天竺ブギウギ・ライト①/河野亮仙
第1回 もう一つのマイナー競技/カラリパヤット
もう10年以上前の事だが、インド政府高官が浅草寺を訪ねた。ふつうインドからの客人を閑静な寺社に案内しても、寺ならインドにもあるとばかり、あまり関心を持たない。ところが浅草寺は、ごちゃごちゃして活気があるのがインドの寺町にも似ているというので人気がある。
浅草寺幼稚園から出てくるお子さんたちに聞いた。「君たちインドって知ってる?インドの何を知ってるの?」と聞くと、お決まりのカレー、ヨーガの他にカバディ!と叫ぶ子がいた。
高官は日本でもそんなにカバディが人気なのか、是非、インドからチームを招いて日本と試合をしたい。インド大使館の目の前には日本武道館があるので、武道館で交流試合をするプランを思いついたのかも知れない。
種明かしをすると、この集団の中に浅草寺僧侶の息子がいた。彼は元代表選手、今は協会の理事である。
しかし、このプランは日本の外務省の役人によって握りつぶされた。いや、仮にこれが進行したとしても、競技人口300人程度の弱小日本カバディ協会は対応できなかっただろう。広告代理店の仕事になってしまう。カバディは、最も名前のよく知られている「マイナー・スポーツの雄」だが、冬季種目のカーリングは、もはやマイナーの域を脱し、マイナー・スポーツの雄の地位はボッチャに奪われている。
この我らがカバディよりさらにマイナーなスポーツ、格闘技?がインドにはある。南インド、ケーララ州のカラリパヤットである。以前にも書いたが、もう一度カラリパヤットについて。
https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%80%e3%89%9c/
この南インドの格闘技をわたしが習っていたのは40年も前の事。あの時わたしは若かった。そして月刊「空手道」を手始めに、あちこちの雑誌の格闘技特集にインドの古武術として紹介した。
インドでは何でも始まりはヴェーダからというので、ダヌル・ヴェーダ、弓のヴェーダに発する事になっているので古い事は古い。実体としてはケーララが戦闘状態にあった10、11世紀頃に起源するのだろうか。今日のケーララ州に相当するチェーラ朝とタミル側のチョーラ朝で百年戦争を戦っていた。今の形に定着したのは15、6世紀か。それでも十二分に古いがインドの歴史は何でも明確には分からない。
当時から古武術ブームで、甲野善紀が介護に古武術を活用などというと、あれは古武術ではないと言われる。それは確かに古武術自体ではなく、古武術を習った者が介護に応用した技である。
カラリパヤットも見かけは変だ。馬や猫、猪や象、ライオン、魚、蛇のポーズをくねくねと繰り広げる。アジア競技大会で行われる武術(ウーシュー)やプンチャック・シラットのように表演種目となっている。その基礎訓練が終わってから杖やサーベル、槍、棍棒などの武器術を段階的に習う事が出来る。習得には何年もかかる。
もはや実際のコンバットには用いられないという意味では古武術である。その本質は、やりたがらない基礎鍛錬をリズミカルに楽しくやる動的ストレッチではないか。
どのスポーツにも舞踊にも向く基礎訓練である。股関節を柔らかくして柔軟性を養成するので怪我を予防する事ができる。元々、インド人は関節が柔らかく手足が長いので、まるで手足がしなっているみたいに動く。これはとうてい日本人には真似できない。
動的ストレッチなので体幹が鍛えられる。ジャンプ力も付く。同じケーララ州のカタカリ舞踊劇は、王直属のカラリパヤット戦士が始めたという言い伝えがある。カタカリにも象やライオンの形態模写があり影響関係がうかがえる。どちらも足の外側、足刀部で立つのが基本だ。これは佐保田ヨーガの基本体操にも取り入れられている。
カタカリの立ち回りにおいて組み手というのか、拳と拳で戦うシーンでは、法華経に登場する古代の拳士ムシュティカの技の残影も認めることが出来る。歌舞伎の立ち回りは様式化されているが、懐に忍ばせた短剣で刀と渡り合う丁々発止の長丁場がある。そこには柔術の楊心流の型にそっくりなものかあるという。
カラリはケーララ州、タミル・ナードゥ州など南インドのみで行われていたが、現在では全インドに広まっているそうだ。それでもアジア競技大会の種目に選ばれるかというと微妙だ。
カラリパヤットのカラリというのは道場、教習場の事である。村々にあるバガヴァティー女神の寺の前庭は、皆が集まる教育の場でもあった。演舞の練習は女神に奉納する形で行われる。日本の武道場に神棚があるのと似ている。
パヤットは闘いを意味する。昔から、いつからだろう?ケーララのナイル・カーストの者が闘いに備えて、毎朝、カラリに集まって訓練した。女性も女の型を習う事が出来た。戦士階級とされるナイルのみならずバラモンも異教徒も習った。
本来の意味で体育であり、カラリは身体を大切にする養生の場で、師匠グルカルは日本の接骨医みたいな仕事をするアーユルヴェーダの医師でもある。これも柔道や剣道の先生が柔道整復師として生計を立てているのと共通する。
ちなみに嘉納治五郎は明治44年、大日本体育協会会長となった。会長を岸清一に譲った後は名誉会長となった。その岸が死亡した時、他のスポーツ団体は名称変更を訴え、競技連合にするべきと主張したが嘉納は体育で押し切った。
嘉納の考えた講道館柔道の目的は、体育、勝負、修身。体育とは強く健やかにして目的達成のために自在に動く身体の獲得である。勝負とは武術である。修身は知育徳育、倫理道徳を基礎において精力善用、自他共栄を図る事である。
嘉納治五郎がカラリパヤットの道場を見ていたら、身体訓練と養生のみならず、悟りを目指す、魂を救う事まで視野に入れるカラリこそが体育の理想と思った事だろう。柔術も講道館以前は今のように乱取りをやらず、型稽古のみの道場が多かった。
嘉納の影響を受けたタゴールも、舞踊も含めて体育を重視した。もしケーララにタゴールのような人が出たら、今頃はJUDOのように世界中に広まっていたかも知れない。その時はインドのヨーガが日本のヨガとなり、あるいは西洋のマインドフルネスに変形したように、やや異なった形で定着するのかも知れない。
ヨーロッパではビール・ヨガといって青空の下、ビールを片手にヨガをするのが流行っているらしい。だから佐保田門下はヨーガとヨガは違うという。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論
更新日:2023.06.29