サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑩
ボバニプル(5)
カルカッタの北から南に移ったせいで、父方の親戚一族との繋がりが減ったとはいえ、ドンお祖父ちゃん(祖父ウペンドロキショルの二番目の弟) (1) と下の叔父さん(父シュクマルの末弟、シュビモル・ラエ)(1) は、しょっ中、ぼくらの家にやって来た。ドンお祖父ちゃんは、その頃、コナン・ドイルの小説をベンガル語に翻訳していた。服装は白人サヘブ風、ボルコト・アリ(2) の店からスーツを仕立て、夕方、外出する時には、ネクタイをつけた。市電の月ぎめ定期券を持っていて、週に少なくとも3回は家にやって来た。
ボバニプルに住んでいる時に、ドンお祖父ちゃんの口から、『マハーバーラタ』全巻の物語を聞いた。1日に1章ずつ。その中のある特別な出来事を、少なくとも4回以上、お祖父ちゃんに語ってもらった。ぼくには、その頃、その物語が、『マハーバーラタ』の中で、何よりも胸をドキドキさせる出来事だったのだ。クルクシェートラの戦い(3) の場面の、ジャヤドラタ殺戮のくだりだ。ジャヤドラタはクル一族の偉大な勇者だった。アルジュナは、さんざん力を注いだのだが、どうしても彼をやっつけることができない。この日、彼は、ジャヤドラタをやっつけることができなければ、自分が火に焼かれて死ぬことになると、誓いを立てた。この誓いのことは、クル一族の耳にも入った。戦いは日没まで続く。日没の時が近づいたけれど、その期に及んでも、アルジュナは、どうすることもできないでいた。この時、アルジュナの戦車に乗っていたクリシュナ神は、マントラを唱えて四囲を暗闇で覆い、太陽を隠した。クル族の人びとは、日が暮れたと思い込んで戦いの手を緩める。アルジュナは、その隙を狙って一枚の円盤を放ち、ジャヤドラタの首を刎ね飛ばした。
ところが、それでも困ったことがあった。ジャヤドラタの父ヴリッダクシェトラ王は、息子が生まれた時、神からのお告げで、息子の首が、将来、戦場で刎ねられることになるだろうということを、知ったのだ。ヴリッダクシェトラ王は、その時、刎ねられた息子の首が地上に落ちた瞬間、その首を地上に落とした人の首も散り散りになるようにとの、呪いをかけた。このことを知っていたクリシュナ神は、アルジュナに警告していた –– ジャヤドラタの首が地面に落ちないよう、気をつけろ。もしそんなことになれば、おまえの首も散り散りになるぞ、と。それで、アルジュナはまず、一枚の円盤でジャヤドラタの首を刎ねると、それが地面に落ちる前に、さらに6枚の円盤を次々に投げてそれを虚空に飛ばし、遥か彼方でジャヤドラタを加護する苦行に耽っている老いた父親、ヴリッダクシェトラ王の膝の上に落としたのだ。ヴリッダクシェトラが、自分の息子の首を膝の上に見てぎくりとし、立ち上がったとたん、刎ねられた首は地面に転げ落ち、それと同時に彼自身の首も裂けて散り散りになってしまう。
ドンお祖父ちゃんの口から『マハーバーラタ』の物語を聞いたように、下の叔父さんの口からは、お化けの話を聞いた。この叔父さんについては、短い言葉で言い尽くすことはとてもできない。なぜなら、叔父さんのような人が他にいるとは、とても思えないからだ。
叔父さんはシティー・スクール(City School)(4) の先生だった。短いドーティ、半袖のパンジャビ、肩にはショール、手には傘、そして足には茶色の布製の靴 –– これを見れば、その職業は想像できた。結婚はしなかった。独身だったせいで、たぶん、歩いたりバスに乗ったりして、あちこちに散らばっている親戚たちの家に行って、彼らの消息を得るのが叔父さんの仕事だったのだ。ぼくらの、散らばりまくったラエ家の人たちを残らず知っていたのは、叔父さんだけだったと、ぼくは信じている。
面白い人間だと、その人が見る夢の数々も面白いものになるのだろうか? 叔父さんの夢の話を聞くと、そう思えたのだ。一度、こんな夢を見たことがあったそうだ –– ある場所で、盛大に、キールタン(5) が歌われている。しばらくそれを聞いていて、その歌の文句が、次のたった一行の繰り返しだったことがわかった –– 「真実(まこと)に 茄子(なす)は 燃える」 どうやってこの一行が歌われていたかを、叔父さんは、自分で歌って聞かせてくれた。別の夢では、カルカッタの街頭を、行列が行進している。人間じゃなくて、猿の一隊だ。手に布の旗を持ち、スローガンを叫びながら歩いている –– 「力を! 力を! 阿片に、もっと、力を!」
親戚の多くを、叔父さんは、自分でつけたあだ名で呼んでいた。それだけではなく、彼らについて何か話そうとする時にも、そのあだ名を使った。繰り返し叔父さんの口から聞いたせいで、そうしたあだ名に、ぼくらはすっかり慣れ親しんでしまった。ドンお祖父ちゃんは「ディダックス(Dedux)」、二番目の義理の叔父さん(Arun)は「ボロイド(Voroid)」、ドンお祖父ちゃんの娘トゥトゥ叔母さんは「ワン(Wang)」、息子のパンク叔父さんは「ゴグリル(Gogril)」、父方の従姉妹ニニ姉さんとルビ姉さんは「大クシュム・プア」と「小クシュム・プア」、「稲妻かみさん」が母さんで、「ヌルムリ」がぼくだった。いったいいつ、どうして、どのようにしてこうしたあだ名がつくことになったのか、誰も知らない。一度、義理の叔父さんの名前がどうして「ボロイド」なのか、訊いたことがある。叔父さんは真面目くさった顔をして答えた、「あの人は、とても早起きだからな。」(6) 自分では特に際立つほど宗教心が厚いわけではなかったけれど、聖者・修行僧たちに対して、叔父さんは、ごく自然な好奇心を抱いていた。そうした人びとの伝記を読み、その中で叔父さんが尊敬を払っている人がいると、その人が街に来れば出向いて会ってきたものだ。ティッボティ・ババ(6) 、トロイロンゴ・シャミ(7) 、ビジョエクリシュノ・ゴッシャミ(8) 、ショントダシュ・ババジ(9) 、ラムダシュ・カティア・ババ(10) –– こうした聖者たちについて、叔父さんの口から、どんなにたくさんの話を聞いたことだろう。
独り身で、自由気儘に生活し、僅かなもので満ち足りていたので、叔父さんを見ていると、時々は世捨て人のように思えたのだ。それに、叔父さんには、ふつうの人には滅多に見られないような、いくつかの性癖があった。口に入れた食べ物を32回噛む習慣については前に述べた。朝、顔を洗う時には、鼻から水を吸い込んで口から出すのが、しばらく続いた。これを「ナーキー・ムドラー(鼻の印)」(11) と言う。この他に、「カーキー・ムドラー(カラスの嘴の印)」というのもあったけれど、それがどんなものか、覚えていない。夕方に、「シャヴァーサナ(屍体のポーズ)」でしばらく横たわり、そのすぐ後、傘を持って外出した。
食事、休息、仕事、外出、おしゃべり –– こうしたすべての合間合間に、叔父さんは日記をつけていた。こんな日記を書いた人は、かつてどこにもいなかった、と断言できる。そこには、朝新聞で読んだ大事件の見出しから始まり、ほとんど一時間毎に、何をしたか、何を読んだか、何を食べたか、どこに行ったか、何を見たか、誰が来たか –– こうしたすべての描写。汽車に乗って出かけた時には、汽車のエンジンがどんな「型」か、それも書き留めた。エンジンにいろいろな種類があることを、ぼくは叔父さんの口から初めて知った。XP, HPS, SB, HB –– こうしたのが、その「型」の名前だった。当時の蒸気機関車のエンジンの横に、これが書かれていた。どこかに出かけなければならなくなると、叔父さんは、少し早めに駅に現れるのが常だった –– 車室に荷物を置くと、さっさと外に出て、エンジンがどの「型」か、調べなければならなかったから。もし何かの理由で来るのが遅くなると、最初の大きな駅に着くや、すぐに車室から出てその仕事を済ませて来るのだった。
叔父さんの日記は、四色の違った色で書かれた –– 赤、青、緑、そして黒。一つのことを言うのに、この四色全部を使うのが、日記の中によく見られた。色を交代させる決まりがあるらしかったけれど、いつになっても、ぼくには、それがはっきりとはわからなかった。わかったのは、自然描写が緑のインクで書かれ、名詞には赤いインクが使われたことだ。たとえば、「今日はひどい雨だった。マニクの家に行けなかった。」という二つの文があるとすると、最初の文は緑色のインク、二番目の文の最初の2語は赤で、残りは黒か青。寝台の上に四つ足のテーブルを置き、その上に色付きインクと筆を並べ、すごく集中して日記を書いている叔父さんの姿は、見るに値する光景だった。
もう一つ、日記について、どうしても言っておかなければならないことがある。
叔父さんは、食いしん坊ではなかったけれど、食べたり飲んだりはとても好きだった。毎日、あちらこちらの家に出かけて、そこで紅茶を飲むのが、特別の楽しみだった。日記にもこのことが書かれたけれど、ありきたりの書き方ではなかった。飲んだお茶について形容詞が付けられ、その形容詞の括弧付きの説明がその後に続いた。
一ヶ月の日記の中から、12の例を挙げる。これを見れば、それがどんなものか、わかってもらえるだろう。
(1) 人獅子(ヌリ=シンハ)(12) 向き茶(勇壮果敢、雄叫びを上げさせる、刺激性の茶)
(2) 信愛派(ヴァイシュナヴァ)(13) 向き茶(従順で、甘美で、柔和な、非暴力茶)
(3) ヴィヴェーカーナンダ(14) 向き茶(カルマ=ヨーガへの意欲を高め、弁舌増進、真理への情熱を与える茶)
(4) ボッタチャルジョ(15) 向き茶(学識増進、威厳を与える、刺激の少ない、心温まる茶)
(5) ダヌヴァンタリ(16) 向き茶(治癒力を高め、長寿・健康を増進させる茶)
(6) 監視人向き茶(注意力増進、精神高揚、眠気覚ましの茶)
(7) 集会向き茶(人をすっかり夢中にさせる茶)
(8) 書記向き茶(会計簿を見る意欲を増す、ミルクがたっぷり入った、美味な茶)
(9) 警視向き茶(勇猛心を与え、自尊心を高める茶)
(10) 一般大衆向き茶(特徴のない、その場限りの茶)
(11) 聖仙ナーラダ(17) 向き茶(音楽への愛を増進させ、真理の知恵を授け、献身への情感を呼び覚ます茶)
(12) ハヌマーン(18) 向き茶(信頼増進、障害の海を乗り越える力を与え、勇気をもたらす茶)
訳注
(注1)『ぼくが小さかった頃』③参照。
(注2)Barlat Ali & Pros、1910年創業。カルカッタで最も有名な洋服の仕立て屋。
(注3)『マハーバーラタ』のクライマックス、パーンダヴァ族とクル族の決戦場。アルジュナは、クリシュナ神の加護を受けたパーンダヴァ族の王子。
(注4)カルカッタ大学の学部レベルの教育機関City Collegeは、ブラーフマ協会の管理の下、1881年に創設された。その下にある中高レベルの学校。
(注5)ヒンドゥー教の神を、集団で歌い讃える讃歌。特に信愛派(ヴァイシュナヴァ)のヴィシュヌ神・クリシュナ神を讃えるキールタンは、ベンガルで広く行われている。
(注6)Tibbati Baba/Tibbeti Baba(?~1930) 「チベットの聖者」の意。東ベンガル(現バングラデシュ)シレート地方出身のベンガル人聖者。ヒンドゥー教ヴェーダンタ学派の理論と大乗仏教を結びつけたと言われる。チベット式の修行をしたことからこの名がある。
(注7)Trailanga Swami (1607~1887) 言い伝えでは280年生きたと言われる、アンドラ州生まれの聖者。後半生のほとんどを、ワーラーナシーで過ごした。
(注8)Bijoy Krishna Goswami (1841~1899) ベンガル近代の宗教改革者。ブラーフマ教の信者だったが後に信愛派に転じた。
(注9)Santadas Kathia Baba (1859~1935) 東ベンガルシレート地方出身の信愛派行者。Ramdasji Kathia Baba(注10)の一番弟子。
(注10)Ramdasji Kathia Baba (1800~1909) パンジャブ州出身の、著名な信愛派行者。
(注11)「ジャラ・ネーティ(鼻の洗浄)」の誤りと思われる。「ムドラー(手印)」は瞑想修行時に、手・指で結ぶ、象徴的なジェスチャーのこと。
(注12)ヴィシュヌ神の十化身のひとつ。ライオンの頭を持つ獣人。ヴィシュヌ神に逆らうアスラ族のヒラニヤカシプを退治した。
(注13)ヴィシュヌ神・クリシュナ神への信愛を説くヒンドゥー教の一派。
(注14)Swami Vivekananda (1863~1902) インド近代の代表的な宗教・社会改革者。ヴェーダンタ哲学とヨーガ理論を初めて西欧社会に本格的に紹介した。カルマ=ヨーガ(人々への献身の実践を通して、悟りに至る道)を説いて、インドの愛国主義・社会改革の発展に、大きな影響を与えた。
(注15)ベンガルの高位バラモンの姓。「博識な教師・学者」の意。
(注16)神々を治療する医者。
(注17)古代インドの伝説上の仙人。楽器ビーナの発明者とも言われる。
(注18)『ラーマーヤナ』で、ラーマに忠誠を尽くした猿の従者。ラーマ王子とともに、海を越えてスリランカに住むラーヴァナ一族と戦った。
大西 正幸(おおにし まさゆき)
東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。
ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。
現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。
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更新日:2023.11.01