバ・ラージャ(別名、爾孫婆菩薩)と呼ばれる。『デーヴィー・マーハートミヤ』に出てくる悪魔兄弟が、密教化した仏教で阿閦如来の化身である守護尊になっていたのだ。いくらシヴァ神が仏教に従わないから憎いといっても、悪魔を守護尊に仕立てて対抗させるなどやり過ぎだと思う。しかし、宗教間の確執とはこのようなものなのかも知れない。
ところで、動物の生贄というのは現在どのくらい行われているのだろう。先に記したようにヴィンディヤーチャルの山麓では供犠を見たが、バナーラスなどの北インドの都市部ではほとんど見る機会がない。歴史的に見ても、ヴェーダ時代に行われていた供犠は、仏教やジャイナ教の不殺生の思想の高まりなどに押されて、徐々に減少していったと思われる。インド六派哲学の哲人たちからも、動物犠牲を非難する言葉が見られる。さらにヴェーダの儀礼中心の信仰が紀元前2世紀ころに変容してヒンドゥー教になると、供犠を伴わない花や線香やココナツなどの果物や聖水を神がみへ捧げる礼拝の仕方が定着していく。しかし、インドの辺境といえる地域や先住民が暮らす土地には、まだ動物供犠の風習が残っている。
10年ほど前、東インド・アッサム州のガウハーティーに、カーマーキヤー女神寺院の調査に行ったが、ここほど動物の供犠が行われている場所はほかに見たことがない。カーマーキヤー女神はカーリー女神とも同一視されるが、主な神話が記述された『カーリカー・プラーナ』によれば、シヴァ神の最初の妃サティーに関係する。サティーについてはこのシリーズで何度か取り上げたが、シヴァ神が自死したサティーを肩に担ぎ、悲しみのあまり乱舞していると、世界が破壊されるのではないかと恐れたヴィシュヌ神が円盤状の武器チャクラを放ち、彼女の体を切り刻んで、シヴァ神の熱狂を冷めさせた。51の部分に別れた彼女の体が地上に落下した場所は「女神の座」(シャークタ・ピータ、あるいはシャクティ・ピート)と呼ばれる聖地となった。そしてここは彼女の女性器が落下したところとされて、格別の崇拝を集めているのである。
境内にはヤギやニワトリやハトがあちこちにいる。中心のカーマーキヤー寺院のほかにも多くの関係する神がみの寺院があって、その内外に犠牲獣を結ぶ祭柱が備えられているが、そのどれもが血しぶきを浴びて赤黒く染まっている。きわめつけは水牛で、早朝多くの信徒が見守るなか、厳粛に供犠が行われたが、実はそのときの光景はほとんど覚えていない。もしかしたら記憶から消そうという力が働いたのかも知れない。前の晩に2メートルほどの祭柱のある斎場のなかを見せてもらったとき、片隅にうずくまっている水牛を見たせいかも知れない。けれど、動物犠牲には私たちの命に関係する深い意味がある。私たちが生きていられるのは、世界に存在するあらゆるもののお陰である。動物も食用だけでなくその骨や毛皮にいたるまで、お世話になっている。そのことをしっかりと心に留めるために、犠牲祭が行われるのだ。感謝の気持ちとともに命を天に送り返すアイヌのイヨマンテもしかり、動物供犠は私たちが世界に生かされていることを気付かせてくれるもっとも直接的な方法なのである。
付記:松本栄一・宮本久義編『インドおもしろ不思議図鑑』(新潮社、1996年)は、とんぼの本シリーズのなかで最多の写真数・約1000枚が掲載され、インドの宗教や文化がまるごとわかる本となっている。
更新日:2025.05.01