的場裕子のインド留学記 その4

学内演奏会

大学では、時々講演会や演奏会が1階のホールで開催されていた。この大学で教えている教授陣の他、学外からも招かれていた。

ある日、大学で教えておられたT.M.ティヤーガラージャン(通称TMT)先生の演奏会があった。1階ホールでは男子学生と女子学生は左右に分かれて座っていた。私はラージャラクシュミ先生と一緒に行ったので、前の方の良い場所に先生と座った。しばらくするとティヤーガラージャン先生が風呂敷になりそうな大きなハンカチを片手に、くしゃみをしながらステージに入って来られた。

かなり重症の鼻風邪を引かれていて、演奏中に何度も鼻をかんだり、くしゃみをしたりしながら歌われた。もちろんしっかり鼻声になっていた。普通だったら演奏会を延期するような状態だったと思うが、聴衆側もそのような反応は全く示さず、普通に演奏を聴いていた。コンサートが終わってからラージャラクシュミ先生が私に言った。「今日ティヤーガラージャン先生は風邪で具合が悪かったけど、音楽は良かった。」と。

インド人にとって音楽とは何なのか。聴きどころがラーガの動きであれば、咳やくしゃみの音が入っても、そういう雑音は別にどうでも良い事なのかも知れないと思った。演奏家の中には結構ガラガラ声の人もいて、声楽ではあまり声の質に拘らないような気もする。

またある日の事、私はクリシュナン先生に呼び出された。スイスの音楽学者が大学に来るのだが、子守唄を聴きたいというリクエストがあったと言う。ちょうど日本から留学生が来ているからと、私に日本の子守唄を歌えとの事だった。クリシュナン先生からのお話は断れないので、「分かりました。歌いますが、絶対録音はしないで下さい。」とお願いした。クリシュナン先生は軽く頷いて、私をムリダンガムの教室へ連れて行った。ちょっと練習するからと歌うように言われた。私は歌える子守唄が五木の子守唄しか思い浮かばなかった。「おどま〜♪」と歌い始めるとムリダンガムが鳴り始めた。クリシュナン先生が私に「この歌はアーディ・ターラか?」と聞いた。私はムリダンガムの伴奏が入ると可笑しくて歌えなくなってしまった。この子守唄は無伴奏で歌うものなので、ムリダンガムなしで大丈夫ですとお断わりして、ソロで歌うことにした。

翌日ホールで、インド人の学生たちが入れ替わり立ち替わり子守唄を歌っていた。ムリダンガムの伴奏が付いていて、かなり賑やかだ。これで赤ん坊が眠るとはとても思えなかった。その後、私は舞台に上がった。録音しないと言う条件で引き受けたのに、スイスの女性音楽学者は必死の形相で私にマイクを向けて来た。オープンリールのテープレコーダーが静かに回っている。クリシュナン先生が客席の後方に立っていらしたので、話が違うじゃないかと目でサインを送った。ところが、クリシュナン先生は、右手を下から上にあおぐように大きく振って、やれ!のゴーサイン。もはや絶体絶命。ミイラ取りがミイラになるとはこの事だ。音楽の研究をするために行ったのに、研究材料にされてしまったのだから。私が歌った五木の子守唄はその後スイスでどうなったのだろう。

 

カルパカム先生と 2009年

 

大学で習ったお二人の先生方には留学後数十年のブランクはあったが、再び個人レッスンを受ける機会があり、長年に渡り大変お世話になった。お二人とももう亡くなられてしまったが、ラージャラクシュミ先生の長男でガタム奏者のゴーヴィンダラージャン先生からはリズムトレーニングの指導を受けた。またヴィーナー奏者としてAll India Radioに勤めていた末娘のヴィジャヤラクシュミ先生には、レッスンばかりでなく、コンサートにも出演させていただいた。

留学以来今日まで、ラージャラクシュミ先生のご家族と、半世紀に渡りずっとお付き合いは続いている。(終)

 

ヴィジャヤラクシュミ先生と 2013年

 

的場裕子(ヴィーナー奏者)プロフィール

日本女子体育大学名誉教授

1949年秋田市に生まれる。

東京藝術大学楽理科卒、民族音楽学専攻、故小泉文夫教授に師事

1972年タミルナード州立音楽大学留学。ヴィーナーを故Rajalakshmi Narayanan氏、故Kalpakam Swaminathan氏および、故Nageswara Rao氏に師事。以後50年に渡り、研修を続ける。

2007年よりインドでも演奏活動を開始。チェンナイ、マイソール、カンヌールなど、南インド各地で演奏する。

研究論文

「南インド古典音楽で演奏されるラーガの現状について」 諸民族の音p.635—60 音楽之友社 1986

研究報告

「Musical Aspects of Baul Music」Musical Voices of Asia p.76—82 by Japan Foundation 1980.

「Flexibility in Karnatic Music」Senri Ethnological Studies 7 p.137—168 国立民族学博物館

執筆

岩波講座「日本の音楽・アジアの音楽」別巻Ⅱ≪インド古典音楽≫ p.155—166 岩波書店1989

民族音楽概論≪南アジア≫ p.149~166 東京書籍 1992

共翻訳

人間と音楽の歴史 第4巻 南アジア 音楽之友社 1985

更新日:2023.06.08