大阪・関西万博ーインド館建設遅延報道が示す倫理観と正義感の多様性

2025年4月13日に開幕した「大阪・関西万国博覧会 EXPO2025」。各国のパビリオンが次々と姿を現す一方で、インド、ネパール、ブルネイなど一部の国は開館が間に合わず異例のスタートとなりました。特にインドパビリオン”バーラト”は、世界遺産の再現やインダス文明の遺産、最新の月探査船模型などの内容も充実し素晴らしい展示となった一方で、約2週間遅れての完成となりました。

開幕の数日前、まだ建設途中のインド館を背景にした報道陣インタビューで、インド人の現場責任者は「建設は100%間に合います!」と断言しました。しかし実際には、大方の予想通り開幕には間に合わず、ようやく完成を迎えた5月1日、在大阪・神戸インド総領事チャンドル・アッパル氏は穏やかな口調で報道陣に語りました。

「2週間で出来たし、遅れたとは思っていません。完成して本当にうれしいです。」

 

 

日本人には、「強がり」「責任逃れ」と受け取られるかもしれないこれらの発言ですが、そこには実はインドの哲学や文化、歴史や伝統に根ざした深い倫理観と正義感があります。筆者はインドに駐在していた際に、「インド人はすぐ嘘をつく」「インド人は虚勢を張る」と日本人に誤解されてしまっている残念な状況を幾度も目撃しました。しかし、インド哲学や文化の観点から見れば、こうした言動はむしろ倫理的に正当であり正義に適う行動なのです。今回の万博での報道は、こうした異なる価値基準による誤解を解く重要な契機となります。

ヒンドゥー教の聖典『マハーバーラタ』に含まれる『バガヴァッド・ギーター』には、「カルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)」が説かれています。「あなたには行為に対する権利があるが、その成果・結果に対する権利はない。行為の成果・結果に執着してはならない」。アッパル総領事の「遅れたとは思っていません」という言葉はこの教えと深く共鳴します。彼が重視するのは「完成に導いた」という行為そのものなのです。

また、『マハーバーラタ』のウッディヨーガ・パルヴァンには、「人は正しい時機(カーラ)を待ちつつ努力すれば成果を得る。時機を得なければ、いかなる事業も成就しない」と記されており、すなわち「今、工事が完成した」という事実そのものが、これこそが何よりも時機を得たタイミングである、ということを示していることになります。

インド館の完成は総領事としてのダルマ(義務・本分)を果たした証であり、「本当にうれしい」という感情の表明は、ギーターが説くサットヴァ(純粋性)に基づく喜びを最も重視して、関係者や来場者とも分かち合おうとする行為です。インド思想は、困難を乗り越え達成した使命について精神的充足を感じることを重視しています。

一方で、日本社会では「期日を守ること」が広く共有された倫理観とされ、少しの遅延にも丁寧な謝罪が求められます。日程という形式的な結果が優先され、スケジュールを守ることが倫理観や正義感の尺度となります。しかしインドでは、形式的な遅延のみを理由にして謝罪をすることは、自分や仲間の誠意や努力を否定して台無しにする行為であると捉えられます。ここに両文化の価値観の大きな違いがあります。

すなわち、アッパル総領事の発言は、単なる外交辞令や言い訳ではないのです。心の底から、「私や工事関係者は私心なく任務を遂行し、自然な流れで適切な時期に完成に至った」と考えており、彼の深い信念と責任感の表れです。彼にとっては、「今、完成した」ことが天のタイミング(カーラ)に合致しており、自身の内的義務(スヴァダルマ)を果たしたことを意味しており、これこそが最も秩序(リタ)に適った完成であるという信念を表明しています。

このような態度は、形式を満足させることを重視し謝罪も付随させる日本的な社会の行動とは異なりますが、インドではむしろ行為の本質を重視している精神的成熟の証なのであるとして評価されます。インド人にとっては、このような態度こそが「責任を果たす姿」「誠実で精神的成熟度が高い証」「正義に適った高貴な行動」と映ります。

日本人が遅延を理由に深々と謝罪する姿は、インド人にとってはしばしば不可思議で倫理的に疑問視されることもあります。誠実な努力がなされた以上、形式的な遅延のみを理由に謝罪することはかえって正義に反する態度と捉えられ、自信の無い、頼りない、誠実さを欠いた道徳的に劣後した行為に映ってしまうのです。

大阪・関西万博におけるパビリオンの遅延は、単なる工程管理の視点を超えて、異文化間の倫理観や正義感が交錯する重要な場となりました。アッパル総領事の発言には、「結果に執着せず、行為そのものに誠実であれ」という、インドの古典哲学に根差した深いメッセージが、その根底にあります。

EXPO2025が掲げる「いのち輝く未来社会のデザイン」は、このような異文化間の深い対話と理解の上に築かれるものです。今回の遅延騒動は、多様な価値観を尊重し、学ぶ貴重な機会を提供してくれたのではないでしょうか。

 

栗原 潔(くりはら・きよし)

2005年、文部科学省に入省。

科学技術政策、AI、データ戦略を中心に、経済産業省や環境省などでも勤務し、英国マンチェスター大学ビジネススクール留学。

2018年から2021年までは、3人の子ども(当時3歳〜12歳)とともに家族でデリーに暮らし、在インド・ブータン日本国大使館の一等書記官として日印間の連携推進に従事。滞在中にはインド国内21の州、24の世界遺産を訪れ、毎年ガンジス川での沐浴を欠かさなかった。

帰国後は内閣官房を経て、現在は文部科学省・計算科学技術推進室長として、次世代スーパーコンピュータ戦略の立案と推進に取り組んでいる。

 

更新日:2025.06.27