インドの民俗画ミティラーを収集保存して37年

ミティラー美術館館長
長谷川時夫

私は、皆様にもおなじみの「ナマステ・インディア」の主幹である「NPO法人日印交流を盛り上げる会」の代表をしております。その事務局を新潟県十日町市の大池の森に1982年に私が設立したミティラー美術館に置いています。

去る5月6日、マハートマー・ガーンディー生誕150周年記念イベント「インド祭in十日町」を「日印交流を盛り上げる会」が開催し、S.K.ヴァルマ駐日インド大使をお招きしました。

ご到着と同時に大使をご案内してミティラー美術館を見学していただき、そのあと、講演会場の越後妻有文化ホールに向かいました。式典では、関口芳史十日町市長の開会挨拶に続き、大使が講演をされました。講演のあと控室で十日町市長とお話した大使は、「ミティラー美術館のミティラー画のコレクションは世界一です」「ムンバイのあるマハーラーシュトラ州の有名なワルリー画についても、ミティラー美術館は世界一のコレクションを持っていますね」と話したところ、関口市長は大変驚かれていました。両絵画はインドの代表的な民俗(族)画で、どちらもこの十日町市に最大級のコレクションがあるのです。

十日町市にはヴァルマ大使を含め、歴代4代の駐日インド大使が訪問してくれています。その方々からも「このようなコレクションは、ほかで見る事はできない」「インドにはない。このようなコレクションが日本にあるのは驚きです」「世界にこのようなコレクションを持つところは他にはない」等々ミティラー美術館コレクションに大きな賛辞を頂いてきました。

昨年2月には、インドの中央政府で鉄道大臣などを歴任し、現在は2期目となるビハール州首相を務めておられるニティシュ・クマール氏が、2泊の短い日程の中でミティラー美術館訪間を望まれました。残念ながら豪雪の時期で、美術館まで訪れるのが難しかったため、同氏が出席された経済セミナー会場となった在京インド大使館を借りて、私はミニ・ミティラー美術展を開催しました。クマーノ州首相は、経済セミナーの挨拶で次の様に語りました。「民間の文化交流が長期間行われていた。その素晴らしい例が日本のミティラー美術館である。インドから何千マイルも離れた日本に、ビハールの伝統的なミティラー画がオアシスを見つけた。ここは1万5千枚の絶妙なミティラー画が収納されている宝の家だ」。この賛辞は、会場にいた日本人、在日インド人にも驚きを与えました。

冬のミティラー美術館

ミティラー画とは

ミティラー画はインドで起きた奇跡と言えます。1966~67年の干魃時の救済策として、ビハール州の貧しい女性たちに紙や布が渡されて美術運動が始まりました。3千年にわたって母から娘へと伝承されてきた壁画、床画が民俗アートとして蘇ったのです。母から娘へ伝承された生活の中で描かれた絵画。そこでは、太陽は最強の神様です。出産などの大事な願い事には、描き手は冷たい池に体を沈め、昇る太陽に祈願します。満月の時には、ラーマーヤナ経典(叙事詩)を読み、月に祈ります。壁に描く神々は、日本でいえば鬼瓦と同様、家族を守護する役割を果たします。神々を勧請するアリパンと呼ばれる床画は、日本でいえば、地鎮祭の榊のようなもの。このような自然との深いコミュニケーションを持つ絵画はコスモロジーを感じさせ、現代社会に魅力ある絵画として迎えられたのです。

ミティラー美術館の内部

ミティラー美術館開設までの道のリ

ミティラー美術館はどうして積雪が4mにもなる新潟県十日町市の雪の森にあるのか、その様な質問をされる事が多いので、その道のりを簡単にまとめてみます。

私は1948年浅草向柳原町(現浅草橋)生まれの14代目の江戸っ子です。高校2年の時、日本に初めて来日したニュージャズのジョン・コルトレーンに感動して、テナー・サキソフォンをアルバイトをして買うなど傾倒しました。そして、ニュージャズ、ニューロック、現代音楽を超えた新しい音楽を創ろうとする6人の仲間と、「タージ・マハル旅行団」を1969年に結成。その後次第に日本を代表する前衛音楽グループとして知られるようになりました。1971年に、ストックホルム国立現代美術館から招待を受けましたが、旅費の半分しか出せないという条件でした。「タージ・マハル旅行団」は、多くの著名人の支援を受け、1年間のヨーロッパ公演を行いました。1972年に帰国したときに、当時、光化学スモッグのため世界で一番酷いと言われた東京には住めないと実感し、その年のうちに、美しい月を求めて、新潟県十日町市大池の雪深い森に移り住んだのです。住み始めて8年後にここ大池の開発計画が起こりましたが、私は自然に手を付けない代替案を提案して、開発はストップしました。行政の英断により廃校の小学校を「宇宙観を基本とする社会教育」の場として使わせてもらうこととなりました。その頃、インド帰りの若者が持ってきたミティラー画がきっかけとなり、調査で入った現地で、インド・フォークアートを代表するミティラー画のガンガー・デーヴィさんから「貧しい描き手を助けて」と請われ、ミティラー美術館を1982年に開設したのです。

「人の一生」※ガンガー・デーヴィー 横幅2.8m 紙1983–84年

ミティラー画とワルリー画

ミティラー画をコレクションするなかで、日本の浮世絵のように近代化とともに散逸するのではないかと危惧しました。たとえ小さな美術館でも一堂にきちんと集めればいつか世の中の役に立つのではと考え、現地マドゥバニや各州にある手工芸店を何十回と訪れ、ミティラー画の体系的コレクションを持つに至りました。開館して5年後にはインディラ・ガンディー首相のインド文化遺産担当首相顧間のププル・ジャヤカル女史(ミティラー画の振興に貢献した)より、「ミティラー画の質と量において世界で比することのできないコレクション」と言われました。ミティラー美術館は、そのコレクションを積極的に日本各地の美術館、公民館、図書館等、様々な場所で全国規模の移動美術展を開催するようになりました。

1988年に開催された日印両国の大型国家催事『’88インド祭』は日印の文化交流史で最も大きな規模(事務局は3億円近くを集める)で、日本全国規模で交流催事が開催されました。インド側委員長は上記のジャヤカル女史、日本側委員長は小山五郎元三井銀行頭取(当時、財界のドンの一人とも称されました)、事務局長に財団法人国際協力推進協会専務理事の松本洋氏がなり、その補佐として私は協力する事になったのです。地方の様々な問題を感じていた私は、大都市だけで開催されるのではなく「国家催事は全国民のものであるべき」と考え、自費で北は網走から南は与那国島までミティラー民俗画展を中心に全国でミニインド祭を開催しました。その時に、今では大変有名なミティラー画家の故マハースンダリー・デーヴィー、カルプーリー・デーヴィーをインドの村落から招聘、6ヶ月間にわたってミティラー画を全国で公開しました。

これを契機として全国に広がったネットワークを継続すべく、「ポストインド祭を考える会」と言う名のグループの立ち上げをインド大使公邸で開催させていただきました。その時参加された観世清和氏は後に観世流家元となり2012年の日印国交樹立60周年の年にインドで能公演をされました。清和氏の縁で1990年、「現代に甦る壁画劇場―インド・ミティラー画のコスモロジー」が「たばこと塩の博物館(東京)」で開催され、開会式には高円宮両殿下が御成りになられました。殿下はミティラー画に関心を持たれ、「ミティラー美術館を訪ねたいがいつの季節が良いですか」と聞かれたので、豪雪の時が一番美しいですとお答えしました。1993年1月末に開催した日印国交樹立40周年記念特別展「ガンガー・デーヴィー追悼展」に両殿下で御成りになる事になり、仙台の建築家 針生承一氏や地元の方々、皆の協力で大池の辺に立つ私の古い民家を大改修しました。月見亭と名を付けたその家にお泊まりになりました。

戦後50周年の節目の年でもある2002年日印国交樹立50周年を盛り上げたいということで、2001年「日印国交樹立50周年記念事業を盛り上げる会」(勝手連、中根千枝名誉会長〈当時〉)を立ち上げ、2002年法人格を取得し、2005年にはNPO法人日印交流を盛り上げる会に名称変更しました。(ポストインド祭を考える会の活動は、この盛り上げる会に引き継がれました。)

2002年上野公園で「インド・メラー(インド祭)」を開催。開会式を上野動物園で行い、福田官房長官、駐日インド大使、インド政府から寄贈されていた子象スーリヤも参力。戦後ネルー首相に象が欲しいとお願いした婦人や子供たちも参加しました。

ミティラー美術館としてもサダシ・ジヴヤ・マーシェ氏、シャンタラーム・ゴルカナ氏の他2名のワルリー画の描き手を招聘し、十日町市、宮城県大川原町、静岡県磐田、埼玉県大東文化大学、たばこと塩の博物館で展覧会を開催して周年事業を盛り上げました。

1993年から日本商工会議所を事務局とする日印経済委員会と(財)アジアクラブを中心に始まったナマステ・インディアは、2005年から日印交流を盛り上げる会が引き継ぎ開催してきました。その頃からインド政府ICCR(インド文化交流評議会)派遣グループの日本公演を、インド大使館に協力しながら今日まで全国公演をしてきました。

2015年、インド文化省がコルカタ国立博物館所蔵の仏像を公開する「インドの仏展」を東京国立博物館で開催しました。これは’88インド祭に次ぐインド祭(2014年10月~2015年10月)の行事ですが、このほかに舞踊・音楽の4グループ全国公演やテランガナ州の現代アーティスト4名と日本人画家4名による作品、制作公開展(日本橋三越)などが開催されました。ワドワ大使は「インドの仏展」の開会式のテープカットの後、「アナタは影のヒーロー」と耳打ちしました。

ミティラー美術館は’88インド祭以降の20年間は、ほぼ毎年2名ずつミティラー・アーティストを招聘しました。冬の時期を除いて6ヶ月近くも滞在し、全国で開催される展覧会の会場で永久保存用に用意された特別なボードやキャンバスに制作していただきました。当時のインドの村落は貧困や災害、古い因習等様々な問題を抱えていました。描き手たちにとって、ミティラー美術館はオアシスの如くで、私の家族やスタッフ、全国各地での開催者らの温かいもてなしを受け、またインドでは見る事ができない他のアーティストたちの優れた作品に触れていきました。私の、背中を僅かに押すような文化的なアドバイス等も加わり、日本でミティラー画及びワルリー画の創造的な新しい作品が生まれることになりました。先進諸国のどこの国でも行われることのなかった、美術館で展示するレヴェルの新しいミティラー画やワルリー画が生まれてきたのです。

今年1月にインドの勲章パドマ・シュリを受賞したミティラー画のゴーダーフリー・ダッタさんは、存命する描き手の長老として、メディアで度々報道されますが、そのような際、彼女の代表傑作「トゥリシューラ」は日本のミティラー美術館に展示されているとコメントされます。この絵は7回にわたってゴーダーワリー・ダッタさんが日本に招聘される中で、滞在中に半分描き、残りは翌年描いたという大作です。制作に2年間を要して描いた彼女の作品は他に2点あり、その一つ「ダマル」が美術館に展示されています。インドの村落、片田舎の女性が日本の雪深い森に設立された美術館に滞在(アーティスト・イン・レジデンス)して人々を感動させる作品を生んでいったのです。全国各地の展覧会活動が続くと、各地から他の民族(族)アートはないのかと声が上がってきました。次なるコレクションとしてマハーラーシュトラ州の最も有名な先住民族が描くワルリー画の描き手も招待し始めました。

昨年亡くなったこのワルリー画の創設者と言われる、パドマ・シュリ受賞者で世界的に有名なジヴヤ・ソーマ・マーシェ氏を中心とする描き手たちも招待しました。ジヴヤさんは3回来日し、沢山のワルリー画の大作を美術館に残しました。ゴルカナさんは昨年で20回来日。ジヴヤさんの息子サダシさんも17回来日しています。

私はインドだけを特別視しているわけではありません。日本の文化を大事に思う時、インドの文化が西洋化し過ぎた日本社会において大きな刺激を与えると考え、紹介することに力を注いでいるわけです。

今年1月末、ビハール州の州都パトナに新しくできたビハール博物館での「ビハール州の芸術&工芸の国際セミナーと展覧会」のセミナーに招待され、ミティラー美術館の雪掘りを一時ストップして参加しました。ビハール博物館の設計は槙文彦氏で、建築界のノーベル賞と言われるプリツカー建築賞を受賞している日本を代表する建築家の一人です。ビハール博物館はこれから大きく評価されていくと思います。

上記のセミナーでは、私はメインゲストとなり、ミティラー美術の守護者として大勢の若い手工芸者を中心として日本に招待した方々から熱く歓迎されました。国営放送の生番組に1時間出演したほか、州首相の首席補佐官宅で2度のパーティに呼ばれるなど、心のこもった歓迎を受けました。

この間、全て観光はお断りし、帰国した翌日には、ミティラー美術館の雪屋根の上でせっせと雪掘りをしました。

「トゥリシューラ」ゴーダワリ・ダッタ 高さ約3.6m コンクリート擬似壁

※「人の一生」の補足説明
この「人の一生」(151.5㎝×281㎝)と名づけた作品は、約2年近い時間をかけて出産から結婚まで人生の一生を、渾身を込めて描いた彼女の代表傑作の一つです。彼女の小さな土壁の家の中で、広げて描くスペースがないので巻物のようにして鍋の煤などに樹液を混ぜて作った絵の具に付けペンで描いたもの。

不幸な人生を歩んだ彼女の信仰心は深く、朝晩2時間近くラーマーヤナ経典を読み祈るのが日常でした。一つ一つの線は気迫を感じさせ、見る人の心に感動を与えます。

1988年たばこと塩の博物館で公開された時、開催実行委員長になった岡本太郎氏は、この絵に感動し、ミティラー画はもっと評価されるべきだと語りました。この展覧会開催中にNHKの日曜美術館でミティラー美術館やインドで取材をした45分ドキュメンタリーが放映され、それ以降、メディアでも話題となり天声人語でも紹介されました1ヶ月の開催期間で1万7000人の入場者となりました。

この絵は、ミティラー美術館の開館(1982年)と同時期にイギリスで開催された『フェスティバル・オブ・インディア』の主要な催事「アディティ展」のために描かれました。当時病弱な彼女は2年間の歳月をかけて完成。世界で唯―のミティラー美術館に収蔵してはしいという彼女の希望に応えて、ミティラー美術館の主要なコレクションとなりました。イギリスの『フェスティバル・オブ・インディア』は大成功し、ヨーロッパ各地で開催された後、1985年アメリカで1年半にわたって開催されました。ワシントンのスミソニアン協会の野外で「アディティ展」が開催された時、ガンガー・デーヴィーは2枚目となる「Cycle of Life」を私の送った写真を基に描きました。コピーしたような2枚目の作品はニューデリーの国立手工芸博物館に収蔵されています。
(日印協会資料より引用)

長谷川時夫
1970代始めタージ・マハル旅行団の活動の場を通し、宇宙観を深め雪深い森に住居を定める。コスモロジーを根底とする「ミティラー美術館」創設(82年)以来、アジア太平洋の先住民族、少数民族の文化紹介、特に日印の国際交流ではインド国外最大級のインドフェステバル「ナマステインデア」、日印の国家催事の主要なオーガナイザーとして知られる。2014年インドブダガヤの大菩薩寺の仏陀と平和の祭典での演奏「Stone performance」以来、日本のコスモロジーを基とする新たなライフミュージックを年に1~2回のペースで台湾、日本の美術館等で公演活動をしている。

更新日:2019.08.20