河野亮仙の天竺舞技宇儀㉚
ヴィジュアル・イメージとチベットの仮面舞踊
練り供養、当麻寺のお練りとして知られる当麻寺の来迎会は、毎年、5月14日に行われている。平安時代中頃の恵心僧都源信が、迎講として始めたと伝えられる。大きな仮面を被り観音菩薩や勢至菩薩ら二十五菩薩が極楽へと迎えに来る模様を映したとされる。
今は歩くだけだが、江戸時代の絵図を見ると練り歩くというのか、踊っている。意外とインド舞踊に似ている。
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戦後しばらくまで、当麻寺の来迎会では、松明と共に大麻をぼんぼん焚いていたという。お参りに来た信者たちは酩酊状態に至ったと思われる。GHQがやって来て、おまえら何やってるとばかり、大麻を禁止したそうだ。この時、橋がかりを歩いて本堂へ向かう諸菩薩が空を舞っているように見えたはずだ。宗教儀礼には、しばしば、麻薬が用いられる。
また、春日大社の第一鳥居をくぐったところには影向の松があり、これが能舞台の壁面に描かれる松のモデルになったという。ある時、僧侶が通りかかると春日大明神が姿を現し、この松の上で神楽を舞ったという。このように、日常の時空間に聖性が顕現することがある。
チャムと呼ばれる仮面舞踊劇を創始したのは、8世紀の伝説的な密教僧パドマサンバヴァであると伝えられる。サムイェー寺の地鎮祭、乃至、落慶式に太鼓の舞いが催された。
中国の宮廷では不空阿闍梨(空海の師である恵果の師)が活躍し、日本では道鏡が失脚して流された頃の話だ。パドマサンバヴァは空海のように様々な伝説に彩られる。チベットの土着宗教であるポン教の神々を抑え、ボン教僧侶に超能力で打ち勝ったと伝えられる。
彼がチャムを始めたとしたら、その時、仮面は必要なかったはずだ。舞い踊る僧たちそのものに聖性が示現して、仏菩薩の姿に見えたはずだ。
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前々回もサーダナ、つまり、成就法、観想法という言葉を使った。それは瞑想の技術、ヨーガによって、ありありと神仏を思い描いて一体となり、念想を実現させることだ。サーダナは、しばしば、マンダラを前にして行法が行われる。
歌を歌い、楽器を演奏するのに歌詞を見たり、楽譜を見た方が確実なのと同じである。マンダラは、神仏の踊り場である。どの菩薩がどんな衣装と装身具や法具を備えて、どんなポーズ、ムドラーを示すか、マンダラを基にして神々のオーケストレーションをヴィジュアルにイメージするのが観想である。
日本ではマンダラというと掛け軸をイメージするが、本来、立体である。僧侶が修法で働きかけると、時間と共に動き出す四次元像である。その動きを一瞬止めて、上から俯瞰して表現したのが曼荼羅の絵図である。
人間は例えば、眼から入る情報を、直接、認識しているわけではない。朝の色と夕の色、真っ昼間の色と室内の色とは色温度が異なるのに、同じものとして認識するように脳が調整している。それを別物として認識したら連続性、歴史性のある世の中が成立しえない。
すなわち、眼耳鼻舌身意から入った情報を統合して、仮想現実を脳の中に合成して、その内的空間を認識している。そのヴァーチャル・リアリティを作成する技術を修練すると、まさに、神仏が目の前に現出するのである。修練して見られるようになる人もいれば、脳が誤動作を起こして幻覚を見ることもある。
素人は交響曲を塊として聴いているが、指揮者などのプロは各楽器の動きを認識しているし、頭の中でそのまま時間通りに再生できる。そういう技術を視覚的に展開したのが観想法、成就法である。修練するとマンダラ世界を脳内に描いて、リアルに神仏が目の前に現れる。
チベット仏教とネパール仏教
インドとネパールとは別の国だが、お釈迦様の暮らしたカピラ城は、ネパールのティラウラコットか、あるいは、インド側のピプラーワーではないかといわれる。ほど近い距離にあり、同じ文化圏に属す。
仏教学の中心であったナーランダ僧院からカトマンドゥまでは、東京から名古屋程度の距離。江戸時代の人は1日に40キロ歩いたというから、1週間から10日ほどで歩けたはずだ。カトマンドゥからチベットのラサまでは700キロほどか。交易ルートがあった。
TJARと呼ばれる山岳レースでは、415キロを8日以内で走るのがルールだ。優勝者はほとんど寝ないで5日で回りきる。普通の日本人には無理な話だが、比叡山の回峰行者も最後の年の京都大廻りでは毎日84キロを早足で歩く。カトマンドゥからラサはスタスタ歩いて2週間だ。
大乗仏教は次第に民間信仰を取り入れヒンドゥーと混淆して密教が発達する。日本に到来した7、8世紀に成立した中期密教の後、後期密教が発展していく。8、9世紀にはヨーガ行者、在野の密教者が活躍して、性的ヨーガが盛んになる。
12世紀にイスラームが侵攻し危機を迎えると、僧侶達は逃げ出して東南アジアへ、あるいはネパール、チベットへと新天地に向かった。ヒンドゥー教徒と共闘して密教の最終段階としてカーラチャクラの密教に到達する。
1203年にインド密教の中心であったヴィクラマシーラ寺院がイスラーム教徒の攻撃を受けて炎上し、この年を以てインドの仏教は滅びたとされる。仏教寺院の財産を略奪した。その時の管長シャーキャシュリーバドラは、オリッサに避難した後、ネパールを経てチベットに亡命した。サキャ派のサキャ・パンディタは彼から1208年に具足戒を受けた。サキャ派とネパールの後期密教はつながりが深い。
中国人は経典を漢文に訳し、チベット人はチベット語に訳した。朝鮮半島や日本では漢訳の経典をそのまま読んだ。ネワール語はビルマ・チベット語族だが、ネワール人は印欧語族のインド人同様に、サンスクリット語経典をそのまま用いて読み書きしたので、貴重な仏教経典の写本がネパールに残されている。
ネパールの仮面やヴァジラーチャリヤの踊りとチャムの仮面と踊りと、外見上はあまり似ていない。しかし、内面の操作では共通しているのではないかと思う。脳内でヴィジュライズしたものをプレゼンテーションするのだ。絵画を描く、あるいは彫刻を彫るときのようにご面相、装身具、持ち物、衣装、ポーズ、そしてその侍者や背景に至るまで、儀軌の通りにイメージする。その姿が見えない信者たちのために、仮面と衣装で提示して見えるようにする。仮面は子どもなど本気で怖がるのでインパクトは強い。太鼓とチベット・ホルンによって、ぽんと異次元の世界に翔んでしまう。
チベットの仮面舞踊チャム
チベットの僧侶の間で仮面舞踊が伝承され、それはチベット自治区のみならず、近隣のブータン、ネパール、インドのラダック地方、モンゴル、ロシアにまで広がっている。
チャムは踊りという意味だが、祭りの場で行われる踊りや儀式のみならず、お堂の中で行われている読経、儀式、砂マンダラの制作と破壊まで一連の祭事を含めていう。
ネパール、チベット、ブータン、また、日本において、個々にチャム(マニ・リンドゥ)やチベットの砂マンダラの制作を見ることができたが、私は砂マンダラの制作とチャムのフィナーレの仮面舞踊を一連の流れとして観察する機会には恵まれなかった。
北浦和公園の近代美術館にもチベット僧が来日して砂マンダラを制作し、最後に壇を破壊して、その絵の具たる砂を来場者に配布すると予告した時は、公園から道路まで列をなして皆が求めていたので驚いたことがある。
塚本佳道によると「この仮面舞踊では、まず演ずる僧侶が観想によって仮面に入魂し、僧侶自身が仮面の尊へと化身する。仮面をつけ仏の世界の住人と変化した僧侶達は群れて舞い、地上に仏の世界を現出するのである」「まさに律動する立体マンダラがそこに造立されるのである」
ラダックにおいて、チャムの法要はたいてい1週間行われ、寺院内ではカンソと呼ばれる護法尊への法要が行われる。最終の2日間に仮面舞踊が催される。カンソは秘法として修し、観想で種々の障碍を打破する。それを見える形で信者たちに示すのが仮面舞踊である。
祭りの場では黒い帽子シャナックを被り派手な衣装をまとった密教行者ガクパが、ダオ(調伏されべき悪霊の人形)を様々な武器で破壊する。チャムにおいてはこのダオの破壊が肝である。
そこに護法神マハーカーラの舞い、骸骨の姿のチティパティ、鼓舞い、道化役の阿闍梨、布袋和尚、小僧、鹿、ガルダなど様々なキャラクターを導入する。宗派によって演目も異なり、シャナックの出ない寺院もあり、寺院によって出る尊格や式次第は異なる。各寺院が独自のチャムを作り上げて民衆を教化した。
ガ・チャムという柄付き両面太鼓の舞いなど僧侶が仮面を被らない場合もあるが、小僧も時には子供の顔の面を被る。そんなの必要ないだろうと思うのだが、千人も集まるような大きな祭りでは、顔の上に大きな仮面をつけた方がよく見えるからだろう。
チャムは、本来、伝法灌頂を受けた僧侶が修する事のできる行であり、瞑想の力によって神は呼び出される。その習熟の度合いによって、できる演目も限られるのだが、ブータンでは僧侶でないものもチャムに加わる。
その踊りは「舞踊次第」と呼ばれる18世紀後半から19世紀初頭に書かれた経軌によって、フットステップや旋回、所作、伴奏音楽との関係が規定されている。神を現前に顕した僧侶達が台本を書いたが、もっともよく知られているのはグル・チュワン(1212~1273)である。この時代にはチャムの観念が成立していたことになる。もっとも、仮面を使用していたかどうかは不明である。
その時代はインドからネパール、チベットへと僧侶が逃げ出した時期であり、仏教の再生、復興、民衆教化に試行錯誤しながら必死に努力していた時代であろう。
チャムというものが伝説の通りパドマサンバヴァが創始したかどうかは分からないが、ティソン・デツェン王(742~797)の時代、サムイェー寺では仏像と共に護法神の仮面が造られ崇拝されていた。仮面というものは仏像彫刻の技術があって、その頭部だけ作成したということだと思う。
王はナーランダ大学から長老シャーンタラクシタを招いたが、当時伝染病が流行り、それは仏教を導入したからではないかと初めは受け入れられなかった。シャーンタラクシタは一旦カトマンドゥに引き返した。770年、2度目にラサを訪れるとポン教徒を論争で圧倒した。また、ウッディヤーナ(現パキスタン)出身のパドマサンバヴァと共にサムイェー寺建立に尽くして787年に建立した。
参考文献
今枝由郎・橋本和雄『ブータンのツェチュ祭』平河出版社、1994年。
加藤敬・塚本佳道『マンダラ群舞』平河出版社、1984年。
木村理子『モンゴルの仮面儀礼チャム』、風響社、2007年。
〃 「モンゴルのチャムと伎楽の比較考察」『國文學/密教の臨界』2000年10月号、第45巻12号、學燈社。
河野亮仙「儀礼と芸能のアルケオロジー」色川大吉編『チベット・曼荼羅の世界』小学館、1989年。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論
更新日:2020.09.14