河野亮仙の天竺舞技宇儀Tenjiku Boogiewogie ①

河野亮仙の天竺舞技宇儀Tenjiku Boogiewogie ①

河野亮仙

はじめに

 この日印交流ネットワークのことを遺言のように残された奈良康明先生には大変お世話になりました。

 最初に先生と知り合ったのは師父亮永でした。全日本仏教会の会合か講演会でお目にかかったのではないかと思います。「私はインド屋です」とおっしゃっていたのが印象に残ったようでした。

 その当時、父が息子(私のこと)は開成から京大のインド哲学史に進んだというようなことを話すと先生は「私も開成ですよ」と大先輩であることが分かりました。ところが私達には共通の大先輩がいて、古文の板谷先生とか、何人かの名物教諭の教えを先生も受けていることが分かりました。

 インド留学(バナーラス・ヒンドゥー大学)から帰ると、先生の書かれた世界宗教叢書・7『仏教史・1』とか、辛島先生との共著『インドの顔』を熟読して、わたしも「インド屋」を名乗っていました。20年前に師父を亡くしてからはインドに行けなくなり、すっかり「おてらやさん」になってしまいました。

 ここ10年くらいは先生を囲んでの開成坊主クラブ?で教えを受け、抜き刷り等をいつも頂戴して勉強させていただきました。フランスでの受戒会の話、古くはカルカッタ留学時代のこぼれ話を聞きそびれたのが、まことに残念です。

 深く先生の学恩に感謝すると共に、衣鉢を継ぐことは出来ませんが、少しでも日印交流に資することができるよう、インド屋時代を思い出してこの連載を始めることにしました。不定期に思いついたことを徒然なるままに書きますので、連載というよりは間歇載?です。

 ここに「天竺舞技宇儀」と書いて、天竺ブギウギと読みます。インドの舞踊・演劇は宇宙の儀式であるという意味です。というより、まあ、楽しくやりましょうということです。

第1回 文化遺産を目指すかアヴァンギャルドか

 この10年くらい、ジャズのライブハウスに行くことが多く、その分、インド舞踊やジャワ、バリのリサイタルに行くことが少なくなった。その間にずいぶん状況が変わってきたようである。簡単にいうとベテラン健在と鮮烈な若手の台頭である。

ジャズの方は別稿に譲るとして、インド舞踊をこの視点で振り返ると、1953年に故・榊原帰逸がインド、タイ、ビルマ、インドネシアを訪れ、インドのタゴール大学ではバラタナーティヤム、カタック、カタカリ、マニプリーダンスを学んできた。これをもってインド四大舞踊と称していたが、今ではインド各州の様々な舞踊が紹介されている。夫人の榊原喜美代も半世紀前にバリ島に留学してインドネシアの舞踊を学んでいる。

  60年代半ばから大谷紀美子、桜井暁美、ヴァサンタマラがインド留学、この三人はバラタナーティヤムを習い、今日の興隆の基礎を築く。続いて、ヤクシニー矢沢が留学して日本にカタックを根付かせる。

  それから十数年がたった1983年の増上寺インド祭りの頃でも、東京でインド舞踊の看板を掲げる教室は片手ですむくらいだった。その弟子の弟子という世代が今や重鎮となって、そのまた弟子という世代が若手としてデビューしてきている。現在では関東一円に、2、30のインド舞踊教室があるのではないか。

 目下の課題はファンを増やすこと。30年前の方が大きな会場でリサイタルをやっていたように思う。今日では一定数のファンをみんなで分け合っている感じで、果たして市場は当時の5倍になっているのか。インド旅行者も他のアジア諸国と国と比べると増えていない。舞踊だったらベリーダンスにパイを食われている。こっちはサモサで対抗しないと。

 インドファンの数はあまり増えず、バリ島やタイ、シンガポール、あるいはもっとマニアックなところに流れているのではないか。この連休中には横浜赤レンガ倉庫でパレスチナフェスタが行われ、料理やアラブ音楽・舞踊が楽しめる。

 インドの様々なジャンルのファンがいるのだが、蛸壺型というか、自分の関心のあるところに深く沈潜して、一般的な意味でインドファンかどうか分からない人が増えているような気がする。

 しかし嬉しいことに、インド舞踊家の成長を物語るイベントとして「独り舞ふ」(南青山MANDALA)がある。今年は若手が登場して鮮烈な印象を与えた。また、カラオケ主体になりがちなインド舞踊の伴奏に、毎回、生演奏を取り入れるという努力をして全体の構成も巧みだった。主催したカダム・ジャパン前田あつこのバランス感覚と誠実な対応が評価される。

 それまでもインド舞踊家が勢揃いするイベントはあった。いわずと知れたナマステインディアである。あれは規模が大きすぎて舞踊家が同じ舞台を踏むという感覚がない。インド留学やチェンナイ、コルカタ、オリッサ等で行われる音楽舞踊祭における交流を通じて友情を深め、「独り舞ふ」のようなイベントが可能となった。また、そこにはインド舞踊のコアなファンが百人くらい付いている。

 去年はシヴァ・ラートリ、今年はルクミニー・ジャヤンティというインド舞踊家が数十人大集合して、一人持ち時間10分で踊るイベントが行われた。それだけ層が厚くなってきた。往々にしてこの種のイベントは一、二回で終わってしまうものだが、お客としては毎年続けてほしいものだ。実行する側としては、毎回、大小のトラブル、ハプニングが起きてため息が出るものだが、その分、みんなで作り上げて終わったときの達成感、充実感は大きい。

  昔はアメリカもインドも遠い国で、円が安かったこともあり、なかなか留学できなかった。今や、ジャズについていえば、ライブハウスに行けば彼も彼女もバークレー帰りで金看板ではなくなってきた。優れたトレーニングメソッドにより演奏家のレベルは上がって、若手はみんなうまい。が、何か物足りない。ジャズというジャンル自体が行き詰まっているのかもしれないが、これが自分の音楽、「世界に誇るオレサマの音楽」というのを打ち出せない。ジャンル内に留まっていると、それはもう誰それがやったことだよということになり、ほとんどやり尽くされている。今、イスラエルのジャズが醸し出す、中東に通じる独特なニュアンスが面白い。

 インド舞踊の先生、生徒は、冬のフェスティバルシーズンの間、日本からインド舞踊が消えるというくらい、みんな見学や短期留学にでかける。チェンナイのカラークシェートラ舞踊学校で一番熱心に練習するのは日本人だといわれていて、熱心に学ぶ人が多い。今や、カラークシェートラ出身の看板よりも、他の流派を初めて日本に紹介したということを誇る舞踊家が増えてきている。インド各地のフェスティバルに多くの日本人が参加して評価されている。カラークシェートラ・スタイルのいわば標準語が正しいわけではなくて、方言の方が味がある。

 しかしこれが、「西洋人や日本人がインド人のまねしてやってるよ、みてごらん」という域からどれだけ出ているのか、わたしには分からない。むしろ、日本人のインド舞踊は、日本とインド以外の外国に進出してこそ正当に評価されるものだと思う。アメリカやロシアに進出して評価されている舞踊家もいる。山下洋輔トリオが日本やアメリカではなく、ヨーロッパで評価されたように。

  インド舞踊は型を習うのが基本であるが、やがて日本人としての身体の問題に突き当たる。今の日本人は立つこと、歩くこと、そして座ることも苦手である。みんなやってるじゃないかというかもしれないが。外国人にとって中国人、韓国人と顔では見分けがつかないが、バークレーでは立ち姿歩き方が格好悪いのが日本人だとして見分けるのだそうだ。

 幼児語で「えんちゃんこ」というが、股関節が柔らかい子供はペタッと座る。私が子供の頃は、床に落とした食べ物を食べたばかりか、土や砂をなめていた。椅子に座る生活に慣れると、床が汚い、土が汚いと感じて抵抗感が出来てしまう。立つというのなら煙突でも鉛筆でも立っているというかもしれないが、それは棒立ちという。

 重力に拮抗してまっすぐ立つ。そのまま綺麗に歩ければ、それはすでに舞踊であり、それぞれの民族性によって表現の形が違ってくる。インド人が「あれあれこれは何?」というようなちょっとした差異に注目したらいいのかもしれない。顔つきはもちろん、骨格、筋肉の付き方、普段の生活習慣、歩き方、表現の仕方も違うので、同じ形をまねしたつもりで別物になってることもある。

 それだったら日本人としての土俵に持ち込まないといけない。インド人にはまね出来ないインド舞踊の世界を作り上げないといけない。インド人の硬質なパワー感ではなく、しなやかで柔らかく優しいニュアンスが日本人の特徴だと思う。そんな和印舞踊を作れるといい。

 日本人はどちらかというとジャズなら秋吉敏子型、文化遺産のように古いものを守るのが好きだ。オリッシーダンスはグル・ケルチャラン等によって形成されたが、その初期の弟子クンクマ・ラールが日本に滞在してオリッシーを広めた。本場のインドではどんどん新しい振り付けが工夫され、また、アクロバティックな技も歓迎されている。日本人の中には、インドでもはやクンクマさんしか伝えていないオリッシーの古型を守っている人がいる。半世紀くらいの歴史しかないが、クラシックロックのようにクラシックオリッシーと呼んでいる。

 外国人はインド舞踊を習っても、それだけで終わるのではなく、自分を表現するための技術として学ぶ傾向がある。オリッシーダンスとベリーダンスを一緒にやってる舞踊家もいる。秋吉型で行くか、あるいは、ジャズの手法でオレ流の音楽を作るように創作するか、後者の行き方で評価される舞踊家もいる。

 最後は、日本人としての心の持ち方、日本人としてというよりも人間としての勝負になってしまうのだ。

参考文献

相倉久人『至高の日本ジャズ全史』集英社新書、2012

猪野尾洋美・長谷川亜美取材・編『アリニ踊り継ぐバリの魂』銀河書籍、2017

榊原帰逸『アジアの舞踊』わせだ書房新社、1965

中川ヨウ『ジャズに生きた女たち』平凡社新書、2008

山下洋輔編『相倉久人のジャズ論集成』音楽出版社、2006

山田万由里「異文化を踊る-インド舞踊のグローバリゼーションと日本での受容」哲學No.128(2012.3),p.369-402.三田哲學會。

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 大正大学非常勤講師、天台宗延命寺住職

専門 インド文化史、身体論

更新日:2018.05.02