インドの神さまは今日も大忙し(その3)
ひとりひとりの願いを叶えるクリシュナ神
男女が輪になって、実に楽しそうに踊っている。一見なんの変哲もない光景だが、なんと男性は皆クリシュナ神なのだ。たくさんの女性たちが、未婚の女性も既婚者も、愛しいクリシュナさまを追い求めるので、クリシナ神はしばらく身を隠してしまう。クリシュナ神はここではヴィシュヌ神の化身として地上に牛飼い(ゴーパーラ)の姿で光臨したスーパースターで、牧女(ゴーピー)たちの憧れの的なのだ。
悲嘆にくれるゴーピーたちをクリシュナ神が見捨てるはずがない。ひとりひとりに自分の分身を作って、みんなの願いを叶えてあげるのだ。別離のあとの熱狂的な再会を用意してくれたクリシュナ神を、ゴーピーたちはもう決して離さないであろう。この円舞は「ラース・リーラー」と呼ばれ、時には何百人ものゴーピーたちと大円舞(マハーラース)をする姿も図像で見られる。クリシュナ神はインド神話の中でも稀代のプレイボーイなのだ。
古代からクリシュナ神の素晴らしい行状を人間の演者が再現する劇が行なわれていたようだが、中世の15、16世紀になって「ラース・リーラー」という名称で盛んに演じられるようになった。「ラース」には音、騒音という意味があるが、一般的にはクリシュナ神の生涯の行い、とりわけ円舞の場面を指すことが多い。サンスクリットの詩論や演劇・音楽論で用いられる概念で、聴衆が感じる恋情や滑稽、怒りや嫌悪など八種ないし九種の情調のことを「ラサ」というが、語源的な結びつきは不明なものの、さまざまのラサに溢れる劇という解釈もあるようだ。
「リーラー」は、神がみの神威、特別な行為のことを指し、「遊戯」(ゆげ)と和訳されることが多いが、劇に関係するときには「神楽」(かぐら)というのがピッタリな気がする。デリーの南約180キロにあるクリシュナ神の生誕地とされるヴリンダーバンでは、毎年雨季の7月ころからクリシュナ神の生誕祭が祝われるバードラパダ(バードーン)月(8~9月ころ)までに、いくつもの寺院でラース・リーラーが上演される。
そのうちの一つ、ラーダーラマン寺院にはラース・リーラーの舞台をもつ信徒会館があって、私も何度か泊めていただいた。内部は吹き抜けで、数百人の信徒が食い入るように舞台を見つめている。演者はブラーフマンの少年たちで、スワループ(サンスクリット語ではスヴァルーパ)と呼ばれるが、この言葉は本性・本質を意味し、まさにクリシュナ神をはじめとする天上の神がみが、いま・ここに、御神体として示現してくださっているのだ。
私はリーラー(līlā)という言葉が好きだ。英語では‘play’(遊び)と訳されるが、その意味は計り知れない深さをもっている。神は自己充足しているはずなのに、なぜ世界を創り出したのか、なぜ人間などの生類をそこに置いたのか、なぜ多くの人は輪廻転生を繰り返すのか。その理由が、神さまの「リーラー」だとしたら、私たちは神さまに対して信愛(バクティ)をもって答えるしかない。
概念としてのリーラーはヒンドゥー神学の精髄であるが、まあそんなことを忘れて、ただただクリシュナさまの甘美なリーラーを見つめるのもいいではないか。
付記:「ラース・リーラー」に関しては、以下の論文がたいへん詳しい。
橋本泰元、1989、「ラース・リーラー「クリシュナの愛の遊戯」をめぐって」『コッラニ』13号、36~63頁
更新日:2024.03.13