河野亮仙の天竺舞技宇儀㉟
カレーの文化史
インド関係の講演会でよく出る質問。インド人って毎日カレーなんですか?
ある意味当たっているが、日本的に理解するカレーライスではなく、スパイス料理といったらいいのか。中華料理を食べてもスパイスの使い方がカレー風だったりする。
ポンガル、ポンガル
インドでお正月元旦を4回迎えたが、当然、お雑煮もお節料理もない。祝日なので銀行郵便局は休みだが、全く晴れやかなムードはなくてがっかりする。
正月というか、1月1日というのは、それぞれの地方の様々な旧暦によって異なるのだが、大野晋がポンガルをタミル正月として紹介し、少し知られるようになった。2021年は1月14日がポンガルに当たる。13日が新月だ。ポンガル、ポンガルといってお粥でも食べよう。今年は七草を買い忘れたので、豆を入れたらポンガルみたいになった。ポンガルにはトリヴァンドラムで行き当たったことがある。
https://cookpad.com/recipe/1910145
https://ameblo.jp/jasminz/entry-12432614468.html
大野『日本語と私』(今は河出文庫に入ってる。Kindleにもあり)によると、1980年にNHKの取材でタンジャブール郊外のナガチ村に行くと、村長夫人がポンガルの行事を再現してくれた。
土鍋に粥を作り、集まってきた老人や子達が缶を打ち鳴らして「ポンガル、ポンガル」と大声を上げ新穀の豊穣を祝う。器に取った粥を屋根に供えてカラスを「カウ、カウ」と呼ぶ。
それを見た同行者が、これは「カラス灌頂」だと叫んだ。東北地方の小正月の行事で、ホンガホンガの祭り。同じようなトンド焼きは関東、中部でも行われ、長野では「ホンガラ・ホンガラ」と唱えて回ったという。hの音は室町時代にはf、さらに万葉時代にはpの音で発音されていた。大野はこういった調子で日本語とタミル語の対応関係を求めた。
ついでに書いておくと、僧院では食事の最初の一口分を別に取り出し、これは外に放り出して虫や鳥、餓鬼に食べさせる。これをさば(生飯)という。やはり、インドの習慣が元だ。
夏目漱石の食べたカレー
夏目漱石がロンドン留学の途中、英領インド・セイロン島のコロンボでカレーを食べたことはよく知られている。1900年10月1日の日記に記されているが、ブリティッシュ・インディア・ホテルの名物ということで、イギリス式のライスカレーと思われる。
カレーを食した日本人は漱石が初めてではなく、幕末に何人かが出会っているが、洋食もカレーも口に合わず、どうも食べられなかったようだ。
実際に食べたのかは不明だが、福沢諭吉は万延元(1860)年に渡米し、『華英通語』という中国語-英語の辞書を求め、カナを振って『増訂華英通語』を出版している。Curryをコルリと表記して紹介している。
明治3(1870)年に、日本最初の物理学者、山川健次郎が会津藩から選ばれ、16歳で国費留学生として渡航する。
洋食の変な臭いに困ったというが、おそらくバターだろう。船の医師から何か食べなきゃいけないといわれ、それじゃあとライスカレーを試みたが、「あの上につけるゴテゴテした物は食う気になれない」、そこで杏子の砂糖漬けがあったから、それをおかずになんとかご飯を食べたという。
同じく会津出身の柴五郎は、明治6年、陸軍幼年生徒隊二期生として入学する。教官はフランス人なので、当然、洋食となる。「同僚の多くは、この生活を窮屈なりと嘆き、食事を不味しというも、余にとりてはフランス語以外は、まことにもって天国に近し」と記すので、洋食やカレーも楽しんだようだ。
さて、カレーとは何だろう。黄色くて辛くてご飯にかけるもの?なんていったら、5歳のチコちゃんにしかられる。辞書的には、ウコンを中心とした混合調味料、または、香辛料によるインド風の料理ということになる。
ヨーガについてもインド文化圏において成立した瞑想法ということになろう。カレーもインド風ということが肝要であるが、普及させたのはイギリス人だ。
初代ベンガル総督となったヘイスティングスは、東インド会社の社員として赴く。ベンガルでも米食が中心なので、ライスカレーという形で英国王室に紹介し、宮廷でのレセプションにも並ぶようになった。カレーは1772年にイギリスに紹介された。
カレー粉のC&B(クロス・アンド・ブラックウェル)社は、18世紀からロンドンで貴族のパーティーや催し物の宴会を請け負う会社であった。そんな中で、貴族などの要望に応じて、手軽に作れるようカレー粉を商品化したのだろう。
また、ハンバーグとカバーブがどう違うのか、ともにスパイスを用いた挽肉料理である。ハンバーグはドイツのハンブルグ風の料理が起源らしいが、それが何に由来するのかは、いまいちはっきりしない。ケバブがトルコ経由で、トルコ行進曲と一緒に?入ってきたかと想像するが。
カレーの起源
カレーの起源については奇怪な説がある。お釈迦様が修行の後に出てきたのがカレー村で、そこで食べたことにカレーは由来するという説がインターネットに上がっている。一体、出典はどこにあるのか、誰が作った話なのだろうか。
https://hosokawa18.exblog.jp/3504576/
https://news.nissyoku.co.jp/restaurant/grs-6-0065
語源についても実は分からないのだが、チコちゃん風にいうと、「それはイギリス人がカレーと呼んだからーっ」ということになろうか。
16世紀のゴアに滞在したオランダ人リンスホーテンが、『東方案内記』(1595)に「酸っぱい味のスープで魚を煮込み、currielと呼んでご飯にかけて食べている」と報告する。南インドのサンバルやラッサムのようなものと想像されるされるスープにご飯を混ぜたものだ。また、イギリス人ノックスは『セイロン史』(1681)の中で、cureesという言葉を使っている。
それでは、そのカリとは何かというと、「美味しんぼ」第24巻で、カレーの具をカリと呼んだからという辛島昇の説が定説化している。野菜や肉、魚などの具材がカリというわけだ。もちろん、他にも諸説あります。
しかし、日本でお店で買う商品作物としての野菜とはずいぶん違うはずだ。『翔んで埼玉』に「埼玉県人にはその辺の草でも食わせておけ」という科白があるが、野菜というよりはその辺に自生している草という感じだろう。
辛島はまた、9世紀インド南端タミルの二つの碑文から、野菜料理の調味料に胡椒、ターメリック、クミン、マスタード、コリアンダーが使われたことを報告している。
アンバーサムドラム村のシヴァ寺院刻文に、クーットゥと呼ばれる料理があって、それはヨーグルトとカーヤムという調味料で作ると記される。ティルッチェンドール村スブラマニヤ寺院の刻文には、カーヤムの組成が記され、それは胡椒、ターメリック、クミン、マスタード、コリアンダーであった。原カレーが成立していた。それ以前のことは茫洋としているが、一体、スパイスのうち、何が使われたらカレーで、何を欠いたらカレーでなくなるのだろうか。
カレーを最初に食べた日本人は
フランシスコ・ザビエルは1548年にゴアで宣教監督となり、翌年、ヤジロウの案内で日本に向かう。その頃、ゴアには日本人傭兵がいたので、最初に原カレーを食べた日本人はヤジロウ達かもしれない。
当時、インドには多くの日本人奴隷がいて、ポルトガル人のボディガードを勤め、時に居住区であるフォート、すなわち要塞を守るためオランダ軍と戦ったようだ。宣教師を先駆けとして日本にポルトガル商人が入り、奴隷貿易を行っていた。ポルトガル人に買われ、あるいは連れ去られた中には妾、あるいは売春婦となる者もいたことだろう。傭兵より先にゴアに到達したかもしれないが、記録は残らない。
また、カレーは黄色いものかというと、ウコンを用いないホワイト・カレーもあるし、タイには赤カレー、緑カレーがある。ウコンはショウガ科で熱帯アジア原産。インド文化の及んだ地域、アフガニスタンから東南アジア辺りまでの伝統的なスパイス料理が本来のカレーの範疇ではないか。
インドがカレー文化圏だとすると、中国は屋台文化圏である。インド留学中に屋台で駄菓子を食べたが、これが意外と日本の古い駄菓子に似ている。おそらく、中国からカルカッタ辺りに入ったものが普及したのだろう。
屋台ではひどい目にあったことがある。下痢ではない。ハイデラバードだったか、旅に出たとき、屋台でウィンナ・ソーセージを揚げたものを見つけた。
冷静に考えるとそんなものがインドに存在するわけがないのだが、魔が差した。お腹がすいていたのか、思わず買ってかじってみた。辛い!?正体は見たこともない大きな唐辛子だった!水を探して何百メートルか、もだえながら走った。水を飲むより、ヨーグルトで中和するのがよいらしい。
スパイスとハーブ
それでは、スパイスとハーブはどこが違うのだろうか。香料貿易の時代には、東インド会社が胡椒やシナモン、カルダモンを求めてインドへ、ナツメグ、クローブ、メーズなどを求めてインドネシア方面にやって来たほど高価なものである。
ハーブとはその辺に生えている香りのよい草であろうか。植物学者の吉田よし子が明確な定義をしている。生薬のように生で用いるのがハーブ、スパイスとは乾燥させてから使うもの。ニンニクや唐辛子は生で使うとハーブ、乾燥させて使うとスパイス。東南アジアで使う香菜、パクチーは生で用いるが、乾燥させた種子はコリアンダーというスパイスになる。
中国人はアワビでも乾燥させたものの方がコクがあるとして珍重するが、要するに海から遠い内陸で味わおうとすれば、必然的に干物になる。はるばるインドから持ってくる種子も乾燥したものを使うことになる。これは、生薬と漢方の違いだ。そしてそれは、南インドのカレーと北インドのカレーの違いになる。
中国の満漢全席のように、熊の手やツバメの巣など珍奇なものを国内外から集めて料理する。インドの皇帝や王様も、その辺の草を料理するのではなくて、遠方から香辛料を取り寄せる。物流の発達していない時代には、自生していた植物を香り付けのために一緒に煮込むのが本来の用い方だったはず。
土着の南インド的な煮るのが基本の料理は、アフガニスタン方面から入ってきた西方的な油で炒める料理や、野営の時の際の水を使わない串焼きなどの影響を受けて、宮廷料理が成立したのではないか。イランの音楽の影響を受けて成立した北インド音楽のあり方にも似ている。
輸送や保存のため乾燥させた種子などを用いる二次的な使用法が派生する。民間で用いられる生薬とプロが調合する漢方薬の違いと同じだ。それが、ムガル宮廷の料理として成長し、今日のインド料理の基本となったのだろう。
南インド料理ではココナッツ・ミルクを用いるものが多い。東南アジア等ではもともと動物性の脂は使われなかった。植物から油を絞り出すのは高度な技術で、油脂はヤシ油が用いられた。北インド料理ではタマネギを炒めてベースにするが、外来のタマネギは、大昔は食物というより薬用だった。薬味というように香辛料の多くは薬効成分があり、媚薬とも考えられていた。マサラの調合はアーユル・ヴェーダの処方と不可分の関係にあり、宮廷で研究されたのだろう。
また、南インドの主食は米で、北は麦だが、米飯と共に食べるときには汁気が多い方がいいし、ナーンやチャパーティーでつまもうと思ったらタマネギ・ベースで水をくわえず、乾いたものの方が食べやすい。
スパイスやハーブ、ウコンを使った料理というのは、インドを離れて東南アジアや中国(どこからどこまでが中国だ?)でも古くからあったことだろう。もともとのカレーは南インド的なカレーで、それが古くからタイなどに伝わったのではないか。カレーというのは香料貿易、東西交渉の産物である。
胡椒やカルダモン、シナモンはケーララなど南インドにあったが、タマネギ、ニンニクは西南アジア原産や中央アジア原産、クミンは地中海地方、あるいはエジプト原産でセリ科、コリアンダーも南ヨーロッパ原産のセリ科の一年草。唐辛子、ジャガイモ、トマトは新大陸からもたらされた。もはやカレーはインド料理というより、五大陸が集約され、大航海時代以前には成立していない世界料理だ。
何がカレーの本質かとひとつひとつ数え上げると、唐辛子がカレーではなく、ターメリックがカレーではない、コリアンダーもクミンもカレーではない、これがないとカレーが成立しないというものはないのだ。みんな、消えてしまう。
何がカレーの実体なのだろう。関係性によって成立する。カレーは空だ。カレーだと思っているからカレーなのであって、その実体はあるのか。そんなこといってないで、カレーは食うに限る。
参考文献
辛島昇・大村次郷『インド・カレー紀行』岩波ジュニア新書、2009年。
辛島昇・辛島貴子『カレー学入門』河出文庫、1998年。
辛島昇・貴子・大塚滋・石毛直道『カレー、醤油』日本放送出版協会、1990年。
小菅桂子『カレーライスの誕生』講談社選書メチエ、2002年。
吉田よし子『カレーなる物語』筑摩書房、1992年。
〃 『香辛料の民族学』中公新書、1988年。
渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』柏書房、2014年。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論
更新日:2021.01.15