サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』番外篇 「二人の奇術師」

「二人の奇術師」

「5,  6,  7,  8,  9,  10,  11」

シュロポティは、トランクの数を数え終えると、オニルの方を振り向き、「これでよし、と。全部、貨物車に運んでくれ。あと、25分しかない。」

 

「先生の席も、ちゃんととってありますよ。一等寝台車です。上下二段とも、先生の席です。ご心配なく。」 オニルは、ここまで言うと、その後、くすりと笑って、「車掌の旦那も、先生の大ファンでしてね。新帝国劇場(1) で、先生のショーを見たんだそうです。さあ、旦那 –– こちらへどうぞ。」

 

車掌のビレン・ボクシ氏は、満面笑みを湛えてシュロポティに近づくと、自分の右手を彼に向けて差し出した。「さあ、先生、その手捌きで私をすっかり夢中にさせた、あなたのそのお手に、握手させていただけるとありがたいのですが …」

 

シュロポティ・モンドルの、11個のトランクのどれか一つに目をやれば、彼が何者かはすぐにわかる。一つ一つのトランクの、側面と蓋の上には、大きくはっきりした字で、「モンドルの奇跡」と書かれている。それ以上の説明は無用である –– なぜなら、今からちょうど2ヶ月前、カルカッタの新帝国劇場で、モンドルの奇術の腕前を目の当たりにした観客は、何度も大拍手を浴びせて彼らの熱狂ぶりを伝えたのだ。新聞にも、賛辞が山のように寄せられた。一週間の興行のはずが、後から後から観客が押し寄せたために、興行は4週間続くことになった。それでも観客は満足しない様子だった。劇場支配人のたっての願いで、クリスマス休暇に再びショーをすることを、約束せざるを得なかった。

 

「何か困ったことがあれば、仰っしゃってください、先生。」

 

車掌はシュロポティを車室へと案内した。シュロポティは、車室をひとわたり見渡して、安堵のため息を洩らした。居心地はよさそうだ。

 

「先生、ではこれで …」

 

「どうもありがとう。」

 

車掌が立ち去ると、シュロポティはベンチの隅にすわり、窓側に身をもたせかけ、ポケットから、タバコを一箱、取り出した。この旅が、彼の凱旋行進の、始まりになるだろう。ウッタル=プラデーシュ州のデリー、アーグラー、イラーハーバード、ワーラーナシー、ラクナウ。今回はこの5箇所だけだが –– その後さらに、一体いくつの州、いくつの都市、いくつの町が待っていることか。それに、インドに限った話じゃない。その外には、世界ってものがある –– 果てしなく広がる世界。ベンガル人だからって、野心がないなんて思うなよ。このシュロポティ様が、目にもの見せてやるからな! むかし、奇術師フーディーニ(2) の話を読んで、身体中、総毛立つ思いがしたものだが、そのフーディーニの国アメリカにまで、おれの名声を、轟かせてやる。ベンガルの若造が、どこまでやれるか、世界中の人びとの目の前で、証明してみせるのだ。これからの何年かを、見ているがいい! 今回の旅は、まだまだ、序の口にすぎない。

 

オニルが、息せき切ってやって来ると言った、「全部完了です。何もかも。」

 

「ちゃんと全部、鍵はかかっていただろうな?」

 

「はい、先生。」

 

「よし。」

 

「私は、二つ向こうの車輌にいますので。」

 

「発車の合図は?」

 

「もうすぐです。では、私はこれで … ボルドマン駅(3) に着いたら、お茶をお飲みになりますか?」

 

「悪くないな。」

 

「じゃあ、私がお持ちします。」

 

オニルは立ち去った。シュロポティは、タバコに火をつけると、窓の外に視線を投げた。プラットフォームの上では、苦力(クーリー)、旅客、物売りたちが、騒がしい声を上げながら、右に左に流れて行く。そちらを見ているうちに、シュロポティは、ぼおっとした気分になった。目に靄がかかったかのようだ。駅の喧騒が、次第に消え失せて行く。心は遥か彼方、遥かな過去へと、さまよい始める ……

 

*****

 

いま33歳の彼は、その時はまだ、7か8だった。ディナジュプル県(4) のちっぽけな村 –– パンチュプクル。秋のある穏やかな真昼時。一人の婆さんが、麻の肩掛け袋を手に、バンヤン樹の蔭、モティ・ムディの雑貨屋の真ん前にすわっている。婆さんを取り巻いているのは、子供や老人の群れ。婆さんは、いったい、何歳だっただろう? 60だったかも知れないし、あるいは90だったかも知れない。凹んだ頬に、無数の入り組んだ皺、笑うとその皺の数は倍になった。そして歯の抜けた隙間から、とめどないお喋りが続いた。

 

バーヌマティーの魔術(5)

 

バーヌマティーの魔術を、婆さんは見せたのだった。それが最初で、それが最後だった。だがその時見たものを、シュロポティは決して忘れなかったし、これからも忘れることはないだろう。彼自身の祖母だって、その時はもう65歳だったが、針の穴に糸を通そうとしただけで、身体中がブルブル震えたものだ。なのに、あんな婆さんの皺だらけの手に、あれほどの魔術があったとは! 目と鼻の先、1メートルも離れていない物を、呪文とともに息の一吹きでどこかに消してしまい、次の瞬間には、また一吹きで取り出して見せた。貨幣、ビー玉、独楽、檳榔子、グァヴァの果実まで! カル叔父さんから1ルピーを受け取って、それを消してしまったので、叔父さんは、どんなに怒りまくったことか! でもその後、婆さんがケラケラ笑いながらそれを取り出して、叔父さんに返してみせた時、叔父さんはびっくりして、目を丸くしたのだった。

 

シュロポティは、この奇術を見たせいで、その後何日かの間、よく眠れなかった。そしてその後眠れるようになった時も、数ヶ月の間、ときどき「奇術! 奇術!」と叫び声を上げたのだそうだ。

 

この後、村で縁日などがある時には、奇術を見たいがために、シュロポティは必ずその場に駆けつけたものだった。でも、驚きに値するようなものには、その後、何一つ目に留まらなかった。

 

*****

 

16歳の時、シュロポティはカルカッタに来た。ビプロダシュ通り(6) にある父方の叔父の家から、カレッジに通うために。カレッジの教科書と一緒に、奇術の本を読み漁った。カルカッタに来て1, 2ヶ月のうちに、シュロポティはそうした本を買い込み、買ってから何日も経たないうちに、本に載っている奇術を残らずものにした。トランプのセットを山ほど買う必要があった。何時間にもわたって、トランプを手に鏡の前に立ち、奇術の練習をしなければならなかった。カレッジでの学芸の女神サラスヴァティーの祭祀や、友人たちの誕生日等々で、シュロポティは、そうした奇術を見せることがあった。

 

カレッジ2年生の時だった。友人ゴウトムの妹の結婚式に招待された。シュロポティの奇術を学ぶ歴史において、それは記念すべき一日だった –– なぜなら、この結婚式の場で、初めて彼は、トリプラ・バブーに出逢ったのだから。スインホ通り(7) の巨大な館が立ち並ぶ、その裏側の原っぱに、大天幕が張られ、その片隅、広げられた一枚のマットレスの上に、招待客に取り囲まれて、トリプラチョロン・モッリクはすわっていた。パッと見には、まったく取るに足らぬ人物に見えた。48歳、縮れ毛を小分けに、顔には笑みを浮かべ、唇の両端には、パーンを噛んだ後の赤い痕がついている。こんな人は、そこらの街角で、いくらでもお目にかかる。だが、彼の真ん前のマットレスの上で起きている、とてつもない出来事を目にすれば、この人物に対する見方を変えざるを得なくなる。シュロポティは、最初、自分の目を、信じることすらできなかった。

 

一枚の銀貨が、転がりながら、2メートル近く離れて置かれた黄金の指環の傍に行き、その後、指環を引き連れて、また転がりながらトリプラ・バブーの許に戻って来る。シュロポティは唖然となり、拍手するのも忘れていた。

 

その一方、トリプラ・バブーは、次の瞬間には、またもや別の、とんでもない奇術を見せた。ゴウトムの叔父さんが、奇術を見ながら葉巻に火をつけようとして、持っていたマッチを、箱から全部、地面に落としてしまった。叔父さんがかがみ込もうとしているのを見て、トリプラ・バブーは言った、「そんなに苦労してまで、どうしてそれを拾おうとするんです、旦那? 私に箱をくださいな。拾ってあげましょう。」 その後、マッチ棒をマットレスの片隅に山積みにして、自分の左手に空箱を持つと、トリプラ・バブーは声をかけ始める –– 「おいで、一人ずつ、おいで、おいで、おいで ……」 すると、マッチ棒たちは、まるで飼い猫か飼い犬のように、後から後から一本ずつやって来て、箱の中に収まり始めたのだ。

この奇術の後、食事が済んでから、周りにあまり人がいないのを見計らって、シュロポティはトリプラ・バブーに話しかけた。トリプラ・バブーは、シュロポティの奇術に対する熱意を見て、驚きを隠さなかった。「ベンガル人は、奇術を見るだけで満足して、それを見せようなんて思う人は、滅多にいるもんじゃない。君がこんなに興味を持っているなんて … 本当に、驚いたな。」

 

*****

 

このすぐ二日後、シュロポティはトリプラ・バブーの家を訪れた。家と言えば間違いになる。ミルジャプル通り(8) の共同宿舎の、古びたちっぽけな一室だった。窮乏生活のこんなにあからさまな姿を、シュロポティはそれまで、見たことがなかった。トリプラ・バブーは、シュロポティに、自分の生業のことを話した。奇術の「謝金」は、一回に50ルピー。月に2回お呼びがかかるかどうか、疑わしい。その気になって努めれば、もう少し招ばれる機会を増やすこともできただろうが、トリプラ・バブーにそんな気がさらさらないことが、シュロポティにはわかった。こんなに熟練した技を持つのに、どうして、野心というものを、まるっきり抱かないのだろうか。このことを話題にすると、トリプラ・バブーはこう答えた、「何になるんだ? この情けない国に、「良き物」の価値を認めようなんて人間が、いるものかね? いったい誰が、本物の「アート」を理解できる? 本物か偽物かを見分けられる人が、何人いると言うんだい? 先日の結婚式での奇術を、君はずいぶん褒めてくれたが、他には誰一人、褒める者がいなかっただろ? 食事の準備ができたと聞いた途端、奇術なんかには見向きもせず、誰もがいそいそと、腹を満たすために、消えちまったじゃないか。」

 

シュロポティは、親戚縁者や友人の何人かの家で行事があった時、トリプラ・バブーの奇術の手配をした。いくらかはそれに対する感謝をこめて、しかし何よりも彼に対する自然な愛情のために、トリプラ・バブーは彼に奇術を教えることに同意した。シュロポティが謝金の話をすると、トリプラ・バブーは強く反対した。「そんな話を持ち出すんじゃない。私の後を継ぐ者が、一人現れた –– それこそが、重要なことだ。君の熱意が本物なのを見て、私は君に教える気になったのだ。だが、せっかちになるんじゃないぞ。これはな、一種の修行なんだ。急(せ)いては、何一つ、ものにならない。しっかり学べば、創造の喜びが得られる。大金持ちになるとか、名声を得られるとか、期待するんじゃない。もっとも、君は、私のような惨めな状態になることは決してあるまい –– 君には野心があるが、私にはないからな ……」

 

シュロポティは、おそるおそる尋ねた、「奇術を全部、教えてくれるんでしょうね? あの、銀貨と指環のやつも?」

 

トリプラ・バブーは笑って答えた、「一歩一歩、進むことだ。慌てるんじゃない。辛抱強く続けるのだ。何より、精進が大切だ。これはな、遥か昔から伝わってきた技だ。人間の心に、本物の力、本当の集中力があった時代に、こうした奇術が生まれたのだよ。今の時代の人間にとって、心をそのレベルまで引き上げるのは、容易ではない。私がこれまで、どんなに努力しなければならなかったか、君にわかるか?」

 

*****

 

トリプラ・バブーの許で6ヶ月ほど教えを受けた時、ある出来事が起きた。

 

ある日、カレッジに行く途次、チョウロンギ(9) の方をみると、四方の壁、電柱、家々の壁に、カラーの広告が貼り付けてある –– 「偉大なるシェファッロ」。近づいてその広告を読んで、シェファッロがイタリアの有名な奇術師であることを、シュロポティは初めて知った –– そのシェファッロが、カルカッタに奇術を見せにやって来るのだ。マダム・パラルモという、仲間の奇術師を伴って。

 

新帝国劇場で、1ルピーの二階桟敷席にすわり、シュロポティはシェファッロの奇術を見た。目を眩ませ、心を虜にする、驚くべき奇術ばかりだった。こうした奇術のことを、それまでシュロポティは、ただ本で読んだだけだった。目の前で、何人もの人間がまるごと煙に巻かれて姿を消し、再びまたその煙の中から、アラジンの魔法のランプのように彼らが現れ出る。一人の娘を木の箱の中に入れ、鋸で真っ二つに切ってしまうのに、その5分後には、その娘がまた、別の箱の中から笑いながら姿を現す –– その身体には傷痕ひとつない。その日、強い拍手を繰り返したせいで、シュロポティの掌は真っ赤になった。

それにその日、シェファッロという人物を観察していて、シュロポティは、何度も呆然とせざるを得なかったのだ。その男は、奇術師であると同時に、役者でもあった。黒いきらびやかなスーツをまとい、手には魔法の杖、頭にはシルクハット。そのシルクハットの中から、シェファッロの魔法で、取り出せない物はなかった。一度は、空っぽの帽子の中に手を突っ込んで、一匹の兎を、その耳を掴んで取り出した。その哀れな兎が、痛めつけられた耳を揺すり終えたと見るや、今度は鳩が出てきた –– 1羽、2羽、3羽、4羽。魔法の鳩が、パタパタと舞台の四囲を飛び回り続ける。一方、シェファッロは、今度はその同じ帽子の中からチョコレートを取り出して、観客に次々に投げやる。

 

そして、こうした奇術が次々に進行する間中、シェファッロの口上が続いていた。「早口口上」というやつだ。シュロポティは、英語の本で、それを ‘patter’ というのだと知った。この ‘patter’ が、奇術の重要な柱の一つなのだ。観客がこの ‘patter’ の洪水に溺れている間に、奇術師は、その隙を利用して、手を使った本来のからくりを、次々にやり遂げてしまう。

 

だが、その驚くべき例外は、マダム・パラルモだった。彼女の口からは、一言も言葉が出て来ない。無言の機械人形のように奇術を見せ続けた。だとすると、彼女は、一体いつ、からくりを仕掛けるのだろう? これに対する答も、シュロポティは、後になって知ることになった。舞台では、手のからくりをまったく使わなくても、奇術を見せることが可能なのだ。そうした奇術は、ただひたすら機械仕掛けに頼っていて、舞台の黒幕の背後には、そうした機械を操る人が控えている。人間を二つに切って、それをまた繋げたり、煙の中に消してしまったり –– これらはすべて、機械を使ったからくりだ。金さえあれば、誰だって、そんなからくりを買ったり作らせたりして、そうした奇術を見せることができる。もちろん、奇術を面白おかしく見せたり、派手な衣裳で観客の心を惹きつけたりすることの中にも、芸があり、「アート」がある。誰もがその「アート」を身につけているわけではないから、金さえあれば奇術師になれる、というわけにはいかない。誰しもが、いったい ……

 

シュロポティの追憶は、突然ここで、散り散りになった。

 

*****

 

汽車がガタンと大きく揺れて、ブラットフォームを離れた。そしてまさにその瞬間、勢いよく扉を開けて、誰かが客室の中に入り込んだのだ –– 何てことだ! 慌てふためいて立ち上がり、制止しようとして、シュロポティはその場に凍りついた。

 

何と、トリプラ・バブーではないか! あの、トリプラ・モッリクが ……

 

シュロポティは、これに似た体験を、過去に何度がしたことがある。知り合いの一人と、長いこと会っていない。ある日突然、その人のことを思い出したか、あるいはその人のことを話した次の瞬間、その人本人が目の前に姿を現す。だがシュロポティは、こうも思った –– トリプラ・バブーのこの日の出現に比べたら、以前のそうした出来事は、どれも、ものの数ではないのだ、と。

 

シュロポティは、数瞬の間、口から言葉が出て来なかった。トリプラ・バブーは、ドーティーの裾で額の汗を拭い、手にしていた荷物の束を床に置くと、シュロポティのベンチの反対の隅に腰をおろした。そうしてシュロポティの方に目を遣り、微笑んでこう言った、「驚いただろ、な?」

 

シュロポティは、何とか唾を呑み込むと言った、「驚いたの、なんのって –– そもそも、あなたが生きているなんて、ぼくは、思ってもいませんでした。」

 

「どうしてだ?」

 

「学士資格試験の数日後に、あなたの共同宿舎に行ったんですがね。鍵がかかっているじゃないですか。で、管理人の旦那 –– 名前は忘れました –– が言うことには、あなたが車に轢かれて …」

 

トリプラ・バブーは、ほーほーと高笑いして言った、「そうなってくれたら、助かったんだがな。山ほどある心配事から、解放されただろうに。」

 

シュロポティは続ける、「それに、もう一つ言いますと –– ここのところ何日か、ぼくは、あなたのことを思っていたんですよ。」

 

「何だって?」 トリプラ・バブーの表情に、暗い翳が差したかのようだった。 「私のことを思っていた、だって? まだ私のことを思うことがあるのか? 驚いたな。」

 

シュロポティは舌打ちした。「何てことを仰っしゃるんです、トリプラ・バブー! ぼくがそんなに簡単に忘れる、とでも? ぼくに最初に奇術の手解きをしてくれたのは、あなたでしょう? 今日は特に、昔の日々のことを思い出していたんですよ。今日、ぼくは、ベンガルの外に、『ショー』をやりに行きます。初めてです、ベンガルの外は。 –– ぼくがプロの奇術師になったことを、ご存知ですか?」

トリプラ・バブーは、首を横に傾げて同意を表した。

 

「知っているとも。何もかも知っている。何もかも知った上で、今日、君に会うためにやってきたのだ。この12年間、君が何をして何をしなかったか、どうやって成長してここまでになったのか –– 何かも、私が知らないことはない。あの日、新帝国劇場に、私はいたのだよ。初日に。一番後ろの列に。皆が君の奇術の腕前を、どんなに称賛したか、目の当たりにしたよ。もちろん、誇りに思わないでもなかった。だが ……」

 

トリプラ・バブーは、ここで口を噤んだ。シュロポティにも、言うべき言葉が見つからなかった。何を言ったらいいというのか? トリプラ・バブーが少しく気を害したからと言って、それをトリプラ・バブーのせいにすることはできない。実際、彼が奇術の基礎を鍛えてくれなかったとしたら、シュロポティが今日、こんなに上達することはなかっただろう。それなのに、それに対して、シュロポティは、一体何をしたというのか? むしろ反対に、この12年間、自分の胸から、トリプラ・バブーの追憶を次第に消し去ってきたではないか。トリプラ・バブーに対する感謝の念も、薄れてきたかのようだ。

 

トリプラ・バブーは、口を開いた、「君のあの日の成功を見て、私は誇りに思ったよ。だが、それと同時に、残念にも思ったのだ。どうしてか、わかるか? 君が選んだ道は、本当の奇術の道ではない。君が見せたのは、観客をたぶらかすための、派手な身振り手振り、機械を使ったからくりがほとんどだ。君自身の技ではない。それなのに、君は、私の奇術を覚えている、と言うのかね?」

 

シュロポティは、それを忘れてはいなかった。しかし同時に、彼にはこうも思えたのだ –– トリプラ・バブーは、自分の最高の奇術を、彼に教えるのをためらっているのだ、と。「まだその時ではない」が、トリプラ・バブーの口癖だった。そして、「その時」は遂に来なかった。その前に、シェファッロが現れたのだ。シェファッロのようになった自分を想像して、彼は、壮大な夢を見始めた。国々を回って奇術を見せ、金を稼ぎ、名声を広め、人々に喜びを与え、拍手喝采を浴びる。

 

トリプラ・バブーは、窓を通して、ぼおっと、まるで我を忘れたかのように外を見つめている。シュロポティは、彼をひとわたり観察した。本当に、困窮の極みにあるように見えた。頭髪は殆ど白くなり、頬の皮はたるみ、目は眼窩に落ち込んでいる。でも、その眼差しは、少しでも力を失っただろうか? そうは見えない。恐ろしく鋭い眼光。

 

トリプラ・バブーは、深いため息をつくと言った、「もちろん、君がどうしてこの道を選んだかは、わかっている。君がこう信じているのも –– 私にもその咎はあるかも知れないが –– 本物が、その価値を認められることは、ない。舞台で奇術を見せるとなれば、少々のまやかし、見せびらかしが必要だ、と。そうじゃないかな?」

 

シュロポティは否定しなかった。シェファッロを見てからというもの、彼はそう思うようになったのだ。だが、まやかし・見せびらかしそれ自体に、罪があるだろうか? 今は昔とは、時代が違うのだ。結婚式の場で、マットレスの上にすわって奇術を見せることで、どうやって日々の稼ぎを得ると言うのか? 一体誰が、その名を知ると言うのか? トリプラ・バブーの体たらくを、彼は、自分の目で見たのだ。本物の奇術を見せることで、腹を満たせないとするなら、そんな奇術の、どこに価値があると言うのか?

 

トリプラ・バブーを前に、シュロポティは、シェファッロの話を持ち出した。何千もの観客が見て喜び、称賛を浴びせているものに、何の価値もないと言うのか? 本物の奇術に、シュロポティが敬意を払わないわけではない。でも、その道には何の未来もない。だからシュロポティはこの道を選んだのだ ……

 

トリプラ・バブーは、不意に、興奮を抑えられなくなったかのようだった。ベンチの上に足を組んですわると、シュロポティの方へと身を乗り出した。

 

「いいか、シュロポティ、君がもし、本物の奇術がどういうものかわかっていたとしたら、まがい物の尻を追っかけたりはしなかっただろう。手を使ってのからくりなど、そのほんの一部に過ぎない。無論、それだって、どれだけの範疇、それだけの種類があるか、数え切れないほどなんだが。ヨーガの修行のように、そうした手品は、何ヶ月も、何年も修練しなければならないのだ。だがそれ以外にも、どんなにいろいろなものが、あることか。催眠術。眼差しの力だけで、完全に人間を、自分の思いのままに操ることができる。相手の手を、完全に萎えさせることだって、できるのだ。それから、透視術、またはテレパシー、または読心術。相手の頭の中を、自由自在に行き来できる。相手の脈を取れば、そいつが何を考えているか、当てることができる。しっかり技を習得すれば、誰にも触れる必要すらなくなる。1分かそこら相手の目を見つめただけで、そいつが心の奥で何を考えているか、全部知ることができるのだ。そんなものを、「奇術」と呼ぶのか、だと? 世界中の最高の奇術、すべての根本に、こうしたものがあるのだよ。そこには、からくりなんてものが、入る余地はない。あるのはただ修行、信念、そして一途な精進だけだ。」

 

トリプラ・バブーは、息を継ぐために言葉を切った。汽車の車輪の響きのため、声を張り上げてしゃべらなければならなかったのだ。おそらくそのために、彼はますます、疲労の色を濃くしていた。さらに身を乗り出すと、彼は続けた、「私は君に、こうしたすべてを教えてやりたかったのだが、君は関心を示さなかった。辛抱が足りなかったのだな。一人の外来の詐欺師の、薄っぺらなけばけばしい興行に、たぶらかされたのだ。本物の道を捨てて、たやすく金や名声が得られる道に走ったのだ。」

 

シュロポティは無言のままだ。この非難のどれに対しても、本心から反駁することはできない。

 

トリプラ・バブーは、今度はシュロポティの肩に片手を置き、声音を少し和らげて言った、「私はな、君に一つ、頼みがあって、やって来たのだよ、シュロポティ。私を見て気づいたかどうか知らんが –– 私はいま、本当に困っているのだ。こんなに奇術を知っているのに、金を得る奇術は、いまだに知らぬままだ。野心がなかったのが、私の破滅の原因だ –– さもなければ、食うのに困るはずはなかっただろうに。私はな、こんな歳になって、自分の足で立つ力すら、もう残っていない。だが、私が困っている時に、君なら私を –– 少々の犠牲を払ってでも –– 助けてくれるのではないか、という信念くらいは、まだ持ち合わせている。この一度だけだ –– その後、もう君を邪魔だてすることはしまい。」

 

シュロポティの頭はすっかり混乱した。この人は、いったい、どんな手助けを求めているのだろう?

 

トリプラ・バブーは続ける、「君にとって、この計画は、もしかしたら少し残酷に響くかも知れん。だが、これ以外に方法はないのだ。問題はな、私は、ただ単に金が必要だというだけではない。実は、この歳になって、どうしてもやりたいことがひとつ、出て来たのだ。たくさんの観客が見ている前で、私の最高の奇術をいくつか、一度、見せてやりたいという。たぶん、これが最初で最後だろうが、どうしてもこの気持ちを、抑えることができんのだよ、シュロポティ!」

 

いい知れぬ不安に襲われて、シュロポティの胸は震えた。トリプラ・バブーは、いよいよ、彼の提案を持ち出した。

 

「ラクナウでの奇術の興行が決まって、君は、そこに行くところだろう。だが、いいか、もしその興行の直前に、君が病気になったとしたら? 観客をすっかり落胆させて帰らせるのを避けて、もしも、君の代わりに他の誰かが ……」

 

シュロポティは呆然となった。何てことを言うんだ、トリプラ・バブーは! まったく、藁にもすがる状態なのに違いない。そうでなければ、こんなとんでもない計画を、どうして思いつこう?

 

シュロポティが黙っているのを見て、トリプラ・バブーは続ける、「止むに止まれぬ事情のため、君の代わりに、君の師匠が奇術を見せる –– こんな風に告知するのだ。それで観客が、落胆すると思うか? 私はそうは思わない。私の奇術を見れば、観客は喜ぶだろうと、私は堅く信じている。だがそれでも、私はこう提案する –– 初日の興行のあがりのうち、半分は君のものだ。私は残りの半分でやっていける。その後、君は好きなようにやるがいい。私はそれ以上、君を邪魔だてすまい。ただこの一日だけ、君は私を、舞台に立たせなければならんのだよ、シュロポティ!」

 

シュロポティの頭は熱くなった。

 

「そんなの、無理ですよ! 何を仰っしゃっているのか、あなたは自分でもおわかりになっていない。いいですか、これがぼくの、ベンガルの外での、最初の興行なんですよ。ラクナウでの『ショー』に、どんなにたくさんのことがかかっているか、おわかりになりませんか? ぼくの経歴の初っ端を、こんな嘘でもって、始めようなんて! どうして、そんなことが、思いつけるんですか?」

 

トリプラ・バブーは、シュロポティの方を、暫(しば)し、凝っと見つめていた。その後、汽車の車輪の音の上を漂うようにして、彼のゆっくりした抑制のきいた声が、シュロポティの耳に届いた。

 

「あの銀貨と指環の奇術に、君はまだ、執着があるかね?」

 

シュロポティはギクリとした。だがトリプラ・バブーの眼差しには、何の変化もない。

 

「なぜです?」

 

トリプラ・バブーは笑みを浮かべて言った、「君がもし、私の提案に同意してくれたら、私は君に、あの奇術を教えてやろう。同意すれば、いますぐに、だ。だが、もし同意しないなら ……」

 

途方もない大きな汽笛の音とともに、シュロポティたちの汽車の横を、ハウラー駅に向かう汽車が通り過ぎた。彼の車室の明かりに照らされて、トリプラ・バブーの目が、何度もギラギラ燃え上がった。明かりと音が消え去った後、シュロポティは尋ねた、「で、もし、同意しなかったとしたら?」

 

「よくないことが起きるぞ、シュロポティ。君が知っておかなければならないことが、ひとつある。私が観客の中にいるとしたら、その気になれば、どんな奇術師も、困らせたり、辱めたり、場合によっては完全に役立たずにすることもできるのだ。

トリプラ・バブーは、コートのポケットから一組のトランプを取り出し、シュロポティの方に差し出した。「君の手品を、見せてごらん。難しいやつではなく、一番初歩的なやつを。手の一振りで、後ろにあるこのジャックを、このハートの3の前に持ってくるんだ。」

 

16歳のシュロポティは、鏡の前に立ってこの手品をものにするのに、7日しかかからなかった。

 

なのに、今日は?

 

シュロポティがトランプを手にしてみると、指が痺れてきている。指だけではない –– 指、手首、肘 –– 腕全体が、完全に麻痺している。シュロポティの霞がかかった目に映るのは、トリプラ・バブーの唇の端に浮かぶ、薄気味悪い笑み。人間のものとは思えない鋭い眼差しで、彼はシュロポティの方を見つめている。シュロポティの額は汗ばみ、身体全体が震え出しそうだ。

 

「これで、私の力がわかっただろう?」

 

シュロポティの手から、トランプの束が、ベンチの上にポロリと落ちた。トリプラ・バブーは、トランプをまとめて手に取ると、言った、「同意するか?」

 

シュロポティの不快な麻痺状態は、解かれた。彼は、疲弊した弱々しい声で答えた、「あの奇術を、教えてくれるんでしょうね?」

 

トリプラ・バブーは、右手の人差し指をシュロポティの鼻先に突きつけたまま言った、「ラクナウの最初のショーで、君の病気のために、君の代わりに、君の師匠トリプラチョロン・モッリクが、奇術を見せる。そうだな?」

 

「はい、そうです。」

 

「君は、稼いだ金の半分を、私に渡す。そうだな?」

 

「その通りです。」

 

「それでは、見せてやろう。」

 

シュロポティは、ポケットをまさぐって、一枚の銀貨を取り出し、また、自分の指からサンゴを嵌め込んだ指環を外して、トリプラ・バブーに渡した ……

 

*****

 

ボルドマン駅で汽車が止まり、オニルが茶を持って、ボスの車室の前に来てみると、シュロポティは眠りこけている。オニルが、少しためらった後、「先生!」と、微かな声で一度呼びかけると、シュロポティは、すぐにあたふたと身を起こしてすわった。

 

「何だ … いったい、どうしたんだ?」

 

「お茶を持って来ました、先生。お邪魔立てして、申し訳ありません。」

 

「だがいったい … ?」

 

シュロポティは、混乱した眼差しで、車室の中をキョロキョロ見渡した。

 

「どうなさったんです、先生?」

 

「トリプラ・バブーは … ?」

 

「トリプラ・バブー、ですって?」 オニルは呆気にとられている。

 

「いやいや … トリプラ・バブーなら、もう1951年に … バスに轢かれて … だが、ぼくの指環は?」

 

「どの指環です、先生? 先生のサンゴのやつなら、指に嵌ったままですよ。」

 

「そうだな。で …」

 

シュロポティは、ポケットに手を突っ込んで、銀貨を一枚取り出した。オニルは、シュロポティの手がブルブル震えているのに気づいた。

 

「オニル、一度、中に入って来い。さっさと来るんだ。その窓を、全部、閉めてくれ。そうだ。さて、見ていろよ。」

 

シュロポティは、ベンチの一方の側に指環を、もう一方に銀貨を置いた。そうしてから、守護神の名を唱えて運を天に任せ、全神経を集中して鋭い視線を銀貨の方に注ぎ、夢で得た技を働かせた。銀貨は、親の命令にしぶしぶ従う息子のように、指環の傍まで転がって行き、指環を引き連れて、シュロポティのところまで戻って来た。

 

オニルの手からは、茶の入ったカップが、あやうく転げ落ちるところだった –– シュロポティが、見事な手捌きで、落ちる寸前に、それを自分の手に受け取らなかったとすれば。

 

*****

 

ラクナウの奇術ショーの初日。シュロポティ・モンドルは、幕開けに、集まった観客の前に立ち、彼の奇術の先生であった故トリプラチョロン・モッリクに対し、心からの敬意を表した。

この日の最後の演目は –– シュロポティはそれをインド古来の奇術と説明したのだが –– 指環と銀貨の奇術だった。

 

訳注

この作品は、『ションデシュ』誌1963年3~4月号に掲載された。サタジット・レイ『ぼくが小さかった頃』⑦参照。

(注1)新帝国劇場(New Empire Theatre)は、1932年に、カルカッタの中心エスプラナードの東側(現在のオベロイ・グランド・ホテルの南)に建てられた。この年、タゴールの劇『踊り子の礼拝』が、タゴールの演出のもとで演じられた。1950年代に改造され、映画館となった。

(注2)フーディーニ(Harry Houdini, 本名Erich Weisz, 1874~1926)は、ハンガリー生まれの、著名なアメリカ人奇術師・曲芸師。

(注3)西ベンガル州中部の町。カルカッタのハウラー駅を出て西インドに向かう急行が、最初に止まる駅。

(注4)東ベンガル(現バングラデシュ)の北西部に位置する。

(注5)バーヌマティーは、古代インドの伝説の王ビクラマーディティヤ王の妻。魔術に長けていたと言われる。

(注6)Bipra Das Streetは、北カルカッタのゴルパル地区、サタジット・レイの生家の近くにある。

(注7)Swinhoe Streetは、南カルカッタのバリガンジ地区にある。

(注8)Mirzapur Street (現在のSurya Sen Street)は、北カルカッタ、カルカッタ大学近くの路地。

(注9)カルカッタ中心部の目抜き通りチョウロンギ・ロード(Chowringhee Road)とその周辺を指す。

 

大西 正幸(おおにし まさゆき)

東京大学文学部卒。オーストラリア国立大学にてPhD(言語学)取得。
1976~80年 インド(カルカッタとシャンティニケトン)で、ベンガル文学・口承文化、インド音楽を学ぶ。


ベンガル文学の翻訳に、タゴール『家と世界』(レグルス文庫)、モハッシェタ・デビ『ジャグモーハンの死』(めこん)、タラションコル・ボンドパッダエ『船頭タリニ』(めこん)など。 昨年、本HPに連載していたタゴールの回想記「子供時代」を、『少年時代』のタイトルで「めこん」より出版。

現在、「めこん」のHPに、ベンガル語近現代小説の翻訳を連載中。

https://bengaliterature.blog.fc2.com//

更新日:2023.08.17