河野亮仙の天竺舞技宇儀㊶

絵語りと影絵芝居

影絵芝居というとインドネシアのワヤン・クリが有名で、日本でも愛好者が多い。松本亮が日本ワヤン協会を設立し、公演活動を行っていた。バリ島でも盛んだが、ジャワ島ではマハーバーラタの人間模様が好まれ、語り直された物語が上演される。ラーマーヤナとマハーバーラタがインドのものであるように、影絵芝居もインドから渡ってきた。

ジャワ島の物語では、パーンダヴァ5兄弟はイスラームに改宗している。世界最大のイスラーム国でヒンドゥーの物語が語られるのは何故か。

ペルシア系のイスラーム神秘主義がインドに入り、マレーシア、インドネシアへ渡っていく。ワリ・ソゴと呼ばれる9人のイスラームの伝道師がスラバヤ、チレボンなどでラーマーヤナやマハーバーラタを利用して、その中にイスラームの理念を組み込むという手法をとった。

それは14世紀の事で、絵巻物芸能のワヤン・ベベルの絵から人物を人形として切り出して影絵芝居として上演するワヤン・クリを考案したという。ワヤンとは影、クリは皮革のことで、水牛の皮を人形に用いた。
https://www.youtube.com/watch?v=SjyHS1GkCdk&t=90s

ワヤンとしては、絵巻の絵語りをするワヤン・ベベル、木彫りの人形を用いるワヤン・ゴレック、俳優が演じるワヤン・オラン、またはワヤン・ウォン、仮面を付けた踊り子が演じるワヤン・トペンがある。福岡まどかによると、いずれの場合も語り手であるダランが進行を司る。ワヤン・クリの場合はダランが語りながら1人で人形すべてを操り、木の板を叩いてガムランの楽隊を仕切る。
https://www.youtube.com/watch?v=Wph0cBNi7Yo

ワヤンの人形、影は祖先の霊だという。松本が何人かのダランたちに聞いたところ、イスラームの影響を受けたヒンドゥーの物語を語りながら、自分たちの宗教は祖先崇拝だという。

また、人形劇や影絵芝居には特別な魔除けの演目があり、それはムルワカラと呼ばれている。人形、形代は呪術性が強い。

人形劇復活再生の道

インドの人形劇についてはジーヴァン・パーニの概説書がある。おそらくは映画産業の普及によって、小さな娯楽である人形劇は1940年代、50年代には先細りになる。50年代の終わりに、たまたまパーニはオリッサ州カタックでラーヴァナ・チャーヤーという影絵芝居を見る機会を得て感銘を受けた。

彼は1970年にニューデリーのサンギート・ナータク・アカデミーに職を得て、伝統的な芸能について調査する事になった。時のセクレタリーのスレーシュ・アヴァスティ、彼はその後何回も来日する事になる、に相談するとすぐに話が決まり、撮影隊と共に調査に行く事になった。

すっとんでいったものの、誰もラーヴァナ・チャーヤーなどという名前は聞いた事がないという。オリッサ州のサンギート・ナータク・アカデミーに聞いてもらちがあかない。さんざん探し回って、カティナンダ・ダースという男がラーヴァナ・チャーヤーの演者であるという事が分かり、オダサ村で探し当てる。

この辺の話は、アメリカのフォークソング・ブームが起きた時、戦前に活躍したブルースマンを探し当てる話に似ている。

出てきた男はボロを着ていて貧困状態にある事が分かる。何をしに来たかと訳を話すと彼の顔がほころび、人形の入ったケースをぎーっと開ける。彼は、3年ぶりに箱を開いたという。ぎーっという音は死にかけているアートのうめき声のように感じたとジーヴァン・パーニは語る。カティナンダは瞬く間に村中で有名になる。

その後、ニューデリーのサンギート・ナータク・アカデミーの所長にカマラデーヴィー・チャットーパディヤーエ、副所長にカピラー・ヴァーツヤーヤナが就任し、人形劇の振興に力を注ぐ。

パーニの“Living Dolls”の序文に詩的な文章で語られるが、その本が書かれた1986年の1年前にカティナンダは亡くなっていた。その後、どうなったのだろうと思っていたら、無事に再生・復活してYouTubeに上がっているのでびっくりした。彩色しない鹿皮の人形を用いる。
こちらは古風。
https://www.youtube.com/watch?v=QWTIpsGtFNY

こちらはモダンだけど、いい絵だ。
https://www.youtube.com/watch?v=qgehpiD9UK0

サンギート・ナータク・アカデミーは1978年11月5から9日にかけて、バンガロールにこれらの影絵芝居を各州から招き、伝統的影絵芝居のフェスティバルを行った。ラヴィンドラ・カラークシェートラで表演と展示、セミナー、ワークショップを開催した。

参加したのは、アーンドラ・プラデーシュ州のトール・ボンマラータ、カルナータカ州からトガル・ゴンベイヤータ、これはアーンドラのトール・ボンマラータに似ている。タミル・ナードゥ州からもトール・ボンマラータの、当時、ただ1人の伝承者、マドゥライ出身のムルガン・ラオが参加した。マハーラーシュトラ州のチャムディヤーチャ・バフリヤー、ケーララ州トール・パーヴァ・クートゥも参加した。

そこから政府機関や外国の人形劇グループから支援を得られるようになって存続し得たのは幸いだった。インド舞踊やカラリパヤット、アーユルヴェーダやヨーガを学ぶ人は増えたが、芸能研究者は少ない。インドの人形劇をテーマに選ぶ人が日本から出てこなかったのは残念である。

ラーマーヤナとマハーバーラタ

最も古くインドの影絵芝居に言及している文献は、古代タミル叙事詩「シラッパディハーラム」である。最終的な成立は8世紀頃と思われるが、古い伝承を核に語り直され、敷衍されているので、影絵に触れている部分が新層なのか古層に属すのかは分からない。影絵芝居は中国では宋代から行われていたという。福州など海から伝わったか、中国側はおそらく自分がオリジンと言うことだろうが。

チョーラ朝とインドネシアの交流は9、10世紀頃に盛んなので、ラーマーヤナやマハーバーラタのエピソードと共に影絵芝居、あるいは紙芝居様のものが渡っていたことは想像できる。9世紀中頃に古ジャワ語で「ラーマーヤナ・カカウィン」が書かれた。カカウィンというのはサンスクリット美文体カーヴィヤに倣った叙事詩のジャンルである。

同時期に造営されたブランバナン中央のシヴァ堂からブラフマー堂にかけて、回廊外側の高欄の48枚の浮き彫りにラーマーヤナが描かれている。

具体的に考えると、その逸話はタミル語で書かれたカンバ・ラーマーヤナに基づいているのか、サンスクリット語のラーマーヤナなのか。それはパーム椰子の束に書かれたテキストとしてもたらされたのか、あるいは語り手が暗誦していたのか。人間の記憶力として約2万詩節のラーマーヤナ、漢文だと法華経ぐらいが限度で、8万詩節のマハーバーラタを一個人が暗誦する事は出来ない。それは分担されたと思われる。

おそらくは語り手、暗誦者が海を渡ったのだろう。わたしは宮廷セットと呼んでいるが、王の回りには宮廷祭官、占い師、学者のブラーマン、ボディガード、音楽舞踊家、お伽話をする語り部、道化師、医者・薬剤師・料理人、床屋・マッサージ師、絵師・彫刻師・工芸師・建築設計者が侍っていたと思われる。貿易で潤ってインドから好待遇でリクルートした。人形遣いとは限らないが、ラーマーヤナの暗誦者も渡ったはずだ。

しかし、サンスクリットであろうとインドの地方語であろうとジャワ人には分からない。それではどうするのか。翻訳というのは、テキストを見ながら辞書を片手に訳すものではないと思う。

暗誦者が語るものを何人かの通訳や識者が、あれこれいいながら解釈するのである。インド語に通じたジャワ人、インド人二世、混血児、サンスクリットに通じた仏教僧もいたかもしれない。通訳できなければ、身振り手振りに絵を描いて説明する。大体それを理解してから、古ジャワ語の美文体カカウィンに直して歌い上げる。記述されるのは最後の段階である。そんな事は文学史の本には書かれていないが。

成立というのはインドでは難しい問題で、マハーバーラタは前4世紀から後4世紀の間に成立したといわれ、ラーマーヤナは前2世紀から後2世紀に成立といわれる。マハーバーラタの作者はヴェーダ・ヴィアーサとされるが、ヴィアーサというのは編纂者という意味だ。バラタ一族の戦いを格に、各地にある英雄譚、神話、民話などを集成した物語であり、ボンベイ版、カルカッタ版、マドラス版など、それぞれ違う伝承があるが、現今は批判校訂版が標準となっている。

吟遊詩人といわれるヴァールミキに帰せられるラーマーヤナも同様で、その編集者の名をヴァールミキとした。カーヴィヤといわれるサンスクリット語の美文体の最初の詩である。ジャワのカカウィンはカーヴィヤの韻律を参考に美文体を作り上げたという。

北インドではサンスクリット語ラーマーヤナより東部ヒンディー語のラーム・チャリット・マーナス(16世紀)が読まれていて、南インドでは、ラーマよりシーターやラーヴァナに同情的なタミル語のカンバ・ラーマーヤナの系統が普及している。10世紀前後からサンスクリット語文学の影響下にインド各地の地方語文学が形成される。

ガンジス河ヤムナー河周辺からヴィンディヤ山を超えて南インドにサンスクリット文化が浸透していく。さらに、海を越えてスマトラ、ジャワ、インドシナ半島にもその波は及び、サンスクリット化されていく。古ジャワ語文学もインドの地方語文学の成立と歩調を合わせている。

ピングリーの人形劇

マハーラーシュトラ州ゴアの32キロ北にピングリーという町があり、人形劇で知られる。60家族が携わっていて、彼らはタッカルと呼ばれている。各地を歩き回って情報を集め、18世紀、マラータ諸侯に近づいて情報提供した。間諜の役割も果たしたと思われ、諸侯の庇護を受けていた。

ピングリーでは糸操りの人形劇と影絵芝居と絵語りを伝承している。彼らの芸の3つのセットは、インドネシアのワヤン・べべル、ワヤン・クリ、ワヤン・ゴレのセットに影響を与えたのであろうか。

幕末・明治の日本の大道芸人もそうだが、その日暮らしの流浪の芸人たちは何の抵抗もなく新天地を求め、家族で海外に渡ってしまう逞しさがある。

絵語りはチトラカティーと呼ばれ、タンブーラやハルモニウム、ムリダングを伴奏に紙芝居形式で上演される。25×38センチ程度の裏どうしを貼り合わせた2枚1組のものを30~50枚程度を組み合わせ、1シーンに1、2分、全体で1、2時間かかる語り物である。古典的なマハーバーラタやラーマーヤナのエピソードを語る。

https://www.youtube.com/watch?v=HfYbEDXrFSo
https://www.youtube.com/watch?v=XPiSkrp9ojA
https://www.youtube.com/watch?v=2NV_m_-Gd74

ケーララの影絵芝居トール・パーヴァ・クートゥ

ケーララの影絵芝居の長老はプラワルの称号を得る。北インドでいえばパンディット、学者、文人である。ラーマーヤナの2,000にも及ぶエピソードを語る。語り手2、3名と人形遣い2、3名で交代しながら一晩語り明かす。打楽器やシャーナイの伴奏がつく。

3月頃に雨ごいや厄除けのためあちこちの寺に呼ばれて行う。正式にはカバラッパラ・パレスに属すカーリー女神寺院の祭礼で、21日間に亘り、毎晩、夜を徹して繰り広げられる。何でも、女神が戦っている時に、ラーマもラーヴァナを攻めていて、その戦いぶりを見ることができなかった。そこで、女神にラーマの物語を見せてあげようという事で始まったという。

彩色した鹿皮の人形を横10メートルくらいあるスクリーンに投射してみる。それは人形劇専用の建物で寺院の女神像に向かって建てられている。観客は外で見る。その本質は、語り物であって、人形はほとんど据え置きで動きは少ない。

語り手はラーマの誕生に際しては、お産の時の注意などを述べる。保健衛生や星の動き、占星術やインド哲学、ダルマについて語り、日常生活を送る上での知識を得る。

祭りの最終日にはお布施をした人の名前を読み上げて、家族の幸せ、豊作、家畜の繁殖などを祈る。
https://www.youtube.com/watch?v=wK3U5DDQm-4

現代人形劇センターがアジアの人形芝居Part 1として1993年に招いているが、その時は海外公演向けの1時間ちょっとの短縮版を披露した。その後、長老は亡くなり、息子がプラワルの称号を得たようだが、果たしてラーマーヤナの2,000のエピソードを語ることができたか。30年も前に訪ねた時には、テープレコーダーに録音して勉強するといってたが。

トール・ボンマラータ

現代人形劇センターがアジアの人形芝居Part 2として1995年に招聘したアーンドラ・プラデーシュ州の大型の影絵芝居で、タイやカンボジアの影絵に影響を与えたかと思われる。

演目はラーマーヤナである。南インドのラーマーヤナは、シーターに同情的、ラーヴァナに好意的で、ラーマは冷たい奴と思われている。

かつて使われた鹿皮は厚くて透過性がない。今ではヤギ皮を使って彩色し美しいものとなっている。また、張り合わせないと1メートルを越える大きさの人形を作れない。そのことによって基本的に1本の棒で支えるケーララの影絵人形と異なり、手足、腰を動かせるという利点が生じた。

影絵芝居も人形も、文献や考古学的遺物によって跡をたどることができない。古代タミル語叙事詩シラッパディハーラムに言及されていることから、タミルの伝承が古く、タミルナドゥ州の州境に近いケーララの影絵が古態を残しているとも考えられる。

伝承では、カルナータカやアーンドラの人形遣いはマハーラーシュトラを拠点として遊行した芸人たちの流れであるともいう。トール・ボンマラータにおいても土地の言葉のテルグ語のほかにマハーラーシュトラ州の言葉も使われている。

インドネシアの影絵芝居もマハーラーシュトラやグジャラートなど、西海岸の方から渡って行ったのであろうか。第1波がパッラヴァ朝、チョーラ朝の東海岸から、第2波がスーフィーや商人たちとともに西海岸から渡ったということも考えられる。現存しているのは第2波のもので、第1波では彫刻が残るのみか。影絵芝居も仮面劇も不思議とインド中心部には残らず、周縁部にばらけている。
https://www.youtube.com/watch?v=-O9lsIfoisw

インドの影絵全体については、最新情報がネットに上がっている。
https://blog.parivarthanias.com/shadow-puppet-theatre-traditions-of-india/

ヤクシャガーナ・パペットとグローブ・カタカリ

現代人形劇センターは、アジアの人形芝居Part 8として2000年にパーヴァ・カタカリ、通称グローブ・カタカリをカタカリ舞踊劇と一緒に招聘した。パーヴァとは人形のこと。まさしくカタカリと同じメイクをして、指に被せて使う人形芝居である。ケーララにも古くから人形劇はあったが、18世紀にカタカリの人形劇版としてうまれた。1980年代に、途絶えかけたのをナタナカイラリが復興した。

現代人形劇センターは、アジアの人形芝居Part 13として2007年にヤクシャガーナ・パペット、すなわち、ヤクシャガーナ・ゴンベヤータを招いた。

カタカリ同様、派手なメイクを施し、男子のみで踊る舞踊劇ヤクシャガーナの糸操りによる人形劇。快活な音楽で動きが可愛い。カルナータカではトガル・ゴンベイヤータムと呼ばれる影絵芝居も伝承している。

このように日本に招待して公演が出来たのは、今から思うと夢のような事だった。現代人形劇センターも公演をしながら活動資金を回しているので、コロナ禍で活動が滞り、支援を呼びかけている。
http://www.puppet.or.jp/?fbclid=IwAR16WQ

ブータンの立体曼荼羅タシゴマン

曼荼羅というのは密教行者が創り出した神仏のイメージ群像で、たとえば五重塔のそれぞれの階に、あるグループの神仏が並んでいるとすると、その上から見た俯瞰図を区切って整然と平面に配列したのが絵に描かれた曼荼羅である。

稀に立体曼荼羅として展開する事がある。近いところでは、2019年に仏教大学宗教文化ミュージアムにおいて、北村コレクションの展覧会が行われ、グヒヤサマージャを主尊とする立体曼荼羅が展示された。ギュメ寺の学僧によって制作されたものである。

民族学博物館では2003年にマンダラ展を行い、そこで人の入れる立体マンダラを制作・展示した。1.7メートルの高さのブータンの立体曼荼羅も展示した。「チベット死者の書」に記された神仏を納める一種の仏龕である。

1982年には、ラフォーレミュージアムでブータンの立体曼荼羅タシゴマンの公演がオフィス・アジアによって催された。

タシゴマンというのは1637年頃、シャブドゥン・ナムゲルによってブータンにもたらされたとする。市や祭りの場など、人の集まるところでこの携帯仏龕をお開帳すれば布教に役立つと、多くのタシゴマンを作らせた。自分の寺のしかるべき僧侶を教育して、各地に遣わせて仏の教えを広める事にした。後には他の寺でも用いるようになり布教した。現今では僧院を離れ、民間のゴムチェン、在俗の修行者が担っている。

彼らはマニプ、オンマニペメフーンという真言や、マニ、すなわち讃歌を唱える者と呼ばれ、民衆に分かりやすく布教した。マニは主として死者の回向のために念誦される。故人が所有していた宝石などは、冥福を祈って、地獄などの悪趣から救うため、タシゴマンに寄進された。

ラフォーレミュージアムにもたらされたのは、パドマ・サンバヴァの天宮であるサンド・ペルリ型とナムゲル・チョルテン(仏塔)型の二つであるが、当時、ブータンには25基ほどタシゴマンがあったとされるものの、詳しい調査はなされていない。タシゴマンの中心は観音菩薩であるが、仏龕の中には250から300ほどの仏画、仏像がひしめいている。

タシゴマンの祖型かと思われるものがラージャスターンに伝わる。カヴァドと呼ばれる神様収納箱、神様玉手箱?で語りをする。からくりみたいに箱をあちこち開くと木の絵扉に多数の神様の絵が描かれ、これを開け閉めする事によって物語が展開する。語りが進んで箱の中心に迫ると、因縁話の中心になっている神像が現れるという仕掛けだ。そして、そこにお布施を入れて拝む。これも後継者不足と聞くが現状はどうなのだろう。
https://www.youtube.com/watch?v=iRaZlSzqGdo
https://www.youtube.com/watch?v=MDBkldLKIOg
https://www.youtube.com/watch?v=TCEglqZmQZc

タシゴマンは素晴らしい極彩色の工芸品、驚くべき文化遺産であるが、その後ほとんど紹介されていないのは残念である。インドをルーツとし、その流れはジャータカ物語を描いた玉虫厨子にも及んでいるのではなかろうか。

インターネットから覗いて見ると、インドではどんどん観光開発されて芸能が変貌を遂げている。国民性なのか、国力のなさに起因するのか、ブータンは外来の影響を制限して清浄な国を保とうとしていると理解するよりほかない。

ピングリーに行ったことはないのだが、できるだけ実際に見聞したものを中心に書いた。それにしても約30年ほど経って現地はどう変わっているのだろう。YouTubeで見ると随分変わってきている。古色蒼然とした博物館の展示としてではなく、生きた伝統として生活をかけて創意工夫している。

参考文献

金子量重・坂田貞二・鈴木正崇編『ラーマーヤナの宇宙』春秋社、1998年。
河野亮仙「インド二大叙事詩と語り文化」小西正捷「インドの語り芸と絵語り」鈴木道子編『語りと音楽』所収、民族音楽叢書3、東京書籍、1990年。
福岡まどか『インドネシア上演芸術の世界』大阪大学出版会、2016年。
〃  『ジャワの芸能ワヤン』スタイルノート、2016年。
フジタヴァンテ編『原インドの世界』東京美術、1995年。
松本亮「ワヤン/貌続ける複合文化の華」皆川厚一編『インドネシア芸能への招待』所収、東京堂出版、2010年。
メヘル・コントラクター著小西正捷監訳『インドの影絵芝居』現代人形劇センター、1989年。
Pani, Jivan (1986). Living Dolls. New Delhi: Publications Division.

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2021.05.10