会員の広場①
大乗仏教への想い
日印文化交流ネットワーク会員
岡村 光展
私は東方学院研究会員として、同東京本校で様々な授業を受講させて頂いて、学んでいます。故中村元先生は、私が日本人の中で一番尊敬している先生です。また私は、薬師寺において松久保秀胤同長老が開かれている『唯識講』にも出席させて頂き、唯識を勉強しています。このような点から、素人ではありますが、「大乗仏教への想い」を綴りたいと思います。間違っている点、解釈の誤りなどは、ご海容賜りますよう。
大乗仏教の中で、最初に成立した教学・経典は「般若思想」「空の思想」です。説一切有部への反発から、この思想は生まれたと私は考えていますが、この点に関しては後述します。中村先生は金剛般若経の訳で、「空」を、「物的実体が無い」と訳されていますが、唯識の考えに立てば敢えて「物的」を加えなくても、「全ては実体が無い、本質的な実体は欠如している」で良いと思います。難解な教学ですが、金剛般若経の解説(中村元・武藤義一『仏典・下』NHK出版、1974)の中に、次の重要な一節が有ります。
「スブーティよ、求道者の道に向かう者は、次のような心をおこさなければならない。『およそ生きもののなかに含められるかぎりの生きとし生けるもの、それらのありとあらゆるものを、わたしは、悩みのない永遠の平安に導き入れなければならない。しかし、このように、無数の生きとし生きるものを永遠の平安に導き入れても、じつは誰ひとりとして永遠の平安に導きいれたものはない』と。それはなぜかというと、スブーティよ、誰でも自我という思いをおこしたり、生きているものという思いや、個体という思いや、個人という思いをおこしたりするものは、もはや求道者とはいわれないからだ」。 この一節は、大乗仏教の核心を突いていると私は考えています。 (大乗)仏教は「無我」であり、「永遠の平安に至る」すなわち「仏に成る」ためには無我でなければならず、生存欲を捨て、我、個体、個人という思いからは、完全に離れていなければならないことを教えています。
唯識では、大円鏡智に達すれば、意識 (第六識)、末那識(第七識)、阿頼耶識(第八識)は統合されて完全に清浄な識=心だけになる、と説きます。それは、仏の心です。但し唯識では、そうなるためには、三阿僧祇もの長い時間が必要、つまり三阿僧祇もの無限にも近いような長い時間、転生を繰り返して修行・勉学に励まなければならないとしています。大変な時間が必要になりますが、誰でも仏に成れることを否定している訳では有りません。この点が、それまでの伝統的仏教とは全く異なる点です。三阿僧祇というとてつもなく長く無限に近い時間を設定しているのは、それ以前の伝統的仏教の立場に配慮してのこと、と私は考えています。従ってここで、三阿僧祇という時間の長さだけを議論するのは、私は、意味が無いと考えています。
こうして 完全に清浄になった仏の心=仏の識は同じですから、この大宇宙空間には無限数の仏が存在しているとも言えますし、それは共通した一個の仏である、とも言えます。前者の立場に立つのが華厳経ですし、後者は密教の立場と申せるでしょう。
最初に申しましたように、大乗仏教・仏典の中で最初に成立したのが般若教学・経典です。その精神の、「我を捨て、個・個人という考えを捨て、生存欲を離れ、こうして清浄な心=清浄な識に至れば、永遠の平安に入り、仏と成り、仏と一体化できる」を、それ以降に成立する大乗仏教経典は、大前提としているのです。ところが何時の間にか、この事を、「大乗仏教においては、あまりにも自明の事である」として省略したり、記載を忘れたりで、後段の法華経、浄土三部経、華厳経、密教経典…の内容部分だけを強調するに至った、と私は考えています。あたかも、現在における日本の仏教界の現状にも、酷似しているように思えます。これでは、極論することをお許し頂ければ、「宗派学」であって「統一された大乗仏教学である」とは申せません。
そのために、これらはいずれも立派な経典ですが、一番肝心な点が欠落しているように思えます。法華経の場合一番重要なのは、「仏(法華経では釈尊)の永遠の命を示した部分=如来寿量品」ですが、法華経を聞いている弟子や衆生全体との関係は、明記されてはいません。弟子や衆生全体にも,仏と繋がる心=識を内包しており、従って、自分達も修行勉学を重ねると、永遠の仏と一体になり仏に成れる、という点が省略されているためです。浄土三部経についても同様です。此岸では困難なことを、前身の法蔵菩薩が立てられた誓願とくに第十八願におすがりして、悟りを得て今は阿弥陀如来と成られて開かれている西方極楽浄土に往生して、そこで仏に成る事を目指します。しかし、極楽浄土に参ってからどのような修行勉学を重ねて仏に成るかは、詳しくは記されていません。法華経の場合と同様、識=心が清浄化して仏と一体化することを、自明のこととして省略したためと、私は考えています。此岸で転生を繰り返し修行勉学を重ねる事で仏に成る事を目指すのか、それとも西方極楽浄土に往生してそこで阿弥陀如来の教導下で仏に成る事を目指すのか、それだけの相違に過ぎない、と私は考えています。極楽浄土への往生は、決してそのことがゴールではありません。華厳経の場合も同様です。菩薩道の実践(入法界品)、理事無碍法界、事事無碍法界を柱としている華厳経の盧遮那品の一節が、次の如く紹介されています(中村元・武藤義一『仏典・下』NHK出版 1974)。「全ての海は、かぎりない因縁によって成り立っている。すべては因縁によりすでに成立しており、現在成立しつつあり、また未来も成立するであろう。ここに言う因縁とは次のことを指している。それは仏の神通力である。またものごとはすべてありのままであるということである。また衆生の行為や宿業である。またすべてのボサツは究極のさとりを得る可能性を有しているということである。またボサツが仏の国土を浄めるのに自由自在であるということである。これが世界海の因縁である。」 ここに、華厳経の神髄が説明されていると思われます。因縁の冒頭に「仏の神通力」が明示されているのは重要です。中村先生が「仏の神通力」と訳されたのは、仏の心=仏の識のことで、これが全てです。その上に立って、理事無碍法界と事事無碍法界とを、具体的に記述した重要な一節です。さらに、「華厳経は微小なもの(今日に言う原子など)にも、偉大な仏の国が含まれていると説く」と、加えられています。微小なものの中に仏の世界が存在しているならば、微小なものが集合して成り立っているあらゆる生きとし生けるもの中にも、仏の世界が存在している筈であり、仏という共通の要素で結びついている筈でもあります。大乗仏教の根幹と申せます。あらゆる生きとし生けるものに仏の要素が存在して仏という共通の要素で結びついている、当時の大乗仏教としては、あまりにも自明のことであったので、何時の間にか、これを強調することを忘れたのでしょう。
以上の如く、大乗仏教の思想は、全ての生きとし生けるものには仏の性質が備わっており、たとえ此岸で転生を繰り返して修行勉学を重ねるにせよ、極楽浄土に往生してそこで修業勉学を積んでそれを達成するにせよ、必ず仏に成れることを教えます。仏の性質を内包している以上、余分なものを消し去ることです。これが「我を捨てる」「無我の心=無我の識に至る」ことです。仏の識は共通ですから、無限数の仏や仏国土(浄土)が存在しているとも言えますし、全体として一つとも言えます。また、仏を目指している生きとし生けるものには、共通した仏の性質・要素が存在しており、それは完全な仏と結びついています。ここに、生きとし生きるもの相互の間に、慈悲の心が生まれます。人間相互の間は、尚更です。こうなれば、地位、立場・・・凡そ俗世間で目安にもされがちなものは、一切、無関係です。勿論、出家・在家も関係ありません。ここに大乗仏教が、「仏を求め、仏に成るために、必ずしも出家を求めるものではない」ことの理由が有ります。この点を強調して登場したのが維摩経です。時折、俗世間でささやかれるような、「大乗仏教の成立は、一種の(在家との)妥協である…」は、とんでもない誤りです。
このように大乗仏教はそれまでの伝統的仏教とは、「これは別の宗教か?」と思うほど違っています。大乗仏教・仏典が、それまでの仏教から如何に誕生したか、中村先生が翻訳されている膨大な仏典を改めて精査することで、究めてゆきたい、と私は考えています。ここで、中村先生が紹介されているジャータカ本生譚―に、次のような重要な一節が有ります。いわゆる「貧女の一灯」の物語です(中村元・武藤義一『仏典・上』NHK出版 1974)。金持ちなどが多くの灯を釈尊に捧げました。これを見た貧しい老婆も、小さい一灯を釈尊に捧げます。さて、いざ灯を全部消そうとしても、老婆が捧げた一灯だけは、どうしても消えません。これを見た釈尊は、「これはけっして消えない、真心をもって捧げた灯であるから、これはけっして永遠に消えない、そしてこのおばあさんは、必ず将来に仏さまになるであろう」と、弟子に語られた部分です。すなわち、誰でも、また出家・在家にも関係なく、善行・修行・勉学を重ねその功徳を積むことで、将来は仏に成ることができると、明示されています。同様な記述は、『大パリニッバーナ経』にも見られます(中村元『ブツダ最後の旅』岩波)。
繰り返しになりますが、誰にも仏の性質を内包しており、心=識は仏と結びついていますので、努力をすれば将来、仏に成ることができます。勿論、出家・在家にも関係有りません。こうして誕生した仏は無限数に存在していると申せますし、また一体化して同じであるから一つとも申せます。全ての人間、生きとし生けるものは、全て仏の性質を内包しており、仏に成ることを目指すという同じ道を歩んでいますから、すなわち心=識は共通でかつ、繋がっていますので、お互い慈悲・大慈悲の心を持って道を歩まなければならないでしょう。これが大乗仏教のエッセンスと申せます。上述のジャータカや大パリニッバーナ経の例からもうかがわれるように、成立期の仏教・原始仏教の方が、(伝統的仏教よりも)大乗仏教に近い、と申せると、私は考えています。
中村先生は、「もし、大乗仏教の成立が無ければ、仏教が世界宗教にまで発展することはなかったであろう」と申されていますが、まさに核心を突いておられます。コロナ禍の中、また、アフターコロナの時代には、社会も今までとは大きく変容していると言われていますが、現在ほど、大乗仏教の世界への発信が必要とされる時もないでしょう。更にとくに日本においては、仏教各宗派が掲げている教義・教学が、統一方向へ進むことが求められると思いますが、この点も、本文の中で、再三触れた通りです。
最後に、説一切有部などの自然観について、私の考えを門外漢ですが、触れさせて頂きます。
「光が波と粒の両方の性質を有している」ことは今日、一般に知られていますが、このことが分からなかった時代には、光を伝える媒体が宇宙空間に充満していると考えて、これを仮に,「エーテル」と名付けていました。つまり、エーテルという仮想物質が宇宙区間に充満していると考えたのです。インドで「エーテル」の事をどう称したかは分かりませんが、インドの人も同じ自然観を有していたと考えられます。「宇宙空間に物質が充満している・・・・」、この考えが伝統的立場に立つ仏教において説一切有部を誕生させた、と私は考えています。宇宙では「有」をどう位置づけるのか? 物質は分子からなり分子は原子からなっています。原子は中心の原子核と周囲を回る電子からなります。更に、原子核はいくつかの素粒子からなっています。電子も原子核も非常に小さいので、これを拡大して見れば、電子と原子核との間は真空なのです。また、広大な宇宙全体から見れば、物質の量は多くは有りませんから、「宇宙は全体として真空状態に近い」と、言えます。しかしその真空状態に近い宇宙に、未知の「真空のエネルギー」が存在しています。また宇宙には、光が満ち溢れています。このような宇宙の状態を、どう表現するかは難しいです。
説一切有部の立場からは離れて、大乗仏教の立場から、宇宙を考えてみたいと思います。華厳経が説く微小なものに仏の心=識が存在しており、相互に関連していると見ることも出来ます。また、銀河のような非常に大きいものを一つの仏国土(浄土)ととらえる事も出来るでしょう。更には宇宙の大部分を占めている真空部分にこそ、仏の心=仏の識が存在している、と考えることも出来ます。仏教、とくに大乗仏教の考え方と、自然科学・宇宙論とは両立可能であることを、最後に触れさせ頂きました。
合掌。
岡本 光展 (おかもと みつのぶ)
兵庫県三田市に生る。
新潟大学名誉教授、中村元東方研究所研究会員
更新日:2020.12.03