天竺ブギウギ・ライト⑲/河野亮仙
第19回 天竺ブギウギ・ライト
東洋への憧れ、そしてやって来たのは
ウプネカット
ムガル帝国第5代シャージャーハーンの長男ダーラー・シュコーは、帝位継承に破れる。弟のアウラングゼーブに処刑される2年前のこと、伝統バラモン学者パンディットや世を捨てた修行者サムニャーシンの力を借りて、ウパニシャッドのペルシャ語訳『大いなる秘密』を1657年に完成させた。
奥義書ともいわれるように、師から弟子へと伝えられる秘伝であるが、『大いなる秘密』にはウパニシャッドの解釈学ヴェーダンタの思想が紛れ込んでいたようだ。
フランス人のインド学者アンクティル・デュペロンによって、ラテン語に移されたのが『ウプネカット』(1801-1802)である。それを読んだショーペンハウアー(1788-1860)は、仏教やヴェーダンタ哲学を取り入れ自分の哲学を構築した。それはまたニーチェ(1844-1900)の『ツァラトストラはかく語りき』(1883-1885)に影響を与える。インド哲学と西洋哲学の邂逅であった。
インドの芸術への関心からインド舞踊に
詩聖カーリダーサの『シャクンタラー姫』は、1789年ウィリアム・ジョーンズによって英訳され、各国で重訳される。それを絶賛したのがゲーテ(1749-1832)で『ファウスト』の序に影響を与えたという。
仏教学者でパーリ語聖典協会を設立したリス・デイヴィッズは、裁判官として、1866年、イギリス領セイロンに赴任したが、上司の方針と合わず帰国。1877年に『仏教/ゴウタマ・ブッダの教えと生涯の素描』を著した。
その影響を受けてエドゥウィン・アーノルドは、仏陀の生涯を描いた長編の詩『アジアの光』を1879年に発表し、ベストセラーとなった。
アーノルドは、1856年、プーナのサンスクリット・カレッジ(後のデカン・カレッジ)に招かれ、5年間、校長を務めた。『バガヴァッドギーター』『ギータゴーヴィンダ』も翻訳している。1889年に来日し、再来日した1892年には愛宕の青松寺で講演し、日本の仏教会とも関係が深かった。
ロマン・ロラン(1866-1944)は『ラーマクリシュナ伝』『ヴィヴェーカーナンダ伝』『マハトマ・ガンジー伝』を著している。インドの文化・芸術を賛美していた。ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)は、釈尊伝『シッダ-ルタ』(1922)を著した。
西洋ではこのようにインド文化への関心が深まり、オリエンタル風味のバレエでは飽き足らなくなっていた。そこへ1920年代、颯爽と登場したのがウダエ・シャンカルである。まさに動くインド彫刻、踊る仏像だった。「インド人によるインド舞踊」に注目が集まる。
オリエンタル・ダンスからインド舞踊に
オリエンタル・ダンスについては以前にも書いた。先頃、三菱一号館美術館にて『異端の奇才ビアズリー展』が開催されていた。ビアズリー(1872-1898)はオスカー・ワイルド作『サロメ』に衝撃的な挿絵を描いたことで知られる。そこには日本趣味、中国趣味も見られた。
1900年、ロイ・フラーは第5回パリ万博で、自分の劇場を構えていた。そこに川上音二郎一座が出演し、貞奴が大変な評判を取ったことはよく知られている。
ロイ・フラーは電飾を施したスカートを翻し、棒を付けたスカートをバタバタさせて踊り、パリ中の芸術家たちの創造意欲を掻き立てた。時はアール・ヌーボー。そこで「サロメ」を上演し、それに刺激を受けて、ジョルジュ・ドゥ・フールやロートレックは舞姫サロメの絵を描いた。
ロイ・フラーに続いてモード・アランは1906年、ウィーンで「サロメの幻影」を初演した。イダ・ルービンシュタインは1908年にミハイル・フォーキン振り付けで「七つのヴェールの踊り」を披露している。
https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%80%e2%91%ab/
前述のように、ウダエ・シャンカルはラヴィ・シャンカルの生まれた1920年、父と共にロンドンに渡り、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートで学ぶ。師事する画家ウィリアム・ローゼンシュタイン(1872-1945)は、1920年から1935年まで学長を務め、1931年にはナイトの称号を得たセレブである。タゴールはローゼンシュタインに『ギータンジャリ』を捧げている。 https://www.aflo.com/ja/fineart/search?k=%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3&c=AND
ロイヤル・カレッジ・オブ・アートの前身である、サウス・ケンジントン・デザイン・スクールを卒業して23歳でインドに渡ったのが、美術史家、建築史家のアーネスト・ビンフィールド・ハーヴェル(1861-1934)。1884年、マドラス美術学校の校長となる。
日本では、お雇い外国人で建築学のジョサイヤ・コンドルが1877年(明治10年)に25歳で来日し、工部大学校(後の東京大学工学部)において建築教育を始める。フェノロサは、その翌年、政治学、理財学(経済学)を教えるために招かれ25歳で来日。インドも日本も同じ時代の波に乗っている。
インドではマドラス管区、カルカッタ管区、ラホール管区のそれぞれに美術学校が造られて、ハーヴェルは1896年、首都カルカッタの美術学校の校長となる。
ラホールではジョン・ロックウッド・キプリングが美術学校の校長になる。彼の息子が、1907年にノーベル文学賞を得た、「ジャングル・ブック」「キム」で知られるラディヤード・キプリング(1865-1936)。ショーン・コネリー主演の映画『王になろうとした男』の原作もラディヤードである。キプリングの作品には19世紀インドの香りがあって、とても面白い。
インド美術の理想
ハーヴェルは西洋の美術を教えるというより、インド美術の素晴らしさを讃えた。西洋で、ガンダーラの彫刻やインドの建築はギリシア・ローマの影響を受けて派生したものと見られていたが、その独自性、高い精神性を認めた。
ラビンドラナート・タゴールとも親しくし、岡倉天心と志を同じくした。ハーヴェルと天心が共に熱く語り合うことはあったのだろうか。彼の著書『インド美術の理想』(1911年)というタイトルは、まさに岡倉の『東洋の理想』の影響を受けたようだ。カルカッタ博物館の館長を務めたときには、出来のよくない西洋画を引っ込めてインドの美術作品の展示に切り替えたという。
日本は日本で文明開化、西洋化一辺倒の時代に、伝統的な日本美術、日本文化の価値を認めて、天心は復興運動、リバイバルを志した。
それに先立つ1873年(明治6年)のウィーン万博や1876年(明治9年)のフィラデルフィア万博では、日本の美術工芸品が高く評価されて収益をあげた。廃仏毀釈の頃、寺は壊され日本の工芸品、古美術品が二束三文で外国人に売られていた。
明治9年、工部省工学寮内に工部美術学校が設立されると、画家、彫刻家、建築装飾家の3人がイタリアから招かれて11月から授業が行われた。世界に先駆けた男女共学の学校でもあり、殖産興業を発展させ西欧のような近代的都市空間を創出しようという企みだったが、明治16年に廃校となる。
明治10年には上野で内国勧業博覧会が開催され、45万人の動員があった。ウィーン万博同様、ゴットフリート・ワグネル博士が顧問を務めたが、あまりに急速に油絵に移行するのが日本の美術産業にとって良いことなのかと疑問を呈し、水墨画など日本の古画の伝統を守るべきと主張した。この後、急に国粋文化の保護推奨に舵が取られる。
日本の伝統に回帰
東京大学のお雇い教師フェノロサの龍池会での1882年(明治15年)の講演が「美術眞説」というパンフレットにまとめられて全国に流布した。龍池会というのは官僚を中心に日本美術の振興を図ろうという国粋主義的な団体である。
そこで日本画が油絵より優れていることを力説し、狩野派に光を当てた。フェノロサとビゲロウ、モースの三人は東海道を旅して古美術を収集した。フェノロサは絵画2000点を集めて流派ごとに整理した。助手、通訳として同行したのが岡倉天心である。
ウィリアム・スタージス・ビゲロウはアメリカ人の医師で、その1882年に来日。いわゆるボストン・ブラーミン、血筋の良い大金持ち。フェノロサと共に三井寺法明院の桜井敬徳の元に受戒して仏教徒となる。二人の墓も法明院にある。ビゲロウは桜井阿闍梨が心配するほど熱心に修行した。収集した三万枚の浮世絵はボストン美術館に納められている。1877年(明治10年)に来日したアメリカ人の動物学者エドワード・シルベスター・モースは、大森貝塚を発見したことで知られる。
天心は明治13年、17歳で東大を卒業し、文部省音楽取締係、伊沢修二の元に配されるも、西洋中心の伊沢とはそりが合わず、明治15年には専門学務局に転じて美術制作を担うようになる。明治20年、東京美術学校と東京音楽学校の設置が告示される。後に東京芸術大学に発展するが、美術部門は日本画のみの専攻となった。
天心の最初の著作である『東洋の理想』は1903年(明治36年)にジョン・マリー社から出版されている。ハーヴェルは、1902年4月から著作のため一年ほどロンドンに戻っている。1908年に最初の著書『インドの彫刻と絵画』を出したが、主著である七部作はすべてジョン・マリー社から出版されている。
http://www.kamit.jp/15_kosho/26_tenshin/xeast_04.htm
ロンドンでハーヴェルは、10歳年下であるウダエの師ローゼンシュタインにインド芸術の素晴らしさを吹き込んだのだろうか。
欧化政策と演劇改良運動
明治4年、岩倉具視を全権大使として木戸孝允、伊藤博文、大久保利通らと共に、不平等条約解消のためアメリカに渡るがうまくいかない。そして、ロンドン、マルセイユへと。留守にした日本では西郷隆盛が征韓論を唱えるので、それを押さえるために明治6年、岩倉は呼び戻される。その頃、自由民権運動が盛んとなり、国会開設、憲法制定、不平等条約改正が求められ、壮士の演説会が行われた。
岩倉一行は、夜毎のようにオペラハウスで観劇をした。岩倉はそこで王侯貴族が正装して観劇しているのを見て、日本においてもこのようにあるべしと思った。お公家さんや大名、武士が嗜んできたのは格式が高い能楽なので、明治9年4月4日に天覧能を企画し実行した。
それはそれで成功したのかもしれないが、庶民の世界で演劇といえば歌舞伎である。新聞ネタの現代劇も歌舞伎の様式で行われていた。明治10年の西南戦争も、官軍は洋式だが西郷軍は和服に胴丸や小手、すね当てという江戸時代そのままの姿なので、翌年には歌舞伎として上演された。
明治5年、東京府長から歌舞伎の三座に対してお触れを出した。開国によって外国人(当時は偉い人しか来日しない)も増えていることだから、より上品かつ親子で楽しめるものを上演すべきだ。教育上、史実と異なるものは好ましくないと。
明治9年1月、中村宗十郎は演劇改良、興業改革の意見を発表した。欧化政策が採られると、歌舞伎のように史実に基づかない、荒唐無稽な話を上演するのはけしからん、欧米で演劇は紳士淑女の嗜みであるから、倣うべきだと改良運動が起こる。
鹿鳴館時代
井上馨の進める欧化政策が開始される。猟奇的、下品なものを廃して模範的な高尚なものを創り、作家や役者の地位を高め、小屋がけではなく西洋式の立派な劇場を建て、そこを社交場としようと考えた。まず、上流階級から西洋の真似をしようとした。
ある意味、隠微な江戸文化を薩長土肥の田舎侍が嫌って、西洋を範としようと考えたのだった。
明治16年になると鹿鳴館が創立され、夜会や仮面舞踊会が繰り広げられた。19年に演劇改良会が末松謙澄によって設立され、井上馨、伊藤博文、大熊重信、西園寺公望、渋谷栄一、森有礼らの有力者が名を連ねるが、演劇界からは一人も入っていない。上からの改革はうまくいかない。
明治20年(1887年)に外相だった井上馨邸で初めての「天覧歌舞伎」が催された。一流の国には一流の芸術があってしかるべきだ、悪所の歌舞伎を世界の歌舞伎に仕立てようと志した。
演劇改良運動は、インドにおいてさげすまれていたデーヴァダーシーや遊女の踊りを芸術に仕立てようという企てに先駆けること40年。しかし、そこに歌舞伎界からは市川團十郎が参加したくらいだった。西欧化が行き過ぎて女形や花道、後見を廃止するとか、台本を文学的で高踏なものにするとか現実離れした考え方だった。結局、近代的な劇場を建設するということ以外、上からの改革は失敗に終わった。
一方、天心は演劇改革運動にも関わっていた。明治22年、坪内逍遥、森田思軒と演芸協会を設立し、その文芸委員の中には森鴎外、尾崎紅葉も名を連ねた。守田勘弥、九世團十郎、五世菊五郎も賛同した。天心はオペラの戯曲『The White Fox』を書いているので、歌舞伎の台本も構想したかもしれない。ここでもタゴールと一脈通じるところがある。
森鴎外、幸田露伴、坪内逍遥らが歌舞伎を手がけた。明治23年に東京美術学校校長となった天心は、森鴎外にデッサンの基礎である解剖学の講義を受け持たせた。
どこにいても異端児
そんなところへ忽然と現れたのが、壮士芝居の川上音二郎である。元治元年元旦、博多に生まれたガンガン男。14歳のとき家出して大阪行きの汽船に潜り込み大阪に出る。ついで東京に出ると芝増上寺に拾われて掃除と使い走りをやった。お経は習っておくと何かと役に立つ。生没年やその伝については諸説ある。
芝公園を散歩している福澤諭吉と出会う。慶應義塾の学僕、つまり、給仕・小間使いをしつつ、月謝・食費が免除され働きつつ学ぶ。おそらく英語も習ったのだろう。その後、巡査などもやったようだ。
19歳で名古屋の寄席、花笑亭で演説をしていると、20歳未満の演説は禁止ということで、中止させられる。その後も京都南座などで演説をしては逮捕される。逮捕されるたびに有名になり、客が増える。
歌舞伎の中村宗十郎に心酔していたので近づいたのだが、何故か京都新京極阪井座の中村駒之助一座に参加して役をもらう。端から見ると行き当たりばったり、でたとこ勝負の人生だ。転がり続け、転んでも転んでも、ただでは起きないというキャラクターだった。
元々、紺屋の旦那である父の専蔵は、河原崎権十郎を贔屓にしていたので、一緒に東京に出て門弟にしてもらえるよう願い出た。自由民権運動をやっていたのに巡査となるとか、歌舞伎と相容れない壮士芝居とか矛盾したことを平気でやる。
オッペケペーの音二郎一座
音二郎は、もとより歌舞伎役者になるつもりもなく、改良演劇とか、改良落語とかいっていて、歌舞伎という枠から外れている。いや、あらゆる枠から外れて当意即妙、変幻自在だった。
明治22年、26歳でオッペケペー節を始める。「オッペケペー、オッペケペー、オッペケペッポー、ペッポッポー」と唱えつつ節を付けて演説する。一時期、日本中で流行った。演劇の範疇を超え、後から考えると音二郎は「現代劇」の創始者となって演劇界に大きな影響を与えた。
そして、明治26年1月、興業をすっぽかしてフランスに高飛びする。第一回の外遊では一ヶ月ほど滞在してフランスの演劇を学んだ。
どういう伝手かというと、おそらく伊藤博文の縁だろう。芳町(今の人形町)の芸者奴を水揚げし、妾とする。西園寺公望とも懇ろだったようだ。後に音二郎は奴を妻とし、本名が貞だったので貞奴という名の女優にする。抜群の器量の女性だったのだろう。貞奴は、押し出しの強いグラマラスな美女ではなく、しなやかでしっとりした別の美の基準、引きの美学を示した。また、音二郎は男前ではないものの愛嬌があって、もてたようだ。
当時の日本で女優は希で、日本初の女優ともいわれる。1900年(明治33年)、マダム貞奴はパリ万博で、日本のサラ・ベルナール(アルフォンス・ミュシャのモデル)と絶賛されたが、それを聞いたベルナールは不満で、貞奴をこきおろした。それは靴と雪駄を比べるようなもので、土俵が違う。
アンドレ・ジイド、イサドラ・ダンカン、ピカソらが貞奴の姿を見るため劇場に足を運び、ロダンは彫刻のモデルになってくれと頼んだが、ロダンって誰?という感覚だった。ピカソが貞奴をモデルにしたデッサン、ロイ・フラーの電気仕掛けの映像も以下に取り上げられている。貴重映像だ。ロイ・フラーもベルナールも歴史に残る文化人と交流したセレブだった。今年の大阪・関西万博からも新たな伝説が生まれるだろうか。
https://ameblo.jp/pheme-japan/entry-12124022343.html
参考文献
井上理恵『川上音二郎と貞奴』社会評論社、2015年。
岡倉登志『岡倉天心の旅路』新典社、2022年。
新関公子『東京美術学校物語』岩波新書、2025年。
外川昌彦『岡倉天心とインド』慶應義塾大学出版会、2023年。
山口靜一『三井寺に眠るフェノロサとビゲロウの物語』宮帯出版社、2012年。
渡辺保『明治演劇史』講談社、2012年。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論
更新日:2025.06.03