天竺ブギウギ・ライト⑭/河野亮仙

第14回 天竺ブギウギ・ライト
インドに留学した先輩たち
 

昭和28年、舞踊家榊原帰逸がプロペラ機に乗ってタゴールの大学に向かったことは先に記した。わたしが生まれた年である。それに先立つ26年、戦後初めてのインド政府招聘の給費留学生として、浄土宗から藤吉慈海が派遣された。藤吉はわたしが大学時代に所属した心茶会(久松真一創設の茶道部)の大先輩であるが、お目にかかったことはない。

藤吉は視察気分で、かなり自由に旅行してインド生活を満喫したようであるが、翌年に採用されたインド史の荒松雄は、その分締め付けが厳しくなった、調査旅行に行きたいのに自由には出られなかったと書いている。藤吉はインドで迎える正月に、荒を誘ってガンジス河の水で抹茶を点てたことを記している。28年には採用枠が3人になり、ヒンディー語の土井久弥、社会人類学の中根千枝らが留学した。

中根はアッサムでトラ狩りをしたというが、ケーララの100人、200人が一緒に住む大家族制の家を調査した。『タテ社会の人間関係』で一躍ベストセラー作家となった。留学前、駒場の研究室にご挨拶に伺ったことがある。『未開の顔・文明の顔』も名文、名著である。山奥を歩いて首狩り族を訪ねたり、インパール作戦から約10年経ってまだ生々しい記憶の残る村人に話を聞いたり、驚くべきスーパーウーマンであった。
https://www.yomiuri.co.jp/column/henshu/20211220-OYT8T50016/

昭和29年には、京大からジャイナ教を専攻した宇野淳がバナーラス・ヒンドゥ大学(BHU)に、東大からは仏教学の高崎直道がプーナ大学に留学している。この年、タゴール大学に日本語学科が設立され、春日井真也が赴き、後には森本達雄、我妻和男らが日本語教師として赴任した。

日印交流に尽くして勲四等瑞宝章を受けた牧野財士の本職は獣医であり、農業指導を依頼された。昭和32年、乗り込んだ船には音楽学者の小泉文夫がいた。インド政府の給費留学生としてマドラス大学に向かったのだった。カルカッタで小泉を出迎えたのは、プーナに留学中の社会人類学者、飯島茂であった。当時、ラクナウ大学には経済史の深沢宏が留学していた。深沢の留学は昭和31年7月から34年3月まで。

BHUには、続いて浄土真宗本願寺派の大物である豊原大成が赴く。昭和31年から33年までは大正大学から真言宗智山派の齋藤昭俊が留学している。その当時、カルカッタ大学にはインド哲学の服部正明、仏教学の奈良康明が留学し、ナーランダ大学には仏教学の梶山雄一が留学していた。今日のインド学・仏教学を築いた錚々たる顔ぶれである。

わたしは弟子というにはおこがましいが、服部門下である。一学年上のインド哲学史専攻には赤松明彦がいて、先頃、中公新書という形で『サンスクリット入門』を出版されたのには驚いた。これで学習者が増えるであろうか。

去る4月に齋藤昭俊が亡くなられ、葬儀の席で広島大学からやって来た伊藤奈保子に会った。宇野淳が広島大学に勤め、『ジャイナ教の研究』というモノグラフを広島インド学叢書として出版していたのを知っていたので、不躾ながら探してくれるよう依頼した。それがすでに広島大学の研究室にはなく、探し回って名古屋大学の研究室にあるのを取り寄せていただいた。

ジャイナ教研究のおまけとして、本の最後に「ジャイナ教覚え書き」があって、インド留学時の話が興味深い。

 

貧乏旅行
宇野は昭和29年6月に英国系の汽船会社所有の貨客船サンシア号に、高崎直道と共に乗り込んだ。横浜とカルカッタ間を往復する7000トンの船で、1ヶ月半に1回就航する。珍しいことなのか、出発時には新聞記者がカメラマンと共に取材に来たそうだ。香港、シンガポール、ペナン、ラングーン(ヤンゴン)を経て、23日後にカルカッタ港に到着した。二、三日博物館や旧跡を訪ね、それぞれの目的地に向かった。

「ジャイナ教の先生」を紹介され、それだけを頼りにBHUに向かい、大学構内にあるインターナショナル・ハウスに入寮する。当時は外国から来た留学生が10人ばかりいただけだという。わたしの留学時には何十人か寄宿していたと思うが、そこの食堂は安かったのでよく利用した。決してうまくはないが、京都大学吉田寮の100円カレーよりかなりましで、円換算で数十円だ。

宇野が支給された奨学金は200ルピー、当時の円換算で1万5000円。これが不思議なことに、わたしが留学した昭和55年頃も円換算で1万5000円相当、1ルピー30円で500ルピー支給された。今は3万円前後か。

振り込まれる預金通帳は手書きだった。大学構内にある銀行の前には鉄砲を持った警備員がいた。学内では時々発砲騒ぎがあった。番号札のトークンを渡され、長い時間待たされた。それはどこへ行っても同じだ。紙幣はホチキスで留める。穴が空いてぼろぼろになった紙幣を商店では受け取ってくれないことがあった。インド生活には理不尽なことがたくさんある。日本の美術工芸品のようなお札とはえらい違いだ。今じゃデジタル化が進んでいるそうだが。

宇野は「ジャイナ教の先生」に会ったが、実は心理学の先生だった。しかも大学に行くと、手違いなのか哲学専攻ということで、カントを学ぶようなことになっていた。インドの文部省に掛け合ったが、例によってらちがあかない。

高名なムールティ教授の力添えで3ヶ月後に手続きを終え、やっとジャイナ教のテキストを読んでもらえるようになった。さらに、サンスクリット学部のマルヴァニア先生、哲学科の修士号とサンスクリット学部のニヤーヤ・アーチャリヤ、論理学の阿闍梨という称号を持つ同年代の青年からも指導を受けた。

留学時代、宇野の旅行はインド人そのままであった。昔は列車に乗るとベッド一式、ヴィスターラという、布団にベッディングを巻き込んだ合財袋を持ち歩いている人をよく見た。それで列車やバスの屋根に乗り込んでいた。宇野もこのホールドオールを肩に掛けてカメラなどの機材をトランクに詰め、予約なしで寺院の無料宿泊所・ダラムシャーラに飛び込んだ。ホールドオールはおそらくイギリスの軍隊が持ち込んだ物であろう。

密偵・西川一三がモンゴルから青海省、チベットを経てカルカッタから帰国したのは昭和25年。モンゴル語でウールグという合財袋、背負子を担いで歩いた。昭和30年前後のインドの状況はその時と変わらないであろう。

仏教の沙門は三衣一鉢といって、今でいうドーティー、巻きスカート様の下穿きと一枚布の上衣、さらに外出用の大衣とか重衣と呼ばれる外套と、乞食用の鉢のみ所有が許された。その外套は、ぼろを何重にも継いで縫い合わせ、黄褐色、袈裟色に染めたものでサンガーティという。重いので肩に担いで遊行した。

それが仏教の沙門であることを示す元々の袈裟であるが、野営するときの座具、寝具でもある。それで雨風をしのいだのであろう。ホールドオールがその近代版かと思うと興味深い。寝袋がその現代版か。また、軍隊のカーキ色というのも、袈裟色を意味するカシャーヤと語源を同じくするという。

 

金銭事情と大学事情

当時の奨学金月200ルピーがどのくらいかというと、日印文化協会の『インド文化』第2号、昭和35年3月発行の奈良康明「カルカッタ通信/インド留学生の関心と話題」によると次のようである。このタイトルからすると、留学中、おそらく昭和34年頃にカルカッタで書いたものではないかと思う。

修士号を取った者は400ルピーくらいから始まって、老年にいたって7~800ルピーの月給を取れる。学士は300ルピーから。インターミディエイトといって2年終了して試験に通ると200ルピー。電車、バスの乗務員、下級のおまわりさんが200ルピー以下50ルピーくらい。玄関番や掃除人は50ルピー以下。そういえば、ケーララでカタカリの伴奏をしていたイダッキヤー奏者の本職?はバスの乗務員だった。

プーナやバナーラス、シャンティニケタンなどで寄宿舎に入っていれば、奨学金でかすかすの生活ができるが、デリーやカルカッタでは無理と記す。わたしは渡印前に、BHU留学の先輩から、僕たちはバナーラスでパイサ単位(1ルピーは100パイサ)で生活しているが、デリーではルピー単位で生活していると聞いてバナーラス留学を決めた。
https://tsunagaru-india.com/knowledge/%e6%b2%b3%e9%87%8e%e4%ba%ae%e4%bb%99%e3%81%ae%e5%a4%a9%e7%ab%ba%e8%88%9e%e6%8a%80%e5%ae%87%e5%84%80%e3%8a%be/

半世紀くらい前、インド首相の月給は6000ルピーと聞いたような気がする。それで、一般のほぼ10倍だ。日本の首相の歳費はなんだかんだ6000万円くらいか。

 

ラクナウ大学

『インド文化』第3号、昭和37年9月号には、深沢宏が「ラクナウの回想」を寄稿している。タイトルからして帰国後の執筆だ。インターミディエイトについて詳しく書いている。

大学に入るための試験はなく、その代わり高校後期、インターミディエイトの卒業試験として州内一斉に卒業試験をして資格が認定される。例年、半数近くが落第するという。その上で成績証明書を大学やカレッジに提出し、大学側は定員を超えた分だけ落とす。

インドの小学校は5年、中学校は3年。高校に相当するインターミディエイトのコースが前期、後期のそれぞれ2年ある。2年毎の卒業時に共通試験を受けて上に進学できる。インドの試験事情は厳しいようで、あの手この手のカンニングが話題になっている。
https://www.pen-online.jp/article/015725.html

ラクナウ大学の学生は当時7000人、そのうち女子は500名。文・理・医・アーユルヴェーダ、法、商の6学部あり、文・理両学部はキャニング・カレッジ時代の建物を用いた。上に小さなドームを置いたイスラーム風のきれいな建物だそうだ。

学生の寄宿舎が立派で、8つある寮は二流ホテル(ツー・スター・ホテルといいたいのか)に相当する堂々たる建物だそうだ。自宅から通う学生の他はウッタルプラデーシュ州出身が大部分だが、他州からも来る。

深沢は新しくできた寮に入ったが、それまでの古い寮には食堂がない。違うカーストとの共食は御法度だったので、数名で組んで共同でコックを雇って食事を作ってもらっていた。つまり、金持ち、エリートでなければ大学には入れない。

授業は植民地時代の習慣で英語だけで行われていたが、学士課程だけはヒンディー語が用いられるようになった。しかし、南インド出身者や非ヒンディー語圏の出身者が相当いるのでうまくいかなかったという。

ラクナウ大学文学部には、英文学、哲学、心理学、教育、歴史、古代インド史、考古学、政治学、経済学、社会学、人類学、アラビア語、ペルシア語およびウルドゥー語、サンスクリット語、ヒンディー語の15学部あり、各学科に10名から20名の教師がいたというから立派なものである。

ベンガル語とかグジャラティー語とか隣接するインド・アーリヤ語族の話者なら、ヒンディー語でも学術用語を用いる授業はおおむね理解できると思う。わたしが通ったBHUでは、シラバスに従い同じ授業を英語とヒンディー語と二本立てでやっていた。英語のクラスにはケーララから来た男子学生とマニプリーから来た女子学生がいた。ケーララから来た学生は、初めはヒンディーが分からずわたしが通訳するようなこともあったが、一年も経つとわたしより遙かにうまくなっていた。

 

プーナ大学

『インド文化』第2号、昭和33年7月号に、高崎直道が「大学の町プーナ」を寄稿していて、これはこの学園都市にある教育機関について詳細に報告している。プーナ大学は1948年に創立。それまでにあった単科大学、カレッジや研究所をプーナ大学の名の下に帰属させ、統合した。

ムガール帝国時代のプーナでは、シヴァージーがアウランゼーブ相手に勇敢に戦った。イギリスの侵略に対しても抗戦したが、1817年にイギリスが占領した。

文化的にも西インドにおけるヒンドゥ教育、学識あるバラモン養成の中心であり、寺子屋のような初等教育が盛んに行われていた。

高原にあって涼しいので、イギリスはボンベイ州の副首都とし、イギリス人が多く移り住んで英語学校を設立した。1939年に州立文科大学デカン・カレッジが設立される。講義は、当然、英語で行われ、イギリス人を補佐する英領インドの官吏養成が主目的だった。

一方、BHUは神智学協会のアニー・ベサントが創設したバナーラス・セントラル・カレッジを前身とし、1916年、マダン・モーハン・マーラヴィーヤの総合大学設立構想と合体し、マハーラージャの援助を受けて設立された。他の大きな大学のように下属するカレッジを持たず、日本の大学のように多くの学部・学科を擁している。
https://spap.jst.go.jp/resource/university/3030009.html

プーナ大学は教育を多くのカレッジに任せつつ、一方では直属の学科も持っている。職業学校、プロフェッショナル・カレッジとして、理科大学、農科大学、工科大学、法科大学、医科大学を擁す。教育大学、アユルヴェーダ大学もある。日本でいうと、昔の高専みたいなイメージか。日本の戦前からある医大は医学専門学校と呼ばれていた。

私塾もあってそこでは、伝統的な教授方法でヴェーダ学、ヴェーダンタ哲学、ダルマシャーストラ(伝統的なヒンドゥ法典)、ミーマーンサー哲学、文法学、詩学、修辞学を学ぶ。パンディット養成講座なので、講義はサンスクリット語で行われる。女子大学もあり、ここでは英語ではなくマラーティー語で講義が行われる。

サンスクリット学では、デカン・カレッジと共にバンダルカル東洋学研究所が有名。日本からの留学生も多い。わたしが訪ねたときには、プーナ大学と提携している名古屋大学から留学した宮坂宥洪、和田壽弘がいた。

わたしの留学時にはBHUに宮本久義、橋本泰元がいたが、暑い中自転車をこいで、みんなでサールナート見学に行ったりした。プーナではバイクを買って乗っていると聞いて驚いた。
 

カラークシェートラ

昔マドラスといったチェンナイにあり、インド舞踊の殿堂とされ、日本からの留学生も多い。1936年(昭和11年)創立。最初の日本人留学生として、昭和41年から43年にかけて留学したのがレジェンドの大谷紀美子である。創立から30年経ってからのことだ。

一般にカラークシェートラはインド舞踊学校と理解されているが、当時は仏教よりヒンドゥ教に傾倒していた神智学協会のミッション・スクールの一つである。古き良きインドの復興というか、各地に残る伝統を調査し、新たに構成し直して新しい伝統を創造することを目指したのだろう。ウダエ・シャンカルにしても榊原舞踊団にしても、ザッツ・インド舞踊、インド各地の舞踊を集めたガラ・コンサートのようなものを目指していた。

神話的にインド舞踊はバラタ仙の『ナーティヤ・シャーストラ』に基づいているとするが、実際に舞踊家でサンスクリットでも英訳でも読んでいる人はほとんどいないだろう。あまり関係ないからだ。ヨーガ教師が『ヨーガ・スートラ』を読んでいないのと同じだ。

バラタナーティヤムの教育を主眼とするが、舞踊劇に必要なカタカリのコース、音楽コース、美術コースもある。創作劇のために舞台装置や衣装、美術を総動員で作り上げたのだろう。シャンティニケタンのタゴール劇もそうだった。

先にバナーラス・セントラル・カレッジに触れた。河口慧海は、大谷光瑞、井上円了らと共に1902年にブッダガヤーで神智学協会のアニー・ベザントと出会った。1906年、ベザントの紹介でカレッジの教授宿舎を与えられ、「名誉学生」として7年に留学してサンスクリットを学んだ。

慧海は初めにカルカッタ大学で学び、タゴールの学園に移ってサンスクリットを学んだ。それは西洋文献学の学習法ではなく、テキストを丸暗記して解釈していく寺子屋式の教え方と思われ、挫折した。そうやってかなりの量のテキスト、スートラや詩文を丸暗記して、ウォーキング・ディクショナリーならぬウォーキング・スートラとなるのが伝統的なパンディット養成法だ。タゴールともそりが合わなかったようだ。

セントラル・カレッジの宿舎にいる間に、『スリー・イヤーズ・イン・チベット』の出版準備をした。英文はカレッジのドイツ語教授が面倒を見て神智学協会から出版された。そのときの校長がジョージ・アルンデール。後にルクミニー・デーヴィーと結婚して、共に1936年、カラークシェートラを開設した。
 

カラークシェートラの教程

大谷紀美子は、川田順造、徳丸吉彦編『口頭伝承の比較研究(1)』に、「インド古典舞踊の伝承と学習」としてレポートしている。ちなみに紀美子は、浄土真宗本願寺派第23世法主として半世紀にわたり君臨した大谷光照の次女である。大谷光瑞は大谷探検隊に金を注ぎ過ぎたので退いて、弟・光明の子、まだ幼い光照を跡継ぎとした。冒険家の血筋だ。紀美子なんて呼び捨てしてはいけない。失礼しました。

カラーとは技芸、クシェートラは田地、フィールド、つまり芸術を育てる場、道場ということで人間教育が行われている。日本からは大学を出て留学することが多いので大学のように理解されているが、入学資格、年齢、宗教、国籍は問われない。技芸というのは特定の専門カーストの子が幼少の頃から習うもので、大学で学ぶものとは考えられていなかった。

大谷の留学当時、生徒は10歳から16歳の女子が大半。大谷も一緒に入寮してインド舞踊を習得した。その中には野火杏子の師であるウマー・ラーオもいた。先年亡くなられ、誠に残念である。

大谷はその後何回か渡印して、カラークシェートラ出身のV.P.ダナンジャヤンとシャーンター夫妻の学校バラタ・カラーンジァリに短期留学して習う。日本でバラタナーティヤムを踊る舞踊家の大多数がこの系譜にある。

今はどうなのか知らないが、大谷によると小学校には行かずカラークシェートラに直接入学する子もいた。その場合、インド舞踊を中心に学び、その合間に算数や社会など小学校の勉強をした。そして、神智学系列の他の学校で試験を受け、小学校卒業の資格を得ることになる。今や大変な受験社会なのでどうだろう。

自宅から通うパートタイムの生徒は普通の小中学校に通い、夕方から音楽・舞踊・サンスクリット語を習う。フルタイムの生徒は4年を終了すると成績によって、ファースト・クラス、セカンド・クラスのディプロマをもらう。さらに、2年間のポスト・グラジュエイトのコースを終了するとディプロマが与えられ、カラークシェートラで教える資格が得られる。いわゆるお免状だが、4年修了で教え始める人も少なくない。

その教育課程は1年次ではアダヴのみを習う。アダヴの語はモーヒニー・アーッタムのアーッタムと語源を同じくし、辞書的にはダンス、プレイを意味する。

2年次にアラリップ、ジャティスヴァラム、シャブダム、キールタナム、3年次にヴァルナム、パダム、4年次にヴァルナム、パダム数曲、ティッラーナという具合に4年かけて、1回の公演を一人で踊る曲目のセット・リスト一式が習得される。パダムとかティッラーナとかそれぞれジャンルの名前なので数曲、あるいはそれ以上ある。

アダヴは17教えられ、タッタアダヴとかターテイテイタ、タディギナトムなどと教師が口で唱え、そのそれぞれに動作が付いているのを踊る。さらにそれをノーマル・スピード、倍速、3倍速で踊る。2年次に最初に習うアラリップは2、3分で終わる短い曲。

本来、中腰で構えるバラタナーティヤムを踊るための身体を作るのに、何年もかかるのを1年で勘弁したるわいという感じ。同じく、ずっと中腰の24式太極拳だって、一日で型を覚える人もいるだろが、身について気が通るようになるまでは年期を要する。

隣のケーララ州の武術カラリパヤットでも、一連の動作の単位をアダヴと呼ぶ。同一ではないが共通のルーツを持つのだろう。

2曲目のジャティスヴァラムはほとんどが1年次に習ったアダヴの組み合わせで出来ている。ハスタ・ムドラー、手印は理論の時間に習う。

カラークシェートラでは組織化された基礎訓練に重きをおき、歌詞やその背景について丁寧に教える。踊りの動きを外形的に真似するのではなくて、自家薬籠中のものとして身につけて自分で再生産、自由に組み立てて使えるようにする意図かと思われる。踊りの文法をしっかり教えて、後は自分でバラタ作文しなさいという考え方だ。しかし、この遅いペースは外国から来る生徒にはよいのかもしれないが評判が悪く、平行して密かに外で習う生徒も少なからずいたようだ。

大谷が感心したのは生徒のもの覚えの早さ、記憶力のよさだ。意欲のある生徒は上級生が習っている曲を練習や公演を見て覚えてしまう。また、一度習った曲を何年も忘れない。曲名とラーガ、ターラ、歌詞をメモするだけで、踊りの動きを記譜する人はほとんどいない。2、30あるレパートリーを覚えていて、数年間踊っていない曲でも、2、3回のリハーサルで踊れてしまう。

例えはよくないかもしれないが、AKBグループなど、よくあんなに何十曲も歌だけではなく他グループの振り付けまで覚えているもんだと感心する。現場ではその日に習ってすぐにステージで踊ることも多いのだろう。

大谷の留学は半世紀以上前の話なので、どなたかカラークシェートラの現在地をレポートしてくれたらうれしい。大先輩の歴史があって今がある。その系譜、自分がどの位置にいるのか知るのは大切なこと。大谷はベルファーストにあるクイーンズ大学に留学し、平成6年、“Rukmini Devi and the Bharatanatyam/revival of classical dance in India”を提出し、民族音楽学の博士号を取得している。インドに留学して博士ダンサーとなる舞踊家が何人も出てくることを期待している。

インターネットでチダムバラムのナタラージャ寺院などに描かれる108カラナのポーズについて研究したBindu.S.Shankarの博士論文を見つけて読んでみたが、驚くべき経歴であった。
https://cdn.angkordatabase.asia/libs/docs/publications/dance-imagery-in-south-indian-temples-study-of-the-108-karana-sculptures/108-karanas.pdf?fbclid=IwY2xjawEui5VleHRuA2FlbQIxMAABHfCobNrVqxqKWeb0juxOpE2MqHXAk7OqZMBAG3tD4ttDhTosFR-RQyUXFA_aem_1oOZdFjlezsLiHLcBeiDvQ

1986年にマイソール大学でB.A.を取ると同時に、カラークシェートラのディプロマを取得している。さらに、88年には同大学でM.A.とカラークシェートラのポスト・グラジュエイトのディプロマを取っている。ダブルスクールである。

同じ市内のマドラス大学の学士、修士課程を終えたというのならまだ分かるが、遠く離れたマイソール大学とは驚きである。350ページにも及ぶ壮大な構想の論文にも感心した。

 

河野亮仙 略歴

1953年生

1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)

1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学

1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学

現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事

専門 インド文化史、身体論

更新日:2024.09.03