導かれたodissiへの旅——花の宮祐三子インド留学記④

Dance Villageでの舞踊のレッスンは、まずはガウリ・マから直接習うことができた。

その後、日本でいう人間国宝に値するPadma Vibushan ケルチャラン・モハパトラ・グルジの息子さんである、ラティカント・モハパトラ=シブ・グルジから。

その後、ビチットラナンダ・スワイン グルジ=ビチ・グルジも来てくださった。。。

シブグルジは、パカワジというオディッシーならではの横叩きの太鼓を叩いては、ステップレッスンをしてくれた。とってもシビアな指導ではあったが、レッスンの合間には、私達生徒と共に、ふざけた格好をさせては写真をとったりなどジョークいっぱいの時間も過ごした。

 

シブグルジのアレンジによるユニークショー

 

また、時には、なんともありがたいことに、大御所ケルチャラン・モハパトラ・グルジ=バレグルジ(大きなグルジ)自体が何日か滞在して下さり、指導や、グループコンポジションをして下さった。(最後にして下さったのは、ラーマーヤナで、私は鹿の役だった!)

 

ケルチャラングルジにポーズを直してもらう私

 

彼の滞在時のとても貴重な思い出は、夕方、日が暮れてくると、毎日オイルランプに灯をともし、お線香を炊いてはパカワジや、マンジーラ(小さなシンバル)と共に、バジャンを歌ったこと。

彼の敬虔な姿や、巧みなパカワジ演奏、そして特にゴービンダ ゴービンダ ゴパーラナーデ♪とクリシュナ神を讃えたある一曲は、私の中のdevotionalな部分が鼓舞されてか、泣きそうになるくらいに大声で歌い捧げていたのが思い出される。

 

ケルチャラングルジによるレッスン風景

 

あと、堅苦しい日本人気質がひっくり返されたのは、ホーリー祭りの日。

色とりどりのカラーの粉や、水をみんなに思いっきり投げつけあい、挙句の果てには、ウォータータンクに飛び込む!のだった!!!!!

幼い頃から結構マジメ少女だったわたし。ここまで、ぶっ飛んだことをしたことがなかった。まさに青天の霹靂だった!!!

 

ホーリーで色とりどりに染め上がった私達

 

「言葉はどうしたの?」とよくきかれる。

インドの各地から来た生徒の中には、ヒンディー語を話さない人もいたため、私もいることだし、と英語を共通語にして下さったおかげで、日常生活のことばにはあまり問題がなかったのは、幸いだった。

また、ここでは、深い井戸からの安全な生水を飲むこともでき、インドに居ながらも、いろんな意味でとても楽に生活することができたのだ。

もちろん、たまには、生活慣習の違いから、ひとり取り残された感覚になり、さみしい思いをしたこともある。

しかし、私の夢を見てくれたというガウリ・マは、ある意味、私のインドでのお母さんのような存在だった。彼女は、他の人からマッサージを受けるのはあまり好まなかったといいながら、私のマッサージは、プロ並みだと気にいってくれて、ちょくちょく、彼女が寝ていたテントに夜、マッサージに行き、彼女が寝たのを見計らって自分の部屋に帰る、ってことをさせてもらった。

また、ケララ出身のナヤール・ジのお料理は、とても美味しかった。朝から、マサラ・ドーサ(スパイス炒めのじゃがいも入り米粉クレープ)や、ウプマ(セモリナ粉の卯の花みたいなもの)、イドゥリ(米粉の蒸しパン)+ココナッツ・チャトゥニ(ココナッツペースト)やサンバル(辛味スープ)などなど。。。

南インド料理は、小麦ではなく、米の文化。特に、ケララでは、ココナッツやバナナをたくさん使った料理で、わたしはとっても好きだった!

そんな訳で、未だに、やっぱり南インド料理派なのです。

 

ビチットラナンダ・グルジ達との食事風景

 

 

花の宮祐三子Hananomiya Yumikoプロフィール

大阪生まれ。本名 茶谷裕美子(Yumiko  Chatani

大阪府立天王寺高校、広島大学総合科学部(文化人類学)卒業。

’89年、中国・パキスタンを経てインドへ一人旅、’90年、故プロティマ・ガウリ女史によってバンガロール郊外に開かれたばかりのNRITYAGRAMThe Dance Village)にて、インド古典舞踊 odissi Padma Vibhushan 故ケルチャラン・モハパトラ・グルジや、ガウリ・マ等から住込みで修養。その後、瞑想と踊りの探究が続き、パートナーの住むスイスと日本を行き来する生活。様々なジャンルの音楽家とのコラボを含め、自然を感じ、魂の喜ぶ「舞い歌絵書き」も戯れ遊ぶ。インド・イギリス・スイス・アメリカなど、国内外での公演、寺社ご奉納、瞑想会や パートナーとの Inner touch ワークショップ等を行う。

更新日:2023.09.15