布が語る文明史──インド更紗からAI時代へ
2025年10月、家族で東京ステーションギャラリーを訪れた。
「カルン・タカール・コレクション インド更紗 世界をめぐる物語」、これは、インド更紗を体系的に紹介する、日本初の大規模展である。
展示室に入ると、白地に咲く赤い花と、飛び交う虫たちの姿が布の上で息づいていた。
その有機的な線の一つひとつが、遠い交易路や職人たちの祈りを思わせた。
カルン・タカール氏のメッセージには、こうある。
「おそらく更紗は、世界初のグローバル・プロダクトと言えるでしょう」。
私はその言葉を思い出しながら、大布の前でしばらく立ち尽くした。そのとき、私の中でインド国内で考えていた「文明と布」への思索が静かに目を覚ました。
湖のほとりで考えたこと
ラジャスタン州ウダイプールの湖畔には、3度訪れたことがある。
家族で滞在したホテルのテラスで食事をしていると、妻が言った。
「まるでヨーロッパのよう」。
私は少し笑って、「いや、むしろヨーロッパの方が真似をしたんだよね」と答えた。
実際、そうなのだ。
ウィリアム・モリスが19世紀ロンドンで生み出したアーツ・アンド・クラフツの花唐草も、リバティ社のブロックプリントも、その出発点はインドの更紗にあると言われる。
赤と藍のコントラスト、蔓草がうねる格子構図、花と果実が連なる生命的なリズム。
それらはすべて、17世紀にインドの職人たちが木綿に刻んだ模様の系譜に連なっている。
モリスのIndian Diaperは、その名に“インディアン”を冠しながら、インド布の蔓草文様を英国の庭園植物に置き換えた翻案であった。
リバティの多くのデザインも、その原型はインド洋交易を通じて渡ったブロックプリントにある。インドの職人が木版で一版ずつ押した文様のリズムを、イギリスの機械印刷が量産可能なデザインとして再構成したものだ。
2014年から2015年にかけて、私は家族とともにマンチェスターに暮らしていた。この街こそ、かつて世界の産業革命が始まった地であり、今もその記憶が街のあちこちに息づいている。
マンチェスター博物館やサイエンス・アンド・インダストリー博物館には、インドから輸入された布、機械化された紡績機、さらにはリバティ社の見本帳も展示されていた。
そんな街で暮らした一年あまり、モリスやリバティのデザインは、私にとってごく身近な生活の風景となった。
つまり、私たちが「英国らしい」と感じる柄の原点は、実のところアジアの科学と美の融合にあったのだ。
白亜の宮殿も、繊細なアーチも、光を反射する水の配置も、その源流を辿ればアラブやペルシア、さらにはインドの美意識に行き着くとも言われるが、ヨーロッパが“オリエンタル”と呼んで憧れたものは、アジアが生み出した知と技の結晶にその原点がある。
家族での2週間のラジャスタンからグジャラートへの旅の途中、私は「布」という存在に思いを馳せた。
私たちが日々着る服、その織り方、染め方、模様の背後には、人類の叡智と科学、そして哲学が凝縮されている。なかでも「インド更紗」は、その頂点にあると私は感じている。
家族でラジャスタン州サンガネールの工房を訪ねたときのことを、今もよく覚えている。
予約もなしに立ち寄った私たちを、職人たちは温かく迎えてくれた。
当時まだ小学生だった長女に、木版を手にブロックプリントを体験させてくれたのだ。
料金を求めるわけでもなく、ただ「見ていきなさい」と微笑みながら、版木を押す手つきや染料の加減を丁寧に教えてくれた。そのあと訪れたグジャラート州でも同じだった。
媒染や藍の発酵、泥による防染、職人たちは古代からの手仕事の工程を誇らしげに見せてくれた。彼らの村には観光地の喧噪はなく、乾いた風の中に穏やかな笑い声が響いていた。
欧米人の旅行者は見かけたが、日本人を見かけることはなかった。
これほどの技と人の温かさが息づく場所を、もっと多くの日本人が訪れるべきだと心から思った。
カッチ湿地の白いテント村では、夕焼けに染まる地平の向こうで、古代の技法と現代の感性が静かに交差していた。
世界を変えた美しい布
インド更紗、それは木綿に複雑な模様を染め抜いた布である。
赤、藍、黒、黄の色が重なり、草花や鳥が生き生きと描かれている。しかし、その美しさの真髄は「色」ではなく、実はその「科学技術」にあると考える。
サンガネールやグジャラートの工房で見た、あの鮮やかな発色の秘密こそが、数千年の知恵と科学が積み重ねられてきた証である。
17世紀、ポルトガルやオランダの商人がインドからこの布を持ち帰ると、ヨーロッパ人は熱狂した。
「洗っても落ちない!」「赤が光る!」「藍が深い!」
当時のヨーロッパでは、染料がすぐに色褪せ、布は灰色に沈んでいた。
彼らにとってインド更紗はまるで錬金術の産物に思えたという。
それは偶然ではなく、インドの職人たちは、インダス文明以来、数千年かけて染料と水、土、太陽の性質を見極め、自然と対話するように化学反応を操っていた。
媒染と呼ばれる金属イオンによる発色技法、発酵を利用した藍染、泥や糊や蝋で模様部分を保護する防染法、これらすべてに、現代の最先端ケミカルプロセスと変わらない精密な手法が多く用いられ、紀元前から世界と隔絶する高度な技術が確立されていた。
つまり、インド更紗とは、自然科学と芸術がひとつになった人類最古のサイエンスアートとも捉えられる。
インダス文明のDNA
では、なぜインドでそんな技術が生まれたのか。その答えは、遥か紀元前のインダス文明にある。
インド・グジャラート州のモヘンジョダロやハラッパー、ロータル等の遺跡からは、綿花の繊維や染料の壺等の痕跡が見つかっており、博物館に展示されている。インドは人類で最初に綿と染料を高度に操った文明だった。
インダスの人々は、都市を整然と設計し、排水システムを持ち、港湾を持ち、広い交易をするとともに、水の性質や化学発酵を理解していた。それらの知恵こそ、染織技術に繋がったのだ。
インダス文明の発展を支えたのは、観察と経験を積み重ねられた科学だった。
ヨーロッパが憧れたアジアの知
産業革命以前、ヨーロッパは布を十分に染めることができなかった。麻や羊毛は扱えても、木綿はうまく染まらない。だからこそ、インドの布は“魔法の布”と呼ばれた。
イギリス・フランス・オランダ等の商人たちは競って更紗を輸入し、女性たちはその色と模様に魅了された。やがて、ヨーロッパの職人たちは真似を始めたが、媒染や発酵の技術を生み出せず、精密な手仕事も実現できず、再現に失敗する。ついには“インド更紗輸入禁止令”まで出たほどだ。
そして18世紀、イギリスは方向を変える。
「ならばインドの手仕事を機械で再現してしまえ」と。
こうしてマンチェスターとリバプールの繊維工場が生まれ、世界初の産業革命が始まる。
皮肉なことに、産業革命の起点は、インド更紗への憧れだった。
「機械化」は、高度な手仕事への憧れから生まれたとも言える。
だが、そこには悲劇もあった。
イギリス東インド会社は、インド更紗の輸出を禁じ、現地の職人に機械織りの原綿を生産させるよう強制した。
手織り・手染めの職人は激減し、村々から歌と色が消えていった。
ガンジーが独立運動の象徴として「糸車」を掲げたのは、この悲劇を取り戻すためだった。
科学と美が再び出会う時代へ
インド更紗を前にすると、誰もが思わず息をのむ。
それは美術品としての美しさだけでなく、「人間が自然と共に生きていた時代」の記憶が呼び覚まされるからだ。
インド更紗の職人たちは、「美しい布を作ること」そのものが祈りであり、倫理だった。
化学反応も、色も、宇宙の循環の一部として理解していた。
その精神性こそ、いまの科学に最も欠けているものではないだろうか。
インドの染め壺、
日本の和紙、
中国の磁器、
それらはすべて「自然の物理を観察し、尊重し、共に生きる技術体系」だ。
これを“伝統工芸”という枠に閉じ込めず、現代科学や政策に統合することが、私たちの使命だと思う。
ある日、オールドデリーの路地にある布屋で、私は古い更紗の切れ端を眺めていた。
床には、どこかで見覚えのある柄――リバティやウィリアム・モリスを思わせる花唐草が並んでいた。
妻がそれを手に取り「これ、服にしてみようかな」と言うと、そばにいたインド人の女性が優しく笑って答えた。
「それはサリーにも使えますけれど、本来はお布団やソファ、家具を飾るための布なんです。」
その一言に、私ははっとした。
私たち日本人は、ヨーロッパを通じて“再輸入”されたインドやペルシアの文様を、「ファッション」として着てきた。けれど、その源流にあるアジアでは、同じ柄が「暮らしの布」だった。
つまり、私たちはいつの間にかヨーロッパ的な美意識を通して、アジアの文化を見てしまっていたのだ。
欧米がアジアの文様を“エキゾチック”として再構成し、それをまた東洋に“逆輸出”する。
私たちはその鏡像のなかで、「ヨーロッパ風のアジアらしさ」という幻想を受け取っていた。
それは浮世絵や柿右衛門様式にも通じる、異国趣味というフィルターを通して再定義された「東洋の美」だ。
けれど、あの布屋の一瞬のやり取りで、私は世界の見方が静かに反転するのを感じた。
西洋の価値観こそ普遍的に見えるが、その根にはアジアの知恵が息づいている。
ルネサンスを支えた中国に由来する三大発明にしても、「アルカリ」「アルコール」といった語源の通りのイスラム化学についても、またインドの高度な科学も、その礎を築いていたのだ。
そして、東京ステーションギャラリーの壁にかかっていた南インドの更紗。
赤や黒、黄や藍の発色は数百年を経ても褪せず、蝋で白を抜き、媒染で色を定着させる――
そこには職人の手技と化学の知が見事に融合していた。
それは単なる“伝統工芸”ではなく、人類が最初に手にしたテクノロジーの記憶そのものだった。
アジアとヨーロッパの文明を結んだのは、戦争でも条約でもなく、「布」だった。
インド更紗は、交易路を通じて人と思想をつなぎ、最終的に産業革命という“文明の再編”を導いた。
インダス文明が綿と藍で宇宙を描き、
産業革命がそれを機械で模倣し、
いまAIが再び模様を“生成”し始めている。
そして、その今後の行方の手がかりは、5000年前のインダスの染料壺の中に、すでに沈んでいるのかもしれない。
栗原 潔(くりはら・きよし)
2005年、文部科学省に入省。
科学技術政策、AI、データ戦略を中心に、経済産業省や環境省などでも勤務し、英国マンチェスター大学ビジネススクール留学。
2018年から2021年までは、3人の子ども(当時3歳〜12歳)とともに家族でデリーに暮らし、在インド・ブータン日本国大使館の一等書記官として日印間の連携推進に従事。滞在中にはインド国内21の州、24の世界遺産を訪れ、毎年ガンジス川での沐浴を欠かさなかった。
帰国後は内閣官房を経て、現在は文部科学省・計算科学技術推進室長として、次世代スーパーコンピュータ戦略の立案と推進に取り組んでいる。
更新日:2025.11.07
