河野亮仙の天竺舞技宇儀⑫
インド舞踊前史~オリエンタル・ダンスと万博
世界中にヨーガを広めたインドラ・デーヴィーの生徒には、ルース・セント・デニス(1879-1968)がいた。1899年生まれのインドラ・デーヴィーは、奇しくも日本ヨーガの確立者、佐保田鶴治と同い年だった。
ルースはアメリカ・モダン・ダンスの祖ともいわれ。靴を履かず、民族的なものを取り入れた。夫のテッド・ショーンと共に設立したデニ・ショーン舞踊学校の生徒にはマーサ・グラハムもいた。
エジプトの女神イシスを描いたタバコの宣伝ポスターを見て、イシスを舞ってみたいと考えた。ブラヴァツキーの『ヴェールをとったイシス』も読んでいたのではないか。
1906年に、ラーダーとクリシュナをテーマに創作しているが、音楽はレオ・ドリーブ作曲のオペラ「ラクメ」を用い、基本的にはバレエの動きに民族的色彩を加えたものかと思われる。
1940年にはオリエンタル・ダンスを教える学校、スクール・オブ・ナタヤを開設している。ナタヤはサンスクリットのナーティヤから来ているのだろう。また、1962年には、アメリカで初めてバリ島の影絵芝居ワヤン・クリを八時間にわたって完全上演したという。
また、オスカー・ワイルド「サロメ」を演じて踊ったモード・アラン(1873-1956)も、オリエンタル・ダンサーの草分けとして知られる。ユダヤの王エロドと后の娘サロメの物語である。
アランはベルリンで教育を受けたピアニストであり、きちんとした舞踊訓練を受けたわけではないが、自分で衣装や踊りを工夫した。ミュージック・ホールなど大衆的なところで、スカートをひらひらさせて足を見せるスカートダンサーだった。
1906年にウィーンで上演し、1908年には イギリスで250回公演したという。1910年にはヨーロッパを離れて、アメリカ、オーストラリア、アフリカ、アジアをツアーしている。
彼女等の活躍がアンナ・パブロワとウダエ・シャンカルの作品「ラーダーとクリシュナ」、そして組曲「オリエントの印象」にヒントを与えている。
インドラ・デーヴィーの生徒には女優クレタ・ガルボもいる。映画「マタ・ハリ」(1932年)で、伝説の女スパイとして主演している。映画の冒頭、クレタ・ガルボは、インドともインドネシアともタイともアラブともつかない冠と衣装で、仰々しくのっしのっしと歩いていた。
マタ・ハリはパリを中心として活躍したダンサーとしての芸名で、本名はマルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレ。オランダ人であるが、母がインドネシア系の血を引いているといわれるエキゾチックな美人で、ジャワからやってきた王女、ないしインド寺院の踊り子、つまりデーヴァダーシーという触れ込みで中近東風のダンスを踊ったらしい。
パリ随一のミュージック・ホール「フォリ・ベルジュール」の看板スターであり、ミラノのスカラ座でも公演を行ったというからたいした存在だ。
スパイとしての訓練を受けてない彼女が、どれほどの諜報活動が出来たかは疑問視されている。ヨーロッパの王族、政治家や将校を手玉にとった高級娼婦であり、二重スパイともいわれた。フランス軍は、その失態の責任を彼女に押しつけた。第一次世界大戦中の1917年に、ドイツのスパイとしてフランス軍に銃殺された。
二百三十年ぶりに鎖国が解かれる
さて、時間を江戸末に巻き戻し、横浜にワープしよう。
慶応2年4月、徳川幕府は留学生や商人の海外渡航を公認する。日米修好通商条約から八年目のことである。
その1866年12月25日には、徳川幕府公認の留学生十二名が横浜港を出発してイギリスに向かう。同じ船には、なぜかコマ回し名人、曲独楽の松井源水一座十四名が乗り込んでいた。アメリカ人リチャード・リズリー・カーライルが組織した。
イギリスへの留学生はこれが初めてではなくて、1863年には、いわゆる長州ファイブ、伊藤博文、井上馨ら五名がジャーディン・マセソン商会の手配でロンドンに向かったが、これは密出国である。薩摩藩からも五代友厚、寺島宗則らが藩主にイギリス留学を願い出て許可された。幕府側から見れば密航留学である。
日本で初めて「旅券」を交付されたのは、隅田川浪五郎という手品師である。パスポートに写真はなく、人相書きがついている。それはいいとして、渡航目的として「香具渡世」と書かれてるのだ。凄い。一体、英語に翻訳するとしたらどうなるのだろうか。wandering juggler?
当時の外交官はあちこちの見世物小屋を見聞して楽しんでいた。日本の手品・演芸は、是非とも海外に紹介したいと優先的に手続きしたのではないか。
帝国日本芸人一座と呼ばれたが、正確には足芸を行う浜碇定吉一家七名、手品・軽業の隅田川浪五郎一家、コマ回しと角兵衛獅子の松井菊治郎一家五名、さらに後見人として香具師、興行師の高野広八。脇差しを差して、そのいかつい容貌からしても用心棒を兼ねていた渡世人と思われる。その十八名が12月29日に横浜を出てサンフランシスコに向かう。中には女性三人、十歳前後の子供も四人いた。
招聘した興行主は通称リズリー先生、リチャード・R・リズリー・カーライル。通称へんくつ、日本語に堪能なエドワード・バンクスも付き添った。バンクスは、横浜アメリカ領事館の警備官であったが、好き者で芸人たちに一攫千金をくどき回ったようだ。ずっと通訳としてアメリカからパリ万博(1868年)を目指し、ヨーロッパまで三年近く、公演について回った。サンフランシスコはゴールド・ラッシュで沸いていて、あぶく銭があった。
リズリー先生は足芸を得意としたアメリカの曲芸師・興行主。1864年3月に、芸人十名、馬八頭を連れて横浜にやってきた。アメリカ・リズリー・サーカスであるが、なぜか「中天竺舶来軽業」と呼ばれた。横浜の居留地に大きなテントを張った。天竺の幻術というものが江戸の人にも知られていたのか。あるいは、本朝から唐を過ぎると、東南アジアも西洋も天竺なのだろうか。
リズリー先生が編成した鳥潟小三吉ら五名も出国している。また、イギリス人興行主に率いられて薩摩の一座数名が長崎からロンドンに向けて、出国している。明治中頃まで、芸人たちは相前後して海を渡っている。海外からの芸能者を受け入れる興行師のルートがあったということだ。
日本の軽業は高く評価され、また、ギャラも驚くほどよかったので命を賭けて出発した。浜碇定吉には年俸金三千五百両、隅田川浪五郎金千百両、松井菊治郎金七百両。一行の中には子供もいた。子供連れの家族で海外巡業を行うというのも、ウダエ・シャンカル一行の感覚に近い。子役は受ける。梅吉はLittle Alrightと呼ばれて大人気だった。
ちなみに、伊藤博文、井上馨が留学するときの船賃は一人700ドル約400両。一年間の学費・生活費を考えるととりあえず千両が必要となる。およそ、1600万円である。これが逆にもらえるのだから、べらぼうな話である。行くに決まってる。
一行がパリに到着すると、すでにイギリス回りで第二回パリ万博にやってきた松井源水一座がフランス帝国劇場で興行を行っていた。その公演を見た。
源水は曲独楽の第一人者で、八代将軍吉宗も、鷹狩りの折、しばしば源水の曲独楽を楽しんだと浅草寺日記にある。
浅草に依拠して家伝の薬を売り、人寄せのため曲独楽を演じた。歯の薬や切り傷、ひび、しもやけに効く「がまの油」を売り、居合抜きを見せた。パリでは、さすがに膏薬は売れず、コマ回しだけだとは思うが、居合いも抜いたか。
広八一行はパリ市内を散策し、げてもの館を見たという。広八は日記を付け、売春宿に出入りしたことも記録する。お金はたんまりあった。
万博には幕府の他、薩摩藩、佐賀藩も参加出品していた。江戸の商人、みずほや卯三郎も個人で参加し、日本の特産物を扱ったほか、清国館のとなりに日本茶屋を作り、そこに柳橋の芸者三名を配して、茶や酒で接待したという。踊りも踊ったはずだが、こちらも日本の曲芸と同じように、連日、大入り満員であった。
1851年のロンドン万博では一つの大展示場に収めたが、パリ万博は都市に展開し、遊園地や庭園を設けた。怪しげな見世物小屋、半裸の女性の演じるダンスがあったことも伝えられるが詳細は分からない。当時、ガードルを着けずおへそを見せれば半裸とされたであろう。
続く、1878年の第三回パリ万博でハトロカデロ宮殿に科学・学術的な展示がなされ、世界文化の進歩を見せる祭典という面が強くなる。
1889年のパリ万博にはエッフェル塔がお目見えするが、娯楽興行地区も設置され、そこにカイロ通り「リュ・ド・カイル」の名が付けられた。バザールや露店の飲食店、テント張りの劇場もあった。エジプトからダンサーが招かれ、セクシーな踊りは人気を独り占めした。近隣諸国からも万博を見に行くというよりは、ベリーダンスを見るためのツアーが企画された。と同時に、官憲に目を付けられ検閲が行われた。
カイロ通りでインドからの舞踊も行われたのだろうか。十分考えられるが、インド人は概してそのような記録を残さないので分からない。
ちなみに1970年の大阪万博のインド館にも多くの一流歌手、演奏家、インド舞踊家が来日している。
インドからの舞踊とベリーダンスのアメリカ上陸
1876年にフィラデルフィアで開かれた建国百年祭に際して万国博が開催され、ベリーダンスは紹介されている。
このときの日本は、西郷従道を最高責任者に、多数の大工を派遣して日本家屋のパビリオンを建設した。日本茶、陶磁器、絹織物を出品している。
続いて、1881年2月1日のフィラデルフィア・タイムズには、インドからナウチ・ダンサーがやってきて、リサイタルを行った模様が紹介されている。優雅であってとても奇妙、グロテスクとも評されている。理解を超えた動きだったのだろう。これはバラタナーティヤム成立より半世紀も前の話だ。祭りに出る踊り子が招聘されたか。
当時、興行主によってインドからも欧米に連れてこられ、博物館や劇場、フェア、博覧会などで演じていたようだ。
ナウチ、ノーチはインド英語で、舞踊演劇を意味するサンスクリット語ナーティヤ、ヒンディー語ナーチから来ている。その踊り子はナーチュニーと呼ばれ、結婚式や祭礼に招かれて踊っていた。
寺院で神に仕えるデーヴァダーシーとは別の伝承なのだが、英領時代には混同される。ノーチ・ガールは風紀を乱す娼婦と見なされ、19世紀中頃には反ノーチ運動が起こる。在インドの英国人官僚には、彼女等には近づかないようにという訓令が出されている。放置しておけないほど人気があったということだ。
映像記録はほとんどないので、どのような踊りであったかは分からないが、ゆったりと全身を覆った衣装なので、足を上げたり激しい動きは出来ないだろう。昔の写真は、室内であったら数十秒間静止していないと写らないので、踊りを撮ることは出来ない。私の留学時代、四十年前もインドではポートレート撮影にそのような箱形カメラを使っていた。
さらに、1893年のシカゴ万博においては、「ストリート・イン・カイロ」と称するエジプト風の劇場が設けられた。エジプトの土産物が売られたほか、観光客がラクダやロバに乗ることが出来たようだ。「メッカからの到着」「結婚式の行列」が上演された。
しかし、そこでの踊りはすさまじい悪評を被った。コルセットを着けないダンサーというが、今でいうと下着を着けていないという感覚だろう。1950年代のエルビス・プレスリーでさえ、腰を振って歌うなんてと非難された。悪名は無名に勝る勲章で、万博の大いなる呼び物となった。
リトル・エジプトと名乗るダンサーが、風紀を乱すとのことで何度も逮捕された。おそらくは、それが新聞に載るたびに観客は増えたと思われるし、ギャラも上がったことだろう。まさに、身体を張って戦った。
この万国博覧会の後は、雨後の竹の子のごとく、シカゴ万博に出演した、ストリート・イン・カイロで踊ったという真偽不明の経歴を持つ、リトル・エジプトを名乗るダンサーがアメリカ中に出現した。
1930年代からは、トルコやイラン、アラブ諸国からの移民、そしてダンサーが続々とニューヨークにやってきた。それぞれの国の人々によって経営される各種オリエンタル・レストランが出来て、ショーも行われた。
シカゴ万博からパリ万博へ
日本からも芸能者が海外に渡っている。1893年のシカゴ万国博覧会に設けられた日本茶園では、日本の着物を着てお茶を供し、客寄せに手品や軽業、手踊り、太神楽などを演じていた。
そこで大儲けした櫛引弓人という興行師が、京都の四条南座までやって来て、興行中の川上音二郎に会う。1899年2月のことである。いわずと知れた新演劇の祖、オッペケペーの川上音二郎である。
5月にはサンフランシスコに到着して「楠正成」を上演し、貞奴は「道成寺」を踊っている。貞奴の大きな写真が町中に張り出されると評判を呼んだ。今でいうクールビューティ、東洋人の持つしっとりした美しさが注目を集めた。西部はゴールドラッシュで沸いていてあぶく銭があふれていた。
シアトル、シカゴ、ボストン、ワシントン、ニューヨークとアメリカ大陸を横断し、ニューヨーク港から十日でリバプール港に達し、鉄道でロンドンに向かう。
ロンドン公演も大好評で、1900年の第五回パリ万博で劇場を構えて公演を行っていたロイ・フラーに誘われる。四十カ国以上が参加して、セーヌ川右岸に劇場がいくつか建てられ、その一つでロイ・フラー座が公演を行っていた。
時はアール・ヌーヴォーの時代。ロイ・フラーはシカゴ生まれの女性ダンサーで、クラシック・バレエに逆らった。スカートを翻して踊り、電気装飾を施した斬新なものである。電気踊りと呼ばれた。ちなみに、この亜流は日本にも上陸している。
ロイ・フラーはたいしたプロデューサーで、フランスの著名な芸術家であるロダンやロートレック、文豪、名士と親交があり、公演に招いていた。
フラーは音二郎の一座に「ハラキリ」をやるよう依頼した。「芸者と武士」は大当たりした。これで日本のステレオタイプが出来たか。もちろん、芸術のパリであるから貞奴の踊りも「日本のサラ・ベルナール」として最高に評価された。
死に方がうまい、ぶるぶると震えてため息やうめき声を出す。胸と腹を波打たせながら死んでいくのがセクシーだと評された。作家のジャン・ロランは、それを死のベリーダンスと呼んだ。ちょっと見当違いの気もするが。
また、ロイ・フラーの劇場とは別に、日本政府が開いたパビリオンでも、芸者たちの色っぽい踊りを披露している。
音二郎一座は、1901年元旦に帰国すると、4月に再渡欧する。旅をしながら、ほとんど毎日公演でヨーロッパ中を渡り歩いた。過酷なスケジュールであり、音二郎も病気をしていた。
万国博というのは、貴族の邸宅などにあった美術品、調度品、貴重品、海外からの珍奇なもの、ゲスト、そしてその娯楽を一挙に一般公開するアミューズメント・パークであった。また、アテネに発して第二回の近代オリンピックは、1900年パリ万博のアトラクションとして行われた。第三回オリンピックもセントルイス万博の呼び物である。肉体の競演、身につけた技能の展示であった。
どんどん話は脱線していくが、日本人でオリンピックに最初に参加したのは金栗四三とされるが、その前にも実はいた。
1904年、アメリカ合衆国のルイジアナ州併合百周年を祝うために開催されたセントルイス万国博覧会の一環としてオリンピックが開催された。
博覧会のテーマは「人類の進歩」。未開から文明化されていく足跡を展示しようという意図だった。
そのなかで、アメリカ・インディアン、アフリカのピグミーほか、フィリピンの少数民族等が招かれた。日本からはアイヌの家が作られて、男四人、女三人、子供二人が参加。そこで生活する様がそのまま展示されていた。
オリンピックにおける「人類学の日」というイベントで、彼ら少数民族の身体能力を競わせ、四人の男が参加し、一人が弓の競技で二位になったとされる。I0Cは差別的であったとして、これをオリンピックの記録から外した。
万博などの人が大勢集まるときの呼び物として、各国のアスリートが集まる競技会のほか、異国情緒あふれるオリエンタルな芸能も招聘された。むしろ、エロチックなものこそがもてはやされ、客寄せにもっとも貢献した。競技者のみならず、芸能者も身体を張って戦った。
遣唐使船ほどではないものの、大変な苦難の旅であり、スケールが大きい。旅の途中で怪我や病気もあり、泥棒にも火事にも詐欺にも遭う。死者も出している。芸能者というのは定住農耕民ではなく、漂泊の旅が日常であったからだろうか、らくらくと国境を超えていく。
言葉も国境も関係ない。新たな見聞を基に技を開発し、レパートリーを増やし、お客様を喜ばせる。芸こそ命と一日一日を生き抜く芸人たちの勇気を大いに讃えたい。何につけ、先駆者というのは偉大なものだ。
参考文献
荒俣宏『万博とストリップ』集英社新書、1999年。
市川雅『ダンスの20世紀』新書館、1995年。
井上理恵『川上音二郎と貞奴Ⅱ』社会評論社、2015年。
大島幹雄『明治のサーカス芸人はなぜロシアに消えたのか』祥伝社、2013年。
『木下サーカス生誕百年史』木下サーカス株式会社、2002年。
田中於菟弥編『サリーの女たち』評論社、1976年。
宮永孝『海を渡った幕末の曲芸団』中公新書、1999年。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論
更新日:2019.04.04