天竺ブギウギ・ライト④/河野亮仙
第4回 遠くて近いギリシア・ローマ
現在のインド人とギリシア人を見ても似ているという感じは受けないが、同じ印欧語族でサンスクリット語と古代ギリシア語、ラテン語が近い関係にあることはよく知られている。前5000年頃、黒海西北方の辺りに住んでいた遊牧文化を持つ民族が、そこから東西に分かれて行ったといわれる。インドの古いサンスクリット語で歌われた聖典『リグヴェーダ』は、前1200年頃成立。
胡椒と金貨
胡椒は前4世紀後半にはインドからペルシアを経てギリシアに伝わり、前1世紀後半のローマ時代において普及した。1世紀の博物学者プリニウスは、ローマ人は胡椒を求めてインドまで行き、それは金銀と同じ価値を持つと記した。インド、中国、アラビアから原価の100倍で売られる奢侈品を輸入して、毎年、1億セステルテイウスをローマ帝国から奪っていると嘆く。
南インドからは、アウグストウス(在位:前27-後14)からネロ(在位:54-68)の時代にかけての金銀貨幣が最も多く出土した。何代もの皇帝に仕えたヴェスパシアヌス(在位:69-79)は財政立て直しを図り、金銀の輸出を制限した。77年に『博物誌』の10巻を発表したプリニウスの嘆きは、この事象に対応している。
紀元前後から季節風を利用してマラバール海岸に至る航路が開かれると、「マラバール海岸、ムージリス港では胡椒が最も多量に輸出されるので、大型の船が紅海から直接に航海し、きわめて多量のローマ金貨が輸入されている」と記す。ローマ金貨はドルのように古代インドで基軸通貨として使われていて、通商関係、ローマ文化圏にあったことも知られている。ローマは輸入超過で財政が悪化した。
ムージリスはコーチンに近いクランガヌールと思われる。ヤヴァナ、すなわち、ギリシア・ローマから来た、剣を持つ屈強な男たちは王宮の護衛として雇われた。
ポンディシェリ南郊のアリカメードゥ遺跡からはローマ金貨ほか、ガラス石、1世紀イタリアで作られたアレタイン陶器やアンフォラ、すなわちワインの壺の破片が発見されている。もちろん、壺自体を輸入したのではなく、ワインやオリーブ、オリーブ油が入っていた。古代のワインはどんな味がしたのだろう。
また、ガラスビーズはアリカメードゥで早くから生産され、東南アジアにも移植されて作られた。インド・パシフィック・ビーズと呼ばれるタイプのビーズは、遠くアフリカでも、弥生時代、古墳時代の遺跡からも大量に発見されている。日本や朝鮮半島で生産遺跡は発見されていないので輸入品である。卑弥呼はインド・ビーズの装身具を身に付けたか。
『エリュトラー海案内記』(1世紀半ば)によると、長胡椒の積み出し港であるマラバール海岸のバリュガザの王に、銀器、音楽の心得のある少年、後宮のための美しい処女、優秀な葡萄酒、混ぜ物のない高価な衣服、すぐれた香油を献上していたという。『航海記』にいうポドゥケーはポンディシェリに相当する。
音楽と着衣
昔、パニアグアという音楽家が「古代ギリシアの音楽」というアルバムを発表して今でもCDで入手出来る。音楽自体は復元→創作なのだが、復元楽器がインドのものとよく似ている。打楽器中心である。古代ギリシアの楽器には双頭の笛アウロスや竪琴のリラ(ヴィーナー)があり、インドにも入ってきた。
ドリア地方の調べ、リディア地方の調べ、フリギア地方の調べなどとエキゾチツクな旋法がギリシアでは用いられ、インドのラーガを思わせる。ドリアン・モードはジャズでよく用いられ、ブルースに近い。
インドとギリシア・ローマ世界は着衣も似ている。映画「テルマエ・ロマエ」で、いわゆるチュニック、テュニカという短衣の上にトーガという大衣、白い布を左肩から掛けている姿を見たと思うが、これは仏像の着方、偏袒右肩によく似ていて、上座部の僧侶は今日もその着付けを守っている。
ローマ市民は17歳で成人するとトーガを身につけることができた。インドのように方形ではなく、楕円形に切られた布一枚をまとう。冬は毛織物、夏は亜麻布(リネン)が用いられた。身長のほぼ3倍というから約5メートルである。なかなか一人で着るのは難しく、奴隷に着付けを手伝ってもらったようだ。
ローマの元老院では赤いボーダーのついたトーガを着用した。きちんと着付けると立ち居振る舞いが堂々と立派に見える。釈迦教団においても、また、日本の僧侶が七条をまとうのも同じである。サリーの起源もこちらに求めているようだが、南インドでは近代までサリーは用いられていなかった。
スパルタ式
古代のオリンピックにおいては裸で競技をして、その方がパフォーマンスが上がると信じられていた。わたしは、股の間にぶらぶらするものがあると邪魔になると思うのだが。それはともかく、裸というのは服を脱いだ姿というのではなくて、ネイキッド、ごく自然な姿として捉えられていた。
ここで問題にしたいのは古代の踊り子の衣装である。カルカッタ博物館にあるバールフトのヤクシニー女神像は、腰から左右それぞれの足の膝下にいたるまで布を巻きつけている。腰には装飾的な紐や石帯を巻いて、それは両足の真ん中、足首の辺りまで垂れていることがある。
これがおそらく上流階級の女性の正装だったのだろう。踊り子の場合は、下着を着けず、装飾的な帯で陰部を隠すように垂らしている姿もある。チラリズムの方が効果があるのかもしれない。
スパルタでは強い戦士を産むためという意味で女性は大切にされた。男と同様に体育に励んだ。それもまた、男同様に裸で行われ、女っぽさや羞恥心など捨てるべきと考えられた。祭りのパレードにも裸で参加し、裸で歌い踊ったという。
仏像が作られるようになったのは紀元前後で、ギリシアの影響で始まったという。アレキサンダー大王がインダス川までやってきたのは前4世紀のこと。ギリシア系のバクトリア王メナンドロスが仏僧ナーガセーナと対話したのは前2世紀。ボロ布をまとっていた仏僧もギリシア人のように着たら格好いい、ボロ布(衲衣)では釣り合いがとれないと「制服」たる三衣を制定し、それが仏像に反映されたのかもしれない。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論
更新日:2023.08.28