インドの神さまは今日も大忙し(その8)
ゴーヴァルダン山を持ち上げるシュリーナート神
これもクリシュナ神である。インド西部のラージャスターン州ウダイプル市近郊に位置するナートドワーラー寺院の御本尊だ。写真は50センチ×35センチのポスターであるが、クリシュナ神の特徴である青黒い(シュヤーム)肌色がよく出ている。この神さまの元々の名前は、「シュリー・ゴーヴァルダンナート・デーヴァダマン・ジー」(吉祥なる牛増殖山の主にして〔インドラ〕神を服従させた者)とかなり長いので、信徒たちは短くして「シュリーナート・ジー」(吉祥なる主さま)と呼んでいる。
クリシュナ神の本拠地は、デリーの南方約180キロのヴリンダーバンを中心とするヴラジュ(放牧地の意)地方であるが、クリシュナ信仰の来歴はきわめて複雑だ。この地でヴリシュニ族が崇めていたヴァースデーヴァの宗教に、遊牧にたずさわるヤーダヴァ族の英雄クリシュナと、アビーラ族の牧童頭ゴーパーラへの民間信仰が習合し、さらにバラモン教のブラーフマンたちがこれらの「新興宗教」に対抗するために本家ヴィシュヌ神の化身として位置付けた、と考えられている。
祭祀中心の古来の宗教は、紀元前2世紀頃にさまざまな民間信仰に影響されて変容していく。インド思想研究者は、前者をバラモン教、後者をヒンドゥー教と呼ぶが、その変移を如実に表しているのが、ゴーヴァルダン山にまつわる神話である。ヴリンダーバンの人びとは雨をもたらしてくれるバラモン教の中心的な神インドラ(帝釈天)を崇めていたが、クリシュナは牧草を育て、牛を増やしてくれるゴーヴァルダン山の方を拝むべきだと訴えた。それはならぬとインドラ神は大雨を降らせてクリシュナを懲らしめようとする。
7日間続いた暴風雨のあいだ、クリシュナは山全体を指で持ち上げて傘のようにし、牛飼いたち村人を雨宿りさせた。上のポスターの写真で、突き上げられた左手はゴーヴァルダン山を持ち上げている姿であるが、この山そのものが実はクリシュナ神なのだ。とうとうインドラ神が根負けして姿を現すが、まだ権威を守ろうとして、クリシュナに「ウペーンドラ」という別名を授けた。その意味は「インドラに順ずる者」すなわち「インドラの舎弟」で、何のことはないインドラの負け惜しみなのだ。インドラの権威は失墜し、クリシュナ神にすがる者たちが急激に増えていく。
クリシュナ信仰はすでに紀元前4、5世紀にはバーガヴァタ派として成立し、その教義は『バガヴァッド・ギーター』や『バーガヴァタ・プラーナ』などに説かれて、インド各地に広まっていった。時は流れ中世の15~16世紀にクリシュナ信仰をさかんに弘めたのは、チャイタニヤ師とヴァッラバ師であるが、とくにシュリーナート・ジーの信仰を確立したのは純粋不二一元論を標榜し、バクティ(信愛)によって個我を神の許へと導くプシュティ・マールガ(養育の道)を説いたヴァッラバ(1479~1531年)である。
若くして北インドの聖地バナーラスで学業を修め、東インドのジャガンナートで研鑽を積み、ヴリンダーバンのゴーヴァルダン山に来てシュリーナート・ジー(クリシュナ)神の尊像を見出したヴァッラバは、生涯3回にわたるインド大巡礼を行い、信徒を増やしていった。しかしその後、ムガル帝国第6代皇帝アウラングゼーブ(在位1658~1707年)の暴政が始まると、難を逃れるため信徒たちはシュリーナート・ジーの尊像を車でヴリンダーバンから運び出した。メーワールの地にいたって車輪がぬかるみにはまりそれ以上進めなくなったことを、信徒たちは神さまのご意思と考え、この地に寺院を建立した。さらに、ヴァッラバの次男ヴィッタルナートが周辺にも多くの寺院を建立して、この地を「西のヴラジュ」と呼ばれるほどにクリシュナ神の一大聖地に変えていった。
インドでは有名な聖地だが、こんなところを訪れる日本人なんているのかなと考えていたら、ハタと気が付いた。私自身が1987年、新婚旅行の途次にここを訪れていた。何かの大祭が行われていたのか、あるいはいつもそうなのかわからないが、数千人の人混みであった。私一人ならインド人に紛れて入れたと思うが、いかんせん外国人の夫婦である。入口で止められたあと、私がインドに住んでいたことなどをヒンディー語で説明してようやく許可を得たのだが、そのとたん男女別々の列に並ばされた。もみくちゃにされて神さまの前までたどり着いて拝謁をすませたものの、今度は棒で出口の方へ追い払われた。しかしここで怒ってはいけない。ナートドワーラーは「神の門」、すなわち天界への入口という意味で、修行の足りない者は追い返されるのがおちなのである。
更新日:2024.08.05