『マハーバーラタ』を知らずして観るなかれ:
日本から見るインドSFの衝撃
在インド日本大使館に赴任して以来、わが家の週末はすっかり“ボリウッド上映会”となりました。異国の灼熱と喧騒、その奥に息づく神話の鼓動をスクリーン越しに感じるたび、家族全員がインド映画の虜になっていきました。インド映画と言っても、ムンバイを拠点とするヒンディー語映画産業「ボリウッド」とは異なり、テルグ語映画はハイデラバードを中心に展開する南インドの映画文化に属し「トリウッド」と呼ばれています。そして今年、新たに心を奪われた一本が終末SFと叙事詩を融合させた『カルキ 2898-AD』。この作品も、日本で大きなブームとなった『バーフバリ』や『RRR』等と同じくテルグ語映画として制作されたものです。
2025年1月日本公開の映画『カルキ 2898-AD』は、乾ききったガンジス川を舞台にした“インド版マッドマックス”ともいえる作品であり、華やかなビジュアルの裏側に、古典叙事詩『マハーバーラタ』の壮大な世界観を隠し持った知的な挑戦作となっています。2024年6月の世界での公開直後から、熱狂的な議論が巻き起こり、製作陣はすでに続編を2026年末に公開予定としています。
本作は、ハリウッドのSF映画のような外観を持ちながら観客を巧みに引き込み、やがて神の弓ガーンディーヴァも現れ、さらに主人公が太陽神の子カルナであることが明かされます。ビーシュマが矢のベッドに橫たわる場面や、アシュヴァッターマンの呪いなど、インド神話ファンにとっては涙なしには観られないディテールが随所に織り込まれています。これらの“隠し味”を理解できるかどうかで、本作がSF作品として消費されるか、あるいは魂を震わせる叙事詩として昇華するかが変わってきます。
なぜ主人公がカルナなのか。〈義〉と〈出自〉の狭間で揺れ動くカルナの運命は、「正義は一方の側だけにあるのか」という、今の私たちにも響く問いを投げかけてきます。まさにここに、本作の深い哲学が宿っています。善と悪という単純な二項対立を超えた倫理を提示することで、物語は神話の過去を未来の想像SF世界の中に折りたたみ、観客自身に“意味を解釈する責任”を与えているのです。
『マハーバーラタ』は、世界神話の原型とも言われます。たとえば、大洪水から人類を救うマヌの話はノアの方舟と同じです。クンティの処女懐胎はキリストの出生との類似性があり、カルナが籠に入れられ川を流される描写は、モーセやサルゴン王の誕生譚に通じ、日本の桃太郎の誕生譚ともそっくりです。こうして見ていくと、『マハーバーラタ』は決して“遠い異国の物語”ではなく、私たちの文化の根底にも通じる、普遍的な原型を内包しているのだと気づかされます。
しかし残念ながら、日本では『マハーバーラタ』に触れる機会は多くありません。原典は長大で難解なため、バガヴァッド・ギーターの抜粋などにとどまり、日本ではインド精神文化の中枢に十分にアクセスできていないという見えない文化的障壁が存在しているように思います。近年、若年層にとってスマホゲーム『Fate』シリーズに登場するカルナやアルジュナといったヒーローキャラクターが魅力となっていますが、それに並んで、本作『カルキ 2898-AD』は、多くの日本人にとってインド神話への扉を開く鍵になる可能性を秘めているでしょう。
SF的なビジュアルと物語構成を取り入れたことで、本作は“神話=古臭い”という先入観を打ち破り映画ファンやゲーム世代の観客層を自然に取り込みます。ガンダーラ美術とサイバーパンクが融合したような美術設計はコアな層を魅了し、アクション豊富な戦いのシーンや随所に差し込まれるインド映画特有の笑いは幅広い層に楽しんでもらえるはずです。これをきっかけにして、カルナやアルジュナ、ドラウパディーといった名前がSNSや動画サイトのレビューでも自然に語られるようになれば、日本におけるインド文化の浸透とさらなる多方面の交流の深化にもつながっていくでしょう。
現在の世界は、この映画のテーマに象徴される課題を抱えています。枯れたガンジス川が象徴する水の危機は、気候変動や災害リスクとも共鳴しています。そこに倫理的な葛藤の物語を重ねることで、作品は観客を遠い未来ではなく現在へと引き戻してくれます。『カルキ 2898-AD』は、圧巻のVFXと濃密な神話が交差する実験的作品であると同時に、文化の対話の起点にもなり得る映画です。この映画を語るとき、私たちは自然と日本の昔話や宗教的物語と比較し、深く考えるようになります。その往復こそが、真の意味での文化交流であり、理解への第一歩だと思います。
『カルキ 2898-AD』のBlu-ray & DVDも2025年6月4日から販売開始されました。さらに来年の続編を楽しみにするとともに、公開されるその日まで、ぜひ『マハーバーラタ』を手に取り、その壮大な物語の大河を遡ってみてはいかがでしょうか。きっと、日印両国の精神的な河川が合流する音が聞こえてくるはずです。
栗原 潔(くりはら・きよし)
2005年、文部科学省に入省。
科学技術政策、AI、データ戦略を中心に、経済産業省や環境省などでも勤務し、英国マンチェスター大学ビジネススクール留学。
2018年から2021年までは、3人の子ども(当時3歳〜12歳)とともに家族でデリーに暮らし、在インド・ブータン日本国大使館の一等書記官として日印間の連携推進に従事。滞在中にはインド国内21の州、24の世界遺産を訪れ、毎年ガンジス川での沐浴を欠かさなかった。
帰国後は内閣官房を経て、現在は文部科学省・計算科学技術推進室長として、次世代スーパーコンピュータ戦略の立案と推進に取り組んでいる。
更新日:2025.06.16