河野亮仙の天竺舞技宇儀⑦

マイ・フェア・レディ/大英帝国の統治政策とインド学

オードリー・ヘップバーンの代表作「マイ・フェア・レディ」の話をしよう。今年は神田沙也加のイライザで話題になった。
ジュリー・アンドリュース主演のミュージカルとして1956年に初演された後、ニューヨークで映画が封切られたのは1964年。その頃、早速、宝塚でも上演されたようだ。
インドでは、マラーティー語、グジャラート語に翻案され、ヒンディー語、ベンガル語の映画もある。ダットサン・フェアレディは69年発売で、この映画にちなんで命名されたというから影響力の強さがうかがえる。今は日産フェアレディだから古い話だ。

原作は皮肉屋で知られる劇作家のバーナード・ショーの『ピグマリオン』。1912年に戯曲が完成し、翌年ウィーンで初演される(ドイツ語版)から、およそ百年前の話だ。その1913年にはタゴールがノーベル文学賞を受けている。ショー自身も1925年にノーベル文学賞を受賞した。
ショーは社会主義者で、進歩的な文化人と共に、1884年、フェビアン協会を設立する。アイルランドの女闘士と呼ばれたアニー・ベザント(1847-1933)もこの協会に属し、一時期ショーの愛人であったと伝えられる。後にマダム・ブラバッキーを慕ってインドに行き、第二代神智学協会会長となる。神智学協会初代会長は、通称、オルコット大佐。
神智学協会は、インドやスリランカの民族主義運動と呼応していた。
インド初代首相ジャワハルラール・ネールの父モーティラールも弁護士で、やはり国民会議派の活動家であったが、神智学に傾倒し、ベサントと知古を得た。ジャワハルラールはケンブリッジ大学に留学し、1912年、イギリスで弁護士の資格を得て帰国する。フェビアン協会やアイルランド独立闘争、婦人参政権に興味を持ったようだ。帰国後はアニー・ベザントの側近として自治連盟で活躍する。
第一次世界大戦(1914-18)にインドは派兵してイギリスに協力し、その見返りに自治を要求したものの、イギリスは応じなかった。
ベザントらは1916年に自治連盟を結成してイギリスに抗議活動をする。それが次第に、インドの民族主義運動を統一するような動きになる。1917年、ベザントがインドの独立を求める活動のなかで逮捕されたとき、タゴールはイギリス政府を非難し、ベザントの釈放を求めた。

さて、小学校の頃、創刊間もない少年マガジンには読み物があり、そこに時々、ブラバッキー夫人とオルコット大佐の神秘的な話が載っていた。矢追純一の記事だったのではないか。また、チベット人は舌を出して挨拶するという豆知識も載っていた。実際にチベットの田舎で、おばあさんが舌を出すのを見て、やっぱり本当だったのかと思ったものだ。

言葉が淑女を作る

「マイ・フェア・レディ」とは、下町の花売り娘イライザ・ドゥーリトルを淑女に仕立てる話だ。およそ四十歳くらいかと思われるジェントルマンの音声学者ヒギンズ先生は、街の人の話し言葉を聞くだけで、どの地区のどの通りの出身か分かってしまう。プロフェサーと呼ばれるが、大学教授ではなく、通称、尊称だ。
正しい英語の発音と言葉遣いを教えるのを生業としていた。イギリスの金持ちはチューターを雇って子供の教育をしていた。この二人はロマンスに発展するかと読者、映画の観客に期待させる。
イライザのコックニー訛りを矯正して、六ヶ月で立ち居振る舞いまで公爵夫人にしようという計画だ。有名な台詞は、「ザ・ライン・イン・スパイン・スタイズ・マインリー・イン・ザ・プライン←The
rain in Spain stays mainly in the plain」である。他にも下品な言い回しが多用された。

インドでもケーララ州のマラヤーラム語などは、カーストによって身体や親族名称などの基礎語彙が違うというクンジュニ・ラージャの論文を、三十数年前、マドラスのアディヤール・ライブラリーで読んだ。クンジュニ・ラージャは当時、神智学協会の図書館長で、サンスクリット詩文学の研究者、上村勝彦の恩師であった。

脇役にピッカリング大佐が登場する。軍人としてインドに赴任したというが、これもカーネル・サンダースのように、大佐はただの敬称かもしれない。実は、ハロー校からケンブリッジ大学に進んだ言語学者で、著書に『スポークン・サンスクリット』があるという設定。そう、サンスクリットを話せるのだ。二人は出会うや音声学やインドの言語の話に熱中する。まあ、変人だ。われわれの仲間だ。
インドにある言語は二百とも三百ともいわれ、どこまでが方言でどこから別の言語になるのか難しい。また、1961年の国勢調査によると、サンスクリット語を自分の母語として答える誇り高きパンディットが2544人いた。今ならその十分の一位だろうか。

高校の時、世界史の教師が印哲、サンスクリットを勉強するのは天才だといっていた。わたしは天才ではないが印度哲学史を専攻することになってしまった。回りに、変人はいくらでもいるが天才はいなかった。
事実としては、19世紀には植民地経営の必要もあって、言語学、比較文法学、インド・イラン研究、東洋学が花形であり、天才的な学者が何人も出て発展したということだ。今でいえばiPS細胞や遺伝子工学みたいなものだ。そこから人類の、いやアーリア民族のルーツと伝播が分かるのではないかと夢想した。

大英帝国

中華三昧というインスタント・ラーメンがあって、発売当初、中華三千年とか宣伝していた。中国の三千年もインド四千年も嘘だ。インドは1947年に成立した国である。それ以前は、英国王が統治する植民地だった。
英国とか大英帝国という言い方も曖昧でBritish
Empireという。19世紀後半から、国王はグレートブリテン及びアイルランド連合王国王兼インド皇帝ということになっていた。
1857年、セポイの乱を鎮圧して、東インド会社がインドを経営している形から、58年にはムガル皇帝を廃位とする。インド統治法によって、東インド会社ではなくイギリス政府が直接、インドを統治することになる。さらに、ヴィクトリア女王が1877年にインド皇帝を兼ねることになった。インド総督は副王として支配した。

日本語でいうところのイギリスはEnglandのポルトガル語訛りだという。ヒンディー語ではアングレージー。イギリス人が外人さんの代表だったので、インドにいたとき、眼鏡をかけているとアングレージーだけど、眼鏡をとるとジャパニだと子供たちにからかわれた。
この国も階級社会で、ごく少数、一パーセントの上流階級の貴族がいて、彼等は爵位を持つ。広大な土地、一万エーカー以上を所有しているので働かなくてよい。
スポーツの発祥も、サッカーやラグビーなどイギリスの貴族が19世紀末から20世紀初頭にルールを成文化したことによる。名門校同士で統一ルールによって試合をしようということだった。ラグビーはその名の通り、ラグビー校発祥だ。
十九世紀の終わり頃、一万エーカーで一万ポンドの年収とされる。爵位を持たない土地所有者はジェントリーの階層だ。中流は約二割を占めるが、かなり幅が広い。平均的な三千エーカーの土地を持つジェントリーの年収は三千ポンド、小地主の収入が千ポンド程度とされる。

彼等は、ハロー校、イートン校、ラグビー校などのパブリック・スクールからオックスフォード大学、ケンブリッジ大学に進学して、高級官僚、軍人、法廷弁護士など法律家、内科医、大学教授、聖職者などになり、蓄財して土地を買い上流に近づこうとする。
欧米の古い名門大学は、もともと神学校であり、聖職者の師弟が多かった。教育は数学や音楽もあるが、ギリシア語、ラテン語など古典人文学が中心であった。
ちなみに、イギリスのパブリック・スクールとは公立ではない。必ずしも全寮制ではないが、あのハリー・ポッターの通ったホグワーズ魔法学校のようなイメージである。
そして、人口の八割を占めるのがビートルズのような?労働者階級だ。彼等も一所懸命外貨を稼いで働いて爵位を得た。奴隷貿易をしていた時代には奴隷もいたが、これはいわないことになっている。ビートルズで有名になったリヴァプール港がその窓口で、オークションが立ったという。

三角貿易

世界史の授業は嫌いだったが、少しは役に立った。古くからイギリスは、中国から大量の紅茶を輸入していたが、それに対する輸出品がないので、当時の世界通貨である銀で支払っていた。これでは当然のことながら、足らなくなる。
もともとイギリスはインドの綿製品、キャラコやモスリンを輸入していた。産業革命によって、逆にイギリスから工業製品である綿の衣料をインドに輸出するようになり、インドの家内工業は壊滅した。インドでアヘンを栽培させて、それを中国に送り、中国からは紅茶を輸入するという三角貿易が出来た。アメリカ独立後、危機に瀕したイギリスが第二次大英帝国時代を迎えることになった。
奴隷貿易もアヘンの輸出もひどいものだった。西アフリカでは二、三ポンドで奴隷を買い、プランテーションのある西インド諸島で十倍で売る。プランテーション経営者はアフリカから安い労働力を手に入れ、砂糖を栽培してイギリスに売るという三角貿易を十七世紀半ばからやっていた。紅茶を大量に飲むので砂糖が必要だった。
大航海時代の始まりと東インド会社
リスボンを出発したヴァスコ・ダ・ガマの船団は、喜望峰を越えて、1498年5月マラバール海岸のカリカットに到着している。ケーララ州は胡椒の産地として古くから知られ、その頃、ポルトガルが香料貿易をほぼ独占していた。新興のオランダとイギリスがそれを追いかける。
日本には1600年にオランダ船リーフデ号が現在の大分県に漂着している。船員の中に三浦按針こと、イギリス人のウィリアム・アダムズがいた。

同じくイギリス人のキャプテン・ドレイクは、1577-1580年、マゼランに半世紀遅れて二度目の世界周航を果たした。探検しながら他国の船を拿捕し、略奪する海賊である。オランダ勢は1596年ジャワに達し、1599年7月にファン・ネック指揮の船体が大量の胡椒を持ち帰り、400パーセントの利益をもたらしたという。オランダの方が胡椒等の貿易で先んじていた。
競って胡椒の買付価格が高騰すると共倒れになるので、オランダでは14の貿易会社を統合し、連合東インド会社を1602年3月に設立する。世界最初の株式会社といわれ、株主は有限責任であった。
イギリス東インド会社は1600年に設立される。香料貿易を目指したが、オランダ東インド会社の方がインドネシア方面を押さえたので、インドに向かって、綿や絹製品を扱うようになる。

東インドというのは、西ヨーロッパから船で出て、喜望峰から東、マゼラン海峡より西を指すので、インドばかりか東南アジア、中国から日本まで入ってしまうことになる。
大航海時代が始まると国王や貴族、金融業者、富裕な商人が出資して貿易船を出したが、リスクが高い。博打のような高リスク高配当だった。
東インド会社とか株式会社というと、今日的な整然としたホワイトな会社かというとそんなことはない。商館を建てるだけでなく、要塞を築く権利、総督を任命する権利、兵士を雇用する権利、現地支配者と条約を結ぶ権利を持ち、後には徴税権まで得る準国家的な存在だ。
国家といっても今日的な姿ではなく、航海法も国際法もないので、貿易船といったら海賊すれすれである。紛争中の他国の船を拿捕して荷物を略奪するのは当たり前だった。徳川幕府もポルトガル船を襲撃するオランダ船をどう裁いたらいいのか苦慮していた。

ヒギンズ先生のモデル

さて、話を戻そう。プロフェッサー・ヒギンズにはモデルがいる。もちろん、何人かの人物を頭に置きながらキャラクターを設定するのだろうが、蓋然性が高いのは音声学者のヘンリー・スイートとされる。
1901年にオックスフォード大学のリーダー(助教授相当)になるが、教授にはなれなかった。ドイツのハイデルブルグ大学で著名な言語学者ヤコブ・グリムに出会う。民話を採集したグリム兄弟の兄だ。
24歳でオックスフォード大学に進み、29歳で言語学会会長に就任する俊英だった。純真ともいわれるが、社交性に欠けたという。思わぬ言葉で人を傷つけることがあったらしく、ビター・スイート(辛口のスイートさん)と呼ばれていた。天才にありがちなある種の発達障害だったのではないか。指導を受ける学生は少なく、評判を知らない留学生が多かったようだ。その中には広辞苑の編集者新村出がいた。
ヒギンズ先生は貴族ではないが、十人も召使いを雇って大邸宅で悠然と暮らし、上流社会との付き合いもあった。

1783年、ベンガル最高法院判事としてカルカッタに赴任したサー・ウィリアム・ジョーンズ(1746-1795)のことも、ショーの頭にあったことだろう。ハロー校でギリシア語、ラテン語を学び、オックスフォード大学でアラビア語、ペルシア語を学んだ後、法学校に学び弁護士資格を得る。ムガル朝のインドではイスラーム法が行われ、ペルシア語が公用語だった。当時の中流階級、上流貴族の下の方はインドに出稼ぎに行く。
ヒンドゥー法研究のため、「マヌ法典」等を読むためサンスクリットを勉強し、文学好きからカーリダーサの「シャクンタラー姫」、ジャヤデーヴァの「ギータゴーヴィンダ」を英訳した。
また、自ら創設したロイヤル・アジア協会で「ラテン語、ギリシア語とサンスクリット語を遡ると同じルーツにたどり着くのではないか」と発表し、比較言語学発展の契機となった。後に、シュレーゲル、フランツ・ボップ等が比較文法学を発展させる。

イギリスの文化政策

H.H.ウィルソンは東インド会社の医師として長くインドに滞在した。1811年から1833年までアジア協会の会長を務め、その33年にオックスフォード大学の教授となる。1850年にサンスクリット語の文法書を出し、その後、リグ・ヴェーダの研究を続ける。
丁度その時期、東インド会社は現地採用の官僚、書記、通訳等養成のための学校を作り、英語教育に力を入れるようになる。キリスト教の団体もミッション・スクールを設立する。
伝統的なサンスクリット語やヒンドゥー教の教育から現地エリート養成のための教育に変化し、教養のある富裕層はイギリスに留学するようになる。図らずも植民地支配の一翼を担うことになってしまう。

1834年、トーマス・マコーレーが官僚としてインドに赴任し、文化工作を行う。牧師の家の出身で、ヒンドゥー教からキリスト教へと改宗させるのが使命と思っていた。一般大衆から宣教するのは難しいので、まず、エリート層に英語教育をして、イギリスのジェントルマン風を身につけさせ、大衆とエリートを分断して統治しようと考えた。いわく、
「大衆を教育することは不可能だが、血と色はインド人でも、趣味、考え方、道徳、知性においてイギリス人である人々を作り出すことは出来る。そうすれば、教育はそれらの階級から大衆へと浸透していく」
マイ・フェア・レディならぬ、マイ・フェア・インド人養成作戦という賭けに勝ったようだ。

また、1853年には、東インド会社特許状法が制定される。それまで、コネや推薦によって採用されていたインド高等文官を公開の学力試験によって任官しようということで、55年から競争試験が行われた。この改革にもマコーレーが指導的な役割を果たした。世界で最も公平で優れた制度とされた。
学力によって決めるので、インド人を排除するものではなかったが、留学してイギリス人同様の教育を受けた者でないと合格は困難だった。
最初のインド人合格者は、詩聖タゴールの次兄ショッテンドロナト・タゴール(1742-1923)であった。ロンドン留学中に合格している。まさに秀才中の大秀才だ。チャンドラ・ボースも1920年に合格したが、英国の植民地支配の手先になるのはいやだということで、辞退したとされる。イギリスの秀才たちも成り上がりを夢見て予備校に通って受験した。
任官するとおよそ三千ポンド、イギリスの中流程度の年収が得られたようだ。それ以上に私腹を肥やして成り上がることを秀才たちは夢見ていた。

マックス・ミュラーのヴェーダ学研究にはスポンサーがいた

マコーレーはインドでのミッションを果たし、イギリスに戻るとH.H.ウィルソンと接触し、マックス・ミュラーを紹介される。1854年2月、三十二歳のミュラーに会う。
ヒンドゥー教、バラモン教の第一の聖典であるヴェーダをイギリス統治に都合のいいよう利用してくれと頼んだのであろうか、二人は長い間話し込んだようだ。東インド会社はそのために十万ルピーを用意し、ヴェーダ学研究は受け継がれていく。
オックスフォード大学でミュラーの後任はマクドネル。大学時代、彼の辞書を最初に買ったと思う。バナーラスとラホールには大学が作られ、バナーラスの校長にはグリフィス、ラホールの校長にはウールナーが就任する。この辺の大先生の著作は研究室にゴロゴロしていて懐かしい名前である。すっかりご無沙汰してました。
成績優秀なインドの生徒には奨学金を与えて留学させ、マックス・ミュラー流を布教する。デリーにはマックス・ミュラー会館があるほど尊敬されている。留学時代の哲学科教授もミュラーを信奉していた。
さて、マックス・ミュラー(1823-1900)の父は、シューベルトの「冬の旅」を作詞した有名な詩人であった。その子も壮大なロマンを抱く詩人だったのだろう。
26歳でドイツからイギリスに渡り、27歳の時にオックスフォード大学から近代文学と言語の講義を依嘱される。
オックスフォード大学のインド学には、サンスクリット語辞書で有名なモニエル・ウィリアムズが教授として就任し、ミュラーは比較文献学の教授となる。二人は犬猿の仲であったという。
ちなみに、ベルリン大学におけるインド学講師の座は二歳年下のアルブレヒト・ヴェーバー(1825-1901)が獲得した。フランツ・ボップに次いで第二代の教授となる。門下には欧米のそうそうたる学者が連なり、ヘルマン・ヤコービの弟子に日本から留学した金倉円照がいるというような関係だ。当然、ポスト争いに敗れたミュラーは、快くは思っていない。

ミュラーはインドには行っていない。現実のインドは嫌い、あるいは興味がなく、やはりキリスト教によって未開のインド人を文明化すべしと西欧優位に考えていたようだ。インド古代の壮大なロマンを描いていたのだろうが、比較言語学から、比較神話学に発展し、この辺は怪しくなる。
彼の企画した東方聖典(Sacred Books of the East)全51巻は東洋学の金字塔である。これも東インド会社のおかげか。イギリスに帰化し、オックスフォード大学の美術史教授、高名な批評家のラスキンの娘と結婚している。
サンスクリットはアーリア人の言語であり、ギリシア語など言語が同一の所に遡るのなら、人種としても、インド人とヨーロッパ人、ドイツ人もアーリア、高貴な者というように誤解、曲解してナチスに悪用された。
リグ・ヴェーダの解釈についても作為的とインドの伝統的な学者、サーマ・ウェーダの伝承をする家系のパンディット、アーリア・サマージの創始者ダヤーナンダは批判している。

一般的、教科書的なインド・アーリア人の征服説は、次ぎのようになる。
「戦車に乗った遊牧民の神インドラが、色の黒いダシューと呼ばれる土着農耕民の五万の兵士、砦と灌漑設備を破壊し、彼らを征服した。ダシューはインダス文明の担い手であったが、南に逃れた彼らはドラヴィダ人として今に続いている」
堀は以上のようにマックス・ミュラー流のイギリス人の理解をまとめ、かつ、それが成り立たないことを考古学的に検証している。

第六回「インドを夢見た僧侶たち」に記したように、ミュラーの元では南条文雄、笠原研寿が学び、師と共に『無量寿経』『阿弥陀経』を校訂出版している。寧日なく不眠不休で梵本を手書きで写した笠原は体調を崩して帰国し、三十二歳で夭折している。
ミュラーは笠原のやり残した仕事を受け継ぎ、さらに、ロンドンタイムズに追悼文を載せた。南条は八年留学し『大明三蔵聖経目録』を学位論文として提出する。日本における近代仏教学の初めの大きな一歩だった。
考えてみれば、東大や京大などに印度哲学史の講座があるのは不思議なのだが、明治時代にオックスフォードやケンブリッジの古典学重視の伝統を引き継いだためだろう。
今世紀に入って、日本でも欧米でも、インド学や仏教学の講座がなくなってきている。教養より実学、基礎学問よりすぐお金になる応用学ということらしい。
インド人のサンスクリット的な頭の構造はコンピュータに向いているらしいから、およそ役に立たないと思われるインド学、インド哲学やサンスクリット語が、基礎学問として重視されるといいなと思う。

参考文献

浅田實『東インド会社』講談社現代新書、1989年。
我妻和男『人類の知的遺産/タゴール』講談社、1981年。
津田元一郎『アーリアンとは何か』人文書院、1990年。
東洋文庫編『東インド会社とアジアの海賊』勉誠出版、2015年。
西村実則『荻原雲来と渡辺海旭』大法輪閣、2012年。
堀晄『古代インド文明の謎』吉川弘文館、2008年
本田毅彦『インド植民地官僚』講談社選書メチエ、2001年。
米倉綽編著『講座「マイ・フェア・レディ」』英潮社、2005年。

河野亮仙 略歴

1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職
専門 インド文化史、身体論

更新日:2018.11.10