ガンディー「知足」の精神①
物を所有するのは厄介なことになり重荷になる
わたしは自分が政治の渦中に巻きこまれているのを知ったとき、背徳や偽善など、政治家の特権のように思われているものに絶対染まることのないようにするためには、自分にとって何が必要かを自問した。……初めのうちは、それは苦しい自己との闘いであった。それはまた妻との確執であったし、いまでもはっきりと思い出すことができるが、息子たちとの軋轢でもあった。しかし、そのことはともあれ、わたしははっきりとこのような結論に到達したのである丨 わたしが自らの生命を投げ出し、日々その惨状を目のあたりにしている人びとに、ほんとうに奉仕しなければならないなら、わたしはいっさいの富と、いっさいの持てる所有物を放棄しなければならない、という結論に。
わたしは、このような信念をもったとき、その場で即座にすべてを放擲したなどと、まことしやかに言うことはできない。決意の実践の歩みは、当所は遅々としていたことを、ここで告白しなければならない。そしていま、あの苦闘の時代を思い起こすとき、初期の苦しかった日々が胸によみがえる。しかし日が経つにつれ、わたしは、それまでは自分の所有物だと思いこんでいた他の多くのものも放棄しなければならないことに気がついた。やがて、そうした物を捨てることが、心底からの歓喜(よろこび)に思える秋(とき)が来た。それから一つまた一つと、ほとんど幾何級数的に持ち物がわたしの手許から離れていった。
こうして自分の体験を語っていると、わたしは、大きな重荷がわたしの肩から滑り落ちたと言うことができる。そしていま、わたしは軽々と歩きながら、大いなる安堵感と、さらに大いなる歓喜(よろこび)をもって同胞への奉仕活動にいそしむことができるのである。どんな物にせよ、物を所有するのは厄介なことになり、重荷になる。
その歓喜(よろこび)の原因(もと)をたずねてわかったのは、わたしがなにか物を自分の所有物として保有するなら、わたしは全世界を相手にそれらを護らなければならない、ということである。それからまた、[世間には]物が欲しくても所有できない多くの人たちがいるということにも、わたしは気がついた。もしそれらの飢餓寸前の空腹の人たちが、人里離れたところにいるわたしを見つけ、その物をわたしと分かち合うだけではなく、わたしから奪おうとしたら、わたしは警察の助けを求めなければならなくなるだろう。そこでわたしは心中こう言った丨 もし彼らがそのものを欲しくてわたしから奪おうとしたら、彼らは悪意ある動機からそうするの
ではなく、わたしよりも大きな必要に迫られたからではないのか、と。
(森本達雄 編訳『ガンディー「知足」の精神』〔人間と歴史社〕、第9章「非暴力」の人生観より)
『サルボダヤ』4月号(一般社団法人 日印サルボダヤ協会、2020年)より転載
一般社団法人 日印サルボダヤ交友会:http://sarvodaya-japan.org/index.php
更新日:2020.05.01