河野亮仙の天竺舞技宇儀⑪

インドの映画女優としてデビューしたインドラ・デヴィは、ハリウッド・ヨーガの始祖

前の回にも紹介しているインドラ・デーヴィーの話を続ける。インドラは帝釈天、デーヴィーはサンスクリット語の表記で、デヴィ夫人のデヴィ、女神という意味だ。男性形のデーヴァは神、梵天、帝釈天の天。インドの実際の発音は日本語の長母音より短いので、デヴィも間違いではない。

日本でも梵天とか梵天丸という名前はあるが、インド人は平気で神様の名前を付ける。きっと、それだけ身近なんだろう。

インドラ・デヴィ著「いつまでも若く健康で」は、昭和三十三年にダイヤモンド社から出ている。これが、アマゾンの中古では馬鹿高くて、一万五千円前後の値がつく。埼玉の図書館にはないので、国会図書館に行こうかと思っていた。

幸い、古書店検索で二千円で見つけることが出来た。しかし。定価は二百円だった。新書版に近い。そこに自己紹介として自伝が載っている。今まで繰り返しこの連載に出てきた名前がいろいろと登場してくる。インドと欧米の間で行き来した当時の潮流を物語る実例だ。

目次には、自己紹介、ヨガの起源、深い呼吸、くつろぎ食餌法、内分泌腺のはたらき、不眠症をどう征服する、頭痛をどういうふうになくするか、セックス、あなたは思いのままの人になれる、今日は老いても明日は若く等々、女性誌的な惹句が並ぶ。写真入りのアーサナの解説は30ページ程度だ。原著は1953年発売。世界中でベストセラーとなった。

この連載を始めてから沖正弘「秘境インド」とか、貴重な本を発掘することが出来た。奇縁である。

インドラ・デーヴィーは帝政ロシア、ラトヴィアのリガ市に生まれ、本名ユージニー・ピーターソンという。いや、1950年代にアメリカの市民権を獲得して、Indra Deviの名でパスポートを作っている。父はスウェーデン人の銀行家、母はポーランド系の貴族出身で女優だった。

1899年生、2002年にアルゼンチンで亡くなっている。こういう人を何人と呼んだらいいのか、我々日本人には見当がつかない。十九世紀から二十一世紀の三世紀にわたって生き抜いて、世界各地を駆け巡った。

インドラ・デーヴィーは、モスクワの演劇学校に通って学んでいた。その十五歳の頃、ラーマチャラカのヨーガ本、タゴールの本、ブラヴァツキーのインド旅行記(「インド幻想紀行」の元のロシア語版であろう)と出会い、インドへ行きたいという夢が膨らむ。

ロシア革命で1917年にベルリンに逃げ出し、高名な劇団「青い鳥」に加わってツアーをした。ドイツ各地、ウィーン、ブダペスト、プラハ、パリ、マドリッド、バルセロナ、スイス等々。

たまたま、オランダのオーメンで「東方の星教団」が集会を行うことを知る。アニー・ベサントがクリシュナムールティを連れてきたのだ。そのキャンプ集会に参加する。1926年の夏の話である。

教会ではなく野外にキャンプを張って信仰を語る信仰復興運動、リヴァイヴァルは、19世紀半ばアメリカで「大覚醒」と呼ばれ、黒人の間にも広まった。

そのキリスト教の伝道集会、キャンプ・ミーティングをインドの宗教指導者も真似た。四千人以上がキャンプ生活を送ったようだ。その庭園やエアダー城をオランダの貴族が教団に寄贈した。瞑想をしてマントラを唱える。クリシュナムールティがヴェーダやウパニシャッドの聖句を唱えるのを聞いて、感動で泣きじゃくった。その日から生まれ変わったような気がしたという。回心である。もう肉が食べられなくなった。

クリシュナムールティとは誰か

クリシュナムールティ(1895-1986)の位置づけは、なかなか難しい。ヴィヴェーカーナンダの位置を継ぐ、世界に影響を与えた哲人なのかもしれないが、二人の間に直接間接の師弟関係はない。近代インドの宗教思想家というより、インドラ・デーヴィーより三歳年上、昭和61年没なので現代の人である。ヒンドゥー教の復活者というより伝統否定論者だった。ラジネージ以前では最も本が売れたインドの宗教家だろう。「精神世界」の本棚に並べられている。

悟りに至る道としてのヨーガや瞑想を否定し、あらゆる教団や古典文献、そこに描かれる神観念を拒否し、宗教思想や哲学からの解放を自覚すべしと、平明に語りかける。釈尊がこの世にいたら、過去に形成され今に続く伝統教団の仏教を否定して、クリシュナムールティのように説き始めるのではないかと思わせる。

父ナーラニーヤは英領時代に税金を徴収した下級官吏。1881年神智学協会に入会し、退官後は神智学協会で事務を行った。

14歳の頃、協会の幹部、「チャクラ」の著者であるリードビターにその素質、霊性を認められ、弟のニティヤーナンダと共に英才教育を施される。後にルクミニー・デーヴィーの夫となるジョージ・アルンデールも兄弟を指導した。9歳で母を亡くしているので、神智学協会に預けられ、アニー・ベサントが母代わりであった。

彼等イギリス人は、世界の指導者になるためには、オックスフォード大学やケンブリッジ大学を卒業しないといけないと考えていた。せめてロンドン大学に入れたいと思っていたようだが、試験はみな落ちた。

クリシュナムールティを教祖、救世主マイトレーヤとして東方の星教団を築いた。神智学協会にはそれ以前から様々なトラブルがあった。その動きに反発して、ルドルフ・シュタイナーは人智学協会を立てる。

また、クリシュナムールティの弟、ニティヤーナンダは結核で闘病していた。アルンデール等が、霊的なマスターたちがニティヤーナンダの全快を保証したといったのにもかかわらず、27歳で弟は亡くなる。教団への不信感が増して1929年、自ら東方の星教団の解散を宣言することになる。

ユージニーの旅

1927年11月ナポリからセイロン(現スリランカ)行きの船に乗った。ベサント等の有力な紹介があったのだろう。ホストとなった家族が次の家に手紙を書いてという具合に、伝手をたどって四ヶ月で十七カ所を回る。新しい街へ行くと、駅で誰かが迎えに来ているというVIP待遇だった。

その間、ガンディー、ネルーに会い、シャンディニケータンのタゴール大学を訪ね、クリシュナムールティの集会にも何回か顔を出している。インドが自分の故国であるように感じたという。帰国便はクリシュナムールティと同船だった。インドの「聖人」の周りにはたいてい外国人女性の取り巻きがいて、インドラ・デーヴィーもその一人だったのだろう。

二年後にまた訪印し、クリシュナムールティの集会に参加する。星の教団を解散して初めての集会だった。毛皮や手持ちの品々を手放して換金し、何ヶ月か過ごした。豪州に旅立つクリシュナムールティを送るためにボンベイに至る。

神智学協会(大原武夫の訳では接神協会)のコンサートで踊ると、ある映画監督が「インドではじめて製作する映画のスターの役を、私にくれたのである」。

それは「大学生たちがふるいたって作るノン・プロフィット・フィルム」だそうだ。「新興インド映画の新進スター、インドラ・デヴィ」としてデビューし、演技をして踊ったようだ。その踊りとはロシア・バレエなのであろうか。あるいは、ウダエ・シャンカルのようなインド・バレエであったか。カラオケはないし、踊るときの伴奏音楽は何だったのだろう。

1930年、ボンベイでチェコスロバキア領事館の商業担当官ジャン・ストラカチと結婚し、ヨーロッパに戻る。映画スターは一度きりだった。

またまたインドに舞い戻ると、藩王たちや政財界の要人とも街の人々とも交わる。競馬場に行き、社交界、パーティーの花として過ごした。

それがどうしたことか、心臓に痛みを感じるようになる。ヨーロッパでも名医といわれる医師に診てもらっても治らない。スポーツも踊りも止めた。

インド舞踊も習っていたようだが、一体誰からどんな踊りを習ったのか、それをステージで披露することがあったのか知られていない。

プラハで、たまたまリプカという医学生(一体、何人の名前であろうか?)と出会い、なんで今までヨーガの先生に診てもらわなかったのですかといわれた。彼はヨーガの治療を始め、快方に向かう。

インドに戻るとネパールの王女と知り合い、ムソーリー王子がヨーガのポーズを見せる。カイヴァリアダーマの研究所、スワーミー・クヴァラヤーナンダの元に行く。そこには女性のためのクラスもあった。外国人は一人で、すぐにうまくは出来なかったようだ。夫のプラハ行きで中断する。

そのうちマイソールの王から王子の結婚式に招かれたので訪印する。以前にもマイソールを訪ねたことがあり、その時にはクリシュナマーチーリヤの心臓を数分間止める技を数人の医師と共に見学したのだった。

クリシュナマーチャーリヤに弟子入りを希望する。婦人のためのクラスはなく、まして外国人なので師はためらっていたが、王の口利きによって入門できた。

クヴァラヤーナンダの研究所の時は、「クラス」であって、健康のためにヨーガの訓練はするものの、後は自由時間であった。クリシュナマーチャーリヤの元では、いわば内弟子。インド人の弟子と同じ規律を守る。厳格な食事制限がある。コーヒー、紅茶もだめだ。

いわゆるヤマ、ニヤマを守り、日の出前に起床し、沐浴して訓練と瞑想を行う。伝統的に八支ヨーガという。「解説ヨーガスートラ」によると次の八部門は次の通り。

1.ヤマ(禁戒)すなわち、不殺生、正直、不盗、禁欲、不貪等身を慎むこと。
2.ニヤマ(勧戒)、清浄、知足、苦行、読誦、自在神への祈念。
3.アーサナ(安定して快適な座法)
4.プラーナーヤーマ(調気法)、呼吸のコントロール。
5.プラティアーハーラ(制感)、諸感覚器官が対境と結びつかなくなること。
6.ダーラナー(凝念)、心を特定の場所に結びつけること。
7.ディヤーナ(静慮)、凝念に引き続いて、凝念の対象となったのと同じ場所を対象とする想念がひとすじに伸びてゆくこと。
8.サマーディ(三昧)、その同じ静慮が、外見上、その思考する客体ばかりになり、自体をなくしてしまったかのようになった時が、三昧と呼ばれる境地である。

インドラ・デーヴィーは、朝、昼、晩とヨーガを行って、その熱心さに師自ら指導するようになる。痩せて若返り、身も心も娘時代のように軽やかになっていった。最後には部屋に鍵をかけて「秘密の」プラーナーヤーマを修したという。

夫が中国に転勤となるのを師は知って、中国でヨーガを教えなさいという。上海で七年半教え、講演も行った。初めは蒋介石婦人の家の寝室で一回に五人、一日に五回で二十五人教えたという。アメリカ人、ロシア人にもヨーガを教えた。インドに戻っても教え、西洋人としてはインドで初めてヨーガを教え、ヨーガの本を出版した。

ネルーにもヨーガを教えた、ネルーの前で踊ったと伝えられる。それはインド舞踊なのたろうか。

夫のジャンは1946年に亡くなる。中国で荷物をまとめ、インドに戻るかアメリカに渡るか迷った末、両方のチケットを買った。先にアメリカ行きの便が来たので、それに乗った。

1947年にはハリウッドに行き、ヨーガを教えることになる。埃まみれの大道芸ヨーガではなく、科学的なセレブのためのヨーガというイメージが形成された。ハリウッドでは、クレタ・ガルボ、グロリア・スワンソン等の女優や俳優、バイオリンのユーディ・メニューヒン、ダンサーのルース・セント・デニスを教える。

1953年には高名な医者のシグフリッド・ナウアーと結婚し、インドラ・デーヴィーを本名とする。夫はメキシコに彼女のために二十四部屋ある邸宅を買って、ヨーガの拠点とする。1960年にはソヴィエト連邦に行き、共産主義の国でヨーガは宗教ではないと説いて、アナスタス・ミコヤン等クレムリンの首脳たちにヨーガを教えたようだ。

1966年代にはサティヤ・サイババの信者となり、彼女のヨーガを「サイ・ヨーガ」と呼ぶようになる。1970年には、再び、夫を亡くすものの、世界中を巡ってヨーガを伝道した。英独仏のほか、ロシア語、スペイン語が話せたようだ。1982年にはアルゼンチンに惚れ込んで定着し、2002年4月25日、その華やかな生涯の幕を閉じる。

参考文献

インドラ・デヴィ『いつまでも若く健康で』ダイヤモンド社、1958年。
佐保田鶴治『解説ヨーガ・スートラ』平河出版社、1980年。
メアリー・ルティエンス『クリシュナムルティ・実践の時代』めるくまーる社、1988年。
H.P.ブラヴァツキー著加藤大典訳『インド幻想紀行 上・下』ちくま学芸文庫、2003年。

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2019.03.02