タゴール『子供時代』⑯

第11章(前半)

籠に鳥を飼う習慣が、その頃は家々にあった。何よりもいやだったのは、近所のどこかの家から、籠に閉じ込められたオニカッコウ (1) の鳴き声が聞こえることだった。義姉さんは、中国のある黒い鳥を手に入れた。布の覆いの中から、その指笛のような声が、噴水のように溢れてきた。他にもいろいろな種類の鳥がいて、その籠が西側のベランダにぶら下がっていた。毎朝、虫の餌をやる役目の召使いがひとり、鳥たちに餌を与えた。彼の肩掛け袋の中からイナゴ、豆粉を食べる鳥たちのためには豆粉が出てきた。

ジョティ兄さんは、ぼくがどんな議論をふっかけても、必ずそれに答えてくれた。でも、女たちには、そんなことは期待できない。一度、義姉さんが、籠にリスを飼うという気紛れを起こしたことがあった。ぼくは、それは間違っていると言い、義姉さんは、先生みたいな口を利くんじゃない、と言う。これでは答になっていない。それで、口論する代わりに、こっそりこの二匹の生き物を逃がしてやることにした。その後も文句を言うのを聞いたけれど、ぼくは何も答えなかった。

ぼくらの間では、いつまでも終わることなく続く、お決まりの口喧嘩があった。そのことを書くことにしよう:—

ウメシュは狡猾な男だった。白人用の服を仕立てる店から、いろんな色の絹布の端切れを、ただみたいな値段で買い取り、それに網衣の切れ端と安物のレースを繋ぎ合わせて、女たちの上衣をでっち上げた。紙包みを開けて、大事そうに女たちの目の前に広げ、「これが最新のファッションなんです」と言ったものだ。この呪文の威力に、女たちは逆らうことができなかった。これがぼくをどんなに苦しめたか、とても言葉にならない。何度も苛ついて抗議したけれど、偉ぶるんじゃない、の一点張りだ。義姉さんには、昔ながらの、白地に黒を縁取ったサリー (2) やダッカ風の花柄サリー (3) の方が、これよりずっとよくてずっと上品だ、と伝えたのだ。 — 今日、ジョーゼットを身に纏った奥様方の色つき人形のような姿を見て、義弟(おとうと)たちの口からは何も文句が出ないのだろうか、と思う。ウメシュが縫った覆いを纏う義姉さんの姿は、それでもまだマシだった。その頃はまだ、今みたいに、容貌をいろいろ飾り立てることはなかったのだ。

口論では義姉さんにいつも負けた。なぜなら、義姉さんはそれに答えようとしなかったから。それからチェスでも — 義姉さんはチェスの達人だった。

ジョティ兄さんの話題が出たが、兄さんのことをよく知ってもらうためには、もう少し話を広げる必要があるだろう。少し前の日々から始めなければならない。

土地管理の仕事で、兄さんはよく、シライドホ (4) に行かなければならなかった。一度、その仕事の必要で出かける時、ぼくも一緒に連れて行ってくれた。当時、これは、しきたりに反した行為、つまり「度過ぎた真似をしている」と言われかねない計らいだった。兄さんは、間違いなく、ぼくをこうして家の外に往き来させることを、課外授業のように考えていたのだ。ぼくが空と風を求めてうろつき回る心の持ち主で、そこから自然に糧を得ているのだということを、兄さんは理解していた。このしばらく後、ぼくの人生がもっと上の段階に達した時、ぼくはこのシライドホで成長することになったのだ (5)

昔の藍工場 (6) はまだそのまま残っていた。パドマー川は遠くにあった。下の階が事務所で、上の階がぼくらの生活場所だった。建物の前面にはとても広い屋上があり、その外側には大きなトキワギョリュウの木々 (7) があった。それらは、かつて藍栽培をしていた白人の商いとともに版図を広げたのだ。今日なお、館の主のあの威丈高な怒鳴り声の余韻は、館の隅々に籠っているかのようだ。藍工場の死に神の使者、かの徴税人(ディワーン)はいまいずこ、また棍棒を肩に担ぎ、今にも襲いかからんとする傭兵の一群は! はたまた、長々しい食卓をしつらえた大食堂は — 馬に跨り県都からやって来た白人たちが、日夜どんちゃん騒ぎをやらかしていたあの場所 — 豪華な晩餐、男女ペアの乱舞、シャンペンの酔いにその血は泡立っていた! 哀れな小作人たちの嘆願の涙は、上にふんぞり返る人びとの耳に届くことなく、彼らを抑圧する道は県都の牢獄まで、延々と続いていたのだ。でもその時代のこうしたすべては、今やまやかしとなり、真実として残ったのは、ただ、二人の白人の二つの墳墓のみ。巨大なトキワギョリュウの木の群は風に揺れ靡き、昔日の小作人の子孫たちは、しばしば真夜中に、白人の亡霊が、館の荒れ果てた庭園を彷徨(さまよ)い歩くのを目にする。

独(ひと)りっきりで過ごすつもりでいた。隅の小さな部屋、前に大きく広がるなだらかな屋上に見合って、ぼくの休暇も広々としていた。未知の異郷での休暇だ — 古びた大池の黒い水のように、それがどれだけ深いのか見当がつかない。セグロカッコウ (8) は止むことなく鳴き続け、とりとめない思いが次から次へと浮かぶ。それと同時に、ぼくのノートは詩の言葉で溢れ始めた。それはまるで、すぐ散るために咲く、マーグ月 (9) のマンゴーの花の蕾 — 実際、散りしだいてもしまったのだ。

その当時、年端の行かない子供、特に女の子が、もし、音節の数を間違えずに定型詩を2, 3行書こうものなら、ベンガル文学の目利きたちは、これはたいへんなことが起きた、こんな奇跡は二度と起こるまい、とまで考えた。そうした少女詩人たちの名前を目にしたし、彼女たちの書いた作品が新聞雑誌に掲載されもしたのだ。やがてその、14音節の決まり (10) を注意深く守って書かれた、下手くそな韻を踏んだお行儀のいい詩行が姿を消したかと思うと、彼女たちの名前を拭い去った画布(キャンバス)の上には、それに代わって今をときめく女の子たちの名前が、列をなして咲き誇るようになったのだ。

男の子たちの勇気は、女の子たちのそれよりずっと少なく、恥ずかしさの方がはるかに勝っていた。その頃、年端の行かない少年詩人が詩を書いたという例は思い出せない — ぼくを除いては。年上のある従兄 (11) が、ある日、14音節の型に言葉を流し込めば、自然に固まって詩になるのだ、と説いてくれたことがある。自分でこの魔法を試してみた。すると、すぐこの14音節の型の中から、蓮華が花開いたりしたのだった — その上に蜜蜂が来て留まることすらあった。詩人たちとぼくの間の距たりは失せた。それ以来、この距たりがないままに、詩を書き続けている。

ぼくがまだ上級クラスに上がる前のことだった (12) — 校長のゴビンドさん (13) が、ぼくが詩を書くという噂を聞きつけたのだ。詩を書くよう、命令が下った — ノーマル・スクールの名声を輝かせようと思ったのだ。書かざるを得ず、クラスの生徒たちに読んで聞かせもしたのだが、盗作に違いない、との非難を浴びる結果になった。非難した連中は知らなかったのだ — その後、ぼくはもっと狡賢くなって、「情感」を盗む腕を磨くことになったのを。こうして手に入れた盗作品は、だが、宝物と言ってよかった。

ポアルとトリポディの韻律 (14) を混ぜて、詩をひとつ仕立てたことがある — その詩は、泳いで蓮の花を摘みに行こうとしたけれど、自分の手が立てる波のために蓮の花がどんどん遠のき、手の届かないところに行ってしまう、という悲しみを表現したものだった。オッコエさん (15) は、彼の親戚の家々にその詩を持って行って、読んで聞かせた。親戚の人びとは、この子には書く才能がある、と言ったそうだ。

義姉さんの態度は、その反対だった。ぼくがいい書き手になるなんてことを、絶対に認めようとしなかった。毎度あら探しをしては、絶対にビハリ・チョクロボルティ (16) みたいな書き手にはなれないわ、と言うのだった。がっかりして、こう思ったものだ — ぼくがもし、ビハリさんよりずっと下のレベルの点数でも取ることができたら、女たちの服装に対するこのチビの義弟(おとうと)詩人の非難を、義姉さんがあんな風に無視することもなかっただろうに、と。

訳注

(注1)「コキル」、サンスクリット読み「コーキラ鳥」、英名 ‘Asian koel’。カッコウ科の鳥。全長50センチに及ぶ大柄な鳥で、長い尾を持つ。雄は青みがかった艶のある黒、雌は白い斑点を持つ褐色。甘美な声で鳴くことで知られ、春の艶かしさを象徴する鳥として、インドの古典文学や口頭伝承に頻出する。
(注2)フォラシュダンガ(チョンドンノゴル)製のサリー。第4章(『子供時代』⑦)(注5)参照。
(注3)「(ダカイ=)ジャムダニ」の名で知られる、ダッカ地方の伝統的なサリー。ムガル王朝の庇護を受けて発展した。(綿)モスリン製で、彩り豊かな、特に花柄をあしらった模様に特徴がある。
(注4)シライドホは、タゴール家伝来の領地のひとつ。現バングラデシュ・クシュティア県の、北をパドマー(ポッダ)川、西と南をその支流のゴライ=モドゥモティ川に囲まれた村。地名「シライ=ドホ」は、かつての藍工場の主シェリー夫妻の「シェリー」と、川の淵の意の「ドホ」に由来する。
タゴールは、1875年12月、父に連れられ、ガンガーでの船旅を経て初めてシライドホを訪れ短期間滞在する。その後、翌1876年2月に、ジョティリンドロナトに連れられ二度目の訪問。この時は1ヶ月あまり滞在した。タゴール14歳のことである。
なお、上に掲載した写真は、シライドホのタゴール家土地管理事務所と、その近くのパドマー川(いずれも1987年頃大西が撮影)。タゴールが14歳の時訪れた事務所は、パドマー川の河流に流されるのを恐れて1880年代に解体され、その材を使ってこの事務所が建て直された。
(以上、プロシャントクマル・パール『ロビ伝 第1巻』参照。)
(注5)父デベンドロナトに土地管理の仕事を託されたタゴールは、1891年から頻繁にシライドホおよびその周辺のタゴール家の領地に滞在し、東ベンガルの自然と社会に本格的に接するようになる。
(注6)インド藍の生産のため、東インド会社が現地に建てた、煉瓦造りの大がかりな工場。管理事務所および白人管理人の住居を兼ねた。タゴール家の当時の土地管理事務所は、これを引き継いだもの。
(注7)「ビラティ(外国の)=ジャウ」、オーストラリア原産の20メートルに達する高木。群葉は細い枝分かれした緑色の小枝からなり、節ごとに生える7片の微細な鱗状葉に覆われている。防風林、防砂林として、よく海岸に植えられる。「ジャウ」という名は、その枝葉を通る風の音のオノマトペから来ていると言う。(西岡直樹『インド花綴り』参照。)
(注8)カッコウ科の鳥。全長30センチほどの小柄な鳥で、雄雌ともに灰褐色。ベンガル語では、その鳴き声のオノマトペから、「ボウ=コタ=コオ(嫁よ、しゃべりなさい)」と呼ばれ親しまれている。
(注9)1月半ば〜2月半ば、晩冬〜初春。結婚の季節でもある。なお、ブラフモ協会がマーグ月の11日(1830年1月23日)に創設されたことを記念して、ジョラシャンコのタゴール家では、毎年この日に盛大な行事が行われた。
(注10)「ポアル」(注14)の韻律型をもつ定型詩。
(注11)ジョティップロカシュ・ゴンゴパッダエ(1855-1919)。ゴネンドロナト・タクル(タゴールの父デベンドロナト・タクルの弟)の長女、カドンビニ・デビの長男。タゴールが7~8歳、ジョティップロカシュが13~14歳の頃の出来事。
(注12)この時、タゴールは8歳で、4学年目。下級小学校4学年目の最後に奨学金試験があり、それに通った生徒が上級クラスに上がる。
(注13)ゴビンド・チョンドロ・ボンドバッダエ。ノーマル・スクール(第7章後半(『子供時代』⑪)(注15)参照)の当時の校長。
(注14)「ポアル」は1行が 8+6 の14音節(正確には14モーラ)からなる。ベンガル語の詩の中では最も一般的な韻律型のひとつ。
「トリポディ」(「三つの足を持つ」の意)は3行をセットにした韻律型。通常、1行目と2行目が同じ長さで、脚韻を踏む。8+8+x のモーラ構成が一般的。
(注15)オッコエ・チョンドロ・チョウドゥリ。第10章(『子供時代』⑮)(注12)参照。
(注16)ビハリラル・チョクロボルティ(1835-1894)。ベンガル近代詩史最初の叙情詩人。タゴールの初期の創作に大きな影響を与えた。代表作は『シャロダ女神霊験記』(1879)。カドンボリ・デビはビハリラルの詩の熱烈な読者で、『シャロダ女神霊験記』に感動し、その詩行を縫い付けた「気紛れの座布団」を彼に贈る。カドンボリの死後、ビハリラルはそのことを追想した「気紛れの座布団」と題する詩を書き、その死を悼む。

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部(英語英米文学科)卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年、インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん社)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん社)など。現在、めこん社のホームページに、近現代短編小説の翻訳を連載中。
https://bengaliterature.blog.fc2.com//

更新日:2022.04.25