長谷川時夫の日印文化交流40年。いまだ成長、発展中!!
ミティラー美術館館長
長谷川時夫
絵画展通じ交流深める — インドの州首相来日
今年2月末、ブッダガヤを始め仏教遺跡がいくつもあるビハール州首相ニティッシュ・クマール氏が来日し、東京、大阪でインド投資セミナーを開催した。
昨年は、日本の貿易総額の半分がアジア諸国相手となった。中でも日印の経済交流は、インド高速鉄道に日本の新幹線技術の採用が決まるなど大きく動き始めている。
ビハール州はインド国内で3番目に発展している州。同首相は中央政府で農林大臣を含め3回の大臣経験者で、州首相も2度目となる。日程中、安倍首相や奈良県知事の表敬訪問し、東大寺と広島を訪れたクマール州首相には、もう一つ希望する訪問先があった。新潟県十日町市の4メートルの雪が降り積もる森にあるミティラー美術館である。
日程的に難しく、セミナー会場のインド大使館で美術館収蔵品のミニ美術展を開催した。クマール氏は、挨拶で次のように語った。「非公式な文化交流は日印間で長期間行われていた。その素晴らしい例が日本のミティラー美術館である。インドから何千マイルも離れた日本に、ビハールの伝統的なミティラー絵画がオアシスを見つけた。ここは1万5千枚の絶妙なミティラー絵画が収納されている宝の家だ」。会場にいた日本人、在日インド人も相当びっくりしたようだ。
テープカットの写真が現地の新聞でも紹介され、ビハール州マドゥバニを中心とするミティラー画の関係者の多数とあっと言う間に、私のSNSでつながった。アメリカで大学教授退任後、マドゥバニにミティラー画支援の協会を設立し活動している方は次のように書いてくれた。「日本のミティラー美術館は、ミティラー画を描くすべての最高の描き手たちの絵をみることができる世界で唯一の場所です。あなたがもし最高のミティラー画を見たければ、日本へ旅しなければなりません」。ミティラー画はインドのフォークアートの始まりでもあり、代表的な美術だ。
1982年、開発の代替案として始めた美術館活動はインドという異文化の日本との共通要素を通して、私に日本を見る目を養わせた。
コスモロジーを感じる絵 — 自然との深い関わり
ミティラー画はインドで起きた奇跡と言える。1966~67年の干魃時の救済策として、ビハール州の貧しい女性たちに紙や布が渡されて美術運動が始まった。3千年にわたって母から娘へと伝承されてきた壁画、床画が民俗アートとして蘇った。結婚儀礼でも男性の僧侶の果たす役割は3割ほど、7割は村の婦人たちが担う。母から娘へ伝承された生活の中で描かれた絵画の世界で、太陽は最強の神様であり、出産などの大事な願い事には、描き手は冷たい池に体を沈め、昇る太陽に祈願する。満月の時にラーマーヤナ経典を読み、月に祈る。壁に描く神々は日本でいえば鬼瓦と同様、家族を守護する役割を果たす。神々を勧請するアリパンと呼ばれる床画は日本でいえば、地鎮祭の榊のようなもの。このような自然との深いコミュニケーションを持つ絵画はコスモロジーを感じさせ、現代社会に魅力ある絵画として迎えられた。ミティラー画を見にマドゥバニに入ったとき、近代化とともに散逸した浮世絵と同様になると危惧した。一堂に集めれば、小さな美術館でも世界に役立つと、インドを数十回訪れコレクションをした。
また、88年以降は描き手を延べ100人ほど日本に招待した。各地の展覧会で公開制作を依頼した。札幌では描き手は雨の中、傘を差し、ビルの谷間から、月の神がいるであろう方向に祈りを捧げていた。題材のアドバイスも行い、日本で新たなミティラー画が生まれた。展示用に巨大な作品を描いてもらい、今では全国公開の作品のほとんどが日本で制作された。
ミティラー画の育ての親で、インド手工芸復興に大きな役割を担ったインド文化遺産担当顧問ププル・ジャヤカル女史は、82年、インディラ・ガンジー首相とイギリスの大英博物館を中心に開催されたフェスティバル・オブ・インディアを成功させ、世界にインド文化の多様な手工芸の素晴らしさを伝えた。このフェスティバルは、その後欧米に広がり、日本では88年に開催された。女史をインド側実行委員長、日本側は経済界のドンといわれた小山五郎氏が務めた。日本全国で開かれ、今日までこの規模を超えたインド関連行事はない。この催事の事務局長補佐になった私は、以来今日まで、国内で開催される日印の国家催事でインド大使館に協力し、主要な役割を担ってきた。
日印交流の象徴的催事に — インドフェス開催継続
インド経済が、現在のような発展を遂げたのは、1991年の自由化政策によるところが大きい。主要な貿易相手国だったソ連の崩壊、石油の高騰を巻き起こした湾岸戦争の発生により、保有外貨が底をつき、デフォルト(債務不履行)寸前になった経済危機を切り抜けるため、ナラシマ・ラオ首相が決断をした。
10年もしない2000年には、IT分野においてもアメリカからインド人技術者を呼び寄せ、国内に工科大学を続々建設。時差を利用したアウトソーシングも成功し、ICT立国として知られるようになる。
しかし当時、日本商工会議所が、インド進出を呼びかけても社会主義的だったインドに懲りていた日本企業は乗り気ではなかった。日印経済委員会の山下英明委員長は「相手の文化を理解し、好きにならないと、インド進出は難しい」と考え、インドを丸ごと知る「ナマステ・インディア」という名のインドフェスティバルを1993年に開催した。文化に関係のない経済人ばかりで、協力を要請され、私は参加することになった。
必ずインドからメーンの舞踊・音楽グループが参加するイベントは年々評判を呼び、場所を墨田区役所の施設から築地本願寺に移し拡大したが、日本経済の停滞を受け、2004年に終了することとなる。
そこで、私のNPO「日印交流を盛り上げる会」が中心となり、会場を代々木公園に移し、インド大使館をはじめ多くのインド関係の団体、個人の協力で継続され、26回目の今年は9月29、30日に開催される。ステージでは、インド政府派遣のグループや600名を超えるインド舞踊家や音楽家が出演。多民族国家でもあるインドに対応して、日本の先住民アイヌ民族が北海道からすでに10年を超えて参加する。インド哲学の学びの場ともなるセミナーハウスは、今年から中村元ハウスと名前を変える。菩提僊那座像を安置する菩提僊那ハウスや、東日本大震災の10日後に宮城県女川町に46名のインドレスキュー隊が入った縁で続く女川町ハウスなど、100を超える食、物産、観光、文化のテントが所狭しと並ぶ。
2日間の参加者は20万人以上で、インド国外ではニューヨーク、ロンドンを超え、世界最大規模のインドフェスとインド大使館が認定する日印交流の象徴的な催事に成長した。
日印教科書に菩提僊那の偉業を — 菩提僊那の偉業
日印国交樹立(1952)、日印文化協定締結(1957)の50周年、60周年の節目の年に日印友好交流年が開催された。私のNPO「日印交流を盛り上げる会」は前身の団体以来、92年の日印国交樹立40周年から外務省やインド大使館、特に国内での同大使館の催事に協力してきた。
特に07年は、インド政府は25におよぶ舞踊・音楽グループを派遣した。インド側の費用負担は国際航空運賃とギャラなどのみで、国内の経費は日本側持ち。前年度に予算が決まり、新年度から事業が始まる日本の予算執行のシステムに合わない。自主的に実行委員会を組織し、様々な財団、全国の自治体等の協力を得て、北は北海道・利尻から南は沖縄・与那国まで、全国162公演と3ワークショップを実現できた。
急な話と言えば、15年に東京国立博物館での「コルカタ・インド博物館所蔵 インドの仏 仏教美術の源流」展も同様で、本来は5年かかる準備期間を8ヶ月という革命的な短期間で開催にこぎつけた。この時は全日本仏教会や東京都仏教連合会、京都仏教会、新宗教団体、創価学会等に協力のお願いをして回った。
インドとの文化交流を推進すると、どうしても仏教との関わりが深くなる。菩提僊那僧正は日本に最初に来たインド人で、奈良時代、東大寺大仏の開眼式の導師として知られる。奈良・大安寺で多くの日本人僧に仏教を伝え、日印文化交流の象徴とも言われる。その功績継承のため、インド大使館は東大寺の協力を得て、12年5月に同寺大仏殿中門にて政府派遣オリッシー舞踊を奉納した。同8月には盧舎那仏のある大仏殿で東日本大震災犠牲者供養とインド音楽の原点サーマヴェーダを継承するドゥルパッド声楽ダーガール20世の音楽を奉納した。
以来、毎年継続し、15年にはワドワ・インド大使、ナーランダ大副学長、前田専學氏他の協力を得て、インドで3Dプリンターを用いて菩提僊那座像も制作。7年目の今年は菩提僊那が亡くなった大安寺でインド政府派遣ソナリ・モハパトラオリッシー舞踊団による奉納舞踊を行った。
遠く母国を離れ、一度は漂流し、二度目に日本に到着。現代なら、月に旅をし、滞在、使命を果たして没すると同じだと思う。菩提僊那の偉業が両国教科書に載るまで継承事業を続けていければと念じている。
長谷川時夫
1970代始めタージ・マハル旅行団の活動の場を通し、宇宙観を深め雪深い森に住居を定める。コスモロジーを根底とする「ミティラー美術館」創設(82 年)以来、アジア太平洋の先住民族、少数民族の文化紹介、特に日印の国際交流ではインド国外最大級のインドフェステバル「ナマステインデア」、日印の国家催事の 主要なオーガナイザーとして知られる。2014年インドブダガヤの大菩薩寺の仏陀と平和の祭典での演奏「Stone performance」以来、日本のコスモロジーを基とする新たなライフミュージックを年に1~2回のペースで台湾、日本の美術館等で公演活動をしている。
更新日:2018.10.18