般若心経の迷い道 その八
伝え、伝えて般若心経
三蔵法師玄奘の生年がはっきり分からないが、600年説、602年説がある。没年は664年である。般若心経の訳出は649年。大般若経600巻の訳出は663年に終えたので、その功績を讃え太宗皇帝から「大唐聖教序」を賜る。褚遂良が書いて大慈恩寺に立てられた碑は、初唐の楷書の名品と賞賛される。
これに対して、弘福寺の僧懐仁は王羲之の字を集字してその全文を書くことを企て、さらにそこに集字般若心経を加えた。この碑は玄奘没後8年にして完成し、これが玄奘訳般若波羅蜜多心経の最も古く、また確かなテキストである。流布本とは訳字の使い方などが異なる。
なお、般若経典群を集大成した大般若経600巻の中に般若心経、通称多心経は納められていない。これはまじないの文句だから別枠と考えたのか。
第2回の遣唐使船に乗った学問僧の道昭は玄奘に師事し、660年に帰国したので、おそらく玄奘訳般若心経を持ち帰ったと思われる。
吉備真備、阿倍仲麻呂と共に第8回遣唐使船に乗って、717年に渡唐した僧の玄昉は智昇の開元釈教録(720年)に基づく一切経5000巻を真備と共に携えて、天平7(735)年に帰国した。真備も暦など貴重文物を伝え、宮廷の中の中心人物となった。
光明皇后がこれを底本に五月一日経と呼ばれる一切経の写経を推進した。それ以前も度重なる飢饉や大地震、疫病の流行により、また、男子誕生を願って大般若経の写経や転読が行われている。
隅寺心経
皇后は父である藤原不比等の広大な屋敷跡に総国分尼寺、「法華滅罪の寺」として法華寺を創建し、その隅に海龍王寺を設けて写経所とした。この素敵な名は、玄昉が帰国の際大嵐に遭い、航海の安全を祈って海龍王経を読んだことに由来する。皇后はここを玄昉に与え、角にあることから隅寺といわれた。天平写経の代表として知られ隅寺心経もここで書かれた。古くは弘法大師が書いたと信仰されていた。上手な字はすべて弘法大師だと。
先日、十一面観音の御開帳があったので、初めて法華寺と海龍王寺を訪ねた。法華寺の十一面観音は、光明皇后の姿を写しインドの仏師が刻んだと伝えられる。海龍王寺では住職自らが門の前の詰め所で受付をしていたので驚いた。他に誰もいないワンオペだ。檀家がないので名刹とはいえ経営は大変。寺院のメンテナンスは一般住宅の何倍も経費が掛かるので、本堂修復のため寄付を募っている。
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玄昉は玄宗皇帝から紫衣を賜るなど評価が高く、おそらく密教や仏教医学も学んできたことだろう。疫病退散の祈祷をし、聖武天皇の母宮子の病気を回復させるなどの功績があったが、このことにより関係が疑われ太宰府の観世音寺に追いやられる。政争に敗れて汚名を着せられたというのが真相だろう。
一切経を携えて図書寮、今でいえば国会図書館にもたらした。その功績は聖徳太子より大きいだろう。名誉は回復されないといけない。もたらされた経典、新訳の『金光明最勝王経』は国分寺の塔に納められ、国家建設の基となった。
隅寺心経が日本で行われている般若心経写経の標準とされた。玄奘訳には「遠離顚倒」とだけあるのに、「一切」を加えて「遠離一切顚倒」とする。また、経題に「摩訶」を付ける。真言宗の場合はさらに「仏説」を付け加えて「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」をタイトルとする。最後に功徳文を書き加える。健康や長寿を祈ったり、親の回忌を追善供養したりする。
写経生の暮らし
写経生は下級官僚、帰化人の子孫が多い。写経生となるのには試験があって選別される。植村和堂『日本の写経』(理工学社、1981年)によると、東大寺文書の中にその試字の答案が残るが、不採用になった答案でもかなりのものだそうだ。美しさのみならず、スピードと正確さの両方が必要とされる。
浄衣や紙、墨、筆が支給される。礼仏師が唱える経を聞き、仏前に香を焚き写経に従事する。
日の長さにより勤務時間は異なるが、およそ、1日に7紙、17字詰めで25行として1日に3000字である。般若心経に換算して10枚ちょっとである。勤務時間としては長くて10時間程度か。
一枚の書写料は4文5文、腕の良い写経生が金字銀字で書写すると7文から10文。誤字脱字があると罰金だ。金銭ではなく40枚の書写に対して調布一反ということもあった。料紙も貴重品なので厳しく管理され、筆は兔毛筆、1本で150枚から200枚、あるいはそれ以上というから随分長持ちである。写経所には筆工もいてすぐに修理できる。
正倉院文書には、浄衣が汚れたので新しく変えて欲しいとか、黒飯ではなく中品の精食を支給して欲しいとか、いつも机に向かって書写しているから胸が痛み、足がしびれる、3日に一度は酒を支給して欲しいとか、ほほえましい陳情書が残っている。
役所から借金した証文も残っているが、これがなかなかの高利らしい。経生のほか校正専門係、料紙に罫線を引く界師、筆工、洗濯係、食事係もいた。
写経所は官立のほか、大寺院にもあった。木版印刷が出来るまでは、ひたすら人間書写機として手で書き写した。印刷術というのもまた、寺院中心に広まった。
梵文般若心経
サンスクリット語の般若心経は法隆寺に伝えられたものが世界で最も古い。インドの気候風土では多羅葉パームリーフは200年程度しか持たないので古いテキストはない。その点、紙と墨は2000年持つのだから凄い発明である。
法隆寺本「梵本心経並びに尊勝陀羅尼」は重要文化財である。貝葉本といい伝えられたが、実際は木の皮のようである。書き手はインド人ではなく、音韻の間違いから推測して唐僧の手になるのではないかと思われる。
これを写して校訂したのが江戸時代中期の霊雲寺の浄厳で、元禄7(1694)年に書写された。こちらも重要文化財に指定されているが、私はこれは手控えだと思っている。何カ所かの書き損じに、書き忘れの語句があり、小さく書き足している。清書は何本も書いて、将軍綱吉や柳沢吉保、皇室に献上したと思われる。
浄厳は伽藍修復のため法隆寺出開帳に協力し、綱吉と生母桂昌院から法隆寺への寄進を引き出した。
校訂しないで、コピー機のようにそっくり法隆寺本を模写したのが天台僧宗淵で、これは『阿叉羅帖』全五巻に納められている。唐僧のもたらした梵字とか、今では失われた寺院秘蔵の高僧の梵書を写した貴重な版本であるが、マニアックにも虫食いとか汚れをそのまま再現した。
湯島の霊雲寺からほど近い上野寛永寺の邦教は、おそらく浄厳の弟子から教わったと思われるが、世界で初めて、延享元(1744)年、梵文般若心経の校訂出版をした。これは澄仁本と呼ばれる最澄や円仁が持ち帰った梵文般若心経の系統である。慈雲は法隆寺本に基づいて、宝暦12(1762)年に阿弥陀経、普賢行願讃と共に心経を校訂出版している。
明治になって南条文雄がイギリスに留学し、石川舜台、岩倉具視等がマックス・ミュラーのもとに般若心経梵本を届けた。ミュラーは漢文の読める南条と共同で般若心経を校訂し、オックスフォード叢書アーリアン・シリーズ第1巻第3に浄厳、邦教、慈雲の3本をデーヴァナーガリ文字にして掲載している。1884年のことなので日本の方が100年以上早い。
インドから中国へ伝えたのは誰だ
日本へは遣隋使、遣唐使の一行が般若心経を携えてきたと思われる。今でも、本屋のレジに小さな心経の経本があるように、お守りのような意味が大きかったのではないか。誰も梵文が読めないので、法隆寺本には漢字で多心経と書き添えてある。それは梵字と同筆と思われる。
玄奘三蔵がインドへ向かう旅の途中で病僧から教えを受けたとされるが、一体それは、漢文なのか梵文なのか。はたまた、それは経という体裁をなしているものなのか、あるいは真言のみなのか。
敦煌で発見された不空訳とされる『唐梵翻対字音般若波羅蜜多心経』(大正蔵巻8、No.256)は、サンスクリット語を漢字で表記したものであり、その序分に由来が書かれている。天竺に向かう玄奘が益州空恵寺にて、病僧から口授された。ナーランダ寺に着くとその僧と再会し、我は観音菩薩なりと告げて空中に消えたという物語が記されている。
玄奘三蔵ほどの大秀才ならば、一度聞いて覚えることは不可能ではないが、梵文だとすると容易ではない。外国語の歌を聴いて一度で覚えられるかということだ。
漢文だとすると、それは一体誰が訳したものを唱えたのかということになる。羅什訳があったとされるが、初めて記録に現れるのが開元釈教録で玄奘訳より70年も後のこと。いつも唱えながら行きなさい、いざという時にこれを唱えなさいというのなら、それは経文ではなくて真言だろう。
独立した真言なら、伝記や伝説に登場する僧のみならず、何人もの僧侶が旅のまじないとして真言を覚えて伝えたに違いない。実際、ギャテイギャテイの句は般若心経本文とは別に、陀羅尼集経にも収録されている。
梵文にしろ漢文にしろ般若経から字句を取り出して簡略版、真髄版を作り、それに真言を付け加えるという試みは、何人かによって幾度か試みられ、そして改訂されてきたに違いない。いわゆるカバー・ヴァージョンを何人かが作った。小本では舞台設定が明確ではないので、大本ではそこを補う。
その出来のいいものが残り、それこそが般若心経である。般若心経は、もともと、一つではなく、真言のみが共通ということなのかもしれない。
梵文般若心経の成立は密教化が始まった4世紀頃と考えられる。3世紀前半の支謙訳『摩訶般若波羅蜜呪経』は開元釈教録に名前だけ残り、内容は不明だ。あったとしたら本文に相当するようなものはなくて、呪に前書き、効能書きを付けたようなものだろうか。
鳩摩羅什訳についても同様に疑問があるが、その用語は羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』(大正蔵巻8、No.223)習応品(403年訳出)に近い。義浄もわしもやってみるかと義浄版般若心経を作ったかもしれない。弘法大師は『般若心経秘鍵』で義浄版について言及するが、どこにも残っていない。
どれが本当
現在、広く使われている梵文テキストは中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』(岩波文庫、1960年)によっているが、その元になったのは前述のマックス・ミュラー本であり、明治40年には京大教授で真言宗僧侶の榊亮三郎が『解説梵語学』で校訂している。中村版般若心経もまた、決定版ではなく、作業仮説だ。
大きな違いは法隆寺本に基づくviharati citta aavaranaの所で、マックス・ミュラーの解釈では、人は意識の中に包まれて住するとあって不明瞭だ。アーバラナとは障碍のことであり、榊と中村は心無圭礙という玄奘訳に合わせacitta aavaranaと否定字のアを付けて心を覆うもの(心配、憂い)がなく住していると解釈する。
ビハール州は僧院を意味するビハーラから来ていると思うが、動詞vi√hrは住する、生活するという意味があるが、取り去るという意味もある。大宮孝潤は法隆寺のテキストそのままに読んで、心の凝滞を徹底的に除去すると理解している。(一島正真・河野亮仙編『梵字悉曇教本』USS出版、2016年)
玄奘訳は法隆寺本の訳ではなく、別のテキストに基づいていて、それは、勿論、残っていない。そこで、いくつかの般若心経の小本と大本に基づき、般若経にある類似語句から類推し、何人かが再構成してサンスクリット語の校訂本を作った。その試みは、まだ、続けられている。
玄奘訳(大正蔵巻8、No.251)もまた、玄奘の解釈による作業仮説で、どの梵文テキストにもない「度一切苦厄」という語句が挿入されている。経文を調えるための潤色である。厄除け、救済の経典、まじないであることが強調されている。そして、玄奘本にはない「一切」の語が流布本では「遠離顚倒」に付け加えられて、「遠離一切顚倒」となっている。
鳩摩羅什訳とされる『摩訶般若波羅蜜大呪経』(大正蔵巻8、No.250)では「離一切顚倒」と訳され、また、「度一切苦厄」の句も挿入されていて両者は近い。玄奘三蔵の使う訳語「観自在菩薩]などを鳩摩羅什三蔵の訳語である「観世音菩薩」などに変えただけ、羅什の死後、後世に作った経とも考えられている。
般若心経は一つではなく、成長変化し続けてきた。謎だらけ故に「わたしの般若心経」を皆が考えつく。
河野亮仙 略歴
1953年生
1977年 京都大学文学部卒業(インド哲学史)
1979年~82年 バナーラス・ヒンドゥー大学文学部哲学科留学
1986年 大正大学文学部研究科博士課程後期単位取得満期退学
現在 天台宗延命寺住職、日本カバディ協会専務理事
専門 インド文化史、身体論
更新日:2026.07.30