タゴール『子供時代』④

第1章

ぼくが生まれたのは、昔むかしのカルカッタ。街ではその頃、馬車が土埃を撒き散らしながら、じゃらじゃら音を立てて走り、縄の鞭が、痩せ馬の骨と皮の背中を打った。市電もなければバスもなく、自動車ももちろんなかった。仕事に追い回されて、はあはあ息切れすることもなく、のんびりゆったりと、毎日が過ぎて行ったのだ。ヒンドゥーの紳士たちは、家で思うぞんぶん水煙管をふかした後、パーン (1) をむしゃむしゃ噛みながら、ある人は駕籠に乗り、ある人は乗合馬車に乗って、仕事場に出かけた。金持ちの二頭立て馬車には、それとわかる紋様が描かれていて、その後ろ半分は、まるでサリーの裾で頭を覆う女の人のように、革の覆いがかぶさっていた。御者台には、御者がターバンを靡かせて座り、その後ろには、二頭の馬のそれぞれに、一人ずつ馬丁がついていた。彼らは、腰にヤクの尾でできた扇を挟み、鼻がかった「ヘイヨー」の掛け声で、道行く人びとを驚かせたのだ。

女たちが外出する時には、扉の閉まった駕籠の、息が詰まる暗闇の中で、過ごさなければならなかった。馬車に乗るのは、とんでもなく恥ずかしいことだったのだ。陽射しや雨を避けるために、傘を広げることもなかった。女の人がシフトドレスをまとい、靴でも履いていようものなら、「メムシャヘブ(白人女性)風」と言われた。つまり、きわめつきの恥知らず、の意味だ。もし過(あやま)って、見ず知らずの男性に出喰わそうものなら、頭を覆うサリーの裾をパタリと引き下げ、顔を鼻の先まで覆い隠し、舌打ちしてさっと背を向け、立ちすくんだものだった。家の中にいる時と同様、外出用の駕籠の中でさえ、女たちには、その扉は閉ざされていたのだ。裕福な家の奥方や娘たちが乗る駕籠には、その上さらに、分厚い布の覆いがかぶさっていた。まるで、動くイスラーム式の墓 (2) 、といった按配だった。上と下を真鍮で飾った棒を手に、門衛たちがその両側に付き添っていた。彼らの務めは、正門にすわって家を見張ること、髭の先をぴんとはね上げること、銀行に金を、また親類縁者の家に女たちを届けること、そして祭祀の日に奥方を、彼女を閉じ込めた駕籠もろとも、ガンガーに浸して、連れ帰ることだった。

門前には、売り物が入っている箱を持って、行商人がやって来た。そんな時には、門番のシウノンドンが、その分け前を少々せしめるのが、習いだった。ほかにも、貸馬車の御者たちがいた。なかには彼の取り分に不満を持つ者もいて、正門の前で大喧嘩をおっ始めたものだ。家の門衛頭のショバラムは、格闘家で、腕をまくりあげてぐるぐる回して見せたり、とてつもない重さの鉄の棒を振り回したり、大麻の葉を飲用に捏ね上げたり、生の葉っぱがついた大根を、いかにもうまそうに食ったりした。そんな彼の耳元で、ぼくらは、「ラーダー=クリシュナ」と喚きたてたものだった。彼が両手を上げて、降参した様子を見せれば見せるほど、ぼくらは調子に乗って騒いだ。でも、実はこれは、彼が、自分の守護神の御名を聞くための、策略だったのだ。

その頃、街には、ガス灯もなければ電灯もなかった。後になって、灯油ランプがやって来た時、ぼくらはその明るさにびっくりしたものだ。夕暮れ時になると、寝室係の召使いが、部屋部屋を廻って、ヒマシ油の灯を点した。ぼくらの勉強部屋は、ガラスのホヤに包まれた、二つの灯芯の明かりに照らされていた。

先生は、チラチラする明かりの中で、パリ・ショルカルの第一読本 (3) を教えた。最初に欠伸が、次に眠気が襲ってきて、その後は必死になって目をこする。何度も聞かされたものだ — 先生のもうひとりの生徒、ショティンは、黄金の一片(ひとひら)のように模範的な子で、眠気に襲われると、勉強に集中したいために、嗅ぎタバコの刻み葉を目にこすりつけるのだ、と。それにひきかえ、ぼくは? 言わぬが花、というところだろう。たくさんいる生徒の中で、一人だけ、字も読めないまま取り残されるかもしれない、という情けない心配事すら、ぼくを目覚ませておく助けにはならなかった。夜9時になるとやっと解放されたけれど、その時にはもう、目はしょぼしょぼになっていた。外の建物から家の奥へ入る途中に、横型ブラインド付きの窓で外の世界から遮(さえぎ)られた、狭い路があって、上にぶら下がるカンテラからの、チラチラした明かりで照らされていた。そこを通る時、どうしても何かが、後ろからついて来るような気がして、背筋が凍りついたものだ。その頃、お化けや死霊は、物語や噂話の中に、人びとの心のあちらこちらの隅に、潜んでいた。女中の誰かが、突然シャンクチュンニ (4) の鼻がかった声を耳にして、その場にバタンと卒倒することもあった。この女幽霊は、どの幽霊よりも性質(たち)が悪くて、魚には目がなかったのだ。家の西側の隅には、葉にびっしり覆われたモモタマナ (5) の木があって、何か得体の知れないものが、その枝に片足を、もう一方の足を三階の軒蛇腹に乗せて、立っていた。それを見たという人は、その頃たくさんいたし、その存在を認める人も少なくなかった。兄さんのある友達が、その話を鼻先で笑い飛ばした時、召使いたちは、その人の信仰心の無さに呆れ返ったものだった –– いつかそいつに首骨を捻り上げられて、鼻っ柱をへし折られることになるに違いない、と。当時は、あたりの空気一帯に、恐怖の網が張り巡らされていたので、テーブルの下に足を突っ込んだだけでも、むずむずしてきたものだった。

その頃、水道はまだなかった。運び屋が、土甕いっぱいに、マーグ月とファルグン月 (6) のガンガーの水を入れ、竹の棒に担いで運んできた。一階の暗室には、一年分の飲み水が入った大きな甕が、何列にも並んでいた。下の階の、そうしたジメジメした薄暗い小部屋に、身を潜めて棲みついている住人たちのことは、誰もが知っていた。大口を開け、二つの目を胸に光らせ、両耳は手箕(てみ)のようで、その二本足は後ろ向きについている。その物の怪たちの影の前を通って、家の奥にある庭園に行く時、胸のドキドキが止まらなくて、ぼくの足取りは速くなった。

その頃、満潮になると、道の両側の煉瓦造りの溝を通って、ガンガーの水が流れてきた。祖父の代から、その溝の水は、ぼくらの池に引くことが許されていた。堰き止めている羽目板を引き上げると、ざあざあじゃぶじゃぶ、滝のように、水が泡を立てて落ちてきた。魚の群は、流れに逆らって上手に泳ぐ様子を、見せたがった。ぼくは、南側のベランダの手すりにしがみついたまま、目を丸くしてそれを見つめていた。でもやがて池の寿命に終わりが近づき、しまいには、ゴミの山が次々に流れ込むようになった。池の表面がゴミで覆い尽くされた時には、田舎の緑あふれる影を写していた鏡が、どこかに持ち去られてしまったかのように、感じたものだ。

あのモモタマナの木は、今でも立っている。でも、その上に前みたいに跨(また)がって立つことができるはずなのに、あのブロンモドイット (7) は、すっかり行方知れずになってしまった。

内にも外にも、光が増してきたのだ。

訳注

(注1)キンマの葉に檳榔子や石灰、諸種の香料を包んで食する、清涼用の嗜好品。
(注2)イスラーム教徒の柩や、聖者の墓には、厚いビロードの布をかぶせる。
(注3)パリ・チョロン・ショルカル(英語綴りPeary Charan Sarkar/ Pyari Charan Sircar, 1823-1875)、著名な教育者。とりわけ女性教育の普及に貢献した。彼の編纂した英語読本6巻は、ベンガルで広く用いられた。
(注4)成仏できずに死んだ、バラモン女性の死霊。シャンカ=チュリ(ホラ貝製の腕環、既婚女性の象徴)をつけているため、こう呼ばれる。魚が大好物だと言う。この卒倒した女中は、魚カレーを調理していたか、運んでいる途中だったに違いない。
(注5)ベンガル語で「(カト)バダム」(木のナッツ)。高さ20メートルにもなる照葉樹。大きな光沢のある倒卵形の葉が、枝先に束生する。扁平な楕円形の堅い殻に包まれた実(ナッツ)をつける。(西岡直樹『インド花綴り』(木犀社)による)
(注6)マーグ月(1月半ば〜2月半ば)、ファルグン月(2月半ば〜3月半ば)は、冬の終わりから初春にかけての季節。
(注7)成仏できずに死んだ、バラモン男性の死霊。

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部(英語英米文学科)卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年、インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん社)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん社)など。現在、めこん社のホームページに、近現代短編小説の翻訳を連載中。
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更新日:2021.07.19