河野亮仙の天竺舞技宇儀㊵
インドの語り部は踊る
インドの文化は何でもヴェーダに発するという事で、演劇の発祥についてもヴェーダの儀式の身振り狂言や対話を交えた讃歌に由来するという説の納まりがよい。しかし、人が2、3人集まれば物真似やら仕草やら芝居がかった事はやり始めるものだろう。人が失敗した話は面白く、繰り返し演じられる。
インド音楽についてもサーマ・ヴェーダに由来するというが、インド亜大陸における歌は、ヴェーダ以前、太古からある。
かつて、インド演劇の始まりは人形劇だと主張した偉い学者もいた。リヒャルト・ピッシッシェルが1902年に「人形芝居の故郷」を著してその説が広まった。幼児の時にお人形さんごっこをやるのは理解できるが、人形劇が人間の演劇に先行する事は考えにくい。
戯曲として残っている最も古い写本は馬鳴の作品であり、紀元前後には仏教寺院や仏塔の周辺でお釈迦様を賞讃する物語が語られ、演じられ、逆に比丘を茶化す笑劇も行われていたのではないかと想像される。
サーンチーのストゥーパ
よく知られているように、紀元前後にギリシアなどの影響からガンダーラやマトゥラーで仏像が作成されるようになった。それまで仏の姿が描かれる事はなく、聖樹や法輪、仏足石など象徴的に表され、モニュメントとして仏塔が崇拝されていた。本来、仏舎利が納められるべきものであったが、仏塔自体を仏として礼拝供養するようになった。
聖地サーンチー第1塔の北塔門・西柱に舎利塔供養図と呼ばれるものがあり、そこにはサーンチーの元の塔を倍に拡張した際の落慶式の模様と思われる彫刻が描かれている。前1世紀の造営とされる。
落慶式の記念撮影のようなもので、当時の仏塔供養の様子がうかがえる。合掌礼拝し、葦の双笛、縦型と横型の太鼓などで伴奏し、踊る模様が描かれる。彼らはサンスクリット文芸史上ではカターカ、語り部と呼ばれた。古典舞踊カタックのルーツともいわれる。仏教史上ではバーナカ、説法師と呼ばれた。
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浪曲でもそうだが、語りというのはタンカ(語り)と節からなる。法華経などのお経もそうで、長行と呼ばれる散文と、それを総括した偈、韻文からなっている。
元々は韻文を暗誦し、散文部分はそれを敷衍解説したものと思われる。それが定型化して記録され散文として残る。仏教梵語で写本が残されているが、当時はもっと通じやすい地方語で朗誦され、講説が行われたのではないか。
浪曲師は踊らないが、インドでは語りも歌も踊りも一体である。それは何回か来日したボーパとボーピーの演じる絵語り、パーブージー・キ・パドの上演を見れば分かることだ。
昭和59年にATPA84「放浪芸人の世界」が開催され、ナトラーム・ボーパと母のホーピーが来日した。彼らのホームというのはラージャスターンのジョードプルにあるが、家というかテントの仮小屋である。夏に熱風が吹いて砂嵐が起きても、風通しがよいので吹き飛ばされる事もなく、どうという事もないという。
元は草葺きだったのだろうが、今はビニールシートやぼろの帆布で覆われているだけだ。あちらこちらに呼ばれて芸を披露する、いわゆるジプシー生活をする。
彼らはラージャスターンからやってきてデリー郊外に芸人村を作り、人形遣い、蛇遣いなどの大道芸人が固まって生活している。ボーパの芸は、男がラボナハータという弦楽器を演奏して主として歌い語り、女のボーピーが夜だったら灯明をかざして見せるなど、手助けして掛け合いで歌う。子連れの場合はその子が踊り出す。また、女形といっていいのか、女装のボーパが踊る時はシンバルを打ち鳴らして倒れ込むなど激しい踊りになる。
パーブージーというのは地方の英雄神、14世紀頃に想定されるラージプートの武人の活躍を物語る。パドとは縦1メートル半、横5メートルほどの大きさの布に書かれた絵で、絵自体はボーパではなく、チャターラーと呼ばれるジャーティの絵師が描く。
本来はパトロンがいて、絵師に描いてもらってボーパに布絵を寄進した。家庭に何か祝い事などあってボーパを招くと、家の主が施主となり親族や近所の人を招いて楽しむ。パド(パタ、ベンガルではポト)には神々が描かれ、そこに神々が勧請されるので、臨時の祭壇となる。
ボーパ、芸人は儀礼を司る祭司でもある。寺院付きのデーヴラー・ボーパは、神の託宣を聞き、病気治し、悪霊祓いをするなどシャーマン的性格を持つ。独身の苦行者であるジャマート・ボーパという存在もある。芸人であって、その呪的な効果も期待されている。
https://www.youtube.com/watch?v=1UF8rL5D9rU
ラボナハータという楽器を演奏するが、サンスクリット語ではラーヴァナ・ハスタという。ラーヴァナがシヴァ神を喜ばせようと苦行をし、手に持って弾いたのがラーヴァナ・ハスタである。17世紀のタンジョール宮廷では、女の楽師が弓を楽器として使ったとの記録がある。現行ではラージャスターン、マハーラーシュトラ、グジャラートで使われ、サーランギの一種ともいえる。
語り物七変化
日本で語り物というと太棹三味線でベンベンベンとやる義太夫節を連想するかもしれないが、それには人形が付いていて人形浄瑠璃という形で上演される。人形はしゃべらないので代わりに人が語る。
人形劇には糸操りや棒で操る人形、指人形、ケーララ州にはグローブ・カタカリというのもある。さらに、影絵芝居というしゃれたスタイルもあるが、その本質は語り物である。
演劇の始まりが人形劇という説は、おそらく演劇を仕切る座頭をスートラダーラと呼んだ事から発想したのだろう。この説は支持されていない。スートラすなわち糸を保持する者(ダーラ)とは、指物師のことで、寸法を測って劇場を設営した事によるのではないか。日本の昔のサーカスも、自分たちでとんてんかんてん劇場を組み立てた。
https://www.youtube.com/watch?v=TCEglqZmQZc
お釈迦様の言葉も律蔵も口承で伝えられた。それぞれ専門があって、持法者ダンマダラ、持律者ヴィナヤダラと呼ばれた。持法者の新たな名称として法の解説者ダルマカティカ、誦経者スートラーンティカとも呼ばれるようになった。
説法者は新たにバーナカと呼ばれるようになった。「マハーヴァストゥ」によると、バーナカは手品師、軽業師、俳優、舞踊家、歌手、打楽器奏者と共にガンダルヴィカの一種として数え上げられている。僧院から離れて芸人として仏説を唱えるものも出てきたのだろう。
「ミリンダ王の問い」第2編別章には、持律者、持法者、持論者、長部経典等それぞれの暗誦・解説者バーナカのほかに、ジャータカ・バーナカの名が見える。ボロブドゥールにおいても然りだが、仏塔や寺院回りにはジャータカなどの仏伝が描かれる事が多い。僧侶がレリーフの解説、絵解きをしたのだろう。
ボロブドゥール遺跡の彫刻に立川武蔵が学術的語りをしたDVDがある。10世紀前にガムランはなかったと思われるが、僧侶らがここでお釈迦様の物語を語った。今の影芝居の語りと大差ない節だったのではないか。
しかし、手間暇、コストのかかる彫刻として描かれる前の段階があったはずで、それは板や綿布に描かれた。大昔の物は失われているので形状は分からないが、紙芝居的に上演されたかと思われる。大道芸人であったとすれば、布の方が簡便で持ち運びしやすい。巻物状になっていたとの説もある。
ラージャスターンには、カヴァドという木箱のホータプル祭壇の語り部がいて、折り重なって組み込まれた板に描かれた神像群の絵語りをする。板状の絵の語りもありうるが、からくり的な面白さを狙った組み立て式箱を携帯していた芸人の存在も想定しうる。
https://www.youtube.com/watch?v=iRaZlSzqGdo
ベンガルのポトゥア
ベンガルでは今日もポトゥアがポト(パタ)に地方神の絵を自ら描いて歌い語る。ベンガルのポトゥアは幅が30から50センチ、縦長で時には10メートルに及ぶ巻物を使う。1人で門付けして一般に楽器は使わないが、太鼓を叩くポトゥアの映像が上がっている。インドでは何につけ、2、30年前の報告から進化している。古き良き伝統を伝えるというより、現実的にいかにウケルか儲かるかだ。
https://www.youtube.com/watch?v=HO7l0Lhmocs
ベンガル・ポトゥアはラーマーヤナやマハーバーラタなどのエピソードを語り、また、イスラーム聖者の霊験を語る物語もレパートリーにある。1巻10分程度の素朴な語りだ。他の職能に従事するが、元はチトラカール、すなわち絵師のカーストで、イスラーム化したといわれている。しかし、叙事詩を語る事でヒンドゥーの教えを説き、司祭的な役も司るという複雑な性格を持っている。
一方、サンタル・ポトゥアはベンガル語を母語とし、サンタル族の家に門付けし、サンタル語でサンタルの神話を歌い語る。乞食のようにマンゴーの樹の下などで寝泊まりして放浪するが、実はビハールに家がある。
特徴的なのは、死者が迷わず祖霊の世界に行けるようにと死者の家を回り、呪文を唱えて死者の眼に黒目を入れる儀式を行うことだ。ジャドゥ・ポトゥア、呪術絵師と呼ばれ、畏怖されている。
日本人でサンタル・ポトゥアを学び、神戸弁で語りをする東野健一さんという方がいたが、亡くなってしまったそうだ。
https://tamon.in/s001/
https://www.youtube.com/watch?v=ip1CMa9ugqg
ラーマーヤナとマハーバーラタの語り部
インド最初の詩文学といわれるラーマーヤナは、ラーマの子、ラヴァとクシャが語り伝えた事により、その吟誦者はクシーラヴァの名で呼ばれ、やがてその語は役者を意味するようになった。後には詩を繰り返し歌う役目のパータカとそれを解説するダーラカに分かれた。日本でも講式という説教の儀式において、読師が経文を読み上げ、講師が講説をするという役割分担がある。古くは東大寺大仏開眼供養会においても行われた。
現代においてもラーマーヤナやマハーバーラタを吟誦するカーストの者がネパールにいる。
低カーストのガイネと高カーストのブラムチャリである。ガイネは今日では不可触民というイメージを避けるためガンダルヴァというカースト名を自称している。ガンダルヴァとは天の楽人のこと。サーランギという四弦の弓奏楽器を弾く。ポカラ近郊のバトレチュール村からカトマンドゥの町中は勿論、インドまで出かけて歌い演奏する。その妻や娘は歌うだけでなく踊りも踊る。
1982年の調査で、そのレパートリーは10曲から20曲ほどという。ラーマーヤナやクリシュナの物語を語る時には、さわりだけ歌うものではなく、純然たる語り物であり、膨大な物語の中の一部を歌っていたと鈴木道子は報告する。相当の技量が要求されるため、伝承者は減少の一途をたどっているようだ、と記された。
今日のネパールでは、素朴な伴奏楽器だったサーランギの技法が発達し、外国人、日本人までサーランギを習うようになった。サーランギといってもインドの古典音楽の中で使われる楽器とは発達の段階が異なる。細密画にもしばしば描かれるが、簡便で持ち運びしやすいので、もともと旅芸人が多用した楽器であろうが、どんどん改良が加えられる。
ネパールを歩けば、あちこちでこのサーランギや笛を買わないかと寄ってくる。観光客の集まるタメル地区では流しの物売りに留まらず、レストランなどでも演奏される。
https://www.youtube.com/watch?v=4cDHJrldJxg&t=57s
https://www.youtube.com/watch?v=Q06kDrEltVE
インドの古典楽器はこちら。
https://www.youtube.com/watch?v=gpjKTE4Y4bw
実際のところは分からないのだが、A. W. マクドナルドによると、ガイネは1768年、ゴルカ朝のプリティヴィ・ナラヤン王がカトマンドゥを征服した際に、王と共にやってきたという伝説を報告する。D. R. タパは、パンジャーブからヒンドゥ教徒と共に、ネパール最西部からジュムラを経て中央部にやって来たと推測する。
ブラムチャリとはサンスクリット語にすればブラフマチャーリー、すなわち、梵行者の事である。彼らは一弦琴タールエークを持って遊行し、ラーマーヤナ、クリシュナの物語などをネパール語で弾き語る。習熟度にもよるが、1曲当たり10分前後から、4、50分要するという。また、一弦琴はラーマなどの英雄が持つ弓矢に由来するといわれる。
プラフラーダ・ブラフマーチャーリーのバウルの歌を日本公演で聞いた。ネパールとベンガルは地域的に近いが、彼がネパールのブラムチャリと遠い親戚になるのかどうかは全く分からない。当時、本物のバウルは、皆、大麻をやっていたので入国できなかったと聞く。
https://www.amazon.co.jp/
パーンダヴァ一族の物語
インドではマッディヤ・プラデーシュ州にパンダヴァーニーといってパーンダヴァの物語、マハーバーラタをその地区の方言で歌い語る民間伝承がある。主唱者はタンブールと呼ぶ装飾的な一弦琴を手に身振り手振り、時には立ち上がって熱唱する。一弦琴は英雄の象徴であり、もはや楽器として使われていない。アルジュナの弓にもなれば、ビーマの棍棒となり、クリシュナの笛、象の鼻を示す小道具となる。
日本でも梓弓といって、梓巫女が弓をビヨンビヨン叩いて占いをした。ケーララ州でもサルパン・トゥッラルという蛇が乗り移って蛇神のお告げをする祭祀芸能で同じように使う。神霊を呼び起こす音だ。
今は何でもインターネットに上がっているが、昔見た素朴なものからずいぶん変わってきている。
https://www.youtube.com/watch?v=jUzEy1KrWUU
https://www.youtube.com/watch?v=2bvni1225xk&t=8s
小沢昭一が放浪芸を訪ね、青森のイタコ、間山タカが弓をならし口寄せをする模様を「新日本の放浪芸」に収録している。青森弁は何をいっているのかさっぱり分からない。
「新日本の放浪芸」は、VHDという企画のビデオディスクで日本ビクターが発売し、後にDVDでも販売されたが、今や中古でしか手に入らない。インドからはボーパや猿回し、熊とのレスリング、人形操りなどが収録されていて、とても貴重な映像だ。
パンダヴァーニーは伴奏者がカルタール(一種のカスタネット)、ハーモニウム、バンジョーと呼んでいる大正琴を用い、時に、ハーン、ハーンと相づちを打つ。2つの流派があり、ヴェーダマティ派はヴィアーサ作のマハーバーラタに忠実、カーパーリク派と呼ばれる方は、ビーマの話を中心にどんどん面白い話を付け加える。
後者の派の中心人物であるティージャン・バーイーはインドでパドマシュリー、さらにパドマ・プーシャンを授賞し、日本でも2018年に福岡アジア文化賞の芸術・文化賞を受賞して来日した。
マッディヤ・プラデーシュ州のドゥルグ地区に生まれた部族民で、今は定住している。もともとは、狩猟民なので一所に留まらない。狩猟民や古代の戦士は常に弓を携行している。鹿や鳥を捕り、蛇を捕まえては皮を剥ぎ、蜂蜜を集めたり、マットや箒を作るのなど、あまり金にならない仕事をしていた。
教育もなく離婚するなど苦しい生活から生まれた語りが受けたのだろう。来日は秋のお彼岸中だったので、わたしは福岡で解説してくれと頼まれたが、行く事は出来なかった。
https://fukuoka-prize.org/laureates/detail/
昔の雑誌の記事によると、このように国民的語り手は誕生した。ティージャン・バーイーは歌が好きだった。インド映画の歌を歌った。さらに祖父が歌っていたパンダヴァーニーの歌を聞き覚え、村にやってくるパンダヴァーニーのグループを見ていた。
12歳で結婚すると夫には2人の妻がいて、さらにもう1人を嫁に取るという状況に至り、嫌気がさして生家に戻る。やがて村の青年と結婚し子が生まれる。夫は彼女の歌が好きで、村にやってくるパンダヴァーニーに熱心に通うことができた。
ある日、宗教映画「トゥルシー・ヴリンダ」を見て感動し、これからは娯楽の映画音楽ではなく宗教歌を歌おうと思った。ある時に不思議な老婆と出会う。重い干し草の束を軽くしてくれたり、タンブーラを演奏しろという。
夢にシヴァ神とパールヴァティーが現れて祝福してくれた。不思議な老婆はしばしば夢に現れて、よい歌手になれるようにと励ましてくれた。ますます、パンダヴァーニーの歌に熱中する。
ところが今度は夫がそれに反対して虐待した。子を連れて家出した。建設現場で働きそこで寝泊まりする。日本ではベルトコンベヤーで運ぶ仕事を、頭に載せて運んでいたのをインドではよく見た。たいした金にはならないだろう。そこで慰みにバジャン(ご詠歌のような宗教歌)を歌ったりしているとある男に呼ばれて歌いに行く。バジャンとパンダヴァーニーを知ってる限り歌うようにいわれた。男は10ルピーと米を渡して、よい先生について習いなさいと励ました。
その先生はウメード・シン。彼は初め、部族民の女は妖術を使うのではないか、自分の歌の能力を吸い取られてしまうのではないかと恐れたが、やがて承知する。1ヶ月足らずで習熟して、3日間の公演でお披露目すると、たちまち評判となり、近隣の村から歌いに着てくれという申し込みが殺到した。
その後もたゆまず努力したのであろう。国際的なアーティストとなった。
参考文献
河野亮仙「インド二大叙事詩と語り文化」
小西正捷「インドの語り芸と絵語り」
鈴木道子「ラーマに捧げる一弦琴の弾き語り」
鈴木正崇「弓神楽の祭祀と祭文」以上は、鈴木道子編『語りと音楽』所収、民族音楽叢書3、東京書籍、1990年。
藤井知昭「ネパールの音楽職能者集団・ガイネ」藤井知昭・馬場雄司編『職能としての音楽』所収、民族音楽叢書1、東京書籍、1990年
中村元・早島鏡正訳『ミリンダ王の問い』東洋文庫28、平凡社、1964年。
季刊民族学No. 163「ヒマラヤの吟遊詩人ガンダルバの現在」千里文化財団、2018年。
小沢昭一の「新日本の放浪芸」~訪ねて韓国・インドまで~[DVD]ビクターエンタテイメント、2001年。
立川武蔵『蘇るブッダ/ボロブドゥール遺跡』CD+映像DVD、CLUTCH RECORDS、2021年。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論
更新日:2021.04.22