河野亮仙の天竺舞技宇儀⑰

チダムバラムからプランバナンへ/ナタラージャが結ぶ謎

タンジャーブール(タンジョール)はマドラス(チェンナイ)から南へ急行で七時間、九世紀から十三世紀にかけて栄えたチョーラ朝の都。カーヴェーリ河デルタ、穀倉地帯の中心にある。チョーラ朝の最盛期には南インド一帯からスリランカ北部まで支配し、シュリーヴィジャヤ王国まで遠征した。

ラージャラージャ一世(985-1025年)が、壮大なブリハッディーシュヴァラ寺院を建立した。主殿は1003年から七年かけて建設された、当時、世界最大の寺院である。寺院内には王が王妃らとともに、ナタラージャとしてのシヴァ神を崇拝している壁画がある。

マドラスから、やはり南へ急行で五時間、230キロのところに古都チダムバラムがある。この町にはナタラージャとしてのシヴァ神を祀る寺院がある。伝説では、チョーラ・ヴィーラ王(927-997年)が、海岸でシヴァ神とその神妃パールヴァティーが踊っているのを見たので、この寺院を建立したという。

シヴァ神はもともと暴風神ルドラで、創造のために破壊するといわれる。男根をかたどったシヴァ・リンガは生命のシンボルであり、シヴァの踊りというのは宇宙のヴァイブレーションそのもの、それが創造された世界である。108カラナというのは、その生命のリズム、搏動を舞踊の姿で仮現したものであろう。

ある伝説によると、ティッライの森の中でシヴァ神とカーリー女神が踊りで対決し、なかなか決着がつかなかった。最後にシヴァ神が高々と足を上げると、それでは私のあそこが丸見えではないかとカーリーがひるんで降参したとも伝えられる。その場所こそが、ナタラージャ像とシヴァ・リンガが納められているナタラージャ寺院のチット・サバーだという。

ナタラージャ寺院は、『ナーティヤ・シャーストラ』に記される108カラナ、インド舞踊の基本ポスチャーの彫刻が描かれていることで有名。毎年、舞踊フェスティバルも行われている。108カラナは、この地域の寺院に見られるものだが、北インドには存在せず、インドネシアのジャワ島中部、ボロブドゥールにも近いプランバナンの遺跡に描かれている。
https://www.youtube.com/watch?v=DlfprSrsrCo
https://www.youtube.com/watch?v=dxpoSYfTNzo&t=185s

パドマー・スブラマニヤムの研究

著名な舞踊家パドマー・スブラマニヤムは1994年に福岡アジア文化賞を受賞した。彼女の博士論文のテーマが「インド舞踊と彫刻におけるカラナ」であった。

八世紀の演劇論書『ナーティヤ・シャーストラ』第四章にカラナのことが記述されていて、研究と共に自らの舞踊に取り入れている。その108カラナはタミル・ナードゥ州の三つの寺院に描かれている。それは、タンジャーブールのブリハッディーシュヴァラ寺院(11世紀)、クンバコーナムのシャールンガパーニスワーミ寺院(12世紀)、チダンバラムのナタラージャ寺院(13世紀)である。

パドマーは、カンチープラムの聖者に、新たに建立するナタラージャ寺院に描く108カラナの彫刻のデザインを依頼されて制作した。先の三寺院には残されていない動きを取り入れるようにとの指示だった。

1992年、インドネシアで開かれた国際ラーマーヤナ学会に招かれて、プランバナンのチャンディ・シヴァ堂を訪れると、彼女が研究してデザインした姿がここに描かれているのに驚いたという。アレサンドラ・アイヤーがその研究を進め、著書も公刊された。

インドネシアの密教

シャイレーンドラ朝のボロブドゥールの仏塔(八世紀中頃から九世紀中頃)の場合も、基本設計や中心となる工人はインド人だったのではないかと推測できる。インド舞踊、カラナの彫刻も見られる。

果たしてチョーラ朝の時代に、何百人、何千人がインドからジャワに渡ったのか、資料がないので分からないが、宮廷はチョーラ朝をモデルにインド王宮の模倣をしたと思われる。

ヒンドゥー系マタラム朝によるプランバナンの寺院群も九世紀中頃から建設が始まり、十世紀まで続いたと思われ、チョーラの時代に連なる。

九世紀中頃にはサンスクリット詩文学の影響を受けた古ジャワ語の『ラーマーヤナ・カカウィン』が書かれた。ブランバナン中央のシヴァ堂から南のブラフマー堂にかけて、回廊外側の高欄にはラーマーヤナの物語の浮き彫りが刻まれている。

主立った建築物を建立した時代とカラナの彫刻された時代にはずれがあるだろうが、カラナが彫られたのはジャワの方が早いという可能性もある。興味深い問題だが歴史的には未開拓である。

八世紀から十世紀にかけての中部ジャワは、インドの影響が強い。マドラスから六十キロのマハーバリプラムにある岩石寺院は、ラタ(山車)をかたどった七世紀頃の石彫寺院で、マハーバーラタの五人の英雄の名に由来するパンチャ・ラタがある。

インドネシアのディエン高原にも、チャンディ・アルジュナ、チャンディ・ビマなど、よく似た造りの祠堂が、七世紀末から建造された。七世紀インドにおいて流行してた石積み建築の様式が、それまで木造建築であった中部ジャワにおいて、突如、出現したのだ。

シャイレーンドラ朝の寺院群には、インド東海岸パーラ朝から渡った密教の影響が伺える。

ジョグジャカルタ南方の海に近い、スロチョロから二十二体の小型なブロンズ像が発掘された。金剛頂経系の曼荼羅に属す尊像である。また、中部ジャワと東部ジャワの間にあるボノロゴからも智拳印の如来像、菩薩像などが発掘されている。東部クディリ地区ガンジュクのチャンディ・ロル遺跡からも数十体の小型ブロンズ像が発掘された。

九世紀から十世紀の間、中部から東部ジャワにかけてパーラ朝の密教の影響を受けた遺品が、インドを含めて他の地区には見られないほど、多数、発見されている。この地区が金剛頂経系密教の一つの中心地であることが分かる。

パーラ朝、チョーラ朝とジャワの諸王朝は友好関係にあったのだろうか。学芸や暦、占星術、医学・薬学を扱うブラーマン、石工、職人、軍人、楽人、料理人等々「宮廷セット」がジャワに移入されたものと思われる。何十人、何百人もの踊り子がいたのではないか。

また、108カラナを彫刻に残したというのは、単なる装飾ではなくて、これを教科書にして勉強しなさいとインド舞踊をジャワに伝えたかったのか。

カンボジアの踊り子

辛島昇は11世紀初頭のチョーラとシュリーヴィジャヤのカダーラム(マレー半島ケダー)の友好関係について言及する。また、カンボジアとも1020年頃から十二世紀初頭まで、政治的交流、友好関係が続いたことを刻文を紹介して述べている。

プレア・ビヘールから発見された碑文によると、スーリヤヴァルマン二世(在位1112-1150)が、僧侶や村長に多大の布施をしたことが述べられ、また、毎日の儀礼に欠かせないものとして、踊り子、歌手、楽団、道化師、米、油、蝋燭、花云々と記される。踊り手を擁した演劇団を抱えていたことが分かる。

アンコール・トムを建立したジャヤヴァルマン七世(在位1181-1218頃)が、同じく建てたタ・プローム寺院の碑文によると、615人の踊り子がいたという。七世の最初の王妃ジャヤラージャデーヴィーは、踊り子たちによってジャータカ物語(釈尊の前生譚)を仏前に奉納した。タ・プロームにはジャータカ物語の惜しみなく布施をしたヴェッサンタラ(釈尊の前世)の物語が描かれている。

王宮は天界の写しであり、王は神格化される。寺院には天界の模様が彫刻され、踊るアプサラス像は主尊を供養する形になる。現実にも多くの踊り子が舞った。

文学史、仏教史、考古学、美術史、舞踊史なども統合して絵を描かないといけない。資料の乏しいシュリーヴィジャヤ王国、中国史料に見える室利仏逝、三仏斉、闍婆、訶陵については分からないことが多い。

中国僧の滞在したシュリーヴィジャヤとは何処?

仏教僧の義浄はナーランダ大学に向かう際、671年末から半年間、シュリーヴィジャヤに滞在し僧院で学んでいる。それは、一般にスマトラのパレンバンと目されている。しかし、千人の僧が依拠する規模の遺跡が発見されていないことも指摘されている。マレー半島ケダーのブジャン遺跡群がそれに相当するとの見方もある。

インドの密教僧金剛智(Vajrabodhi)は、718年、中国へ向かう途中、シュリーヴィジャヤに五カ月滞在した。これも、マレー半島か、スマトラかジャワか分からない。九世紀の『貞元新定釈経目録』によると、密教僧不空は闍婆で金剛智とめぐり逢って弟子になったと伝える。現在のジャワであろうか。

不空の弟子惠果には、訶陵国から来た弟子の弁弘がいて、胎蔵法の伝法灌頂を惠果から受けている。漢字で弁弘と書かれてしまうとそこで思考が停止するが、果たして中国系なのかインド系なのか、中国語、漢字が分からなければ入門できないだろうし、梵語を解しないと密教の理解は進まない。

空海はその惠果から、大日経・胎蔵曼荼羅と金剛頂経・金剛界曼荼羅の両方を相承している。空海ほどでないにしろ、インドネシア仏教界?を代表する大秀才だったのだろう。

七世紀から十五世紀までの古代ジャワ刻文は千二百点も発見されているが、948-1021年の間は空白である。

プランバナンの寺院を建立したマタラム朝は、929年に東ジャワのクディリに本拠を移す。その仏教と混交したヒンドゥー教はバリ島に伝えられる。

参考文献

池端雪浦編『変わる東南アジア史像』山川出版社、1994年。
石澤良昭『東南アジア多文明世界の発見』講談社、2009年。
石澤良昭・大村次郷『アンコールからのメッセージ』山川出版社、2002年。
石井米雄・辛島昇・和田久徳『東南アジア世界の歴史的位相』東大出版会、1992年。
伊東照司『アンコールワット』山川出版社、1993年。
『インドネシア美術入門』雄山閣、1989年。
金子量重・坂田貞二・鈴木正崇編『ラーマーヤナの宇宙』春秋社、1998年。
永積昭『東南アジアの歴史』講談社現代新書、1977年。
福岡アジア文化賞委員会『福岡アジア文化賞』連合出版、1999年。
袋井由布子『インド、チョーラ朝の美術』東信堂、2007年。
マチコ・ラクシュミー『バラタナーティヤムを踊る』出帆新社、1997年。
松長恵史「海洋交易路における密教の流伝/ジャワ島からバリ島へ」『高野山大学図書館紀要』第二号、高野山大学図書館、2018年。
松長恵史『インドネシアの密教』法蔵館、1999年。
Alessandra Iyer,”Prambanam:Sculpture and Dance in Ancient Jawa”,White Lotus Co.Bangkok,1998.

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2019.09.05